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パトレイバーからアヴァロンへ・印象批評編

 

 

松本 晶


 

 2001年9月11日、ニューヨークで同時多発テロが起きたとき、私は遠く離れたとは言え同じ国の西海岸の勤め先の某研究所でこのニュースを見ていました。臆病な私としては足のすくむような映像に愕然としていたのですが、それよりも驚いたのはこちらにいる日本人たちの多くがこのような状況すら「対岸の火事」として見ていた様子に気付いた時でした。だいたい、その日うちのラボの殆ど全員が仕事の手を休めてランチルームの特設テレビに囓り付いてたのですが、そのなかで私以外の日本人は黙々と仕事を続けており、大事件には相違ないが東海岸のことだから関係ないと言わんばかりでした(単にワタシだけが怠け者で野次馬だと言う説アリ)。そこで思い出したのは、『機動警察パトレイバー2 the movie』の柘植行人のこのセリフでした。

 

「ここからだとあの街が蜃気楼のように見える(中略)この街に戻ってきてから、おれもその幻のなかで生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが・・・結局最初の砲声が轟くまで誰も気がつきはしなかった。いや、もしかしたら今も・・・」

 

 アタマの中をお花畑にしていれば「現実」にも「平和」が外からやって来ると考えるような、砲声にあまりにも鈍感過ぎる人々が増えれば増えるほど、それと釣り合いをとるかの如く、彼等にその砲声を嫌でも聞かせようとする過剰代償の人々が出てくるのは当然のことで(今なら2ちゃんねるの参戦賛成派が最右翼? >笑)、その両者とも日本の精神分裂的病理というコインの裏表であると同時に、両者の捉える「現実」がそれぞれ異なっていると私は考えます。それは極めて「現実的」な問題であり、また一方で古くから語られ続けている「現実」に対する認識論的問題ともなるのでしょう。

 

 で、以上のことをパトレイバーとアヴァロンを引用しつつ、まとめようとこの原稿を書き始めましたら、ものの見事に轟沈いたしました(笑)。今回、見事に印象批評の悪しき例になってしまった、というよりアイディアを並べ立てただけで殆ど論理を詰めていない、私が最も読んでいてイライラするタイプの文章になってしまいました。申し訳ないッス。まあ押井守作品鑑賞のひとつのヒントにでもして頂ければ幸いです。

 

 

1.ふたつの『アヴァロン』

 

 映画『アヴァロン』の素晴らしさを讃える(笑)ためには色々な切り口があると思いますが、ここではこの作品を続編とも言える小説版『アヴァロン・灰色の貴婦人』と一緒に考えてみる、という邪道なやり方をしてみたいと思います。本当は映像として語りたいことはイッパイありますがそれを「原稿」に落とすのは難しいのでこうなるわけですが…

 

 映画『アヴァロン』自体に関しては、例によって例のごとく(笑)、押井守作品等の批評で有名な登坂正男氏による素晴らしい同人誌・抽象企業9i、「あ゙うぁ論」が出ており、はっきり言って私ごときではもう付け加えることはそれ程無いと感じられました。以前登坂さんが初期の押井守作品の一つの究極(独断)である『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)について行った評論では、私とある点で鋭く?対立し食い違う部分もあったのですが、今回に関してはほぼ同意見といった感じでしょうか、少なくとも私の理解する範囲なので、一方的な思いこみかもしれませんが。とにかく、登坂さんが以下のことを指摘してくれたので、私は何も言うことがなくなってしまったのです。それは何かと言えば

 

「この映画の本編は'LOG OUT'で始まり、'Welcome to Avalon' (='Log in')で終わっている」、つまり「日常なんて映画と映画の間のゲームにすぎない」というわけです。

 

 ここでは以前私がBD論や『紅い眼鏡』論で展開したように、階層の上下の概念、つまりメタ的視点=カミサマの視点の優越性の概念の否定もしくは否定の契機が含まれています。そこでは「他者」の存在を上に見たり下に見たりするような啓蒙的概念や、その鏡像の唯我論的否定神学は無く、「人間」の概念に拘らないニュートラルな認識としての自己と、それ対する絶対的な「外部」だけが問題にされていると考えます。つまりこれは、へーげる奥田氏の提唱するような押井作品における「唯情報論」に近いものかもしれません。

