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[書評]

舩橋晴俊 角一典

湯浅陽一 水澤弘光

法政大学多摩地域社会研究センター叢書4

  『「政府の失敗」の社会学』

――整備新幹線建設と旧国鉄長期債務問題――

ハーベスト社、二〇〇一年

 

清瀬 六朗


 この本の課題

 現在の旅客鉄道会社、つまりジェイアール(JR)各社は、貨物会社などもあわせて、一九八七年三月までは「国鉄」だった。正式名称は日本国有鉄道で、英語の略称はJNRである。「こくてつ」というわりとごつごつしたことばが、いきなり「じぇいあーる」というふにゃっとしたことばに変わって、なんか頼りなげな感じだったのを覚えている。まぁ、そんなのはどうでもいい。

 この本は、その旧国鉄から現在のジェイアール各社に受け継がれた二つの問題を「政府の失敗」ととらえ、その原因と、いまどうなっているかという現状と、これからどうすればいいかという対策を示したものである。その二つの問題とは、整備新幹線の建設の問題と、旧国鉄の長期債務の問題である――って題名見ればわかるか、それぐらい。

 

 整備新幹線と旧国鉄債務問題

 整備新幹線というのは、「これから整備することになっている新幹線」のことで、もっとかんたんにいえば、計画があるのにまだできていない新幹線のことだ。これにもいろいろあって、もう工事の始まっている部分(既着工区間)、これから工事を始める部分(新規着工区間)、工事を始めることも決まっていない部分(未着工区間)がある。

 この本が執筆された時点では、工事の始まっている部分は、

 ・東北新幹線の盛岡〜八戸間

 ・北陸新幹線の糸魚川〜魚津間

 ・北陸新幹線の石動〜金沢間

 ・九州新幹線の新八代〜西鹿児島間

である。なお、現在の長野新幹線は、もし北陸新幹線がひと続きにつながれば、北陸新幹線の一部になるはずの路線だ。

 このほか、東北新幹線の新青森までと、そこからつながる北海道新幹線、北陸新幹線、九州新幹線の西鹿児島までのルートの途中、九州新幹線の長崎ルートなどが、これから工事を始める部分や工事を始めることも決まっていない部分に入っている。

 この整備新幹線はもし完成しても赤字になることが最初から見こまれている。それなのになぜそれがつくられつづけるのか。それがこの本の扱う一つめの問題である。

 旧国鉄債務問題というのは、旧国鉄が背負った二五兆五千万円の債務の問題である。つまり、二五兆五千万円の借金をどう返していくかという問題だ。しかも、その借金は、平成一〇(一九九八)年度には二七兆八千万円に増えていた。なんで増えてしまったのか? それがこの本の二つめの問題である。

 こういう問題を、国鉄やジェイアールの問題としてとか、鉄道の問題としてとかではなく、政治の問題として、それも「政府の失敗」の問題として取り扱うというのが、この本の姿勢である。

 

 研究書としての評価

 研究者の書いた本であるから、学術的概念がたくさん使われていて、その点は煩わしい感じもする。問題に取り組む場という意味での「アリーナ」という概念はともかく(さすがに「取り組みの場」だからということで「土俵」という訳語は使わなかったようである)、第一章に出てくる「被格差問題」・「被支配問題」・「被圧迫問題」という概念など、目新しい概念を立てているわりには本の中で十分に活用されていない印象がある。もったいない感じもするし、「学者の書いた本ってこんなんだよね」という感じもする。「政府の失敗」も government failure の訳語なのだから、日本語にするならばむしろ「政治の失敗」だろう。

 と、ケチをつけてはみたけれども、議論そのものには肯くところが多い。しかも、研究全体の指導者役を務める舩橋教授を除けば、著者はみんな一九七〇年代生まれで、この本を書いたときにはまだ二〇代だったのだ。まったく、近ごろの若いやつときたら、元気だし、緻密に仕事をするし、それに自分の業績を発表する場に恵まれていて、たいへんよいと思う。「若気の至り」で派手に破綻しているところがなく、老成した研究者の手堅い業績って感じがするのは……まぁ、いいんだろうな、それで。

 

 日本の保守政治

 整備新幹線の問題と旧国鉄債務の問題は、鉄道の問題であると同時に、国と地方の関係の問題でもある。さらに言えば、日本の保守政治がその国と地方の関係をどのように扱ってきたかという問題である。また、政治と、国‐地方の関係と、土木‐建設業界の利益とがどのように関連してきたかという問題でもある。

 日本の保守政治は、第二次世界大戦の前から地方の開発と深く結びついてきた。

 ちなみに、日本の中央政府は、大戦下の「大政翼賛」体制に入る前には、政友会と民政党(最初は憲政会という名まえだった)の二大保守政党によって担われていた。政友会は、あの「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助が率いていた明治の自由党の後身と、明治政府の開明派官僚の一グループが結合したものである。対する憲政会‐民政党は、大隈重信が率いていた明治の改進党の後身の一部と、明治政府の官僚の別の一グループが結合したものだ。政策などに差はあるものの、どちらも、政党と官僚グループの結合した「官僚政党」であるという点にはちがいがない。

