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[写真展]

馬が牽く鉄路 人が押す鉄路

  ―― 馬車鉄道・人車鉄道の風景 ――

 

清瀬 六朗


 東京 神田の交通博物館で開かれていた写真展「馬が牽く鉄路 人が押す鉄路」(二〇〇二年五月二一日〜七月七日)を観てきた。

 「神田の」というけれども、交通博物館のある場所は、どちらかというと秋葉原のほうが近い。というより、私たちが「秋葉原」として知っている街のほとんどは、行政区画上は「千代田区外神田」なのだ。この交通博物館のある場所には、第二次世界大戦中まで万世駅という駅があった。中央線が東京に乗り入れる前はこの万世駅が中央線の始発・終点だった。

 

 さて、今回展示されていた馬車鉄道・人車鉄道のうち、馬車鉄道というのはべつに説明しなくてもわかると思う。馬が引っぱる鉄道だ。鉄道線路を走る馬車である。

 では、「人車鉄道」というのは何か?

 これは、タイトルにあるとおり、人間が押す鉄道である。人間が客車を押すのだ。展示されていた写真や説明を見ると、男が二人ぐらいで後ろから押していたようだ。写真で見るかぎり、客車は今日のワゴン車ぐらいの大きさだったようだ。実物の展示も行われたらしいが、見逃してしまった。

 人間が乗る車両を人間が動かす。何か非人間的な労働のような気もする。しかし、その同じころの日本では人力車というのが普通に使われていたわけだから、それと同じようなものと考えればいいだろう。つまり「人車」というのは鉄道線路を走る人力車と考えればいい。

 もっとも、人力車は前から梶棒で引っぱるものだけれども、人車は後ろから押すようだ。また、簡易な構造の人力車と違い、客車と同じようなきちんとした構造の車両でなければならなかったようだ。鉄道の一種(法的に正確にいうと「軌道」)ということで、厳しい規制があったのだ。

 何台もの人車が狭い間隔でぞろぞろと線路を走っている写真が展示されていた。事故を起こすと、車夫が車と車のあいだに挟まれて危険な気がする。それで玉突き衝突とか起こったら悲惨な気もする。そういう事故は起こらなかったのだろうか。

 また、展示に出ていた外国人の手記によると、観光地の人車鉄道などはかなり急な上り下りのある線路を走っていたようだ。車内はジェットコースター状態で、悲鳴を上げる者もおり、人車酔いする乗客もいたらしい。客も怖かっただろうが、車夫はもっとたいへんだったろうと思う。

 平坦なところは、いちど勢いをつけてしまえば惰性で走る。物理学的にいうと「慣性」である。しかし坂ではそうはいかない。坂を人間何人分もの重量を押し上げるのに力を出し続けなければならない。けれども、もっと怖いのは下り坂である。坂を勝手に転がり落ちていく車両にブレーキをかけて制御しなければならない。どうやっていたのだろうか。

 日本で最初に馬車鉄道が登場したのは一八八二(明治一五)年だという。今年が二〇〇二年だから、ちょうど一二〇年めにあたる。六〇歳を「還暦」というから、その「還暦」二回分、二度めの「還暦」である。

 イギリスでは、鉄道は最初は馬車鉄道が主流で、あとから蒸気機関車が登場した。蒸気機関車の開発初期には馬車鉄道との競争があったという。しかし、日本では、最初の鉄道は蒸気機関車の引く鉄道で、馬車鉄道・人車鉄道があとから登場した。

 鉄道との役割分担も明確だったようだ。都市や港など交通の拠点のあいだを結ぶ普通の鉄道に対して、馬車鉄道・人車鉄道はもう少し地方に密着した役割を担っていたようだ。

 具体的には、まず、東京のような大都市の都市交通である。東京の都市交通は、当時の日本の馬車鉄道としては規模が大きく、二頭立ての馬車鉄道が担っていたという。

 当時の路線図も展示されていた。

 この路線図には、いまジェイアール線になっている幹線鉄道がまだ東京駅まで通じていない。東京駅のあたりにはまだ鉄道がないのだ。そのこともいま見るとけっこう奇異に感じる。さらに奇異に感じるのが、新宿などが東京の中心から外れていて、郡部の一部に入っていることだ。もっとも、二〇世紀最初期に活躍した夏目漱石の小説でも、中野あたりがずいぶんいなかのように描かれている。いまでは中野といえば中央線快速で東京駅から二〇分で着いてしまう。東京という都会はまだ小さかった。そんな時代だったのだ。その時代の東京の都市交通を担ったのが馬車鉄道だった。