 それならば私にはもう書くための動機はあまりないのですが、ここでは小説版『アヴァロン・灰色の貴婦人』との関係で多少私の考えを補足しておきたいと思います。ちなみに以下は当然ながら小説版の方のネタバレも多く含みますので、まだ読んでいない方はまず一読されることをお勧めします。特に最近までの押井作品の静謐さに違和感を感じていた人には特に久々の「下駄履きの生活者」の匂いとかもして面白いですヨ。

 

 で、結論を言ってしまえば、もう短いのですが、小説版『アヴァロン・灰色の貴婦人』の世界は、映画『アヴァロン』「という世界を概念として包摂しうる、つまりその外側に立ってこれを客体化し得る世界ということになる」ように作られているわけです。これが何の説明だかもうお分かりだと思うのですが、《アヴァロン》という「シチュエーションとしての戦闘を含む体感ゲームの総称」における「特A」フィールドの性質の説明そのものであり(自己言及的入れ子構造)、さらには「"虚構"に対する"現実"というものの説明」(その構造を私たちの「現実」に対してメタ的に適用した言説)のそのものです。

 

 このメタ的構造の「証拠」は具体的にいちいち挙げるほどでのものはありませんが、そのひとつはアッシュの存在そのものです。映画『アヴァロン』の彼女の「現実」は犬とアパートに一人寂しく?住んでいる地味な女性ですが、《アヴァロン》という「虚構=ゲーム」における彼女は黒髪に銀髪を交えた「灰色の貴婦人」=アッシュです。一方小説版『アヴァロン・灰色の貴婦人』の「現実」における彼女もまた黒髪に銀髪を交えた「凄まじいほどの美貌」の女、ということになっています。アッシュが映画『アヴァロン』ワールドで「特A」から帰還したにせよそうでないにせよ、このふたつの作品の間ではゲーム《アヴァロン》に接続している「現実」のレベルが異なっているとも考えられるわけです。そして小説版『アヴァロン・灰色の貴婦人』の最後でカバルが「特A」というフィールド・「現実」にたどり着いた時、アッシュはモニタのなかの魔女になっていました。

 

 細かい話しはすっ飛ばして先に進めたいのですが、つまり《アヴァロン》は「特A」に誰かが送り込まれる、もしくはそこから帰還する度に、そのテストプレーヤーを媒介としてメタレベルの階層を一つ昇ってゆく、という設定ではないかという妄想が浮かんできます。これはBDや『紅い眼鏡』の構造を分析したときにも出てきた無限階層のメタ的虚構・現実の「関係」と等しいかもしれません。そこから何を読みとるかは、これはもう各人の思想との相互関係、関数になるのでしょうが、私が最近遅ればせながらそこで合点したのは、もう随分昔に自分で言及しながら忘れていた疑問でした。

 

 つまりこのような「無限遡及」のメタ的構造として想定しうる「虚構と現実」の問題から得られる当然の帰結とはすなわち、「現実」なるものを造るのは誰なのか?その階層システムの生成原因自体は何なのか?という問題です(私のウェッブサイトでBDを巡る登坂氏とのやり取りの中で早々に出しておきながら放りだしていた疑問)。つまりこれが押井守作品のもうひとつのモチーフである「カミサマ」の問題となるのじゃなかろうか、と気付いたわけです。ここで私が言うカミサマとは、これは特定の宗教のカミサマのことではではなく、また理解し得ない「他者」としての「人間」のことでもありません。強いて言えばシステムの不可知の原理とも外部とも言える「人間」とは距離を置いたモノ(不勉強なので哲学的用語の「物自体」との関連不明)、ラカン的精神分析で言うところの「不可能な一点」的な不可知な外部、一神教的なコトバにもし翻訳するのであれば日本語に変換不可能な概念としてのgodであるのだと妄想しております。それにあたって押井守作品では古くからあるキリスト教的な一神教のモチーフを援用するため聖書や、また今回の『アヴァロン』では様々な西欧や北欧の神話が使用されているわけで、押井監督は別に作品のデコレーションのためにそれらを用いてるのではなく必然的な理由からそれらをモチーフの一つとして選んでいるのではないかと疑っております。

 

2.パトレイバーは転回点なのか?

