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[書評]

三戸祐子

  『定刻発車』

――日本社会に刷り込まれた鉄道のリズム――

交通新聞社、二〇〇一年

 

清瀬 六朗


 『定刻発車』というタイトルがよい。

 けれどもこの本はたんに「定刻発車」の問題だけを扱っているのではない。日本の鉄道で当然のこととして行われている「定時運転」がテーマである。もっといえば、テーマは、停車位置の一センチのズレすら問題にする「正確な運転」である。というより、「正確な運転」が普通のこととなっている日本社会を論じた本というべきなんだろう。

 日本の鉄道は遅れないのがあたりまえになっている。たしかに一〜二分ぐらい遅れているのにはときどき出会う。事故や故障で止まったりするのにも出会う。けれども、ごく普通のこととして一〇分単位で遅れることはない。

 しかし、著者によれば外国ではそうでもないという。列車が一〇分くらい遅れるのは当然で、一〇分とか一五分、ばあいによっては三〇分遅れないと「遅れた」ことにすらならない鉄道もあるのだそうだ。しかし、日本の鉄道を平均すると、その遅れは一分以内に収まるのだという。なお、この本で「日本の鉄道」と呼んでいるのは主として旧国鉄線と旅客鉄道会社線(ジェイアール線)である。

 

 この本は、日本で「正確な運転」が生まれ、維持されている背景を、いろいろな面から考察していく。

 

 近代的な時間感覚

 著者は、まず、日本に鉄道が生まれる前の江戸時代に、すでに日本には近代的な時間感覚が定着していたのではないかということを論じている。

 近代的な時間感覚の特徴に「普遍的な時間」がある。アインシュタインが相対性理論でひっくり返すまで、宇宙のいたるところで時間は同じように流れているというのが近代物理学の絶対不変の真理であった。知らない人どうしでも、一生のうちに一度も出会うことのない人びとも、まったく同じ時間を共有しているというのである。相対性理論の効果は地上で普通に生活しているばあいにはまったく問題にならないから、現在の私たちの生活はこの「普遍的な時間」の感覚によって動いている。

 この時間感覚がなければ鉄道の定時運転はあり得ない。隣り合う鹿児島と西鹿児島で、明石と西明石で、三鷹台と井の頭公園で、「六時」が違う時間を意味していたら、列車は「定時」に走るのは難しい。鹿児島と明石で違っていても、線路がつながっている以上、どこかでズレが生じてくる。「日本一律で同じ時間が流れている」という感覚がなければ、列車は「定時」に正確に走ることはできないのだ。

 このような時間感覚はごく普通のもののように思われるかも知れない。けれども必ずしもそうではない。たとえば、イスラム世界では実際に天体の月を視認することで、イスラム暦の月の変わり目を確認するたてまえになっている。月が視認できたかどうかで、「いまは何月か」ということが変わってしまうのだ。このような暦法は、のちに複雑な暦法を発達させることになる中国でも、古い時代には行われていた。

 その場その場で天体を視認することで時間を計測していたら、全宇宙で同じ時間が流れているような状態は望めない。天体が見えたかどうかで時間が変わってしまうからだ。天体が見えてみないと時間の変わり目は確認できないのだから、いつ時間が次の段階へ進むかはあらかじめ予測することができない。予測がつかなければダイヤを組むこともできない。

 近代より前には、このように、時間はどこでも同じように流れているものとは考えられていなかった。また、時間の流れがこの先どうなるかが絶対確実に予測できるとも考えられていなかった。

 ところが、「日本一律で同じ時間が流れている」時間感覚は江戸時代には生まれていたと著者はいう。もちろん、その時代の感覚には、現在の分秒単位の正確さはない。だいいち、日の出と日没を基準にしているから、ある面では「天体を視認してみないとわからない」時間という一面は残していた。けれども、お寺の鐘などによって、「普遍的な時間」の流れは日本人には意識されていた。それが、明治以後、鉄道が普及したときに、鉄道の定時運転の定着に影響を与えたというのだ。

 