 馬車鉄道・人車鉄道には、これ以外に、地方で、鉄道の駅と、少し離れた観光地などを結ぶものもあった。鉄道網の整備とともに、地方で、その鉄道網と接続する交通機関として馬車鉄道・人車鉄道が造られたわけである。

 さらに、やはり地方で、鉱山や特産物の産地と鉄道の拠点駅とを結ぶために造られた馬車鉄道・人車鉄道もあった。鉱山からの石炭や鉱物の積み出しや、地方の特産品の産地から産物を都市に送るために馬車鉄道・人車鉄道が造られた。なかには、鉱物など貨物専用の鉄道で、その一部分が乗客を載せるようにしていた例もあるようだ。

 今回の展示で、全国の馬車鉄道・人車鉄道の地図が出ていた。それを見ると、全国各地に馬車鉄道・人車鉄道が広がっていたことがよくわかる。まだ「一極集中」になっていない国土の姿がある。

 

 馬車鉄道・人車鉄道の全盛期というのは、一九世紀から二〇世紀へと移り変わる時代、つまり明治の後期だったようだ。

 この時代にも馬車鉄道から電車への転換が始まっている。もともと市街電車は明治の初期に京都で走ったのが最初だから、電車という選択肢も日本には鉄道草創期からあったわけだ。日本では、蒸気機関車が客車や貨車を引いて走る本格的な鉄道と、電車と、馬車鉄道・人車鉄道とが同じ時期に走っていたことになる。

 しかし、馬車鉄道・人車鉄道に打撃を与えたのは、一九二〇年代から三〇年代にかけてのモータリゼーションの進展だったようだ。この時期までに電車などに転換していた路線はともかく、そうでなかった路線は、自動車交通にその役割を奪われ、廃止に追いこまれていく。なかには、馬車鉄道・人車鉄道会社がバス会社に転身した例もある。

 展示されていたなかでおもしろかったのは、蒸気機関車のようなかたちの石油動力の機関車である。私には正確なことはわからないのだが、ディーゼル機関車というよりは、船の「ぽんぽん船」の「焼き玉エンジン」のようなものを積んだ機関車のようだった。しかし、そういうものを導入しようとしても成功せず、廃線に追いこまれた鉄道もあるという。

 その後、二〇世紀のあいだじゅう鉄道を襲いつづけることになる自動車との競合がここに始まっているのだ。第二次世界大戦後も馬車鉄道・人車鉄道は残ったが、高度成長期には完全に姿を消してしまうことになる。

 幹線鉄道や路面鉄道、馬車鉄道・人車鉄道、それに馬車や荷馬車や人力車や荷車などが分担していた交通の役割が自動車にとってかわられていく。自動車は時刻表にしばられることもないし、道路があれば、線路がなくても入っていくことができる。その運用の自由自在さで鉄道は自動車にはかなわない。もちろん力では馬や人間の動力よりずっとまさっている。さまざまな交通機関が分担していた交通が自動車に代替されていくのは、当然の成り行きではあった。

 しかし、私は、この馬車鉄道・人車鉄道がまだ華やかに活躍していた時代の写真に心ひかれるものを感じた。

 高層ビルはもちろん、地方都市の写真では「ビル」そのものが写っていない。目抜き通りでは、同じような姿の商家が、文字どおり軒を連ねている。現在の雑居ビル街では、どんなに店が密集していても「軒」は連ならない。

 電柱は木である。山から切り出してきた木の姿をとどめ、微妙に曲がっていたり、あちこちに節が出ていたりする。しかも、いまでは考えられないぐらいたくさんに横木が突き出していて、何本も何本も電線が走っている。「電信柱」と呼んだほうがしっくりくるその電柱たちは、街の景観に溶けこまず、街に「近代」を伝えに来たという特別の役割をアピールしているようにも見える。異形である。宮沢賢治に「月夜のでんしんばしら」という歌があったはずだ。この当時の「電信柱」の「異形」さを思うと、宮沢賢治がそういう詩を書いたのもわかるように思う。