 敗戦後から一九五五年の五五年体制成立までは、細かい離合集散を繰り返して政党名はころころ変わったが、ほぼ自由党系と民主党系の二大保守政党が主導しており(現在の自由党・民主党とは別)、それに社会党(現在の社民党の前身)が協力したり対立したりしていた。そして、一九五五(昭和三〇)年にその自由党と民主党が合同して自由民主党になり、五五年体制が成立する。五五年体制成立後の中央政府は、ごく一時期を除いて、保守政党の自由民主党を中心として担われてきた。だから、日本は、二〇世紀に入ってからはほぼ一貫して「保守政治」の国だったということができる。

 この保守政治の基盤はほぼ一貫して「地方」にあった。この「地方」というのは、首都東京や、大阪や京都や横浜などの各地の中核都市に対する「地方」であり、農山漁村、とくに農村部がその中心である。地方を基盤とする保守政治に、都市を基盤とするそのときどきの革新的な傾向が対抗するというのが、二〇世紀の日本政治の基本的なあり方だったということができる。

 

 でも、なんかへんな感じがしません?

 その日本の首都は東京である。東京というのは世界的にみても超大都市である。そして、実際、都知事を頂点とする東京都の政府は、日本政府より「新しい」と思われる立場に立ちたがる「新しがり」の傾向を持っていた。かつて社会主義的な方向の「革新」がもてはやされた時期には、革新政党を基盤とする美濃部都政が生まれた。現在の「小さな政府」的な方向の「構造改革」の受けのいい時期には、その方向を先取りする石原慎太郎都政が生まれている。その都市に基盤を置く政府が、「新しがり」とは正反対の、地方の利害を代表しているのだ。

 その中央政府の保守政治の存立の鍵となるのが、地方への利益誘導政治である。

 東京の中央政府に集まる莫大な富を、中央政府の政治家が、地方の自分の選挙区のために投じる。投じるといってもただおカネを持っていくわけにはいかない。たてまえ上は、国会議員はあくまで全国民の「代表」のはずだからだ。ではどうするかというと、自分を選出してくれた地方の選挙区に、国に集まってくる富を補助金などのかたちで注ぎこんで、その選挙区の「開発」を進めるののである。そうすれば、実質は「自分の選挙区の開発」であっても、かたちの上では「国土全体の発展のための開発」という名分が立つ。

 その開発事業によって、その地方の生活がより便利に、より「近代的」になる。すると、その地方の選挙民は、自分の地方の生活を便利に近代的にしてくれた国会議員の「先生」に大感謝する。そして次の選挙ではその「先生」に投票してくれる。すると、当選した議員の「先生」がまた自分の選挙区に開発事業を持ってきてくれて、その地方の生活がより便利に、より近代的になるというわけだ。そうして、その地方が、官僚と結びついた、または官僚に言うことをきかせられる保守政治家の「地盤」になるのである。

 自分の地元のために、国全体の政治のあり方を自分の思うように動かす。最近、とくに話題になった例でいえば、鈴木宗男議員の事件がこの典型だ。でも、このようなかたちの政治は、けっして鈴木議員一人がやってきたものではない。

 日本の中央政府は東京にあっても、その主導権を握る政治家は「地方」の自分の選挙区の利益を代表して行動するのが常だった。だから、逆に、東京の政府は、その日本の中央政府とは距離をとり、「新しがり」の気風を持つ傾向がずっとあったわけでもある。

 

 「我田引鉄」の政策

 この「開発事業」の中心が、かつては、とくに二〇世紀前半は、その地方に鉄道を引くことだった。

 自動車もまだ十分に普及していない時期に、それまで普通は徒歩しか交通手段がなかった地方に鉄道を引くのである。鉄道はつながりつながって地方の中核都市に至り、さらには首都の東京にまでつながっていく。鉄道が通ることこそは文明開化であり、近代化であった。鉄道がつながれば、列車が停まれば、その土地はまわりの土地にくらべて、ずっと近代化したことになる。生活も便利になる。そのため、地方の人びとは、鉄道を引くことを政治家に熱望し、国会議員になった「先生」たちは自分の選挙区に鉄道を引くことにとても熱心になった。こういうやり方を、自分の「票田」に鉄道を引くという意味で「我田引鉄」という。

 旧国鉄債務問題というのは、もとはといえば、この「我田引鉄」政策のおかげで、あちこちの地方に国鉄の線路が引かれたことに始まる。その地方の路線が、地方の過疎化や産業構造の変化や新しい自動車道の開通などとあいまって利用者が減り、赤字になってしまった。維持するための費用が、鉄道が通っていることで得られる利益よりもずっと大きくなってしまったのだ。その赤字を埋めるための借金がかさんでどうにもならなくなった。

 鉄道があんまり魅力がなくなってしまうと、政治家の「利益誘導」をめぐる関心はより近代的なものに移った。それが、この原稿を執筆している時点で計画の大規模な見直しが話題になっている高速道路であり、また、この本でとりあげられている新幹線である。