 「旅」社会と徒歩の社会

 また、江戸時代の日本が、徒歩を基準とする社会であったこと、しかも、人の移動がかなり頻繁な社会だったことも、定時運転に影響を与えているという。

 「旅」には、参勤交代のような「旅」もあり、また庶民の寺社参詣や物見遊山の「旅」もあり、商用の「旅」もあった。参勤交代には水も漏らさぬ計画性が要求されるし、そうでなくても、ある程度、先の予定が立っていないと旅はできない。時間に沿って予定を立てることに、日本人は、武士・庶民の別なく慣れていた。

 このあいだ、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭部分を読んでいて、ふと気づいた。芭蕉は、春のあいだ、旧暦三月のうちに白河の関を越えることを目標にして旅の計画を立てている。現在の東北線や東北新幹線の白河・新白河のあたりである。芭蕉の旅を漂泊の旅みたいに考えていた私には、この芭蕉の計画性が意外に感じた。こういうところにも、江戸時代の日本人の「旅」についての感覚が現れているのかも知れないと感じた。外国の旅行記と読みくらべてみてもおもしろいかも知れない。なお、けっきょく、芭蕉は、出発の日が遅れたために、この目標は果たせなかった。

 しかも、江戸時代の日本人の旅が原則として徒歩によって行われたために、街道筋には、徒歩で移動できる距離に街が育つことになった。鉄道ができると、駅は街ごとにつくられた。ということは、駅と駅の距離が短いということになる。駅と駅の間隔が長いと、どこかで遅れてもそのうちに急いで取り返せばいいやという考えにもなるだろうけれど、短いと、常に正確さにこだわっていないとごまかしがきかなくなる。それが「定時運転」の習慣を定着させる素地をつくったというのである。

 

 定時運転の文化論

 このような様々な要素が重なることで、日本は、鉄道ができた当初から「定時運転」を実現する可能性を強く持っていたというのが著者の考えである。

 この部分は文化論の傾向が強い。文化論は、受け入れられやすいかわりに、危うい議論でもある。「文化」は短い期間に変わってしまう可能性もある。たとえば、二〇年ほど前には、勤勉であることが日本の文化の特徴だといわれ、言われた私も納得していたが、いまでも同じような言いかたが通用するかどうか(私はそれでも日本人は現在でも勤勉だと思うが)。また、同じ現象を、まったく別の文化の帰結として語ることも可能だ。また、厳密な文献資料から一定の手続を積み重ねていくわけではないため、思いこみやイデオロギーが入りこみやすい傾向もある。といって、信頼できる資料に記された事実の広がりだけから、社会全体に共有された「文化」は語りにくい。

 けれども、「日本人と時間」についての著者の考えには違和感を感じるところはほとんどなかった。

 著者は、短絡を避け、「江戸時代の時間感覚が、鉄道の定時運転を求める明治以後の感覚に直接につながっているわけではない」と何度も断っている。その反証も挙げている。そうした上で、「しかし関連はあるのではなかろうか」という書きかたをしている。こういう慎重な議論の進めかたに私は好感を持った。自分の議論にどの程度の信頼性があるかをつねに検証しながら進めているという著者の姿勢によって「この本は信頼できる本だ」と私は感じたのである。

 

 現在の都市生活には定時運転が不可欠である

 定時運転の起源について論じた部分は、けっきょく、いつから、どういう理由で日本の鉄道は分秒単位の正確さを実現するようになったかについて、ある程度のあいまいさを残している。

 しかし、現在の鉄道、とくに首都圏の都市部の鉄道がなぜ分秒単位の正確さを要求されているのかについての説明は非常に説得力がある。経済ライターとしての著者の本領がうかがえる分析だ。

 なぜ首都圏都市部の鉄道が分秒単位で正確でなければならないか。

 そうでなければ都市が成り立たないからである。十万単位の人が、「自分は規制されている」とあまり感じることなく、自発的に、東京や新宿や池袋などの駅で下りたり乗り換えたりして、それぞれ職場に向かう。それも、退勤時間はまだばらつきがあるけれども、朝の出勤時間のほうは八時〜九時に集中してである。

 もし列車が遅れたら、列車を待つ人がホームにあふれてしまう。また、列車の間隔が詰みすぎていて、前の列車を降りた人がホームにいっぱいいるのに次の列車が客を降ろしてしまったら、ホームから人があふれてしまう。ホームから線路に落ちる人が出たり、走り出した列車に押された客が接触したりして、たいへん危険である。