 

 ここで一旦、初期の押井守作品について復習しておきましょう。虚構(フィクション)の物語のなかでさらに虚構の物語、夢のなかの物語が展開することを一応「メタフィクション」と言うならば、例えば『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)であれば夢邪鬼の作ったラムの夢のなかの虚構の世界、『紅い眼鏡』であれば物語の大半を占める都々目紅一が暗殺されるまでの「手前勝手な夢」が「メタフィクション」(=物語に寄生する物語)ということになるでしょう。もしそこでフィクションの登場人物に自分を投影=感情移入して我が身のこととして考えると、今自分が現実だと考えていることが、果たして本当に「現実」なのかという非現実的な疑問がアタマをもたげてくる人も少なくないかもしれません。

 

 しかしそのモチーフを「夢と現実の等価性」というキーワードでくくり、「カビ臭い哲学的衒学趣味」「そんなことは聞き飽きた」「幼い唯我論・独我論的認識」だと決めつける人が押井守作品を嫌う人たちの中に多いような気がします。それどころか押井作品をその演出と映像そのものの冴えから評価する人たちのなかにも、その「夢と現実の等価性」的な考え方は克服するべき、そこから進展するべきモチーフだと考えている人たちも多いかもしれません。例えば宮崎駿氏は押井氏を高く評価しているにも関わらず、いえむしろ評価しているからこそ、そのような「言ってもしょうがない主題」から脱却するように再三苦言を繰り返しているように思えます(『紅い眼鏡』の劇場パンフレットに寄せた宮崎氏の評は特に有名?)。しかしそれはあまりにも「常識」に阿る考え方なのではないでしょうか?不健康?万々歳じゃないですか。

 

 ここから勢いで話しはパトレイバーに飛ぶのですが、『機動警察パトレイバー the mobile police』と『機動警察パトレイバー2 the movie』の二作品(以下それぞれP1、P2と略)はこのような見方からすると、「メタフィクション」を扱わないで、それぞれ旧訳聖書、新約聖書をエッセンスとして用いつつ、極めて「現実的」な主題である都市論・戦争論・身体論を扱った作品として受け取られているような気がします。そのことなどをもってして、押井守作品はこれらの作品で歓迎すべき認識論における思想的な転回点を迎えたというのが大方?の評のような気がします(これは私の漠然とした感想に過ぎませんので事実とは反しているかもしれません)。

 

 思想的な転回点というような捉え方も、作品の分類という視点から考えればそれはそれで確かに「正解」なのかもしれません。しかし私の妄想のなかに住んでいる押井守は、周到な計算のもとチャフとデコイをばらまきながら、同じ主題を巡っての変奏曲をずっと奏で続けているのだと考えております。はっきり言えばP1、P2で扱われた都市論や戦争論は表向のこと(おざなりに取り上げたという意味ではなくて)、そう言って悪ければ、あくまで主題を詰めるための応用問題であると私は考えております。いえ、それぞれの論にキチンとした動機はあるにせよ、大きく出れば都市の問題も戦争の問題も結局は、自分にとっての「現実」というものをどのように考え行動するのかという問題に行き着くしかないのではと思います。

 

 その意味では旧訳聖書、新約聖書を用いたのは、それらが如何に「現実的」な問題であるとしても、その問題の根本的な所在は技術的な問題に還元しえない思想的なものだということの表明であるのだと思います(幼稚な書き方ですいません)。例えばこれらP1・P2の主題を速度の哲学者と呼ばれるポール・ヴィリリオの思想などに還元してしまうのは極めて一面的ではないかと思っています。この老哲学者(自称・都市計画研究者)の若かりし頃の著作を知る方は異を唱えられるかもしれませんが、少なくとも最近の著作『電脳世界』などを見る限り、彼の「絶対速度」という思考は、その可能性の中心を精神分析的なものとしてエスの無時間性との関連に投影しない限り射程があまり長くない議論に思われるのですが、まあこれはテツガク素人の捨てゼリフだと思って下さい。ただしこのヴィリリオ的思想への批判はもうマンガ版(士郎正宗)及び劇場版(押井守)双方の『攻殻機動隊』に込められていると私は妄想しているのですが、これもまた後述にしましょう(出来れば)。

 