 東海道新幹線は、東京〜大阪間の「太平洋ベルト地帯」の産業の活発化で、それまでの東海道線では輸送力が不足したために建設されたものである。発展した地域が先にあって、従来の鉄道の輸送力では追いつかなくなったために、新幹線という新しい鉄道が造られたのだ。山陽新幹線もそれに近い性格を持っていた。

 しかし、いま開業している東北新幹線・上越新幹線・長野新幹線(一本につながれば北陸新幹線の一部になる)を含めて、整備新幹線と呼ばれている区間はそうではない。発展している地域が先にあって、従来の鉄道の輸送力で追いつかなくなったのではない。逆で、新幹線を通して地域を発展させようというものである。整備新幹線の建設は、高度成長期以後の「我田引鉄」政策なのだ。

 この本『「政府の失敗」の社会学』でとりあげられている旧国鉄債務問題と整備新幹線建設問題は、そういう点で連続性がある。さらにいえば、いま(二〇〇二年七月現在)議論されている高速道路問題もこの問題にかかわってくる。

 なお、この本では、紙幅の多くの部分が整備新幹線のほうに割かれており、旧国鉄長期債務についてのみ扱っている章は一つの章だけである。

 

 整備新幹線のもたらしたものは?

 この本に載っている研究を読むと、地方への利益誘導政治が地方にもたらした複雑な影響を知ることができる。

 地方への新幹線版「我田引鉄」政策は、その目標通りに地方に利益をもたらしただろうか?

 ある程度はもたらしたのだろう。しかし、それは地方社会に新しい問題を引き起こした。

 

 新しい地方間格差の発生

 それは、まず、新しい地方間格差の発生である。たとえば、同じ地方のなかで、新幹線の駅が新しくできる場所と、ただ新幹線が通過するだけの場所の格差だ。新しく駅ができる地域は、とりあえずは「大都市へのアクセスが便利になる」というようなメリットがある。少なくともそう期待することができる。しかし、新幹線の通過するだけの場所は、新幹線が利用できるわけでもなく、騒音公害とか、新幹線のトンネルを掘ったおかげで水が涸れてしまうとかいう問題ばっかり発生することになる。

 そのなかでも、それまでの鉄道の沿線の都市で、新幹線ができることで「鉄道の幹線」から離れてしまう都市は影響が深刻である。これまでは急行列車が停まっていて、その地方のそこそこの中心都市だったのに、新幹線ができると新幹線のルートからはずれたり新幹線の駅ができなかったりすると、どうなるか。その都市の没落、駅前商店街の壊滅……といった結果は目に見えている。

 しかも、新しく開設される新幹線と同じようなルートを通る従来の鉄道線は、廃止するか、旅客鉄道会社(ジェイアール)ではない別の会社に移すかされることになった。新しい新幹線は少なくとも当初は赤字が見こまれる。赤字は鉄道会社の経営を圧迫する。その圧迫を少しでも少なくするための措置である。

 横川‐軽井沢間の碓氷峠越えの路線は、長野新幹線ができたために廃止された。軽井沢から篠ノ井までは、同じ理由で「しなの鉄道」という別会社の運営に移された。

 この新幹線が建設される途上で、沿線に「軽井沢・新幹線を考える会」という住民団体が結成された。この「会」は、新しい新幹線の建設に反対し、従来の鉄道のルートを利用した「ミニ新幹線」(山形新幹線・秋田新幹線と同じ方式)の建設を主張する運動を展開した。しかし、この「会」が採った行政不服審査や訴訟などの法的手段はどれも効力を持たなかった。利益誘導政治の枠組みで決められた決定は、法的手段では覆すことが非常に難しい。そのことがこの成り行きによく現れている。

 新幹線を建設する上で、必要なのは、県レベルでの同意である。県が推進に積極的な立場に立てば、新幹線の建設で不利益を被る地域の市町村を県が説得する。このとき、有志の団体が法的手段で抵抗しようとしても、この「軽井沢・新幹線を考える会」の例のように、ほとんど成功しない。

 

 県レベル自治体の役割と影響力

 そのかわり、新幹線の建設に際しては、県レベルの自治体に十分に配慮しなければならない。

 現在、新しい新幹線の建設では、九州新幹線の新八代(熊本県)‐西鹿児島(鹿児島県)、北陸新幹線の糸魚川(新潟県)‐魚津(富山県)、北陸新幹線の石動(富山県)‐金沢(石川県)の路線が建設されている。いまある新幹線とはつながっていない。とくに、北陸新幹線は、いまの長野新幹線も含めて、ぶつ切り状態である。いまある新幹線を単純に継ぎ足して伸ばしたほうが利用者には便利だろうし、収益も上がりそうなものだ。それなのに、なんでこの三つの路線が優先的に建設されているのかというと、この三つの路線がいずれも県境をまたいでいるからだという。

 また、県レベルでの発言は、市町村レベルや住民団体レベルでの発言とは違って、計画を動かす力があるという。北陸新幹線では、県の要望でルートが一部変更された実績があるようだ。