 これから列車に乗ろうとする人がホームにあふれないうちに次の列車が来なければならず、しかも、前の列車を降りた人がホームから出てしまう前に次の列車が来てはまずい。そういう条件をクリアするダイヤを緻密に作り、しかも、そのダイヤ通りに列車を運行する。それがあたりまえにできなければ、首都圏都市部のターミナル駅は機能しなくなる。

 しかし、その奇跡のようなことがあたりまえにできること、しかも、一日だけではなく、毎日まいにち、あたりまえにできることを前提に、現在の東京山手線圏内の都市機能は成り立っている。

 

 都市東京と公共交通の共進化

 著者はどうも首都圏在住であるらしく、東京の、しかも山手線内以外の実情についての言及は少ない。日本の他の都市について同じことが言えるかどうか、私にはわからない。けれども、少なくとも、東京の街の発展については、この議論の示唆するところはとても大きいように思う。

 私が東京に住み始めて二〇年近くになる。

 関西の地方都市から東京に出てきた私がまずとまどったのは、東京の広さである。関西では、一時間も電車に乗れば別の街に行けた。京都から大阪へ、大阪から神戸へというふうにである。ところが、東京では、一時間電車に乗っていても着く先はやっぱり東京のなかかもしれない。

 東京への「一極集中」などという。「狭い範囲に、人間も、政治やビジネスの機能も集中している」という感じがする。たしかにその言いかたはまちがいではない。けれども、東京のばあい、その「狭い範囲」がけっこう広いのだ。そして、そこに大量の人間がかかわる大量の仕事が集中し、そして大量の職場が集中している。

 こういう都市は、鉄道をはじめとする公共交通機関網があってはじめて成り立っている。

 「共進化」という概念がある。

 たとえば、生物と地球は「共進化」してきたなどと表現される。地球の大気は二酸化炭素に覆われていたが、十億年の単位でシアノバクテリア類が光合成で二酸化炭素から酸素を作り出し、酸素の多い大気ができた。その酸素の一部がオゾン層を形成し、地上に降り注ぐ紫外線が吸収されるようになった。すると、それまで紫外線の強い地上では生きられなかった生物が続々と陸地に進出しはじめ、地上には大森林が形成されるまでになった。大森林はさらに大気中の二酸化炭素を吸収し、そのうちの炭素分の一部は地下に残存して石炭になった。

 このように、生物と地球とが相互に影響を与えあいながら進化してきた状況を「共進化」などと表現する。

 東京の都市と鉄道は、まさに共進化してきたのである。鉄道の「定時運転」実現への進化がなければ、東京はここまで「一極集中」した都会にはなれなかったはずだ。逆に、東京が「一極集中」の都市にならなければ、鉄道の「定時運転」もここまで緻密に成長していたとは限らないと思う。

 

 定時運転を可能にする職人魂

 本書では、つぎに、この「定時運転」がどんな技術の集積によって成り立っているかが分析される。先の部分につづいて、著者の経済ライターとしての面目躍如たるところだ。

 したがって、経済学の基礎のできていない私は、その内容を完全に正確に理解できているわけではないと思う。それでも抵抗なくすんなり読める。著者のライターとしての能力のおかげである。ただ、それを私が正確に紹介できるかというと、その点はやや怪しい。

 私の読んだ感じにしたがって整理すると、「定時運転」を実現するための技術には、まず「定時からはずれない」技術がある。バスのばあいは、道路の条件によって時間よりも早く走ってしまう「早発」の問題が起こるが、鉄道では「早発」はあまり問題にならず、「定時からはずれる」といえば通常は遅れることである。したがって、まずは「遅れない」ための技術である。

 そして、「定時運転」を実現するために必要な技術には、もう一つ、「遅れてしまったときになるべく早くもとに戻す」技術がある。その両方がうまく機能することで、日本の「遅れない鉄道」は実現されている。

 そして、その「遅れない」技術と「遅れたときになるべく早くもとに戻す」技術の両方のバックにあるのが、常に完璧を目指す職人魂と、人間工学的な配慮である。

 電車の運転士は、自分の走る路線の沿線風景などをぜんぶ覚えこみ、どこで加速しどこで減速するかまで完全に身につけるのだという。運転士だけではない。ダイヤを組む人から保線部員まで、職場のすみずみにいたるまで、つねに「完璧」を目指し、しかもあたりまえのこととして「完璧」を実現していく職人魂があってこそ、「定時運転」は実現されているのだ。

