WWFNo.24のページへ戻る
 

蒸気機関車趣味を考える

 

 

 

清瀬 六朗


 鈴谷氏の原稿に「岩崎‐渡辺コレクション」の話が出てくる(五頁)。蒸気機関車の種類に興味を持ち、楽しむという趣味の「走り」が、二〇世紀初頭に現れているというわけだ。

 この趣味がこの時期に成立したのには、経済的に余裕が出てきたという以外にも理由があると思う。それは当時の日本の蒸気機関車の種類の多さである。

 このころまで、日本の鉄道の多くが民間鉄道だった。現在の東北本線、高崎線や、赤羽〜新宿〜品川線、つまりいまの「湘南新宿ライン」線は日本鉄道、現在の中央線(中央東線)は甲武鉄道、関西本線は関西鉄道、山陽本線は山陽鉄道というぐあいである。

 こうなった事情は、現在の「民営化」ブームとは大きく違っている。明治政府は、最初の新橋‐横浜間の鉄道を「官営」で建設したことに現れているように、鉄道は政府が建設するという方針を持っていた。けれども明治初期の政府にはそれだけの資力がなかったのである。やむを得ず、幹線鉄道が、政府の補助のもとで民間会社によって建設された。

 これらの民間鉄道会社は、それぞれが蒸気機関車を外国から輸入したり、国産機関車を使ったりした。そのため、二〇世紀初めには、日本の鉄道には実に多種多様な蒸気機関車が走っているということになってしまった。使う側としては楽な話ではない。しかし、「趣味」の対象として見るかぎり、けっして悪い話ではなかった。なるだけ多くの種類を知り、その識別点を把握し、たくさんの種類を知っていることやそれを識別できることを誇るというのが「趣味」のあり方の一つの典型だとすれば、その対象として日本の蒸気機関車はまさに恰好の存在だったのだ。

 一九〇六(明治三九)年、鉄道国有法が議決され、民間鉄道会社がのちの国鉄へと統合されていく。現在の旅客・貨物鉄道会社、つまりジェイアール各社の前身である。量産機B6形式(二一二〇形式他)が生まれ、系統立った蒸気機関車の整備が始まる。時代が進むにつれて、有名なD五一形式のように、一形式で一千両を超える数を擁する形式も生まれたのである。

 しかし、D五一の数が多いのは、D五一が本来は貨物機であって(現在は復活運転で客車を引いたりしているが)、乗客のニーズに細かく対応する必要がなかったという事情にもよる。貨物機は、あまり速度も必要なく、貨物列車が牽ければいい。だから、超重量級貨物列車用のD五二形式と、普通の重量級貨物列車用のD五一形式とがあれば、それでよかったし、古いD五〇形式や九六〇〇形式にも活動の余地が残されていた。復活運転を除く国鉄の最後の蒸気機関車牽引列車を引いたのは、D五一より古い貨物機の九六〇〇形式の機関車だった。これは貨物機だったからできたことである。

 旅客機、つまり旅客列車を牽引するのを目的とする機関車は、きめ細かく形式変更を繰り返している。旅客機のほうは、八六二〇形式(現在、豊肥本線で復活運転している)からC五一形式へと発展し、C五一の輸送力では不足になってくると、強力な三シリンダのC五三形式が生まれた。C五三の三シリンダが整備上の都合で敬遠されると、二シリンダで三シリンダを上回る性能を備えたC五九形式が生まれた。

 しかも、D五一は、形式は一つでも、初期のものは煙突から砂溜め・蒸気溜めまでを一つのカバーで覆った「ナメクジ型」であり、途中からそれをやめている。戦時にはいると、工程を省略するため、曲線部分を直線デザインにしたものが造られたりしている。C五九なども「戦前型」と「戦後型」で違いがあったりする(この形式についてはじつはさらに細かい分類もできる)。

 第二次大戦後は、D五二のボイラーを流用した新形式の旅客機のC六二が生まれたり、主要幹線用のC五九を幹線以外に転用するためにC六〇に改造したり、同じようにD五一をD六一に改造したりということが行われた。第二次大戦末期には小型蒸気機関車のB二〇形式が生まれているし、戦後も峠越しの補機として、五動軸機関車E一〇がわずか五台だけ造られたりしている。

 このように見ていくと、日本の蒸気機関車には、最後まで「鉄道趣味」の対象になりやすい多様性が残ったということができるだろう。第二次大戦後、旅客機がすべてC六二、貨物機がすべてD五一に統一されていたとしたら、戦後の蒸気機関車趣味はだいぶ違ったものになっていただろうと思う。その同形式のなかで違いを見分けられる「オタク」的な人のみのものになっていたかも知れない。しかし、このような多様性は、運用する側には不便なのであって、それが蒸気機関車廃止を促進する理由の一つになったことも考えられる。

 蒸気機関は、人類が手にしたエンジンのなかでは汎用性の高い機関だと思う。原子力発電でさえ、基本的には「原子力でお湯を沸かして蒸気を使って発電する」というしかけで、つまりは蒸気機関なのだ。

 しかし蒸気機関はけっして効率のよい機関ではない。必然的に熱は逃げるし、蒸気の膨張力のすべてを動力として使い切れるとは限らないからだ。現在の技術を駆使すればかなり効率をよくすることはできるだろう。しかし、それだったら、その技術力で燃料電池機関車でも開発したほうがより効率的である。

 しかも、巨大動輪を太い鉄の棒(ロッド)で結んで駆動するという方式は、たとえば自動車などとくらべるとやたらと複雑な機構である。あちこちに油を差さないといけない。回転数を上げるにも限界が大きい。内燃機関でいかに「回転数を落とすか」が問題になるのに対して、蒸気機関車の駆動機関は回転数を上げるのがたいへんなのである。回転数を上げられないので、速力を得るためには車輪(動輪)を大きくするしかないが、そうすると重心が上がってしまい、巨大ボイラーを支えられなくなる。

 けれども、その複雑な機構が、やはりファンを蒸気機関車に引きつける大きな理由になっている。石炭の燃やしかたから始まり、それがどうやって水に伝えられ、どのように蒸気が発生し、その蒸気がどのようにピストンを駆動し、それがどのように動輪に伝わり、速力や出力をどうコントロールし……という機構を理解するだけで、相当に複雑な「技術の森」に分け入る思いを味わうことができる。しかも、内燃機関や電気モーターを理解するときのような高度な理論は必要ない。このことも多くのファンを引きつけたはずだ。しかし、やはり、この機構の複雑さが、蒸気機関車の廃止を早める契機になったのは否めないだろうと思う。

 運用上にはマイナスに働く点が趣味の対象としての蒸気機関車の魅力となった。日本の蒸気機関車はそういう性格を持っていた。けれどもそれが蒸気機関車の「悲劇」だとは思いたくない。鉄道が「効率」一点張りの組織になることへの抵抗が、蒸気機関車の技術を通じて表現されている。それが蒸気機関車趣味の意義の一つではないかと思っている。

 

2002/06

 


WWFNo.24のページへ戻る