 したがって、新しい新幹線の建設では、県のレベルでみると、利益が均等に行き渡るように配慮され、そのかわり、県レベルではある程度の発言も通る。しかし、その場合、県は、県内で発生する地方間格差を調整し、ばあいによっては不満を抑え込む機能も果たすことになるわけだ。

 

 首都圏‐地方間格差の拡大

 もうひとつ、新幹線版「我田引鉄」政策は、地方の発展をほんとうにもたらしたのかという問題もある。新幹線が地方都市を首都圏に直結することによって、地方都市の活性が首都圏に奪われ、かえって首都圏と地方都市の格差が拡大したのではないかという問題である。

 この問題はこの本の第六章で新潟を事例に研究されている。私の読んだ印象では、この章の研究はもっぱら新潟の事例に取り組んでいるという感が強く、新幹線が格差を拡大したかどうかという一般的議論としてはややあいまいな位置づけしか出ていないように感じる。ただし、新潟も発展したが、駅前開発などは必ずしもうまく行かず、経済指標でみると首都圏がよりいっそう発展したため、格差は拡大したというのは確かなようだ。

 全体として、新幹線の建設は、地方の発展に貢献しなかったわけではないが、首都圏と地方との経済格差は広がり、さらに、地方のなかに新たな地方間格差を創り出す機能を果たしたという結論のようである。

 

 ミニ新幹線方式の利点

 以上のような点を検討した上で、この本では、地方の鉄道の高速化の方策としてはミニ新幹線方式を高く評価している。それは、新しい線路を建設する負担がなく、地域間格差の問題もあまり発生せずにすみ、高速化のわりに費用がかからないから、費用対効果の面で優れているという理由による。また、山形・秋田の「ミニ新幹線」では、保守政治家を中心とする従来の「我田引鉄」の政治ルートではなく、鉄道会社であるジェイアールと地元の利益団体との直接の協議で決定されたという点にも着目している。

 これは私にとっては新しい発見だった。私は、従来の鉄道に新幹線車両を通すミニ新幹線方式をなんとなく「うさんくさい妥協策」のように思っていたし、山形新幹線ルートがまんなかに入ることで奥羽本線が分断されてしまったことにも納得のいかない思いを抱いていた。この本を読んだあとでも、ほんとうにミニ新幹線方式が適切だったのか、在来線の特急の高速化などでは対応できなかったのか、ミニ新幹線への切り替えで踏切が減らされたことは地元の交通を分断するという悪影響を生まなかったのかなど、疑問点が残ってはいる。しかし、ともかく、「ぬえ」(鵺)的存在だと思っていたミニ新幹線に、地域の実情に適した高速鉄道としての合理性があることは理解できた。

 

 フランスの高速鉄道政策

 最後に、この本は、フランスの高速鉄道開設の実例を引きながら、高速鉄道の建設をめぐる、よりよい政策決定過程を提言している。

 フランスの決定過程で興味深かったのは、「コンセイユ・デタ」という中央政府レベルの上級行政裁判所が公共事業の決定に深く関与しているということだった。この「コンセイユ・デタ」は半行政・半司法の非常に権威のある機関のようだ。日本の新幹線建設での法的手段の無力さは、これと対比すると、非常に印象的である。

 もちろん政治制度はつまみ食い的に持ってくることのできないものだから、フランスのやり方をそのまま日本も採用すべきだなどとは私は思わない。

 フランスは、いまから二百年あまりまえ、一八世紀末の大革命で国王を打倒した。けれども、強力な中央政府権力そのものは、大革命から「パリ・コミューン」の時代まで百年近くつづいた「革命の時代」を通じて変わらなかった。国王の絶対権力に、最終的に共和制の絶対権力がとってかわったのがフランスの革命だったと言ってもいいんじゃないかとさえ私は思う。だからこの「コンセイユ・デタ」のような強力な半行政・半司法機関が残ったのである。

 それに、日本はいちおう完成したかたちで三権分立の制度を輸入した。ところが、立法・行政(執行)・司法という三権は、西ヨーロッパ・中央ヨーロッパ諸国では、近代になってから徐々に分離していったものである。だから、「進化の痕跡」のようなかたちで、立法・行政・司法が分離していない機関が残っているのだ。この「コンセイユ・デタ」もそういう機関の一つである。また、イギリスでは、模式的には立法機関であるはずの国会の上院(貴族院)が最高裁判所を兼ねているという例もある(もちろん裁判のときには法律専門家の議員しか出席しない。だから、実質的には、最高裁判所の裁判官が貴族院議員を兼ねていて、貴族院が最高裁判所に場所と名まえを貸しているような状態といったほうがいいのかも知れない)。

 ただ、ヨーロッパや北アメリカの制度をそのまま持ってくることができないからといって、日本のこれまでのやり方を変えなくていいということにはならない。というより、これまでのやり方はもうつづけていられないところまで来ている。だからこそ、保守政党のなかから小泉「構造改革」のような政策が出てきたのだし、原稿執筆時点では今後どうなるかわからないけれども、長野の田中康夫県政も出現したわけだ。

 日本で二〇世紀を通じてつづいた「我田引鉄」政策、もっと一般的にいうと地方への利益誘導政策というのは、いったい何だったのか。

 

