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 まぼろし

 

 

清瀬 六朗


 

 

 雨が降っていた。

 ホテルの部屋の窓際の籐椅子でうとうとしてしまっていたらしい。

 亀山ゆきは、身を乗り出すように、窓ガラスすれすれまで顔を持っていき、雨を降らせている空を見上げ、そして地上までゆっくりと目を下ろした。

 ガラスの向こうの世界は、灰色に煙っている。

 雨に覆われ、灰色に曇らされた世界は、どこも同じに見える。自分がいるのがどこかも忘れてしまうぐらいに。

 ゆきは大きく息をつき、籐椅子に背を伸ばして、また目を閉じそうになった。

 灰色の雨の向こうに大きな橋の影が現れた。

 巨大な二本の鋼鉄の橋脚のあいだにかけられた、巨大な橋だ。

 はっとした。

 眠りに慣れた頭でも、その影が、日本の援助でさいきん造られた巨大な橋で、この国にやっと平和が訪れたシンボルと言われていることはすぐに思い出した。やっと「戦後」を迎えた国への、平和の国からの贈り物というわけだ。

 けれども、思いはひとりでに別のほうへ走って行った。

 それは、ゆきが思い出さないでいたいと思っていた、あの冬の日の情景だった。

 雨が世界を覆っていたのは、あの巨大な橋の影をこんなかたちで自分の目の前に出現させるためだった。

 その思いの迸走は、そういう思いに、一瞬、引っかかっただけだった。

 

 

   1

 

 渋滞は川のように続いていた。

 光の川。白と、黄色と、赤と。色とりどりの光の川だった。

 川は少しも流れない。もう三時間以上も流れないまま滞っている。

 その流れない先端部分で渋滞に引っかかってしまったゆきは、ほんとうに不運だと思った。ゆきがインタビューするはずだった相手は、いつまでも現れないインタビュアーに激怒して、予定をキャンセルし次の仕事場に行ってしまった。編集長には連絡が遅いと叱りつけられた。五〇回以上もかけ続けてようやく通じた自動車電話でだ。周囲で渋滞に引っかかってしまったドライバーも同じようにいっせいに自動車電話で連絡を取ろうとしたためだろう。回線が輻輳して一時間近く通じなかったのだ。そして、それからまた一時間もしてから、やっと渋滞の頭上を通過して神奈川県警交通レイバー隊が到着した。

 渋滞の原因は単純なレイバーの事故だった。ベイブリッジ上で作業中の大型作業用レイバーが、バランスを崩して転倒し、道を塞いだまま動かなくなってしまったらしい。

 下手に動かすと橋梁や橋を吊るワイヤーを傷つけてしまう。動かなくなったレイバーを無理に再起動すれば暴走するかも知れない。神奈川県警の交通レイバー隊が現場に到着したが、交通事故処理用のレイバーは大型レイバーには非力で、手の着けようがなかった。若い警察官が、いらいらし、うろたえているのがいかにも気の毒だった。もともと色白なのだろうが、寒さに血の気の引いた頬にうっすらと紅色が染まるのが、いじらしいというより、痛々しかった。

 ベイブリッジにさしかかるところだから、ここから見る冬の夜景は美しい。しかし、事故現場を照らす水銀灯の光が白く暴力的に目を襲って、夜景を楽しむどころではなかった。それに、周囲には、事故現場を見るために車を降りてきたドライバーや同乗者たちが野次馬の群と化して、壁を作っていた。

 その向こうのベイブリッジだけが、何ごともなかったように、不動のまま見下ろしていた。

 ゆきは自分が足をこまかいリズムを取るように動かしているのに気づいた。

 「これじゃまるで貧乏ゆすり」

 父親にその性癖があって、それを母もゆきも嫌っていたことを、思い起こしそうになった。

 微笑しようとしたが、うまくいかなかった。それで、ため息をつこうとしたとき、ゆきは、車外から、一人の男が、その運転席のゆきを見ているのとふと目が合った。

 初老の男のようだった。眼鏡をかけ、髪は白く、口を軽く結んで、落ち着いてその場を見守っているようだ。肌は何か荒れた感じがある。

 ゆきは、ふっと立つと、車の外に出ていた。寒さが胸や背中やタイツの上からごくあたりまえのように入ってきた。

 ゆきがその男のほうを見ると、最初は現場のほうを見ていた男も、ゆきのほうにちらっと目をやった。

 水銀灯の光が片側からしか当たっていないのでよくわからないけれども、男の右の目の上には、皺、というより、傷痕のようなものがあるらしい。男は眉のあいだに皺を寄せて、考えこむようなポーズをとった。ゆきはすこし気おくれして、男に会釈した。

 男は会釈に応えず、そのかわり、人混みをかき分けて、現場のほう、ベイブリッジ上へと進み出した。

 警備の警察官と何か話をしているのが人混みの隙から見える。名刺を出し、傾いて身動きのとれなくなっているレイバーを指さしたり、控えめな身振りを交えながら何か話している。警察官が、苛立ち、押し返そうとする。男は、一歩ぐらい退いただけでたんたんと話しかけつづける。何分か押し問答がつづいた。まわりの野次馬がヤジを飛ばすと、警官より先にその男がそちらに顔を向けて、一瞥で黙らせていた。その初老らしい男は、姿勢のよい歩きかたで橋の上へと歩き去った。故障したレイバーのコックピットに乗りこむのが、現場を照らす強い水銀灯の光でモノトーンに浮き上がった。

 しばらく何の動きも見せなかった故障レイバーは、とつぜん、元気なモーター音を響かせて立ち上がった。詰めかけていた野次馬連中から拍手が上がった。警備の警官も、群集を制止するのはわすれて、何時間かぶりに動き出したレイバーを見ている。高速道路の上に斜めに足をついてぶざまな姿をさらしていたレイバーは、健康な小学生のようにきびきびと立ち上がった。

 男はすぐにコックピットから下り、その場を立ち去ろうとした。交通レイバー隊の若い警官が上気した顔であとを追おうとする。男は立ち止まり、振り返り、ゆっくりと首を振った。警官はそれだけで足を止め、男を行かせてしまった。

 男はゆきの側を、こんどは振り向きもせずにすっと通り過ぎ、水銀灯の光の届いていない闇へと姿を消した。

 どこか、渋滞で止まったままになっている車の運転席に戻ったのだろう。ゆきはいちおう目で探してみたけれども、わからなかった。ゆきは、ほっと息をつき、車のドアを開けると、弾むように運転席に戻って勢いよくシートベルトをかけた。寒空の下に出ていた体は冷え切り、心臓は弾んでいた。

 それから三〇分ほどが経過していた。

 ベイブリッジは何ごともなかったように、ライトアップの光の中にその偉容を見せ、航空危険灯は赤い単調な点滅を繰り返していた。

 編集部に連絡してみるともう今日は仕事はないということで、急いで戻る必要はないと言われた。編集長の口振りは先刻とはうって変わって穏やかだった。今日、ゆきがインタビューするはずだった相手のエコノミストについても、編集長は、落ち着いて考えてみると無理をしてインタビューをするほどの相手ではないといい、インタビューをし損ねたことを気にするなとも言った。ゆきが仕事に失敗したことに皮肉を言っているわけではないようだったし、実際、編集長はそういう遠回しな表現の嫌いな人でもあった。

 だとすれば、ほんとうにゆっくりして帰ってもよさそうだ。

 ゆきはベイブリッジのすぐ近くのカフェテリアに入り、ベイブリッジ側の窓際の席でテーブルで夕食を摂り、コーヒーを飲んでいた。何時間もいらいらと緊張にさらされた身体を少しだけでも休めたいと思っていた。

 「こちら、よろしいですか」

 落ち着いた男の声がした。

 「あ、はい」

 空いているテーブルはいくらでもあるだろうにと思う前に、ゆきは返事していた。そして顔を上げて、自分が小さく息を呑んだのに気づいた。

 それは、さっき、三時間以上にわたって渋滞を引き起こしていたベイブリッジのレイバーを、ほんの一分もしないうちに再起動させた初老の男だった。ただし、初老と見えたのは白髪のせいで、実際にはそんなに齢はとっていないらしい。中年の、それも見かけよりも若い年齢のように思えた。

 やはり、右の眉のところには、癒えてはいるけれども大きな傷痕がある。

 男は、ゆきの向かい側のいすに座り、とても無造作なしぐさでコーヒーを注文した。

 「失礼ですが」

 男はコートを脱ぐと、ゆきのほうに顔を上げて言った。

 「亀山ゆきさんですね、『エコノミック・エクスプレス』のアナリストの」

 眼鏡の奥で斜めに探るようにゆきに言う。ゆきは虚を衝かれた。

 「え。ええ、そうですが。あの、たいへん失礼なんですが、どこかでお会いしたでしょうか」

 「いえ、はじめてです。でも、あなたの「マーケットレビュー」のコーナーは、毎週、興味深く拝見していますよ」

 『エコノミック・エクスプレス』は伝統ある経済誌で購読層も広い。そこに連載を持っていて、執筆者として顔写真が載っているわけだから、顔が知られているのは確かだ。それでも初対面でこういうふうに声をかけられたのははじめてだ。

