WWFNo.24のページへ戻る
 

和歌山私鉄紀行

2

紀州鉄道

 

 

都市迷彩野郎


 有田鉄道が分岐している藤並から、鈍行列車で紀勢本線を更に南下しますと、御坊で一旦運転系統が途切れます。この駅は御坊市の中心地である西御坊までの二・七qを結ぶ、営業キロ数が日本一短い鉄道会社として鉄道ファンの間では有名な、紀州鉄道との乗換駅になっています。和歌山私鉄紀行の二つ目として、この路線を訪ねてみました。

 

 キハ600型

 この路線も先に訪ねた有田鉄道と同じく、新宮行き方面のJRからは同一ホームで乗換が可能です。中間改札なども無く、降車時には紀州鉄道の係員(ほぼ運転手と同義語ですが)にJRの切符を見せつつ運賃を支払うというスタイルです。

 紀州鉄道が所有するキハ600型ディーゼルカーは、今時珍しい非冷房車です。当日は日本晴れと呼ぶにふさわしい快晴で、長袖シャツでは汗ばむほどの陽気で、この状態で窓が八割ほど閉まっているとなれば車内の状況は推して知るべし。最近は冷房が行き届いているので窓の開けられる車両でもなんとなく窓を開けることに後ろめたさを感じる事が多いのですが、非冷房ならば遠慮は無用、窓を開けて風を受けて、古き良き汽車の旅を楽しみましょう。

 

 八分の汽車旅

 御坊駅を出発してから、昭和三五年生まれの気動車はのどかな田園地帯をのんびりと最初の停車駅「学問」を目指してトコトコと走ります。初夏の陽気と相まって、このまったりした雰囲気は至福の時であります。やはり鉄道は乗ってなんぼのものだと思わされます。気動車は学問駅の手前から市街地の中へ進んでいきます。

 次の停車駅「紀伊御坊」は紀州鉄道の基点駅となっており、整備車庫もここにあります。この駅は御坊へ戻る折りに途中下車してみました。駅は一本の線路の両脇をプラットホームが囲む形になっており、車両のどちら側からも乗り込むことが出来るようになっています。もっとも扉が開くのは駅舎がある側だけですが。この駅には今だかつて営業運転に用いられたことが無いという予備車が留置されていたそうですが、私が訪れたときにはその姿はなく、営業運転に用いられている車両が留置されていました。ちなみにこの日運転されていたのは603号車で、駅に留置されていたのは604号車。件の予備車、605号車の姿は見受けられませんでした。おそらく廃車されたものと思われますが。

 次の市役所前駅から終点の西御坊駅まではほぼ直線で、駅間もほとんど目と鼻の先の距離にあります。プラットホームから眺めてみれば、気動車が隣の駅から近づいてくる様が手に取るように見えます。市役所前駅は、いかにもバス停留所然とした駅名ですが、確かにバス停のような佇まいの駅です。ホームには雨よけの屋根が設置されているだけの簡素なもの。前述の学問駅も似たような構造でした。

 

 終着駅探訪

 御坊駅を出発して八分、終点の西御坊駅に到着しました。プラットホームに降り立って見た感じは普通の地方ローカル線の駅ですが、一歩駅の外へ出てみると、注意して探さないと見落としてしまうような、こぢんまりとした建物です。踏切脇になにか作業小屋のようなものが建っているなと思ったら、よく見ると駅舎だったという感じです。全体的な印象は終着駅というよりも中間駅といった風情ですが、それもそのはず、この先に日高川という駅があり、こちらが本来の終点だったのです。ちなみに運転間隔は約三〇分と、そこそこ普段の足として使えるダイヤです。営業規模を考えるとかなり高頻度に運行されている印象ですが、長短距離の営業規模ゆえに高頻度になっているとも言えましょうか。

 

 廃線跡探訪 その1

 さて、軌道は終点の西御坊駅からまだ先へと通じています。先にも書きましたが、かつてこの先に日高川という駅がありました。さすがに駅舎は無くなっていますが、途中の線路はレールが剥がされることもなく残っており、廃線跡としては極上の物件です。せっかくの機会ですので駅跡まで歩いてみました。

 軌道内は今でも紀州鉄道の管理地で、踏切部分には「紀州鉄道管理地」という看板が掲げられているのですが、かつて列車が行き交っていた線路の上は、あるところでは鉄工所の部品置場、またあるところでは花壇や駐輪場と化しております。この沿線住民による大胆な不法占拠(と書いても差し支えないでしょう)の様は、傍目に見る分には実に「絵になる」光景です。レールの上に点々と猫の足跡が続いている光景が印象に残りました。