 明治国家と政党

 一八世紀末から一九世紀後半までつづいたフランスの「革命の時代」は、強力な中央権力というあり方を変えなかった。それに対して、日本の明治維新は、中央権力と地方権力のあり方を大きく変えた。江戸時代は、徳川将軍家の「威光」は大きなものだったが、制度上は「藩」と呼ばれる地方国家連合体の頂点に立つ政権に過ぎなかった。明治維新によって、薩摩・長州の力を背景に、天皇を頂点とする強力な中央集権国家が出現したのだ。国の編成原理自体が大きく変わってしまったのである。

 明治初期の政府は薩摩・長州出身者が政治・経済・軍事の絶大な権力を握る「藩閥」専制政府だった。他藩や公家、旧幕府出身者も参加していなかったわけではないが、それは、薩長の大権力者と結びついてはじめて指導力を持つことができた。日本で最初の鉄道を建設したのもこの薩長を中心とする明治政府だった。その後、一九世紀後期いっぱいをかけて、イギリス、ドイツ、フランスなどの制度を参照しながら、明治国家は手探り状態からしだいに国家機構を整えていく。

 それは、薩摩・長州出身者によって抑えられていた、各地方の政治的な力が徐々に復活していく過程だった。それを組織したのが一九世紀後半に出現した政党だった。

 初期の政党、とくに自由党は、「自由民権」を唱えて政府と厳しく対立したことが知られている。しかし、初期の政党にはもう一つの顔がある。一八八〇年代半ばに自由民権運動の激化でいちど分解してしまい、その後に再編成された初期政党は、一八九〇年代に議会政治が動き出すと、各地の有力者の政治的代弁者として動き始める。それは当然だ。当時の選挙権は財産によって制限されていたから、地方の有力者(しかも男性)にしか選挙権がなかった。当時はまだ農業社会だったから、「地方の有力者」とは、具体的には、村いちばんの地主とか、江戸時代からつづく豪農の家の旦那さんとか、そういう人たちを意味する。政党は、そういう地方農村社会の有力者の代弁者として動くようになったのである。

 

 二〇世紀初頭――官僚政党の出現

 けれども、一九世紀末の政党は、まだ単独では自分の主張を貫くだけの力はなかった。一八九八(明治三一)年には、それまで対抗関係にあった自由党系と改進党系が連合政権を樹立して薩長藩閥と対決しようとしたが、けっきょく藩閥政府に足もとを見られて崩壊している。

 ただし、薩長藩閥側もいつまでも安泰というわけにはいかなかった。薩長藩閥の権力は「明治維新の功労者である」ということによって維持されてきた。しかし、明治維新が「遠い昔の事件」になると、いつまでも薩摩・長州出身者ばかりが権力を独占していられる理由もなくなってしまう。

 そんななかで藩閥側の態度も分かれた。山県有朋を中心とする保守派は、軍と専門官僚集団に軸足を置いて、政党の勢力拡大を阻止しながら、軍指導部‐官僚層による専制政治を続行しようとした。だが、伊藤博文を中心とする、藩閥のなかでは開明的な一派は、それまでときおり協力してきた自由党系政党と結合して、官僚勢力と政党勢力の一体化を果たすことで生き残りを図った。その伊藤派官僚集団と自由党系との結合で一九〇〇年に生まれたのが政友会(正式には「立憲政友会」)である。山県派の官僚集団の一部もその流れに抵抗することができず、政友会の成立から一〇年ほど遅れて、改進党系政党の一部と結合して憲政会(当初は「立憲同志会」)を結成した。

 

 原敬の活躍

 この二つの官僚政党、とくに先輩格の政友会は、地方の利益を積極的に組織して、政党の支持基盤の拡大を果たし、ひいては国政での政党の勢力拡大を果たそうとした。なにしろ、当時の憲法では、政党が政治家を送りこむことができるのは国会のなかでも衆議院だけで、現在の参議院にあたる貴族院は政党とは直接には関係がなかったし、内閣は国会とは無関係に組織できることになっていたし、枢密院や陸軍参謀本部・海軍軍令部といった組織は国会からも内閣からも独立していた。その状況で「政党の勢力を拡大する」というのはけっしてかんたんなことではない。その動きの中心を担った人物が、のちに首相に任じられて「平民宰相」と呼ばれることになる原敬である。

 原は、明治の薩長主導の政府によって「朝敵」と貶められつづけた東北地方の出身であった。その薩長藩閥の一部と政党勢力との結合で生まれた政友会の実質的な主導権を握った原は、「地方の有力者の代表」という政党の性格を拡大することで、薩長藩閥の影響力を奪っていこうとしたのである。そうして、そのために行われた有力な政策が「我田引鉄」政策であった。

 日本の「地方」は、明治維新までは、幕府直轄領以外は、「藩」としてともかくも一つの国家の体裁を持っていた。明治維新でそれが一挙に中央集権制度に変わり、地方は「中央」の下に組みこまれてしまったのである。各地方国家が開発していた経済的な利権も、明治の中央集権政府によって再編成された。生糸や茶など、初期の日本の輸出産物は、鉄道によって組織的に集められ、輸出された。しかし、そのような産物を持たない地域、そして「朝敵」じつは薩長の敵であった東北地方は、中央集権による近代化政策から取り残されていく。