 ゆきは緊張した。

 「失礼ですが、あなた様は?」

 「私はこういう者です」

 男は内ポケットから名刺を出してゆきに差し出した。

 「葦原大学 工学部 非常勤講師

   新堂 次彦」

 「工学部の先生ですか」

 ゆきは名刺から顔を上げて言った。

 「非常勤ですけどね」

 新堂は照れ笑いのような表情を浮かべた。

 「ご専門は?」

 「多足歩行機械運動制御論」

 「多足歩行機械……ああ、レイバーですね」

 「よくご存じで」

 「それでさっきは……あ、すみません。見ていたものですから」

 「私も気づいていましたよ」

 ゆきは笑顔でいたが、なぜか首筋から背中がこわばるような感じがした。

 ウェイトレスが新堂にコーヒーを持ち、

「以上でよろしいですか?」

と確かめて伝票を置いて去った。

 「だから、あなたが書かれたレイバー経済論はとてもおもしろく読ませてもらいました」

 そう言うと、新堂はカップを口に運び、コーヒーを口に含んだ。

 ゆきは、黙ってその新堂の顔を見上げた。ゆき自身のコーヒーはもう冷めてしまっている。新堂はつづけた。

 「レイバーが開発されていなければ平均株価はいまでも三万円台に低迷していただろうという議論でしたね」

 「ええ。悲観的すぎるとだいぶ叩かれましたが」

 新堂は穏やかな笑みでゆきを見返した。

 「そうですか」

 新堂は、もう一口、熱いコーヒーを啜ると、カップを置いた。カップはかちんと小さく端正な音を立てた。

 「だったら、私のような考えは少数派なんだろうね」

 「と、言われますと?」

 「正直な感想を申し上げても、怒りませんか?」

 新堂のことばは、何か悪戯でもするようだった。

 「ええ、もちろん」

 ゆきは、肩から腕の当たりに力が入るのを感じた。さっきとはぜんぜん違っていた。

 仕事をしているときの感覚かも知れないと思った。

 「もしレイバーが開発されていなかったら」

 新堂はいったんことばを切った。

 「二〇〇二年のはじめには、日本の平均株価は一万円を切っていたかも知れない」

 「なんですって?」

 ゆきは驚きの声を上げた。

 昨年末、平均株価は五万五千円を突破した。今年前半には六万円を突破しようという勢いだ。

 しかし新堂は落ち着いた声で何ごともなかったようにつづけた。

 「九千円台後半というところじゃないかな。楽観的に見ても一万二千円台、一万五千は無理でしょう」

 「それは何かの数理モデルでの予測でしょうか?」

 ゆきは少し挑戦的に問い返す。

 「モデル自体は、あなたがお使いになったものとあまり違いはないはずですよ。もちろん、あなた方の会社のシミュレーション・モデルのほうが正確でしょう」

 「編集部内では私は慎重論で通っているんですけど」

 「らしいね。新年特集号では、今年中に十万に達するって予測もあった」

 「読者からはけっこう支持があるんですよ、あれ」

 「あんな根拠薄弱な説に?」

 新堂は頬をゆるめた。この男がそんなふうに笑うのはさっきから見ていてはじめてだとゆきは思った。

 「はい。こういうご時世ですから、やっぱり楽観論の受けがいいようです」

 「強いて楽観論に縋るご時世でもないだろうに」

 新堂はまたコーヒーを啜った。

 「あのバブル経済と呼ばれた時期、そして引き締め政策による急速な経済後退、東京湾中部地震の打撃とバビロンプロジェクトの開始、皮肉なことに、あの地震の打撃からの復興需要にレイバー開発という画期的な技術革新が重なったことで、この空前の経済的繁栄がもたらされ、いまも続いている」

 「ええ。しかも、あの性急すぎたバブル経済退治と首都圏地震の被害による一時的な落ち込みを除けば、日本経済は一九八〇年代後半から一〇年以上に及ぶ繁栄をつづけていることになるわけです。したがって、いま高校に入った子どもたちは、不景気な日本を知らないことになります。これはかつての大英帝国の繁栄に並ぶ繁栄で、日本経済は景気循環の影響を受けないニューエコノミーの新段階に移行したとも……」

 「言われているね」

 新堂はたんたんと言った。ゆきは、思わず熱を入れて話しすぎたと気づき、照れ笑いを浮かべて言った。

 「あ、そんなことはとっくにご存じですよね。レイバー経済のシミュレーション分析までなさるのだったら」

 「奇妙な国だな」

 新堂はゆきのことばに直接には応えなかった。

 「社会の調子がいいときには国全体が楽観論に染まる。そしてそれが下向くといっきに悲観論が全体を支配する。奇をてらってそれに逆らう論は出るが、それが影響力を持つことはめったにない。むしろその少数説が存在することが大勢順応論を堂々と流す免罪符になってしまう。いや、失礼。マスコミで働いている人を前に、そんなことをいうもんじゃないな」

 「いいえ。わたしもいつも感じていることです」

 以前、インタビュー相手にこれと同じことを言われて、ゆきは腹を立てたことがある。

 けれども今日の新堂のことばにはなぜかまったく腹が立たなかった。

 「でも、その株価一万円割れの予測のお話、よかったらもっと聞かせていただきたいんですが」

 「べつにあなたの予測がまちがっていたというようなことを言うつもりはありません。ただ、あなたの予測との分かれ目は、レイバーが発達しなかったときにどんな技術が発達していたかという仮定にあります」

 大学の先生らしく、いや、現実の大学の先生にはあまりいないくらいに、新堂は、真摯な、講義調の無感動な口ぶりで言った。ゆきもまじめに応じた。

 「それはたしかに。私は従来の産業が従来の成長率で伸びることを仮定して、それと対比しました。何か特別な仮定をすると、恣意的な予測になりかねないでしょう?」

 新堂はうなずいた。

 「いまもてはやされている楽観的予測は、そこで何か都合のいい仮定をひそませている。それを読んだほかのアナリストやエコノミストが、その楽観的予測を既定の事実として、それにさらに楽観的な仮定をつけ加える。ばあいによっては、根拠もなく、自明のこととして数字を出すことで、かえって読者を幻惑するという方法もある。その数字を前提に新たな推定が加えられると、虚構は事実の中に埋もれてしまう。もちろんそれに事実がそれに追随しているときはそれでかまわないし、実際に、事実が追随することもある。予測を受け取るのは人間だし、その人間が事実を作るのだから。しかし、ありそうもない予測が事実として実現しつづけたあとで、とつぜん事実が裏切ったとしたら、引き返しは難しくなる」

 「おっしゃることはよくわかります」

 ゆきは残っていたコーヒーをぜんぶ飲んでしまった。

 ウェイトレスが来て、お冷やを足していった。

 そのあいだ、新堂は、窓の外のベイブリッジに少し目をやっていた。

 「だが、現状維持といういちばんありそうな仮定も、それがいちばんありそうなだけにつねに非現実的なものだ」

 「社会のすべてがいまと同じように進むはずがない、そういうことですね」

 「その通りです。だから、現状維持とは異なる、いちばんありそうな仮定を立ててみる。私はそういう方法で予測してみました。レイバーが開発されず、または、開発されたとしてもこのように大きな産業に成長しなかったとしたら、という予測をね」

 「で、その仮定とは?」

 ゆきは、少しだけ身を乗り出し、のぞきこむように新堂の顔を見上げた。

 「情報産業の飛躍的発展、いや、一方的な肥大といったほうがいいのかな。それが私の仮定です」

 「はい……」

 「納得できないようですね」

 「いえ」

 ゆきは、入社試験を受ける新人のように、いすにお行儀よく座り直し、両手を膝の上に置いてから応えた。

 「ただ、情報産業は現在でも飛躍的な発展を遂げていますし、それに、それが発展することで経済はより発展すると、そう考えるのが普通じゃないかと思うのですが」

 「そのとおりです。あなたが雑誌のご自分のコーナーでいつも批判している過度の楽観論には、そういう種類のものが多い」

 新堂はことばを切った。

 「しかしそれは情報というものを甘く見すぎている。情報とは、影も形も重さもない、いわば幻のようなもの、いや、むしろ、情報とは幻の一種だと言ってよいでしょう。その情報が、つまり幻が、具体的な、かたちと重さのあるもののために奉仕するとは限らない。いま、情報技術は、レイバーの制御装置や自動車の情報ディスプレイ装置として、実体のあるものを作り、売り、買うという実体産業のために奉仕しています。しかしいつまでも奉仕してくれるとは限らない。よく懐いていない犬のように、ある日、突然、飼い主のもとを去ってしまう。そうは思いませんか」

 みょうなたとえだと、ゆきは思った。

 「すみません。おっしゃることがもう一つよくわからないのですが」

 「うん」

 新堂は目を細めた。苦笑したのかも知れない。

 「学生によく言われますよ。私の講義は、言っていることがときどき突飛で、わからなくなると。悪い癖だな」

 目を細めて斜めにどこかを見ているような新堂の表情に、ゆきはふと底の見えない不安な感じを覚えた。

 しかし、どうしてなのかは、自分でもわからなかった。

 「現在でも情報産業は発展し、情報化も劇的に進展している。しかし、それは、レイバーの開発や自動車の情報化のようなかたちでだ。つまり、これまで使われてきたさまざまな機器が情報化の成果を採り入れることによって発展し、古い製品を陳腐化し、新しい製品への需要を喚起している。つまり、二〇〇二年、この世界で現実に起こっている情報産業の発展とは、情報そのものではなく、情報を利用する機器の発展、実体、何らかのボディを持ったものの発展だ。だから、それが売り買いされることによって、この国の経済的繁栄は支えられている」

 「ええ。そのことは認めます」

 ゆきはうなずいた。新堂はその返事に間髪を入れずにつづけた。

 「だが、市場でやりとりされるのが情報そのものになったとしたらどうです?」

 ゆきは、やはり何を言われているかわからなかった。

 「情報そのものですか?」

 「そうです。情報化された機器は値段がつく。高値で売れる。しかし、情報そのものが価値を認められ、それをやりとりすることに人間が多大な時間を使うことになれば、どうなるでしょう? 実体は値段をつけて売買される、しかし、情報の標準価格というのは……」

 「タダ。そう言いたいわけですね?」

 「その通りです」

 新堂は大きくため息をつき、ゆきから少し遅れてコーヒーを飲み干した。

 「これまで情報は人から人に伝えられると多かれ少なかれ必ず劣化しました。伝言ゲームでは、伝言を繰り返すごとに伝言の情報は歪められた。また、コピーも繰り返すたびに汚くなっていくのがあたりまえでした」