 どこかに「いいかげんでいいだろう」という意識があれば、「過密ダイヤでの定時運転」は絶対に実現しない。これは、それぞれの現場がギリギリの完全さを目指すことを前提に組み立てられたシステムなのである。つまり、考えようによっては、非常に硬直した、柔軟に動かすための余裕のないシステムになっているわけだ。

 

 定時運転システムの一部としての乗客

 しかし、そのなかに、百パーセント完璧に行動することを期待してはいけない、しかしとても重要な鉄道関係者がいる。乗客だ。

 乗客もじつはかなり鉄道の都合に合わせて行動するように仕向けられている。そして、一部のケシカラン乗客を除いて、たいてい仕向けられたように行動している。ただ、乗客に「強制されてやらされている」という意識を持たせてはいけない。そうすると乗客はかえって鉄道の都合に合わせて動かなくなってしまう。乗客は、多少の不満は抱きつつも、それを胸にしまって、自発的に動いているつもりになってくれないと困る。しかも、それで鉄道の都合に合わせて動いてくれていないと、鉄道としては困るのだ。

 そのためには、鉄道の都合に乗客を慣らすことも必要である。ラッシュ時など、階段を右側通行にしたり左側通行にしたりする。最初にその駅を利用したときにはなかなか「理不尽なことをやらせやがって」と反感を持ったりもするが、そのうち、そうしないとどうしようもなくなることがなんとなく体得されてきて、不満を持たなくなってしまう。かえって、自分が守っているその規則を破るやつがいると、自然と腹が立つようになってくる。

 また、乗客に伝わる情報を多くして、鉄道にとって都合のいい行動を乗客に自発的に選択させるということも必要だ。

 地方都市出身の私は、たとえば台風が首都圏に接近したときに、あるいは首都圏を豪雨や大雪が襲ったときに、全国放送でそのニュースばかり流すようになることに複雑な思いを持ってきた。たしかに首都圏在住者には便利ではある。しかし、沖縄を襲う台風も、北陸の豪雪も、首都圏の台風や大雪も同じなのに、なぜ首都圏のばあいだけ情報量がこんなに多いのか?

 しかし、著者によれば、それも鉄道の「定時運転」のシステムの一部なのである。もちろん台風や豪雨や大雪では定時に運転できるとは限らない。しかし、重大ニュースとして流される台風・豪雨・大雪のニュースで、不要不急の用しか持っていない人が鉄道利用を控えてくれれば、それだけ鉄道の遅れや混乱も小さくなる。それだけ遅れを防止できるし、遅れたばあいにも、混乱が混乱を呼んで収拾がつかなくなるという事態を回避できる。マスコミも「定時運転」のシステムの一部だと著者はいう。

 

 「よいダイヤは遅れない」

 けれども、同時に、乗客の好みや都合に合わせることも必要だ。どんなに慣れさせようとしても、乗客は、あまりに自分の都合に合わない指示には従わないだろう。鉄道にとって都合のいい情報をたくさん表示しても、乗客は情報誌やインターネットや口コミで、鉄道側にはあまり都合のよくない情報を手に入れて、そちらにしたがって行動してしまうかも知れない。

 乗客ができるだけ不満を持たないように鉄道の都合のほうを合わせる。それによってうまくいくことも多いはずだ。この本で、「よいダイヤは遅れない」、「乗客の喜ぶダイヤは遅れない」という表現を見て、私はなるほどと納得した。

 

 中央集権システムとしての鉄道運行システム

 この本の最後の部分は、「正確さを超えて」と題されていて、これからの鉄道運行がどうなっていくかという展望が語られている。

 先に述べたように、現在の鉄道運行システムは、わりと硬直した、融通の利かないシステムである。たとえ台風で数多くの列車の運行が混乱しても、それを立て直すためには、ある程度、きちんとしたダイヤが必要で、そのためには列車運行を指揮する指令システムがいつもきちんとしていることが必要である。中央集権型の整然としたシステムがつねに機能していなければならないのだ。