 それに対する地方の主張を原は組織したのだ。中央集権の論理で、首都や地方の主要都市を中心に行われていた近代化を、地方にも及ぼしていく。ただし、「近代化」といっても、地方の有力者の「旦那」たちはおふらんすな思想の洗礼は受けていないのだから、思想的な近代化を持ちこんでも意味がない。保守政治を唱えながら、地方の近代化を進めていく。「開発」を進めていくと言ってもいい。

 

 「開発+保守」の政治

 保守政治と地方開発の組み合わせは、二〇世紀後半のマレーシアやインドネシアで行われた「開発」政治にも似ていなくもない。しかし、マレーシアやインドネシアの開発政治が、政党の自由な活動を制限した権威主義政治だったのに対して、日本のばあいは、選挙権の制限があるとはいえ、政党政治のもとで「開発+保守」の政治が進められていったのだ。

 しかも、この傾向は、一九二〇年代後半に男子普通選挙が実施されて、男子に関しては財産制限が撤廃されてからも、第二次大戦後に女性を含む普通選挙が行われるようになってからも、変わらなかった。

 男子普通選挙の段階ですでに労働者に基盤を置く社会主義政党が活動を開始し、勢力を拡大している。第二次大戦後は社会党が自由民主党の二分の一程度まで勢力を拡張してはいる。けれども、けっきょく、労働者政党は「開発+保守」の政党に勝って政権を握ることはできなかった。一九四〇年代後半(昭和二〇年代前半)と一九九〇年代に社会党は政権に参加し、首相も出しているが、どちらも保守政党との連立政権である。社会党などの革新政党は、その最盛期の一九七〇年代に、東京・大阪などの都市部の自治体政府を掌握するのがやっとだった。自治体でも、やがて社会党などの革新・中道政党は、「相乗り」というかたちで保守政治のなかに組みこまれていくことになり、革新主導の自治体は例外的に存在するだけになってしまう。

 

 「夢」と「開発」

 つまり、地方の有力者だけではなく、地方社会全体が、地方の近代化を求め、保守政党を支持していったのである。それは、その「開発」が鉄道や道路というかたちで地方社会に姿を現したこととも関係があるだろう。鉄道はだれでも利用できる。大資本や地元の産業資本家も利用できるかわりに、庶民も、かなり安い価格で利用できる。そういう意味では民主的な施設なのだ。

 それに、鉄道は近代の「夢」を運ぶメディアでもあった。鉄道は東京や大阪など、近代化の進んだ大都会につながっている。その都会の文明を鉄道は地方に運んでくれるのだ。地方の中心都市(花巻)に住み、先進的な科学技術に関心を抱きつづけた宮沢賢治が、鉄道を舞台にした「銀河鉄道の夜」という(未完成の)作品を遺したことは、もちろん偶然ではない。

 明治維新で封じこめられた地方社会の「夢」が、二〇世紀を通じて、鉄道という具体的なかたちをとって日本全国に姿を現してきたのだ。

 第二次大戦後、普通の鉄道は「夢」を担うことができなくなり、たんなる赤字の発生源に堕してしまった。その後にはこんどは新幹線がその「夢」を担うことになる。東海道新幹線の映像は、東京オリンピックの映像とともにテレビで全国に流された。あの新幹線の「ほんもの」が、自分の住んでいる町にもやってくるかも知れない! その「夢」が全国でかき立てられた。

 旧国鉄長期債務問題と整備新幹線建設問題の発生である。

 

 「夢」の裏側に

 しかも、この地方社会の「夢」というのがたんなる無邪気な夢でないところが問題を複雑にしている。それは、地方社会の「中央」への怨念の裏返しとして存在した。

 二〇世紀初期の傑出した政党政治家だった原敬は、「朝敵」とされて発展から取り残された地域の出身だったからこそ、「我田引鉄」政策を積極的に推進して政党勢力の拡大に努めたのだ。もし原が東京や薩摩・長州の出身ならば、もし政党政治家として活躍したとしても、「我田引鉄」政策のような方法はとらなかっただろう。戦後の保守政治では田中角栄(例の田中真紀子氏の父君)である。発展に取り残された地域として、自分の出身地の新潟県の開発に努め、上越新幹線の「我田引鉄」を実現した。豪雪地帯という不利を抱えて東京との格差に苦しむ地方の怨念がなければ、田中角栄もこのような政治指導者になっていたかどうかはわからない。たぶんならなかっただろう。そして、その田中角栄のもとには、同じように、後進地域とされて東京との格差に苦しむ地域の代表たちが集まった。いわゆる「田中派」である。田中派は、一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけて(昭和五〇〜六〇年代)、野党第一党である社会党全体の勢力に匹敵する大勢力を誇った。田中派(のち竹下派)は一九九〇年代はじめに分裂するが、その後継勢力は現在でも大きな影響力を持っている。二〇世紀後期の保守政治はこの「開発+保守政治」の一派が主導したのである。その背後には地方社会の「近代化の夢」を求める力があった。さらにその背後には、明治維新以来の地方社会の中央への怨念もあった。それが「開発+保守政治」の動きを支えていたのである。