 「しかし、それをデジタル技術が根本的に変えた、と」

 「そうです。すべての情報を数値情報として記憶し、それをノイズなしに伝達する方法が確立されれば、それはコピーを重ねても劣化することは原理的にあり得ない。そのような情報がネットワークというものを介して自由にやりとりされるとしたら、どうです? ものに値段がつくのは、それを手に入れるのに多少の困難が伴うからです。自由にコピーされ、自由に受け渡しされ、それで質が少しも劣化しないものには値段はつけられない。オリジナルと同じ質のコピーがいくらでも自由に手に入るのだから。最初に情報を獲得するのにコストが必要だったとしても、それがいったんデジタル情報にされてしまえば、それはタダで流通してしまう。そうやってやりとりされるものの標準価格がタダになったとき、経済はどうなります?」

 「それはそうですね」

 ゆきには新堂の言おうとしていることがわかってきた。

 「しかし、機器から離れた情報にそんな価値があるものでしょうか。もっと言うとですね、実際の商品がやりとりされる、その市場から離れて、情報だけがやりとりされ、人間がそれに夢中になったりするものでしょうか。もちろんそういう人は出てくるかも知れませんが、それが経済情勢にそんなに大きく影響を与えるでしょうか?」

 「与える、と私は思いますね」

 新堂は言って、コーヒーカップを握ろうとしてからかわりにコップを取り、氷水で少し喉を潤す。

 「私たちの経済が、半分以上、情報で動いていることは認めますよね? あのバブルと呼ばれた時代に、土地の値段が土地狂乱と呼ばれるほど高騰したのは、その土地がどれほどの収益を上げられるか、将来、どれぐらいの収益を上げられるかを落ち着いて検討した結果ではなかった。土地が値上がりしたという情報そのものが、その土地に価値があるように思いこませる作用をして、そして実際にその土地がさらに値上がりする。そういう過程だった。いわば、人が値段をつけていたのは、土地そのものではなく、土地をめぐる情報だった。現に地上のどこかに存在する土地の存在はかぎりなく希薄なものになり、それが幻であるはずの情報に従属した」

 「しかし、それで土地の値段は急上昇したじゃないですか」

 「そしてそれが首都圏の土地の逼迫感を煽り、バビロンプロジェクトとそれにつづくジオフロント開発計画を一挙に現実化させ、それがレイバーという新しい産業を生み出し、発展させた。おっしゃるとおりです」

 新堂は、もう目をそらすことなく、両方の目でゆきの顔を正面から見て話をつづけていた。

 「けれども、おそらく気づいているでしょう。情報は必ずしもものの値段を上げる方向で働くとは限りません。情報によってものの値段が上がるのは、それが逼迫感を煽り、焦りを生ませるからだ。しかし、情報は、また、そうやって上がってしまった値段に焦り以外の何の根拠もないことを伝えもする。そのときにはいったいどうなるでしょうかね」

 「急騰したものの価格は急落します」

 ゆきも新堂の顔を正面から捉えて応えた。

 「けれども、それは正常な市場の景気循環の波ではありませんか」

 「そこがあなたとの考えの分かれるところですよ」

 新堂は口許を少し弛めた。

 「私は、その時点でレイバーが実用化されたことを、何か特別な幸運だと思っているのです。しかし、そのレイバー産業が全盛を謳歌した時期も、バビロンプロジェクトの終了とともに去った」

 「けれども、業界トップの篠原をはじめ、四菱、菱井などの株価は、依然、好調ですよ。他の産業分野をいまもリードしつづけて……」

 「だから、あなたは気づいているはずだ」

 そうだった。自分が口にしてみてはじめて気づいたことを、いや、いまも十分にはわかっていないことを、新堂は先回りして見抜いた。新堂はつづけた。

 「いま、そのレイバー産業が、とつぜん、没落したとすれば、現在の日本経済を支えるものは何もなくなる。そこに開けているのは株価大暴落の深淵です。だから、バビロンプロジェクト終了と同時に、レイバー大手は販路を海外とに求め、そこで業績拡大を図っている。それを海外雄飛の壮図と見ればたしかに頼もしいが、そのじつ、国内市場を食い尽くして、事情も十分にわからない海外市場に手を出さざるを得ないところに追いつめられている、と見ることもできます。アメリカをはじめ、レイバー開発の後進諸国が追いついてくることを考えれば、その海外市場での業績もどこまで支えられるかはわからない。現に、アメリカでは、コンピューターOS開発の大手メガソフト社がレイバー大手のスペシャルモーターズと手を組み、巻き返しを図ってきている。レイバー産業が没落して、何が次の産業を、そして日本の経済を支えますかね?」

 「それは……」

 それはゆきもいつも考えているはずのことだった。そして、答に詰まった。

 「九〇年代にレイバーが実用化されていなければその状態がその時点で来ていたはずです。レイバーの実用化はそれを数年遅らせただけだ」

 新堂は眼鏡を上げる仕草をして、つづけた。

 「レイバー産業はかつての自動車産業に匹敵する大きな産業だ。そして自動車産業は何十年の単位で日本経済を支えた。それが、レイバーでは、数年しか持ちそうもないのです。市場の循環速度はとてつもなく速くなっている。その原因は情報技術の発展にあるのは、疑いのないところでしょう。しかし、新たな産業分野を開発するのは人間で、人間が新しい発想を生み出すのにかかる時間は、情報交換速度が上がったからといってそうそう短くなるものではない。まして、その発想が新しい産業へと成熟するためには、実際にものを試作し、動かし、改良してまた試作するという時間が必要だ。情報の交換速度が速くなり、その情報が産業を動かすようになると、情報の速度が実際の技術革新をはるかに上回るようになる。また、ある製品を造るために開発され設置された設備も、情報の速度の発達でその製品がすぐに陳腐になってしまうとすれば、その設備自体が稼働する時間もどんどん短くなります。だから設備投資の効率はどんどん悪くなっていく。その結果、情報の速度の発達は、産業そのものを置き去りにしてしまう」

 ゆきは黙って氷水を喉に運んだ。

 「そんな社会が来ていたはずなんだ、レイバーが実用化されていなければ」

 平板な、しかし何かに取り憑かれたように話し続けた新堂は、ここでゆきと同じようにコップの氷水を口に運び、息をついた。

 「ま、それが私の平均株価一万円説の根拠です。レイバーが開発されなかったばあい、産業は、より直接に情報をやりとりするための機器、つまり、パソコンや日本語ワープロ、通信端末や携帯電話などの開発、そして光ファイバーなどの通信網整備に熱心になり、それが情報の回転速度をさらに向上させる。その結果、情報機器産業自体が情報の回転の速さから取り残され、私たちの知っているような経済を牽引する産業はもはや何もなくなってしまう。どうですか、そんな予測は」

 「そうですね」

 ゆきは、新堂から目をそらして、懸命に考えた。

 そういう極論の論破には自信があるはずだった。けれども、このときには、ゆきの考えは空回りするばかりで、少しも進まなかった。

 疲れていたからかも知れない。

 新堂は、そのことに気づいたのだろうか。

 「まあ、また議論しましょう。お疲れのところ、申しわけありませんでした」

 「いいえ、楽しい時間でした。それに参考にもなりました。ありがとうございました」

 ゆきは新堂と握手して別れたいと思った。しかし、その前に、新堂は、短く

「それは何より」

と言うと、一つ笑顔をつくってコートを羽織り、自分の伝票を持ってさっさと行ってしまった。

 ゆきは、その後ろ姿をなんとなく追っていた。

 レジで支払いを済ませるあいだだろうか、新堂次彦は、窓の外に展がるベイブリッジを、じっと眺めていた。その姿は、何か名残りを惜しむようでもあった。

 「ばか……」

 ゆきは、その男の姿を追って何も考えずにいる自分に、小さくそうささやいてみた。

 けれども、たしかにその新堂の姿はゆきの心に焼きついていたのだ。

 

 

   2

 

 ゆきが巻きこまれたベイブリッジ大渋滞事件はテレビで大々的に報道されていた。全部のキー局は、全国ニュースのトップで、しかも全国ニュースの時間の半分を使って流したらしい。渋滞している車の頭上を通過する最新鋭の交通レイバーを配備されながら現場到着が大幅に遅れ、しかも到着後も故障レイバーの処理に失敗した神奈川県警交通機動隊の失態が厳しく非難されていた。自動車電話と携帯電話がベイブリッジを含むみなとみらい地区や横浜駅ニューセンチュリー開発エリアなど広い範囲で使えなくなったことも大きく採り上げられていたようだ。

 編集長の物腰が柔らかくなったのはそのせいらしい。ゆきは短く舌打ちをした。なんとなく愉快でもあった。

 それにしても平和な国だとゆきは思った。

 たしかに自分はあの大渋滞で迷惑した。迷惑した人はほかにもたくさんいる。だから、報道されてもおかしくはない。しかし、レイバーが故障して渋滞を起こすことなど、毎日、首都圏のどこかでは起こっていることだ。ふだんはそんな事故なんかテレビやラジオの交通情報で報道されるだけだ。去年の暮れには、環状八号線高速の建設現場でやはりレイバーが横転し、そのあおりで環八の渋滞が一日中解消されなかったことがあった。この事故で迷惑した人は、今回同様かそれ以上に多かったはずだが、そのときも事故は三面記事の片隅に出ただけだった。

 それがこんなに大きく報道されたのは、一つは、それがベイブリッジという象徴的な場所で起こったからであり、もう一つは、報道するべき事件がなかったからだ。

 実際、この冬は大きな事件がなかった。どうでもいいような小さなスキャンダルが、連日、全国紙のトップを飾りつづけた。

 あの日、ぽっかり空いた時間にとつぜん現れて、ゆきと議論をして行ってしまった新堂という男のことは、あまり思い出さなくなっていた。覚えていないわけではないけれど、あの時間そのものが何か幻のようにゆきには思えた。情報技術が発展しすぎて、情報の速度が現実の産業を追い抜いてしまい、その結果、日本経済は平均株価一万円の停滞に陥る。新堂という男のその予想に、あのときにはゆきはほんとうに背筋が寒くなるような感覚を感じたはずなのだが、いまでは、逆に、そのありそうもない話が、あの時間そのものを幻のように感じさせる理由になっている。ゆきはそんなふうに考えていた。