 P1,P2につていてここでもう少し具体的な記述をしておきましょう。当初の目論見では作品の構造論をここで持ち出す筈だったのですが、押井学 vol. 1で私がBDや『紅い眼鏡』試みた(成功したかとは別)方法、つまり作品の内実を語りうるような「構造」や構図をP1,P2で探そうと思うと、少なくとも私の程度の力量では上手いこと行きません。と言うより、それらしい構造を提示してみても、それがちっとも面白いことにならないというのが正確な言い方かもしれません(作品は面白いのに、そのような分析行為が面白くならないという意味です、お間違えないように)。ただこれは私に無理というだけのことで、登坂正男氏はP2で天地二分法での各登場人物のダイアグラム的な構造図をさり気なく提出しておりますから、さらにまとまった形での面白い分析が今後どなたかによって成されることをマジで期待しております。

 

 まあ、これに関しては私自身が道半ばで投げ出してしまったのでちゃんとしたことを言えないのですが、一例を挙げるとすればP2では基本的に登場人物の外在的視点(メタ的、鳥瞰的)と内在的視点の交換、交代による物語というように構図を抜き取ることが出来るかもしれません。その代表的なシークエンスはしのぶさんとノアの対比で、はじめはジャングルの地を這い回っていた柘植と最後は一緒にヘリで「天上」に昇っていってしまったしのぶさんに対して、レイバーが好きなだけの女の子から後藤隊長たちと一緒に地を這い回ることを決意したノアという対比、立場の交換劇、というような構造が抜き取れます(ビデオやDVDのジャケット絵の構図そのまんまですが >笑)。それ以外にも様々な対比・対立の構図が色々ありそうで、それは例えば後藤隊長と荒川、荒川と柘植、虚構としての平和と現実としての戦争、冒頭でモニタの向こうに現実の部下の死を見る柘植と、虚構の猫に気付いて踏みつけなかったノアの対比、等々、様々な二項対立が入り組んでいます。これらの単純な?対比のタペストリーが創発的な構造の物語を生み出しているのか(自己組織化のアナロジー?)、それともレヴィ・ストロースが社会システムを駆動する構造として「交換」という行為を発見したことの同型としての「物語の構造化、安定化」の原理なのかもしれません。しかし何れにせよ、それは作品が出来てから事後的にあれやこれや言ってもあまり実りの多い行為となる予感がしないというのが正直なところです(つまり最後までやり抜く元気が湧かなかっただけなのですが)。

 

 とにかく、これらの作品では登場人物の直接の夢の世界が彼等の「現実」に侵食してくるような幻想的な気配は見られません。しかしその代わりに語られるのは以上述べたような登場人物それぞれの「現実」の違いかもしれません。一つ例をあげると、それは物語の冒頭での柘植行人と無線交信している指揮官との「現実」レベルの違いです。つまり「いま・ここで行われているリアルな戦場」を「現実」とする認識と、その指揮官の「交戦は許可できない、全力で回避せよ」とするいかにも「実戦を指揮しながらも日本に向けての内向きの事情<独立国でありながら交戦権を認めないという奇妙な憲法を持つ国の事情」というおよそ論理的でない偽善的平和を「現実」とする認識の対比です。このような対比はP2全編に渡って広く見られるのですが、これもまたいちいち指摘してみても、少なくとも私にはちっとも面白くありません。それはBDや『紅い眼鏡』の時のように見えなかった「構造」を炙り出す時のような知的好奇心(笑)を満たすような「お遊び」が出来ない、という意味ではありません。むしろP2に見られるそのような「各人における〈現実〉の違い」みたいなものは、別にわざわざアニメという映像作品において指摘するようなものではなくて、実際私たちの今生きている「現実」において当たり前に認められるもので、それをモノとして抽出するのは野暮というか間抜けというか、オタクであることを実存理由としている私の「アニメ評論」としては何かしっくり来ないからです。

 

 ここでまた今回の結論を先に言えば、P1・P2は上記の主題をコトバ・「言語」の問題として展開した作品と私は捉えました(チョト無理矢理)。つまり聖書も都市論も戦争論もそこから演繹されてきたものだと邪推しております。このアイディアは多分WWF16にあった清瀬六郎氏の「さまよう」の以下の記述から思い付いたのだと思います、最近忘れっぽくて自分で考えついたように思ってたのですが >笑。

 

「「発話行為」ってのは言語学者ソシュールの言ったラングだかパロールだかどっちかの訳語だ。(中略)かの国(フランス)ではこのパロールってことば、「神のことばとしての聖書」とかいう含意があったりするそうだ。」