 このようなシステムは、指揮系統がはっきりしているかわりに、効率面から見るとやや弱い部分がある。上から下まで情報がきちんと伝わらなければならないし、ばあいによっては全部の足並みが揃ったことが確認できないと次のステップに移る決断ができないばあいもある。そのときには、末端では、自分のところにはまったく問題がないのに上から動きを止められて身動きがとれないという事態が起こる。

 「中央集権型のシステム」というのは、平たく言えば「官僚制」である。普通は効率的に動いているようでも、予想外の事態が起こったら対処できなくなったり、どこか動かなくなっただけで全体がへんになったりするわけだ。

 そういう非効率的な部分を抱えつつ、システムを最大限に効率的に動かせるように設計しておき、考えられるかぎりの事態を想定して「予想外」や「予定外」をなくし、そして実際にも最大限に効率的に運用することで、鉄道の正確さは保たれている。

 

 情報通信技術は鉄道を変えるか

 しかし、情報通信技術の発達で、中央集権型の意思決定を経なくても、部分部分の決断で、全体の混乱を起こさないような行動のしかたを決定することも可能になってきている。なるべく多くの情報を取得した上で列車単位で自律的に判断して、鉄道システム全体でもっともよい解決を模索する。たとえば、個別の列車が沿線でどれぐらいの乗客が列車を待っているかを判断して、その場の判断で停車駅を増やしたり、運転する路線を変えたりする。情報通信技術の活用でそんなことも可能になるのではないかというのが著者の見通しである。

 その背後には、日本社会の価値観が多様化し、社会全体が「ゆとり」を求めるようになり、個人の時間を大切にするようになっていくはずだという著者の判断がある。鉄道も、それに合わせて、より個人の欲求にその場で柔軟に対応できるようになっていくはずだというわけだ。

 私自身はそういう社会になっていくことに何の異論もないのだけれど、同時に、「同質性」に執拗にこだわる日本社会の性格がそうかんたんに変わるのかなという懐疑もある。

 慢性的な経済不安によって、かえって日本社会のいろいろな面から「余裕」を許す部分が消えている。会社は不景気のなかで生き残るために社員をやたらとがんばらせる。がんばらせるわりに給料は増やさない。家庭も、会社がいつ倒産するかわからない、「ペイオフ解禁」とやらもいよいよ実行に移されるらしいという情勢で、よけいなカネは使えなくなっている。日本人が本質的に「ゆとり」を満喫できる生活を送れるようになるまでには、少なくともまだ少しはかかりそうだ。

 

 私には決してこのような本を書けない、その理由

 けれども、それとは関係なく、著者が予測しているような方向への鉄道システムの変化は望ましいものだと私は思う。

 日本の乗客は、けっして満員電車に満足していないのと同様に、必ずしも「定時運転」に満足してはいない。「定時じゃない運転よりも定時運転のほうがまだずっとましだ」、「こんな長く待って、こんな長いあいだ快適じゃない車内で我慢しなければいけないんだから、せめて定時で行ってくれ」ということである。

 あとがきを読んで、「この本は私にはけっして書けないな」と思った。もちろん著者のような経済分析の能力も現場の取材を積み重なる根性もないからだ。しかし、それを別にして、私はけっして「日本の鉄道はなぜ正確か」という問題意識を持たなかったに違いない。

 著者は、急ぐ用があるわけでもないときに、信号故障で山手線の電車が五分遅れたのに出会い、非常にいらいらした経験をもとに、「正確に運行されるのがあたりまえの日本の鉄道」について調べようという気になったという。ところが、あいにく、何の因果か知らないが、私は、急ぐ用のあるときにジェイアール線が停まって非常に困らされたことが何度かある。乗っていた中央線の電車が大雪に遭遇して、武蔵境駅で動かなくなり、しかもほかにどの鉄道が動いているかの満足な情報のないままに、雪のなか徒歩で吉祥寺駅までたどり着き、井の頭線から何本かの私鉄・地下鉄などを乗り継いで、日付が変わってからようやく家にたどり着いたこともある。同じく中央線の東京行き電車に乗っていて、反対方向の線のずっと先、武蔵小金井あたりでのできごとを理由に、四谷のトンネルのなかで電車が動かなくなってしまい、いらいらしたこともある。ジェイアール線の電車は、よく停まる、よく遅れる、停まったときに適切な情報が流れないというのが私の思いこみであった(べつにお世辞ではなく、ここ二〜三年はかなり改善されているように思う)。