 あのベイブリッジ爆破事件、いや、爆撃事件が起こるまでは。

 爆破されたベイブリッジの映像を見て、すぐに新堂を思い出したわけではない。ベイブリッジの中央部が吹き飛ばされた映像それ自体が、ゆきにはすぐには信じることのできないものだった。何か特撮映画の一場面を見せられているような、首都圏全体をロケ地にして大がかりな映画を撮るために用意された映像のような、そんな気分がしていたのだ。

 それがまぎれもなく現実だと思えるようになったとき、ふと、カフェテリアの入り口あたりで、そのベイブリッジを惜しむように眺めていたあの新堂の姿を思い出したのだ。

 そして、あのF16Jの映像だ。あの映像は、あの夜に、ゆきがいて、新堂もいた、あの場所のすぐ近くから撮影されたものだった。

 ゆきはなぜか焦りに似た気もちにとらわれていた。

 それは、一つには、あの事件を解釈しきれない自分にいら立っていたせいなのかも知れない。

 大がかりなテロなのか、自衛隊の一部の仕掛けた謀略なのか、その両方なのか。その問題自体は、ゆきの仕事からすれば、言ってしまえばどうでもいいことだった。それよりも、それが経済に与える影響をどう読むかが問題だった。

 例によって、大騒ぎが好きなエコノミストたちは、この事件を契機に日本経済は長期低迷に陥ると騒ぎ出した。ゆきはそんな考えには反対だった。というより、大事件をネタに騒ぎたがるそういうエコノミストたちを、内心、軽蔑していた。事件の影響は限定的である。翌日の東証株価の大幅値下がりは、事件の与えた心理的な影響はもちろんあるけれど、主な要因は、ベイブリッジの通行が止まったことによる物流コストの上昇を見込んだものだ。社会的な興奮状態が収まれば株価は下げ止まる。そのあとは、篠原重工を中心に進められている新世代レイバーの開発を材料に上昇に転じる。自衛隊関与説が早い時期に暴露されたことは、かえって、興奮状態からの脱却を容易にしているように感じた。

 だが、ほんとうにそうだろうか。

 事件をネタに大騒ぎするのは、二〇歳代で『エコノミック・エクスプレス』の連載を委ねられた記者の矜恃が許さなかったし、それでよかったと思っている。けれども、あのとき大騒ぎを演じたエコノミストたち、いや、評論家たち全般の興奮が収まり、一時は全テレビ局が一日中を「報道特別番組」にあてていた状態が収まってニュース番組の時間さえ普通に戻り、しかもそのなかでベイブリッジ事件の占める時間がどんどん減って行くにつれて、ゆきは、自分がじつはあの事件に言いしれぬ焦りと、もしかすると恐怖を感じていることに、ようやく気づいてきた。

 「やっぱり私って鈍いのかな」

 昼間の電車はすいていた。

 取材の帰りだった。

 ベイブリッジ爆破事件は千葉県の道路事情に大きな影響を与えていた。東京湾横断橋の完成で忘れ去られかけていた浜金谷‐久里浜間の東京湾フェリーを使うルートが急に混雑しはじめていた。

 ただでさえ渋滞が慢性化しつつあった東京の高速道路では、事件後、さらにその傾向が加速していた。それは、ベイブリッジを失った直接の影響のほかに、テロを警戒して検問や交通規制がやたらと増えた影響でもあった。国は、ベイブリッジ事件への自衛隊の関与を否定しているから、その立場からすると事件はテロリストの犯行だということになる。テロリストが逮捕されていない以上、警戒は引きつづき厳重に行わなければならない。そういうことのようだった。

 ともかくそのために大規模な渋滞がさらに慢性化したのだ。渋滞による運送の滞りを嫌った業者は、ベイブリッジを経由しないルートとして東京湾フェリーを使うようになった。その結果、千葉県側の道路まで渋滞が広がりはじめたのである。それを追うように検問網も広がった。なにしろ、千葉県側には、首都圏の海外からの玄関口である成田空港があるのだ。

 自動車で渋滞に巻きこまれるのはこのあいだのベイブリッジ懲りていたので、ゆきは電車で東京に帰ることにした。テロにあう危険は列車にもあるはずだが、列車がテロ警戒のために止められることはなかった。

 ゆきの座っているボックスはもちろん、通路の反対側のボックスにも背後のボックスにも、だれも座っていなかった。

 ゆきが頬杖をついている窓側には冬の東京湾が広がっていた。ゆきはその海のほうになんとなく視線をやっているうちに、眠りに襲われてきた。

 電車が駅に停まり、冷たい風が入ってきた。

 乗り込んできたのは小さな女の子だった。黄色い服に、ちょっと不釣り合いなほどに大きな帽子をかぶったその子は、たった一人で乗ってきて、ゆきのいるボックスの通路をはさんだ反対側の椅子に座った。座ったというより、椅子の上に膝をついて、外を見ていた。電車が動き始めてからもずっとそうやっている。

 「またお会いしましたね」

 声の主は、あのときの男、新堂次彦だった。そして、新堂は、あのときと同じように、遠慮することなくゆきの向かいの席に座った。

 「ここからだと……」

 新堂が話し始めた。

 「ええ」

 ゆきは、新堂が話すのを遮るようにうなずいた。

 何を指しているかはすぐにわかった。

 東京湾をはさんで、その向かい側に、まるで手に取ることができるほどに近く感じられるベイブリッジが見えている。しかし、その距離と、背後の風景にまぎれることで、ここからではその中央部が破壊され、橋が断たれていることがわからない。

 ふだんと同じように見える。

 「ほんとうにあの橋が壊されたんですね。なのに、ここからは、前と少しも変わらないように見える」

 「あなたの記事、読ませていただきましたよ」

 新堂はまたそう話を切り出した。

 横の席では、女の子が自分の息で曇ったガラスを手で不器用に拭いて、外をながめ続けている。

 「さすがです。あの大きな事件にも大勢を見る目を失わない……どうしたんです?」

 ゆきが不服そうな、というより、不安そうな顔をしたのを、新堂は見逃さなかったのかも知れない。

 「じつは」

 ゆきは、包み隠さないことにした。

 「あの記事を書いた当初は、あれでいいと思っていました。あの事件は予想外のできごとだったけれども、それだけに経済への影響は少ないはずだ、そう書きました」

 「そして、その予測は的中した。事件をネタに大騒ぎしたエコノミストの予測を後目に、いちばんよく的中したのはあなたのあの予測だった」

 新堂のことばにゆきはうなずいた。

 「けれども、周囲のさわぎが収まると、かえって不安になってきたんです。あれだけの事件の影響が、ほんとうにそうかんたんにうち消されてしまっていいものかどうか」

 新堂は、ことばを吟味するようにいちど目を閉じた。

 それが、そのゆきのことばなのか、それとも自分がこれから話そうとしていることばなのか、それはわからない。

 「恐怖を感じている、としたら、あなたは鋭い方だ」

 「するどい?」

 ゆきは反射的に言い返した。

 「もしかするとわたしって特別に鈍いんじゃないかと思ったんですけど。だって、みんなが事件のすぐあとに感じたことをいまになってやっと感じてるんですから」

 「あなたらしくもない」

 新堂はたしなめるようだった。

 「恐怖には二つのレベルがある。少なくとも、今回の事件ではそうだった。そう言えるのではないですか。それは事件直後の興奮のなかであおり立てられた恐怖と、いま、あなたが感じている恐怖、その二つです。それは別の恐怖だ。そうは感じませんか」

 ゆきは、最初、きょとんとしていた。

 そういう考えかたもあるのかと思った。

 「興奮状態であおり立てられた恐怖は、いわばだれでも感じることができる。しかし、心の底に流れる恐怖は、じつはだれもが感じていながら、自分が感じているのがそんな恐怖だと気づく人間はそう多くない。そして、人間を動かす原動力のようなものは、たいていがその心の底で穏やかに流れる、気づきにくい恐怖のほうだ。あなたはその心の底の恐怖に気づいたのです。そうは思いませんか」

 通路の反対側では、女の子が、かわりばえのしない山側の風景を見るのに飽きたのか、椅子のクッションをぶかぶか揺らして遊んでいる。

 「なるほど、その通りです、そう考えてみたなら」

 言ってはみたものの、自分で十分にわかっているようにはまだ思えない。新堂に答えなければならないからそう考えてみた、とりあえずそんな考えだった。

 「テロというのは、ことばの起源からいうと恐怖そのものです。その情報に接した人の心の中に恐怖を起こさせること、それがテロリストの狙いですよ」

 新堂は指摘した。ゆきははっとした。

 「だとすると、わたしはそのテロリストの狙いに落ちたということ?」

 新堂は穏やかに首を振った。

 「テロリストの狙いに落ちるも落ちないもありません。恐怖は、事実として存在するのだから。恐怖はテロリストが事件を起こすことで発生するのではない。テロリストが事件を起こす前から、そのずっと以前から恐怖は存在した。テロリストはその存在を覆い隠していたものをはずして見せる、そういう狂言回しの役割を果たすだけです」

 「事実ですって?」

 「そう、事実です」

 新堂は窓の外に目をやった。

 「恐怖は事実として存在する。人間が日々暮らしていく、そのなかでは、人間に当然に与えられているのではない偶然を、当然のものとして暮らしていかなければならない。帰る家があり、食べる食べ物があり、家族がいて、そう、そしておカネもそこそこある。しかし、それは当然のものではなく、幸運のもたらした偶然だ。けっして当然のことじゃない。その偶然のほんの一部が崩れただけで、人間はいまのような生きかたができなくなること、人間はほんとうは知っているのですよ、そのことを。そして、そのことを暴かれることへの恐怖を、ほんとうはいつも持っている。その恐怖を白日のもとにさらすこと、それがテロリズムです。テロが否応なく指し示したその恐怖を、見て見ぬふりをしてそれまでの日々の生活を続けるか、表面的な恐怖に敏感に反応して大騒ぎして、その対策というようなものに奔走するか、それとも、じっとその底に流れる恐怖を見つめることに耐えるのか。それは、人間の心の底に事実として存在する恐怖への人間の対応という意味ではみんな同じなのです」