 町はずれの街道筋には並木が連なっている。

 もちろん、道は舗装されていない。町中でも土の道である。

 そうして、そういう道のまんなかとか、端っことかに、何気なく、線路が敷いてあるのだ。そして、そこに馬車が走ったり、「人車」を人が押して走っていたりする。

 鉄道が人間に限りなく近かった時代なのだ。

 現在の自動車と人間とのあいだはもっと離れている。たとえ近いところを走っていても、速度が違いすぎる。動力の大きさも桁違いに違いすぎる。

 もちろん、騒音問題や安全の問題はあったに違いない。展示されていた馬車鉄道開設の陳情書の中にも「沿線住民の苦情は出ていない」とわざわざ断ってある一節があった。そういう苦情が出ることなどまったく考えられなければ、そもそも最初から断り書きを入れる必要はないのだから、馬車鉄道や人車鉄道にも沿線から苦情が出る例があったのだろう。この展示されていた陳情書の例だって、ほんとうは反対があったのかも知れない。

 だから、鉄道は人間に優しく、自動車は人間に優しくないという一方的な議論を展開する気はない。人間の乗った車を人間が押す「人車」を使うよりは、自動車を使ったほうが、安全かも知れないし、人間に優しいと言えるかも知れない。

 けれども、それでも、馬車鉄道や人車鉄道が走っていた時代に、人間と交通機関の感覚的な距離は、現在よりもずっと近かったように思う。そういう交通機関の上の階層に、都市や交通の拠点のあいだを結ぶ鉄道が走っていた。

 また、馬車鉄道や人車鉄道が走っていた時代は、「一極集中」の起こっていない「地方の時代」だった。馬車や人車に限らない、「軽便鉄道」が全国各地を走っていた。日本各地の鉱山や、日本各地の特産品が、全国の人びとの生活に意味を持っていた時代だ。

 やがてその時代が去る。私たちの生活を豊かにしてくれる産品は海外産の輸入品だ。日本各地の豊かな物産は必要がなくなってしまった。地方の「地場産業」は衰退し、国内の鉱業や林業も衰退し、そうして馬車鉄道や人車鉄道や軽便鉄道は次々に廃止されていった。そうしていまの国土ができあがったのである。

 鉄道のあり方は、時代を、その時代の国土をこんなにも忠実に映しているのだ。

 

 私が交通博物館を訪れたのは日曜日だった。家族連れが多かった。鉄道好きの子どもがいて、閉館時間になって「もっと見たい」と泣いている子どもがいた。けれども、鉄道好きの親もいて、子どもが退屈しているのにずっと展示の説明を読んでいたり、子どもに「ほらお馬さんの鉄道だよ」と言って子どもに無視されている親御さんもいたりした。

 某ゲーマーズの青い袋を抱えて馬車鉄道・人車鉄道の展示を見ていた私も含めて、博物館の客層も時代を映す鑑なのかも知れない。

 

 

 ◆軍事輸送を担った鉄道(1)◆

 鈴谷氏の原稿にも触れられているとおり(六頁)、一九世紀後半から二〇世紀前半には、鉄道は軍事輸送の大きな担い手だった。自動車が普及しておらず、自動車道路も未整備という条件下では、輸送力の大きさと、天候に左右されずに運行できる点で、鉄道は有利だったのだ。自動車は雨が降ると泥に車輪をとられて動けなくなっていたのだろう(そういえば昔の『ガンダム』にそういう場面がありましたなぁ……)。

 軍事作戦での鉄道輸送を担うために陸軍には鉄道連隊という組織が設置されていた。鉄道連隊は、陸軍の演習場があった習志野を通る千葉‐津田沼‐松戸のルートに広軌線と軽便線の線路を持っていた。この津田沼‐松戸間が今日の新京成線である。新京成線にカーブが多いのはその「演習」の都合からだと聞いたこともある。京成津田沼に入るときにぐるっとループして駅に入ったりするのもあるいはその都合によるのかも知れない。

 

2002/06

 


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