 もちろん地方社会のすべてが「近代化の夢」を追い求め、開発を肯定したわけではない。すでに開発に伴う公害問題も発生していた。ダム建設に伴う住民の移転の問題など、地域の開発に伴う地域間格差の問題も発生している。けれども、これらの問題と直接に関係のなかった人びとは開発に「夢」を持ちつづけた。

 それに、「開発」がなければ、地方社会には過疎化が待ち受けているという恐怖もあった。開発による地域発展の「夢」と、開発が遅れたばあいの過疎化の「恐怖」との板挟みである。それは、「夢」と「恐怖」の中間の存在しない、せっぱ詰まった状況であった。そのような状況に置かれてあえて「夢」を択ばず「恐怖」と向き合うことができる者は少数だろう。

 この『「政府の失敗」の社会学』によると、一九六〇年代から一九七〇年代(昭和四〇年代)にその「開発+保守政治」派が主張した目標が「国土の均等発展」であったという。

 だが、国土の完全な均等発展は幻想である。いま発展していない地域が発展している地域に追いつくあいだに、発展している地域がもっと発展してしまうからである。

 

 暴露された幻想

 二一世紀の初め、このような図式が幻想であることは明らかになってきた。

 各地のレジャー施設・リゾート施設や大規模テーマパークや「第三セクター」が大赤字を抱えるようになってきて、全国の自治体を破産に追いこみかねない状況になっている。「我田引鉄」を一つの典型とする地方への利益誘導政策が破綻に瀕しているのだ。政治家が、国に集まる富を地方に持っていき、その地方にレジャー施設・リゾート施設・テーマパークなどを造って利益誘導を図ろうとしても、その施設を維持する費用のほうが利益を上回ってしまって、地方社会を圧迫するようになってしまった。

 かつての「我田引鉄」政策でも同じことは起こった。全国に鉄道を引きまくった結果、鉄道は大赤字の発生源になってしまった。けれども、このときには、その赤字は国鉄が背負うことになり、この本で解明されているような経緯で、国全体の(つまりは国民全体の)負担として最終的に処理されることになった。

 ところが、レジャー施設・リゾート施設・テーマパークや、その運営に関係している「第三セクター」などは、けっきょく地方自体の負担になってきた。国が肩代わりしようにも、国自体がすでに借金だらけで、肩代わりするだけの余力がない。

 それが二〇世紀を支えた地方社会の「近代化の夢」の帰結である。

 

 「構造改革」と「抵抗勢力」の膠着状態

 「夢」は破れた。それだけならばことは単純である。けれども、困ったことに、「夢」と表裏一体であった「恐怖」は解決していない。解決していない以上、たとえ「夢」に希望が持てなくても、たんに、「恐怖」を打ち消すために「夢」への逃走をつづけないわけにはいかない。整備新幹線や工業団地といった二〇世紀型の地方開発に展望が持てなくても、過疎による地方の活性の喪失という恐怖の事態の実現を少しでも先延ばしするために、「夢」を求めつづけざるを得ないのである。それを強いて阻止しようとしても、それは強い「怨念」を喚起するだけだろう。

 田中康夫県政が「脱ダム」を宣言して、二〇世紀型開発政治に訣別しようとしても、市町村長層や地方に地盤を持つ県議会議員がそれを阻止しようとするのは、そのためである。小泉内閣の高速道路建設計画見直し策に「道路族」が頑強に抵抗するのはそのためである。小泉首相の郵政事業民営化方針に強い抵抗があるのも、郵便局ネットワークの構築が二〇世紀型の地方開発の成果だったからだ。

 といって、二〇世紀型開発政治を従前の通りにつづければ、国そのものが破綻してしまう。

 保守政党は、いま、国そのものを破綻させないために「構造改革」を唱え、しかし地方を破綻させないために「抵抗勢力」として活躍しなければならないという瀬戸際に立たされているわけだ。それが、この『「政府の失敗」の社会学』のいう「政府の失敗」を生み出している。だからといって、中道・革新勢力に有力な代案があるわけではない。「IT革命」がどのようなかたちで日本の二〇世紀型開発政治を変えることができるのか、その見通しはまだついていない。

 

 「政府の失敗」構造を抜け出すためには?