 ゆきは、自分の胸に広がる空洞を、いきなり内視鏡で覗かれたように感じた。

 ゆきは話題を変えた。

 「新堂さんは、今回の事件をテロとお考えなんですか」

 「テロか、どうか」

 新堂は、いちど、そのことばをかみしめるようにいい、唇を閉じた。

 苦労したのだろうか。その口許の荒れた肌が、窓からの光と車内の蛍光灯の作る複雑な影に浮き上がる。

 大学の非常勤は、たしかに楽な仕事ではないと聞いてはいるが。

 「あなたが言われたのは、自衛隊機の関与があったかなかったか、その問題ですか?」

 「ええ、そうです」

 「それは、あまり大きな問題ではない。そうは思いませんか」

 新堂は平気に言ってのけた。

 ゆきは、通路の反対側に目をやった。向こうの椅子の女の子と目が合ったが、女の子はごきげんな顔で向こうを向き、山側の殺風景な風景を、相変わらず見続けている。

 ゆきは愚直に問い返してみることにした。

 「大きな問題ではない、というと?」

 「だって大きな問題ではないでしょう?」

 新堂は言った。また何か悪戯っぽい口調だった。

 「それがテロかどうかということと、自衛隊機の関与があったかどうかということ、それは別の問題なのではないですか? 自衛隊機が起こしたことだから、テロではないということも言えないでしょう。あるいは、自衛隊機が関与していないから、それは、たとえば戦争ではないと言えるものでもないでしょう」

 「自衛隊が、テロを起こすと?」

 「あなたほどの人が」

 新堂はまた穏やかに笑って見せた。

 「政府の一部門が政府全体に対して、いや、国家に対して、反乱を起こさないという思いこみにとらわれているのですか? 近代国家というものがどんな場から生まれてきたか、それを思い起こしてみるといい。イギリスでは、議会と国王が、自分たちこそが国家を代表すると主張して譲らず、血みどろの内戦を展開し、その中から近代国家が生まれてきた。フランスでは絶対王制と人民が国家を争った。そして、日本では、維新派の志士と江戸幕府が。それだけじゃない。いまから一二五年前には西南戦争が、六六年前には二・二六事件が、軍隊の反乱として起こっているんです。いま現在、自衛隊内に反乱の動きがあったからといって、べつに、それほど驚くべきことではないとは思いませんか」

 ゆきはことばを接ぐのに、しばらく迷った。

 線路の音が、車内に響いた。

 「でも、だとしたら、動機はなんです? 西南戦争で決起した西郷隆盛にしても、二・二六事件の青年将校にしても、政府を倒して果たしたい目的があったわけでしょう? 今回の事件では、それがまったくわからないじゃないですか」

 「恐怖に理由はいりませんよ」

 新堂は例の講義調で答えた。

 「むしろ、理由がないからこそ、恐怖なんです。しかも、あの昭和の二・二六事件にしても、その事件が巻き起こした結末は、その反乱の目的への反応として出てきたものだったといえますか?」

 「どういうことです?」

 ゆきは眉をひそめて問い返す。自分が新堂の議論のペースに巻きこまれつつあることはなんとなくわかっていたが、そこからどう抜け出していいのかがわからない。このままだと、また前と同じように、新堂が意図した結論に持って行かれそうな気分だ。

 新堂はかまわずつづけた。

 「決起した青年将校が目指したのは一種の国家総動員体制の実現だった。そして、その総動員体制は、決起を鎮圧した側の軍人によって実現された。青年将校たちが敗れたのに、どうして、時代は総動員体制へと向かっていったのです?」

 「それは……」

 ゆきは、忘れかけていた日本近代史の知識を思い出そうとした。

 「青年将校の決起が、危機感を煽り、そしてそれに対処するためという名目で……」

 「そう」

 新堂はうなずいた。

 「その当時、国家総動員体制へと向かう流れは必然だった。ヒトラーののドイツやムッソリーニのイタリアやスターリンのソ連だけではない。不況克服が直接の目的であったとはいえ、アメリカもニューディールの名のもとで総動員につながる変革を進めつつあった。日本も同じ流れのもとにあったのです。そのなかで青年将校の決起が起こした恐怖が、その国家総動員体制への流れの必然性をかえって自覚させる契機になった。決起が総動員体制を目的に起こされたことではなく、決起が起こったこと自体、そして、決起が起こったことが呼び覚ました恐怖が、当時の政府を、そして日本国民を、国家総動員体制へと駆り立てたのです。重要だったのは反乱の戦争目的ではない、反乱が呼び覚ました恐怖、それが重要だったのです。戦争とテロは、規模の大小や目的で区別されるものではありません。規模が大きければ戦争、小さければテロなどというそんな区別は意味がない。軍隊がかかわれば反乱でそうでなければテロというわけでもない。それはいわば見る角度の違い、論じる角度の違い、そしてそれを自分の行動に結びつける結びつけかたの違い、そういうものにほかならない。そのなかで、いつも重要なのはテロとしての側面だ」

 ゆきは混乱した。少なくとも、この間のベイブリッジのたもとでの会話のように心弾む感じではなかった。

 ゆきが得意とする分野の話ではないからだろうか。電車の窓の外の風景が、いつも移っていきながら、いつも同じように見えているからだろうか。それともほかに理由があるのか。

 「テロは人間の心の底に事実としていつも存在する恐怖を白日の下にさらけ出す。そうやって恐怖を暴き出されたとき、人間はどう動くと思う?」

 新堂はゆきを慰めるように問いかけた。

 ゆきはふいに車内がひどく寒いように感じた。

 それは当たり前だった。冬なのだから。しかし、さっきまでは、椅子の暖房が熱すぎ、乾いた肌に汗が触れてどことなく痒いと感じていなかったろうか。

 ゆきは黙ってかぶりを振った。

 「きみのように、そうやって自分を襲ってくる恐怖に黙って向かっていられる人間はそう多くない。そう。恐怖に直面すると動こうとするのが人間だ。しかも、自分ではその恐怖にうち勝つことができると、そう考えている。おろかな話だ」

 新堂はいちどそこで話を切った。

 ゆきは両手をこめかみにあてた。しかし新堂はまたゆきに向かって話し始めた。

 「恐怖にうち勝つために、いつも自分がやらなければいけないと感じていたことをやり始める。それも、何の熟慮もなしにだ。その結末は何だ? 人間一人ひとりが考えることにはさまざまな高尚なことが含まれている。しかし、人間が一定の人数以上の群になったとき、その全体の欲望として現れるのは、たいてい愚かな、卑しいことどもだ。人間の高尚さはさまざまだが、愚かさは共通しているからな」

 「だから経済学が可能なんです」

 ゆきは絞り出すように言った。少なくとも自分ではそのつもりだった。

 新堂は無慈悲にうなずいた。

 「そう。人間の欲望は多様だが、カネ持ちになりたい、楽な生活をしたい、派手なところを見せびらかしたい、自分がいい人間であることを見せたい。そういう部分は共通しているからね。だから経済学は可能になる」

 「その通りです……」

 「だが、人間の底に流れる事実としての恐怖、それに気づかないでいるあいだは、人間は、そういう卑しい欲望が表に現れることを自分で抑えている。それが熟慮というものだ。テロはその熟慮という抑制装置をはずしてしまう。その結果、人間がどう振る舞うか」

 ゆきは頬骨の上のほうを力をこめて両側から押さえていた。

 「このあいだのベイブリッジ事件、といっても爆破のほうじゃない、その前に起こったあの渋滞事件だ。巻きこまれたきみには悪いが、あれはありふれた事件だった。首都圏ではあの程度の渋滞はそんなに珍しいことじゃない」

 「……はい」

 「それがどうしてあんなに大きく報道されたのか。ベイブリッジという象徴的な場所だったこと、世界が平和でほかのニュースがなかったこと、しかしそれだけじゃない。県警内部にレイバー隊創設をめぐる対立があったのさ。レイバー隊を創設するとなると、大なり小なり、警視庁の影響力が県警内部に及んでくる。レイバー隊の運用は警視庁が先行していたわけだからね。それを不愉快に思う一派と、それを利用して権限の拡大を狙う一派とが県警内部にあり、そしてその派閥対立が警視庁の内部や警察庁、さらには防衛庁の内部の対立とつながってしまった。あの大報道は、レイバー隊創設を快く思わなかった一派が、事件を利用してレイバー隊の評判を落とすために情報を大きく流した結果なんだ」

 ゆきは、あの日、ベイブリッジの上で、蒼白な顔を水銀灯に照らしつけられ、おろおろしていた若い警察官の姿を思い出した。

 「渋滞ですらそんな醜態を引き起こす。それが今回のテロのような大がかりな事件となると、どうなることか。もし、今回のテロリストが、自分の起こした恐怖にとらわれてパニックに陥っていないとしたら、それをじっと見ようとしているのかも知れないな」

 ゆきはおそるおそる顔を上げた。

 新堂は、雷におびえた子どもを安心させようとする父親のように、ゆきの顔を見下ろしていた。そして、軽い笑い声を交えて言った。

 「もっとも、反乱にせよ戦争にせよ、テロにせよ、今ごろはこの状況を作り出したテロリスト自身がその熟慮というやつを忘れてじたばたしている可能性が高いんじゃないかと思うがね。でも、きみはまちがいなく恐怖に向き合っても熟慮というやつを忘れずにいられる人だ。だから、いまのまま、最後まで見届けてほしい。この戦争の行方をね」