 

 さらにこのアイディアを進める状況証拠をまず少々提示しておきましょう。

 

 P1のモチーフの一つが旧訳聖書であることは、帆場暎一の犯罪がそれとの暗号に基づいてされているという後藤さんのセリフからも明らかですが、特にそこで引用されている詩編もこうです。

 

「いざ我ら降り、かしこにて彼等の言葉を乱し、互いに言葉を通づることを得ざらしめん。」

 

さらに帆場が犯罪の手段として用いたのはコンピュータのOS=基本言語であるHOSであり(P2ではLOS=loss=喪失・敗北)、さらに彼は大学時代に自分のニックネームであるエホバが誤って伝わった神の「名前」であることを聞いて狂喜したということまで開陳されています。ここまで証拠が揃えば「コトバ」がひとつの主題であるのに疑いはないところでしょう(かどうかは定かではありませんが)。

 

 旧約聖書の『創世記』の有名な一節にはこうあります(旧仮名遣いを一部改変)。

 

「エホバ神、土を以て野の全ての獣と空の全ての取りを造り給いて、アダムのこれを何と名づくるかを見んとて、これを彼のところに率いたりて給えり。アダムがいきものに名づけたるをところは、皆その名となりぬ」

 

 また新約ですが同じく聖書の『ヨハネによる福音書』冒頭に有名な詩編があります(これは現代訳で何か有り難みがないデスネ)。

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何ひとつなかった。」(1−1〜3)

 

 西欧的な一神教的カミサマの問題の根元には「コトバ」、言語の問題があることはしばしば指摘されるところですが、P1,P2にもこのような意識があっての聖書の引用だったのでしょうか?押井氏の意図はどうあれ、私にはそのような関連があるように思えて仕方ありません。

 

 更に先走ったことを書いておきましょう。少なくとも所謂西欧的な文脈においては、コトバについては、以上のようにカミサマとも関わる問題であることから、何か重苦しいイメージが付きまとっているような気がします(まあ言語がヒトがヒトたる所以であり、言霊信仰が今でも幅を利かせている日本でもケガレとしての禁句があるわけですから必ずしも西欧の問題と限定しなくてもよいわけですが、彼等西欧人がコトバに対する重きの置き方は私たち日本人には輸入品としてしか理解できない気がします)。さらにはフェルディナン・ド・ソシュールの言語学の薫陶を受けそれを精神分析に取り入れた?ジャック・ラカンはコトバが自己のなかの他者であると言い?、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインはその「言語ゲーム」観から「独我論とは何から何まであべこべになっている哲学」を目指し、ロラン・バルトは「言語はファシストなのだ」と断言するわけですから、コギトの哲学から言語を介した構造主義と精神分析によるその反動は多分私たち日本人には理解できないような心底からの衝撃を彼等に与えたのかもしれません。

 

 押井守作品にそのような運命論的な雰囲気を見ることは、以上挙げたコトバの問題をモチーフとして取り上げていることからも賛成なのですが、実は彼の作品がそれだけで終わるものであるかというと、私はゼンゼンそうは思いません。それは押井学 Vol.1でも指摘したように、彼の作品のキモは運命論的に固定化された構造や対称性そのものではなく、それらが壊れ破れる「可能性」を示しているところにあると思うからです。あくまで「可能性」に留めるのは、甘い結末や陳腐な希望はゴマカシだからと考えているのか、それとも単にテレ隠しなのかもしれませんが。

 

 その意味で私が押井守作品から感じ取るのは、むしろソシュール研究家の故・丸山圭三郎氏やジュリア・クリステヴァの主張するような言語の両義性です。すなわち、わたしたちヒトは記号・象徴・言語の世界のなかで主に生きるしかないわけで、それが半永久的に固定しきったものであれば、私たちはそれに従い精神は退屈し、システムに枯渇させられるしかないわけで、さらにはその固定化された言語による固定化された「概念」を主人として従順な犬のように生きる身にとっては、その記号的世界の崩壊は、クリステヴァの言うところのアブジェクシオン(って恐怖・不安・嫌悪感のことらしい >フランス語でをそのまんまカタカナにして悦に入るなよな〜ポストモダンとやら)を生じさせるだけなのでしょう。しかしそれと同時にコトバ・言語とは「世界」を自ら分節し記号世界の生成に参加し、モノゴトの関係を創り出す営み・アトラクタであるわけで、それは芸術と同じく自我体制に揺さぶりを与え時には改編させる快楽をもたらすものでもあると思われます。現在までの押井作品にはその喜びの契機、端緒しか描かれてはいないように思えますが、小説『アヴァロン・灰色の貴婦人』での犬頭族の戦士たち(ヘッドのムライはまた別として)の「犬」の描き方を見ると、徐々にそれが顕在化してきたように感じるのは考えすぎというものでしょうか。