 この本は、整備新幹線建設問題や旧国鉄債務問題のような「政府の失敗」を繰り返さないための対策として、情報公開、政策論争の活発化、決定過程での国会の役割強化などを提唱している。いちいちもっともである。それに、細かい変革の積み重ねはけっこうバカにならない大きな成果をもたらすと思う。

 国会だけではなく、フランスの「コンセイユ・デタ」のような準司法機能を持った行政機関の活用も考えてもいいだろう。もちろんフランスのように強力な組織を作る必要はないが、日本社会では、もう少し、司法が積極的な役割を果たしてもいいと思うのである。

 もっとも、現在の「純粋培養」の法曹に、公共事業の政策決定の一翼を担えるかというと、かなり疑問ではある。だいいち、中央の政治家と県とが推進する整備新幹線計画に対して住民がとった法的措置が無効だったのは、一つには制度的な問題があるけれども、もう一つ、裁判官に制度的問題を乗り越えるだけの柔軟さと力とがなかったことが原因であろう。

 しかし、二〇世紀の「開発+保守」の政治の大枠が変わらないかぎり、こういう制度改革を進めようとしても、「抵抗」によって進まないか、進んだとしてもかなりの部分が骨抜きになってしまうことだろう。ほんとうの「国土の均等な発展」とは、というより、ほんとうに日本に住んでいるみんながそれぞれの幸福を実感できるような発展とは、いったいどんなあり方なのか。そのことへの展望が開けないかぎり、私たちは、国の破綻と地方の衰退との板挟みによる「政府の失敗」の状況から抜け出すことはできないだろうと思う。

 二〇世紀型の近代化には「これが近代化だ」と言えるモデルがあった。その方向へ開発を進めていけば多くの人が納得した。

 二〇世紀前半には、それは鉄道であり、郵便網の整備だった。いや、いまの私たちにはあたりまえになっている「家々にいつも電気が来ていること」自体が、当時は近代化であり、「文明開化」のしるしだったのだ。二〇世紀前半には、たとえ電線が張られていても、夕方になって暗くならないと電気が来ない地域だって珍しくなかったのだ。

 二〇世紀後半には、鉄道が「大赤字の発生源」として魅力を失うとともに、新幹線や自動車道路・高速道路が近代化のモデルになった。工業団地や、どれだけ本心から歓迎されたかはわからないが、原子力発電所や核エネルギー開発施設もそうだった。

 しかし、一九八〇年代にはその共通の「モデル」が見えなくなった。

 バブルの時期、竹下内閣が「ふるさと創生」と称して、全国の市町村に一億円ずつ分配したことがあった。自由に使って地方の振興に役立てろということである。それは、一面では、全国共通の「こうすれば地方はよくなる」というモデルが見えなくなったことを示していたのではないだろうか。

 共通の近代化のモデルがあり、それへ向けての開発によって、自分の住んでいる地域はよくなる。そういう魔法は効力を失った。そうである以上、自分たちの住んでいる場所にとって何がよいのかを、それぞれが住んでいる地域で考えて、その考えを積み重ねて、新しい「発展」の指針を作っていくしかないだろうと思う。時間のかかる過程である。不均等も摩擦も発生する。しかし、暴力的な「革命」による断絶を望まないのならば、そうやって少しずつ視界を開いていくしか方法はないのではないだろうか。

 

 

 ◆ひと昔前の中国のきっぷ◆

 一〇年前、中国の列車のきっぷは、ほぼ例外なく「硬券」だった。この硬券の切符がいわゆる乗車券である。しかしこれだけでは列車に乗れない。この硬券の裏に薄い小さい紙を貼りつける(裏に直接書き込むこともある)。そこに、乗る列車と、座席や寝台の種類、そしてどの席に座るかが書いてある。特急券・急行券と指定券を兼ねたのが、この「裏に貼る紙」なのだ。ということは、立ち席以外はぜんぶ指定席だということになる。ただし、指定券通りの席に座るという習慣は、当時の中国にはなかった。指定とは違う席に勝手に座っていくのである。だから、立ち席券でも、目の前の席が空いていたら座ってしまうこともできた。

 乗車券を持っているだけでは、駅には入れてもホームには入れない。ホームの入り口に改札がある。列車が着くとこの改札が開き、その列車の指定券を持っている人だけを通してくれるのだ。しかもこの切符が買いにくい。すぐに売り切れてしまうということもあるのだが、切符の種類によって売り場が違い、しかもその売り場が駅からずっと離れた町中にあったりするのだ。どこ行きの、どういう切符(寝台がほしいのか、座席でいいのかなど)が必要かを考えて、それをどこで売っているか探して、買わなければならないのだ。しかも、売り場を探り当てて行ってみると、何の断りもなく閉まっていたりする。

 そんな状態だから、少なくとも私が利用した北京周辺や四川省の鉄道は基本的に長距離列車としての機能しか果たしていなかった。日本の通勤電車の役割は、中国の都市ではバスやトロリーバスが果たしている。中国にはトロリーバスのある都市がけっこうある。当時はバスやトロリーバスの料金は日本円で一〇円にもならない程度に抑えられていた。しかし鉄道料金は意外に安くなかった。通勤用交通機関が「庶民の足」と認識されているのに対して、鉄道は「公費で乗るもの」または「贅沢な交通機関」とされていたようだ。

 しかし、先日、久しぶりに訪ねた中国の駅では、日本の「みどりの窓口」とたいして変わらない発券システムを使っており、しかも、なぜかみんな指定された席にちゃんと座っていた。ほんとに「三日会わざれば刮目してあい対す」ことの必要な国だと思った。

2002/06

 


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