 ゆきは身体がのめるのを感じた。電車は駅に停まった。

 新堂は立ち上がると、くるんと器用にボックス席を抜け出し、発車ベルの鳴っているホームへと足早に降り立ち、そして姿を消した。

 電車が発車してからもゆきはしばらく震えていた。

 過熱気味の座席暖房に手を押しつけて手のひらを暖め、唾を飲み込み、大きく息をついて、そして顔を上げた。

 「わたしはそんな人じゃない……」

 新堂にそう告げるべきだった。

 けれども、そう口に出して、大きく深呼吸して、やっと気もちを落ち着けることができた。

 だいたい、どうしてあんなテロについての学者談義であんなに気もちのわるさを感じたのか。

 たんに、朝が早くてよく寝ていないことがこんなかたちで響いているのだろう。

 ふと顔を上げたゆきは、車窓の外をドイツ系のレイバーメーカーの看板が過ぎっていくのに気づいた。

 そのメーカーの工場が千葉県のこの辺にあったことを、ゆきはようやく思い出した。

 振り返ってみると、通路の反対側の席の黄色い服の女の子は、もうどこにもいなかった。

 してみると、さっきの駅で、新堂という男といっしょに下りたらしい。

 あの子は一人きりで、どこから来たんだろう、どこへ行くつもりだったんだろう。ゆきは、少しうつろな感じのする頭で、そんなことを考えた。

 

 

   3

 

 その夜だったのだ。

 ゆきは、そのあいだ、芝浦再開発区のベイエリア全日本商務センター二号棟に移転したばかりのオフィスで原稿の校正に追われていた。台場と芝浦をつなぐハープ橋のすぐ脇にある、竣工したての超高層だ。隣では第三号ビルが建築中、さらにその向こうにはセンターのホテル棟を建設するための基礎を布く底知れない深い穴が掘られていた。第三号ビルが完成すれば、兜町の東京証券取引所がこちらに移転してくることになっていた。

 バビロンプロジェクトの「壮大な計画」そのものは中途半端に終わった。木更津‐川崎間の大突堤建設は実現し、東京湾横断橋も竣工したが、堤防内部の淡水化と排水は延期された。埋め立てのための土砂運搬専用線が敷設されて、首都圏のあらゆる鉄道とリンクされ、埋め立ては進んだが、海面そのものはなくならなかった。埋め立て地のあいだを、昔は海だった水路が縦横に走る都市ができていた。

 バビロンプロジェクトの工事がそのような中途半端で終わったのは、一九九九年の記録的な台風の襲来によるレイバー洋上プラットホーム、通称「方舟」の喪失が直接の原因だった。バビロンプロジェクトは計画の縮小を強いられた。しかし、それでよかったのだ。かつての土地狂乱のころからすると土地の逼迫感は薄れていた。当初のバビロンプロジェクト通りに全面的な東京湾内湾区域の土地開発が行われたとしても、それは十分な需要を見いだすことはできなかっただろう。

 六〇階から見下ろす東京の夜景は美しく、そのかわり、何かうつろに見えた。自分がいつも住み、暮らしている世界とは別の世界のようだ。

 もちろん、六〇階という高さだけでそのいつも暮らしている世界とは何百メートルか離れているのだから、そう感じるのは自然なことだったかも知れない。

 ゆきは、窓の外の光景に見とれている暇もなく、夜中までかかって校正を仕上げ、タクシーで自分の家まで帰った。

 そのあいだに、知らないあいだに危機は来て、知らないうちに去っていった。

 三沢を発進した爆装戦闘機三機が、いっさいの呼びかけに応えないまま首都圏を目指して南下した。千葉県と東京都との境界の東京湾岸で辛うじて小松を緊急発進した戦闘機隊に邀撃され、爆装戦闘機は一発のミサイルも発射しないまま引き上げたそうだ。爆装戦闘機隊は、最初は撃墜したと言われ、つづいて百里基地に着陸したとされ、最終的には三沢に帰還していたことが明らかになった。

 事件の発表までに何日もかかった。

 何かの事件があったことは、政府筋に近い新聞記者が聞き出してきていた。だが日本のマスコミからは漏らされなかった。成田空港の離着陸が不自然な理由でその日の最終便までストップさせられたことに疑問を抱いたアメリカ人記者が政府記者会見で内閣官房長官に何度も何度も質問を繰り返して追及した。官房長官は質問をうち切り、その後、あらためて緊急記者会見を開いて、事実を公表した。

 問題の爆装戦闘機の進路と、ベイブリッジ爆撃のパターンからして、そのミサイルのうち一発はハープ橋を狙っていた可能性が高い。もし爆撃が実行されていたら、ゆきのオフィスも被害を受けていた可能性がある。

 恐怖。

 事実として、人間の底に存在しつづける恐怖。

 爆撃の脅威は、ゆきの知らないうちにゆきに接近し、ゆきの知らないうちに去り、そして、ゆきはそのあとでその脅威があったことを知った。

 胸の中のまっ暗な空洞に、前からではなく、後ろから急に刃が突き刺さってきたようにゆきは感じた。

 過ぎてしまったことだ。

 過ぎてしまったことだからこそ、うち消せなかった。

 脅威に対して、自分が何もしなかったという事実だけが残る。「知らなかった」という抗弁はごまかしに過ぎない。

 何に対して?

 もちろん、自分自身に対して。

 そう答えるのが、ゆきという人間だ。

 ゆきは、だから、ふだん通り市場予測を書いた。さすがに、自衛隊の「反乱」の疑惑が晴れないかぎり、株の全面安、国債の格付け低下という予測を書かざるを得なかった。軍隊の反乱がいつ起こるかわからない国で株や国債を大量に買いつけるのはもの好きがそうそういるとは思わなかった。

 「政府には一刻も早く事態の全容を明らかにする責任がある。そうでなければ、日本が一九二九年のアメリカを上回る経済的パニックにおちいる可能性が否定できなくなってしまう」

 ゆきはその市場予測をそう結んだ。

 その記事を掲載した『エコノミック・エクスプレス』誌が店頭に並んだころ、あの警察の警備出動事件が起こった。

 夜は更けていた。

 ゆきは冬の夜道を一人で歩いていた。

 息苦しかった。退社してすぐに電車に乗ってもよかったのだが、もしそうしていれば、途中でその息苦しさが破裂して倒れてしまいそうだった。

 歩くことで、その息苦しさをなんとか落ち着けたかった。

 アスファルトで隙なく舗装され、ガードレールのペンキが艶やかに光っている。車通りが少なく、人通りはまして少ないそんな新開発区の市街から、錆止め塗装の鋼鉄の橋桁がむき出しになった短い橋を渡ると、旧市街に入る。

 商店街のほとんどの店がシャッターを閉めていた。まるでゴーストタウンのようだ。開いているのは角の牛丼屋ぐらいで、そのまばゆい蛍光灯の光が街路に漏れている。これはこれで、そこに違う宇宙が口を開いているような奇異な感じを起こさせる。

 といっても、ほんとうに商店街が壊滅してしまったのではない。昼間は何ごともなかったように生気を取り戻す。食事をとる場所やちょっとした事務用品を買う店がまだ未整備な新開発区から、昼食や買い物のためにサラリーマンたちが通ってくるようになり、以前より繁盛しているという話もあった。

 それがいまは閑としてしずまりかえっている。

 ゆきは寒さに凍ってしまったような町の、いやに広く感じる道路の脇のアーケードの下を、少し離れた駅に向かってひとり歩いていた。

 突然、脇道で何か人の動く気配がした。と、思う間もなく、あまり目立たない横道から分厚いコートを来た男が現れ、ゆきの隣にすっと寄り添った。

 ゆきは大声を立てようとした。

 「お会いするのは三度めですね」

 「新堂さん」

 新堂は少し息を弾ませていた。

 「地下鉄の駅へ行かれるのですか?」

 「ええ」

 「それではわたしも同じ方角です。よろしかったら、しばらくいっしょに行きましょう」

 「ええ、ありがとうございます」

 ゆきと新堂は並んで歩き出した。

 「謝らなければ、と思っていたのですよ」

 新堂が言った。

 「何をですか?」

 「前にお会いしたときに、ふと熱を入れて一方的にしゃべってしまった。悪い癖です。不愉快な思いをさせてしまったかも知れない」

 「いえ、そんなことは」

 ゆきは言いかけて、しかし、そんな返事は、なんだか仕事をしているみたいだと思い返した。

 「ええ。でも、あのとき話したことが考えるきっかけになりました。感謝しています」

 「悪いことをしてしまったんじゃないかと思っている」

 ゆきの返事にかかわりなく、新堂はつづけた。

 「『エコノミック・エクスプレス』の最新号を読んだよ。あなたは迷っている。そして、重要な点を見過ごしてしまった」

 「何のことです?」

 声が、拗ねている幼い子のように揺らめくのを、ゆきは自分で感じた。

 「国際投機筋の投機売りだ。政情不安で株・国債の暴落の予測がある。そのときに、その情勢を利用して儲ける手っ取り早い方法、市場で壊滅的な価格暴落が起これば、その打撃が大きいぶんだけ儲けも大きくなる、そんな手段――わたしがレクチャーするまでもなく、知っているでしょう」

 「国際投機筋が空売りを浴びせてくる。そういう可能性ですか? それなら考えました」

 「可能性じゃなくて、事実だよ」

 新堂はたんたんと言った。

 「いままでずっと慎重論だったあなたがあれほど激しい調子で政府の無策を非難した。それを見て投機筋が飛びつかないわけがない。自分で大規模に売ってひとの売りを煽り、株と債券の値段が十分に下がったところで買い戻す。もっとも、きみが悪いんじゃない。問題の根本は、きみが書いたとおり、政府の無策にあるのだから」

 「いいえ」

 ゆきは、文字通り、下唇を内側から咬んだ。

 『エコノミック・エクスプレス』の「亀山ゆきのマーケットレビュー」のコーナーに載っている、自分の、初々しい晴れやかな顔写真を思い起こす。ゆきは悪寒に近い寒気を感じた。

 あんな顔で、国際投機筋と呼ばれているとんでもない連中の水先案内を果たすなんて、あんた何を考えてるのよ? あいつらと来たら、一国の経済を破綻させても、自分の手に儲けが残れば少しも気にしないんだから。