 良心的に駆け込み乗車を断念した後、次の電車の時刻を調べて、「前の電車といまの電車の間隔が四分だったのに、次の電車までなんで一〇分以上もあるんだよ?」といらいらすることもある。そういうときには「次は絶対に駆け込み乗車してやる!」と強く決意するのだ(よい子は絶対まねしちゃだめだよ!)。著者は、ジェイアール線の正確さへのこだわりやダイヤ編成の巧みさに感服しているわけだが、私にはその出発点の認識がない。

 

 生活と鉄道の身近さ

 乗客が求めているのは「快適なダイヤによる快適な運転」であって、いまのところ、「定時運転」がその欲求にいちばん近いものを実現しているというだけなのだ。

 私の生活実感からすると、私は、鉄道には「定時運転」を求めるけれども、バスには「定時運転」は求めない。それよりも、バスがなるべく早く来てくれること、早く発車してくれること、途中で渋滞に巻きこまれないことが大切だ。バスの早発は「定時運転」の観点からは問題だろうが、私のばあい、自分が乗り遅れさえしなければ早発は大歓迎である。そのかわり、バスが早発して乗り遅れたときには大激怒する。

 こういうのは、わりとバスが頻繁に走っている路線を使うから感じることで、バスが一時間に一本というような路線や、バスが鉄道と似たような役割を果たしている場所では、こういう感覚は当てはまらないかも知れない。そういう条件ならば、バスのばあいでもやはり「定時運転」のほうが望まれるかも知れないと思う。

 だから、これは、バスかどうかということではなく、鉄道とバスとの「生活とのあいだの身近さ」の問題ではないかと思う。

 バスのような「生活とのあいだの身近さ」を持った鉄道に路面電車(法律上は「鉄道」ではなく「軌道」であることが多い)がある。路面電車のばあい、中央集権的な指令に則って運用されているというよりは、バスと同じように運転手の判断で動いている傾向が強い。利用者の感覚も、都市や路線によってさまざまだろうが、路面電車は全体としてバスに近い感覚で利用されているのではないだろうか。

 もし、鉄道の列車が「その場その場でいちばん適切と判断したように動く」というシステムによって動くようになったならば、鉄道の列車と路面電車のあいだに存在した境界は低くなる。路面電車のほうにも同じ考えかたが導入され、設備が一新されたならば、路面電車と鉄道の列車の相互乗り入れが可能になるだろう。同じ列車が、ある区間では鉄道の列車として、ある区間では路面電車として走るということが可能になる。最近さかんに検討されているLRT(「都市型軽便鉄道」とでも訳すべきなのかな)の実現への道が開けるかも知れない。

 鉄道が、一歩、私たちの生活に身近な交通機関になってくるかも知れない。

 

 技術のメッセージと、それを受け止める人間

 技術にはメッセージ性があると著者はいう。

 鉄道は東京のような巨大都市とともに「共進化」してきた。しかし、鉄道と都市とともに「共進化」してきた存在がほかにある。人間である。東京を筆頭とする大都市になんらかの関わりを持って生きている人間である。

 ある技術が鉄道を変えるとする。都市はそれによって変わっていくだろう。しかし、人間も変わっていく。そして、その人間は、さらに鉄道を変え、都市を変える。次の技術を開発していく。

 定時運転を必須のものにしていたのは、けっきょくは分刻みで決められた一人ひとりの予定である。とくに勤め人のスケジュールである。日本社会での「働きかた」が定時運転をなくてはならないものにしていた。定時運転が勤め人の過密スケジュールを可能なものにし、勤め人の過密スケジュールがいっそう過密ダイヤでの定時運転を必要なものにしていった。

 そういう働きかた、というより、「働かせかた」は変わるのだろうか?

 技術激変の時代である。その技術を利用して、私たち一人ひとりが社会とのいい関係をつくっていけるだろうか。それとも、その技術によって、いままで以上に、だれもが会社の都合で一方的に働かされるような社会ができていくのだろうか。

 人間は、技術のメッセージをどう受け止め、それを技術の側にどう投げかけ返していくか、そのことをいつも考えていなければならないんじゃないかとも思う。

 

2002/06

 


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