 

3.蛇足

 

 以下、体系的に話しを進めるのがますます億劫になってきたので、さらに散文的に各作品について極めて蛇足なアイディアを挙げていってみます。

 

 P1について私が考えつくようなことは大体既に言われていて、このWWFのへーげる奥田氏、清瀬氏の押井論や、登坂氏の同人誌「抽象企業・3/東京をかき乱すべきか・1」などがお勧めの書です。私の単純な理解の仕方では、無限の進歩を是とする立場・メタ的立場の優位を疑わない認識を基礎とする文明によって破壊、というか塗り潰されて行くされてゆく常に発展途上で緩い秩序だった都市・東京と、そしてその建築に郷愁を寄せるのではなく、それならその進歩を無邪気に信じる輩どもにそれを過剰に暴走させた結果を見せてやろうとしたのが帆場暎一であり、それに対してその犯罪の片棒を敢えて(喜んで?)担ぎながらも(方舟の破壊)、結局はその完全遂行(首都圏全域の破壊)を阻止したのも、正規の警察や軍ではなく、中途半端な役人、発展途上で混沌を含む部隊=「正義の味方」の後藤隊長率いる第二小隊だったわけで、カミサマの規律正しい序列への反乱のやり方の両極端が示されていたように思います(ここいらが『攻殻機動隊』にも表れていて、異質な分子を部隊に入れた草薙素子や、異質な生命体同士の融合で進化の隘路をブレークスルーしようとするモチーフやらと、一神教的で運命論的で単純進化論的への反撃が示されていると思います)。

 

 しかしP2に至り結局バビロンプロジェクトは完成し、第二小隊のメンツはみな収まるべき場所に収まり、後藤隊長の部下には小利口な若者達が取って代わり、そして居ながらにして全てを知ることの出来る「なにひとつしない神様」が幻の街に住み着くようになったわけです。その「なにひとつしない神様」たちは絶対速度に乗る情報を教義としおり(無限の進歩、メタ的ステップへの信仰)、ネットから「最も正しい情報」を得て最善の選択をし得ると信仰しているわけですが、それに対して「現場」で涅槃を見た柘植行人は、そのカミサマの教義はそんな相互コミュニケーションが予定調和的に発展して「民主主義的な」平和を生むものではなく、むしろディスコミュニケーションを伴う末端情報の切り捨てに過ぎないということを手紙で南雲しのぶに伝えようとしたのでしょうか。つまりそれは

 

「我、地に平和を与えんために来たと思う勿れ。我汝等に告ぐ。然らず、むしろ争いなり。今からのち、一家に五人あらば、三人は二人に、二人は三人に分かれて争わん。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に(中略)争うであろう。」(新約聖書『ルカによる福音書』・第12章)

 

 ちなみに中略は「姑は嫁に、嫁は姑に」で笑えるのですが、それは余談です。そしてそれを理解してもらえなくてヤケになった?柘植が起こした「犯罪」・テロは帆場暎一と同じく、その情報を暴走させた結果を見せてやろうとするものだったのでしょう。だからP1の時と同じく、後藤隊長はそれにシンパシーを感じてしまうのでしょうが、それと対照的に描かれるのが荒川というのがまた面白いところです。つまり単純な二項対立だけではなく、この柘植、後藤、荒川を三位一体の新約聖書の教義、またそこから必然的に出て来るであろう「神の死」(押井学 Vol.1の「一神教の逆説」に内包されている問題)と絡めて論じるような知識のある方の文章をおまちしております、既に登坂氏によって道筋は立てられていますから。

 

 というわけで今回はこれで時間切れ。いいたいことはまだまだあれど、これまた生きて日本に帰れたらウェッブサイト上で続きを致しましょう。以下サイトに是非来て下さいませ。

 

まつもとあきらのホームページ

 

それでは。

 

2002/07

 


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