 そう、考えはしたのだ。しかし、まさか、アジア一どころか、いまやニューヨークのウォール街に迫るステータスを獲得しつつある日本の株式市場に、国際投機筋が襲いかかるとは思いもしなかった。

 「軽率だったかも知れません」

 「いいんだ」

 新堂は短く、平板に、そう言った。

 行く先の信号が赤になり、二人は並んで足を止めた。

 信号を待っている人はほかには一人もいない。

 「一九八九年、あの年がすべての始まりだった。そう考えてみてはどうかな」

 新堂はふとそんなことを言い始めた。

 「一九八〇年代は夢の時代だった。その夢の総仕上げとしてベルリンの壁が崩壊した。しかし、北京では、街頭に戦車が現れ、町の到るところにその砲口を向けて居座った。みんなふだん通り仕事に通い、商売している、そんな町のただなかに、だ。かつての、貧しいが貧しささえ平等に分け合ってきた国が、私たちの国と同じような国へと変わりつつある時代、その町並みと、戦車や装甲車、軍用トラックの姿が並び立った。かつてのただの軍事大国の強暴、一九五〇年代や六〇年代のハンガリーやチェコへの戦車の侵入とはわけが違う」

 「あの年、わたしはまだただの学生でした。時代が変わったという実感は、何も持てなかった」

 「変わってなんかいないさ」

 新堂は顔を上げて、車が一台も通らないのに赤のまま行く手を阻んでいる歩行者用信号を見上げた。

 晴れた冬の空の下で、その赤いランプは、純粋に、けれどもいくぶん強すぎるように光を放っていた。

 「まえも言ったろう。世界はそうかんたんに姿を変えはしない。いままで見えていなかった姿を見せる、そして姿ががらりと変わったように見える。世界というのはときどき自らそういう悪戯をしてみせる。それだけのことだ」

 信号が変わった。新堂が先に歩き出し、ゆきは半歩遅れるように、少し早足にしてその新堂について行った。

 「あの年、世界を仕切っていた壁が最後に崩れたのだ。そのほんの数年前までは壁があった。それはチェルノブイリの原発事故の存在をしばらくのあいだ覆い隠してしまうような、そんな強固な壁だった。壁があるのが普通だった。あの天安門事変だって、あの年の事件でなく、もう少し前に発生していれば、私たちにあんな恐ろしさを感じさせることはなかったはずだ」

 「どういうことです?」

 ゆきは、後ろから新堂の顔をのぞきこむようにして訊ねた。

 二人は信号を渡り終わり、遠くに小さく見えている地下鉄入り口の白い蛍光灯に向かって歩き続けた。

 「しょせん、別世界のできごとだったからさ。しかし、壁のないのが普通の世界になって、あの事件は他人事ではすまされなくなった。自分の街角に戦車が現れたような、そんな錯覚が襲ったんだ。日本だけではない。たぶん、世界中が震撼した。もっとも」

と、新堂は、目線は遠くを見つづけたまま、口許を弛めた。

 「その壁の消失のおかげでレイバーシステムは世界に爆発的に普及した。壁の消えていなかった時代ならば、あんなハイパーテクノロジーのかたまりのような機械が自由に世界に流通するはずがなかった。どこかで軍事技術の秘密保護という名目で制限がかかっていたはずだ」

 「それはおっしゃるとおりだと思います」

 ゆきは、足を速めたせいか、少し息が弾んでいた。白い息のかたまりが球を作って、次々に後ろの暗い人気の絶えた町並みへと消えていくように感じた。

 「私はレイバーという機械には何の愛着も感じませんでした。しかし、私が、大学を卒業し、就職して社会に出て、経験を積んでいく、それといっしょにレイバーが世界に拡がっていった。そのことには心ときめく思いがしました。レイバーについて論文を書いてみようと思ったのも、そのことがきっかけなんです」

 「一つの機械への思いは、人それぞれ、さまざまなものだな」

 新堂は相変わらず思いを込めないような声で言った。

 「長い間、いろんな現場を見てきて、そう思うようになったよ」

 「でも、あなたはそれを幻のようなものだとおっしゃった」

 ゆきは、どうして自分がこんなに喉から抵抗なくことばが出てくるのか、すこしのあいだだけとまどいを感じた。

 新堂は小さく笑った。

 「そう考えてみてはどうだろう、と言ったのですよ。そう考えてみることで、いままで見えなかった何かが見えてくるかも知れない。テロのようなかたちでそれに気づかされる前に、自分でそういう考えを追ってみてはどうです?」

 「そう。レイバーが開発されなかったとしたら、現在のような経済的繁栄はなかった。そのことは前にお話ししましたよね」

 「ええ。最初にお会いしたときに」

 「もしかすると日本はいまもアメリカに追いつくことができていなかったかも知れない。アジア経済の第一人者の地位もどうだったでしょう? いま、日本の対アジア輸出を牽引しているのはレイバーですから」

 「じゃあ」

 新堂は、少しことばを切り、目をつぶってから言った。

 「もしレイバーが幻だったとしたら」

 「日本はいまでもアメリカのあとを追いかけていて、そして、アジアにもそれほど影響力の持てる国ではなかった」

 「そう。もしかすると、それが現実かもしれない」

 「えっ」

 ゆきは足を止めた。

 新堂も、ゆっくりと足を止めて、ゆきのほうを振り向いた。

 新堂はゆきよりも頭一つぶんぐらい背が高かった。

 ゆきは新堂の顔を見上げた。

 新堂は、しばらく目を閉じた。

 右の眉にかかる傷痕が、少しも奇異でなく、前から見知っていた親しいもののようにゆきには感じられた。

 「考えてもみなさい。日本はアメリカに追いついてなどいない。日本は日本を守ることができるだけの防衛力しか持っていない。しかもそれを使いこなす十分な指揮系統すら持たないことは、このあいだの爆撃騒動、そして今日の夕方にニュースになっていた基地立てこもり騒動で明らかになってしまった。アメリカはどうだ。世界中に展開することのできるハードとしての軍事力、そして、世界に散らばる、同盟国という名の軍事的従属国の軍隊を統制下に組みこめるだけのソフトとしての軍事力、その両方を保持している。経済力がどうあったところで、日本がそのアメリカと対等になんかなれるはずがない。しかも、その経済力にしたって、アメリカはその気になればいつでもその国際投機筋を動かすことができる。それも、陰謀で動かすのではない、正当な経済活動として動かすのだ。なんせ、やつらが運営している資金の多くの部分は、アメリカの銀行やアメリカの企業、それにアメリカの自治体が運用を託している資金なんだからね。日本にできるのは、日本とアメリカが対等だと振る舞っている場が崩れないように努力する、それだけのことだし、それすらアメリカが手のひらを返せばそれで終わりだ。アジアにしたって、日本はもともとアジアなんて見てはいない。あの半世紀前の戦争以来、いや、もしかすると一四九年前のペリー来航以来、日本人は勝手気ままな願望を「アジア」に押しつけ、勝手に期待し、勝手に反発し、勝手に憧れ、勝手に恐れてきた。そのしっぺ返しがあの半世紀前の戦争の惨めな結末だったのだが、その痛みは忘れられようとしている。こんど同じ失敗をしないとも限らない。いや」

 いっきにしゃべった新堂は、そこでことばを切り、息を吸った。目を閉じようとしたが、ゆきがその顔を見上げているのに気づいて、その動きを止め、さっきよりはずっと沈んだ声でつけ加えた。

 「すでに同じ失敗をし、傷を負った人間が、この日本にはいるかも知れない」

 「新堂さん」

 ゆきはなぜか目頭が熱く感じた。

 「何かな」

 「ご家族は?」

 新堂は、ゆっくりと胸に溜まった息を吐いた。

 「あいにく、独り身でね」

 「新堂さん。あなたは、何か、自分が幻だと思おうとしているような、そんな感じがします。その、自分がいないのが現実だって、そう、むりやり思おうとしているような……その、こないだからお話ししていて、とてもそんなふうに感じるんです。もっと自分を、自分を……」

 ゆきがいっきに早口でしゃべり、そこで止まったのは、新堂に自分をどうしてくれと言うのがいいか、わからなかったからだ。

 大切にしろ、とでもいうのだろうか?

 いったい何の資格があって?

 「ごめんなさい、偉そうなことを言ってしまって」

 ゆきは、新堂の前から、一歩、足を引いた。

 新堂はゆきを、目を細めて、まるでその目にたまった涙越しに見るように、見つめた。

 「きみはどんなことに出会っても、目を開けていられる人間だ」

 「そんなことはないですよ」

 前に言っておくべきだったことを口に出したとき、ゆきは、なぜか自分の声が涙で曇っているように感じた。

 「わたしはずっと、臆病な人間です」

 「だからだよ」

 新堂はゆきを諭すように言った。

 「臆病だから、目を開けていられる。目をそらして、別のところへ走っていったりはしない。だから、見つづけていてほしい」

 ゆきの右手は、新堂の左腕越しにその身体を抱こうとするように伸びていた。

 ゆきは二重に驚いた。

 一つは、自分の手がそんな動きをしていたということにあとから気づいて。そして、もう一つは。

 新堂の身体が、そこにもうなかったことに。

 あっけに取られているひまはなかった。後ろから急ぎ足の足音が近づいてきて、ゆきは身構えた。

 横手の細い路地の向こうで、釣り船か何かのエンジン音が高く鳴り響くのをゆきは聞いた気がした。

 「おいっ! 今の男はっ?」

 追ってきたのは、黒いコートに、ダークグレーのスーツのいかつい男だった。鼻の下に小さな黒いひげのかたまりがついている。小さい目がなにやらねちっこい感じのする男だった。