 この西御坊‐日高川間は特に民家の密集した所を走っており、線路と民家の軒先がギリギリの間隔で並んでいます。浅草の花屋敷遊園地名物、民家をかすめるジェットコースターとまでは行きませんが、線路と家とはかなり接近した状態で、営業運転を行っていた頃の様子を想像すると結構恐いものがあります。

 約一〇分ほどの道のりをのんびり散歩しつつ日高川駅跡に辿り着きました。遺構から察するに二面二線のプラットホームがあったようで、小なりとはいえ如何にも終着駅といった雰囲気があります。二面あるプラットホームのうち片側のホームは野ざらし状態ですが、もう片方のホームの上には民家が建てられています。紀州鉄道縁の人か、はたまた縁も縁もない人かは知る由もありませんが、鉄道マニアが家を建てるならば垂涎の立地条件でありましょう。

 

 廃線跡探訪 その2

 廃線跡を満喫した後、西御坊まで戻りました。が、旅程には今少し時間が余っておりましたので、少し遅めの昼食と、路銀調達のため銀行でお金をおろすことにしました。西御坊近くの飯屋で遅めの昼食を摂り、その後銀行を探して歩いていたら、国道脇の自動車修理工場の敷地内にレールが敷かれているのを発見しました。どうやら西御坊駅から延びてきたレールのようです。

 所用を済ませた後、こちらを辿ってみました。自動車修理工場の敷地を道なりに辿っていくと、レールは草蒸した土手の中へと消えていきました。さすがにこの草むらの中を分け入っていくのは躊躇われたため、住宅街の中を迂回しつつ土手の終端付近まで抜けてみましたら、先ほどのレールの跡が続いておりました。

 この先レールは川を挟んだ工場(大和紡績)の方に向いて延びていたようですが、川の手前で終端となっておりました。後に知人に写真を見せて尋ねてみたところ、ひょっとしたらこの工場への引き込み線だったのかも知れない、との弁。なるほど言われてみればそのような雰囲気です。この後、帰りに紀伊御坊駅で途中下車して硬券入場券など買い求めたのですが、そのときに尋ねてみればよかったですねぇ。

 

 七〇余年の時を経て

 西御坊駅で御坊行きの便を待っていたら、先ほど窓口で応対してくれた駅員さんに「創業五〇周年記念」の記念乗車券をもらいました。曰く『余ってるからどうぞ』だそうで。その名も開運釣鐘乗車券。沿線にある道成寺に掛けて釣鐘といったところでしょうか。この乗車券には今は無き日高川駅の名も刻まれております。この当時の運賃は御坊‐西御坊間で往復二八〇円ですから片道一四〇円、現在同区間の運賃は一八〇円なので、二〇年以上の時を経て、僅か四〇円の値上げに収まっています。果たして鉄道事業だけで採算が取れているかどうか疑わしいところですが、聞くところによると紀州鉄道は不動産事業での利益が大半で、鉄道事業はその余録でやっているとかいないとか。

 ともあれ、ほとんどバス転換されてもおかしくないような鉄道路線ですが、昭和三年の開業から現在まで営業が維持されている事自体奇跡とも思えます。これからも末長く存続してくれることを願うものであります。

 

 

 

 ◆軍事輸送を担った鉄道(2)◆

 軍事作戦はいつも鉄道のある場所で行われるとは限らない。鉄道のない場所で作戦を展開するときには、鉄道を敷設することから始めなければならなかった。この場合、六〇センチ(二四インチ?)や二フィート半という、よりゲージ幅の狭い軽便鉄道を敷設する敷設することも多かったようだ。日本の陸軍はこの軍用軽便鉄道に使う「双合機関車」というのを持っていた。一三トンの動軸三本(C型)のタンク式小型機関車を、運転台のところで「背中合わせ」に二つ連結して、一人の機関士が両方の機関車を動かせるようにしたものだ。

 もっとも、タンク式機関車ならばバック運転もたやすいはずで、ボイラーをまえに向けておく必然はない。二〇世紀初めのタンク式蒸気機関車の名機B6(改称後は二一二〇形式ほか)はむしろバック向き運転が適していたともいう。双合機関車を「背中合わせ」にしたのは、重いボイラーを前後に分けて配置することで鉄道線路にかかる重さを分散させ、しかも一人で運転できるようにするという配慮からだったのだろう。

 

2002/06

 


WWFNo.24のページへ戻る