 「あなたこそだれです?」

 ゆきは追いついた男から距離を取ると、遠慮なしに大きな声で言った。

 「やめろ」

 追いついてきた男の後ろから、ゆっくりと、こちらは辷るようにやってきた、同じような服装の男が威圧するように言った。

 「そのお嬢さんは関係ない。いや、失礼しました」

 その大柄の男には少し斜視の傾向があるのに、ゆきは気づいた。

 ゆきは小さく息をついた。目のまわりの頬が冷たく感じた。

 「私たちは警察の者です」

 大柄な男は、警察手帳のようなものを示しながら、ねちっこい声でそう言った。

 「ご存じないかも知れないが、このあたりでは痴漢が多発しておりましてね、張り込みをしていたところです。まさかとは思いますが、いまの男の方は?」

 嘘ははっきりしていた。このあたりで痴漢が多発していれば、会社で噂にぐらいはなっているはずだし、だいいち、この二人は、身なりも行動も、痴漢の捜査にしてはものものしすぎた。

 「おつとめお疲れさまです。以前、仕事のときに知り合った人ですが」

 「そうですか」

 手下の捜査員はなおゆきに何かを訊ねようとしたが、上司らしい大柄の男が首を振って制止した。

 「失礼しました。お気をつけてお帰りください」

 その上司が言ったことばは、どうやら精いっぱい明るい声を装おうとしたようで、仮面をかぶっているようなうわずったところがあった。

 その夜が最後の平穏な夜になった。翌日、首都圏に自衛隊の治安出動が命令され、ほどなくあの二月二六日の決起の日がやってきたのである。

 

 

   4

 

 事件は、しかし二月二七日早朝に決起部隊が投降し、あっけない幕切れを迎えた。

 だが、相変わらず真相は何一つ判明しなかった。首謀者はだれなのか、決起部隊の全容はどうなのか、そして何より、決起軍の目的は何だったのか。国会では、事件を裁くための特別法廷の設置をめぐって激しい論戦が戦わされ、官房長官が最大野党幹事長を買収しただのしなかっただののスキャンダルで審議が空転した。そんなごたごたを経て設置された特別法廷だったが、裁かれるのは、混乱に乗じて掠奪行為を働いた犯人ぐらいなものだった。世論の関心は急速に薄れていった。

 海法という警視総監が特車二課の山寺課長とともに更迭されたときにはその世論の関心もしばらく事件の上に戻った。決起部隊の司令部と見られる一八号埋め立て地で、前年まで特車二課第二小隊で使われていた98式AVイングラムの残骸が発見された。誰がそれを動かしていたかは不明のままだった。二課棟は、二六日早朝に決起軍ヘリに爆撃され、当時、二課隊員はその後始末に追われていたから、二課隊員が操縦していた可能性はほとんどなかった。にもかかわらず、海法総監は、特車二課が決起軍に呼応しようとしたという噂を否定できないまま、更迭されたのである。

 これも、警視庁内部の勢力争いの結果なのだろうか。いずれにしても、このスキャンダルも警察改革の必要性という議論に移り、そしてすぐに忘れられていった。

 ちなみに、決起後の国際投機筋による株価暴落は発生せずに終わった。投機をしかけようにも、東京証券取引所の回線が不通で、取引ができなかったのだ。回線の復旧が終わって取引が再開されたのは一週間以上経ってからで、たしかにそれから株も国債も下がりつづけたが、一週間後から反発に転じ、その後は、何度か上がったり下がったりを繰り返しながら、五万五千円前後で安定していった。

 亀山ゆきは決起当日も自転車で雪のなかを兜町まで行き、文字通り自分の足で取材をつづけた。決起の余韻が収まるまで、懸命に働きつづけた。

 ゆきはときおりあの新堂という男がまた現れてくれないかと考えることがあった。あの劇的な決起のあとだったら、自分に何を話してくれただろう。

 しかし、そう考えるたびに、ゆきは頭を振った。

 あの新堂という男は、レイバーが経済を牽引しているこの世界を「幻」と言った。しかし、その世界を現実として生きているゆきには、次第に、あの新堂という男がいたこと、その新堂と何度か話をしたこと、そのことのほうが幻であったように思えてきた。

 すべてが終わってから、ゆきは東南アジアのこの国に来ていた。最近になってようやく内戦が終結し、新政府が樹立されたこの国からのレポートを書くためだ。

 雨が上がってから、ゆきは、日本製のワゴン車を変なふうに改造して二〇人ぐらい乗れるようにした乗合自動車に乗り、例の橋を渡り、悪路を小一時間ほど揺られて、この国の古代王朝が建てた仏教だかヒンドゥー教だかの寺院跡を訪れた。部屋係のメイドが、発音はあやしいけれどもけっこう上手な日本語で、そこがこのあたりの名所だと教えてくれた。

 ゆきは、あのむちゃくちゃな乗合自動車の運転手に教えてもらったとおりに、森林の奥をめざした。

 むしむしして汗がしたたり落ちた。何度も深い泥に足を取られた。

 さすがに疲れて、何度も引き返そうと思った。けれども、何か行けるところまで行って見届けたいという気分が、それを押しとどめた。

 ただの意地だったのかも知れない。

 寺院跡といっても、長いあいだ放置されてきたこともあってか、ほとんどジャングルに埋もれていた。かわりばえしない樹林がつづいた。途中に巨大な白い四角いかたまりが蔓草に覆われて放置されていた。大昔の墓地の墓標なのかも知れなかった。

 急にぱっとジャングルの眺望が開けると、そこは、寺院の中心にあたるらしい露天の巨大石像の前だった。

 噂に聞いていたとおり、木に侵蝕されている。木の根が食い込んでいるという生やさしいものではなく、木そのものが巨大石像を幹に取りこみ枝をめぐらせて生えているのだ。

 その巨大石像の前は少し広くなっている。一面、泥と水たまりが覆っているが、道を探せば石像のところまではたどり着けそうだ。ゆきはやってみることにして、一歩を踏み出そうとした。

 「あ、あそこに行こうと思ってるんだったら、やめたほうがいいですよ」

 「新堂さ……」

 ゆきは声に振り向いたが、残念ながら、そこで待っていたのはあの新堂とはあまり似ていない男だった。

 半分眠っているような眠そうな目の、痩せた男だった。でも、日本人であることにはちがいなさそうだ。

 熱帯の樹木に背をもたせかけて、退屈そうにしている。

 だれかを待っているようでもあり、待たせているようでもあった。

 「あなたは?」

 「あなたと同じ、日本人の観光客ですよ」

 ゆきは笑顔で応じた。男も少し顔の表情を弛めた。

 「この広くなっている場所はね、あの内戦のさなかに設置された地雷原で、まだ地雷がどこに埋まっているかすらわからないから危険なんです。町の連中は内戦中は疎開させられていたのでそれを知らないし、この町の自慢ですからね、日本人の客が来るとすぐにここに来るように勧めるんですが。それに、たぶん、ホテルの従業員は例のインチキバスの運転手とつるんでて、客を紹介するといくらかもらえるんじゃないかな。ま、日本人観光客で、あなたみたいにここまで歩き通す人はめったにいないから、被害も出ないんですけどね」

 「脚力には自信ありますから」

 ゆきは笑って見せた。男は、それには応えず、横着そうに巨大石像の前に横たわる白い平たい物体をあごで指し示した。

 「あれ、何だかわかります?」

 正体を確かめるのにそんなに時間はかからなかった。ゆきは息をのんだ。

 「レイバー……それも日本製の……」

 「そう、あの内戦の和平協定がかたちばかりむすばれたとき、PKOで投入され、和平を受け入れていなかった強硬派分派の軍隊に襲撃されて全滅した自衛隊部隊がありました。まあ、隊長一人だけが帰還したという噂もありますけれどね。そのときのレイバーの残骸ですよ」

 ゆきは背筋が凍るような思いがした。

 「じゃあ、ここに来る途中の大きな墓石は、古代のものじゃなくて」

 「やぁ、気がつきましたか」

 ゆきは、自分がどういうかっこうをしてよいのか、わからず、ただ、ぽかんと向かいの巨像を眺めた。

 巨像の上に張り巡らされた熱帯樹の枝には、ここから見ても、たくさんの鳥の巣が営まれているのがわかった。

 たくさんの鳥がそこにとまって、鋭い叫びを上げながら、ゆきと、もう一人の中年男を見ていた。

 「雨が降っているなか、あそこからあの鳥たちを仰ぎ見ると、いったいどんな幻が見えるんでしょうかね」

 ゆきが振り向くと、中年男は、慰めるような、哀れむような、救いを求めるような、要するに何を考えているのかわからない淋しい笑顔でゆきの顔を見返した。

 「隊長ーっ!」

 ジャングルの奥から元気な若者の声が届いた。

 中年男は、ゆきの顔を見てから苦笑いした。

 「おれはもう隊長じゃないって言ってるのにかんべんしてよ……じゃ、わたし先に行きます。このあたりは天気が変わりやすいので気をつけて」

 「はい」

 男はゆきが来たのとは反対側のジャングルに姿を消した。ゆきは男を見送り、そのままずっと巨像に向かい合って、その顔あたりを見つめていた。

 巨像の上からは、鳥がゆきのほうを、とぎとき移動しながら、すんだ青い眼でじっと見ていた。

 熱帯らしく、雨は急にやってきた。

 ゆきの周囲の水たまりに波紋がいくつかできた。それから一秒もしないうちに、周囲は雨の分厚い幕に覆われていた。

 雨具を出すひまもなかったし、出していたところでこの激しい雨では役に立たなかっただろう。

 ゆきは、だからそのまま、巨像と鳥とに向かい合っていた。

 巨像と鳥も、同じ場所から、ゆきのほうを見つづけている。

 雨はすべてを浸すように降ってきた。ゆきの身体は、髪の毛から全身が濡れ、服の下を水が流れ下るのがわかった。けれども、ゆき自身は雨には溶けなかったし、鳥も巨像も、そしてレイバーの残骸も、雨粒の捲き上げる白い霧に隠されることはときにあったとしても、やはりそこにありつづけた。

 「なぁんだ」

 幻って、こんなものか。

 ゆきはそう思って、くすぐったそうに笑った。そして、石像の広場の前から回れ右して、例のインチキバスの来る村のほうへと引き返して行った。

 その姿をいつまでも、鳥の青い澄んだ目が見つづけている。

(終)

 

 2002/07

 


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