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 【2001年SF大会における報告】

「この世」と「あの世」の対位法

 

 

清瀬 六朗


  私は、押井守の近作、とくに『アヴァロン』を対象としまして、押井守が映画で描く世界の構造についての話をしてみたいと思います。

 このような主題では、いまご報告になった奥田さんにも長い評論がありますし、登坂正男さんの『ゲーデル・エッシャー・BD』をはじめとして、様々な批評がなされています。したがって、私の話もあまりかわりばえのしないものになりそうなことをまずお断りしておかなければいけないかと思います。その上で、私は、押井守の近作から見る「この世」と「あの世」の関係という方向に話を進め、そこから押井守にとって映画を撮るとはどういうことかというところまで話を拡げたいと思っています。

 

 1.Cogito,ergo sum...そして?

 

 近代初期のフランスの哲学者 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」Cogito,ergo sum.ということばはご存じかと思います。もう少し砕けた言いかたをしますと、「私は考える、そして私はいる」という程度のことばです。存在するものすべてについて、それが「ほんとうに存在しているのか」と考えてみる。すると、その存在が疑えないものが一つあって、それは「いまそういうことを考えている自分」である。通説的にはそういうことを言っているのだと理解されています。

 しかし、そういうふうに理解したとして、では「世界」はどうなるのか。疑いを持つ前に眺めていた世界と、疑いを持って向き合ったあとの世界とは、同じ世界なのか、別の世界なのか。これは自分に対する問いにも帰着するわけです。世界の一つひとつのものごとを疑うこともなく自然に受け入れていた自分と、それをいちいち疑ってみたあとの自分とは、はたして同じ存在と言えるのか。それが、押井監督の映画に共通している「主題」の一つではないかと私は思っています。

 押井守の作品が「虚構と現実」をテーマとしているということはしきりに言われております。それは、単に、表面的なスタイルとして、いわば奇をてらうために「虚構」という主題を持ちこんでいるというようなものではありません。

 たとえば、『ビューティフル・ドリーマー』は、ただ虚構の描写と現実の描写を錯雑と積み上げたものではない。それが構造的に組み立てられていることを明らかにしたのが、いま紹介した登坂さんの『ゲーデル・エッシャー・BD』です。

 しかし、ここではもう少しありふれた点を指摘しておきましょう。『ビューティフル・ドリーマー』の世界では、登場人物が自分のいる世界を疑うことなく受け入れているあいだは、世界はその人物を取り巻く現実としてあたりまえのものとしての姿を見せている。しかし、登場人物がその世界について疑いを抱いたとたんに、その世界は虚構性や非日常性をむき出しにしていくのです。冬のような服装をした男が、外からまぶしい緑の光が漏れ、蝉の声の聞こえる喫茶店に座って、話をしている。とてもきれいに収まった映画の一場面です。けれども、登場人物がその世界の奇妙さを暴露した時点で、私たちは、その映画のその場面まで、いったい「いつ」の話なのかを考えもせずに映画を見てきたことを知らされるわけです。

 もう少し日常的な世界を舞台にした作品では、劇場版『機動警察パトレイバー』(第一作)の松井刑事の体験を挙げることができるでしょう。素性の知れない犯罪者 帆場暎一の転居のあとをさかのぼっていくうちに、よく見知っているはずの東京が「奇妙な街」であることに気づいていく。一つのものを探索していく過程で、よく知っているはずの世界が、自分のまったく知らない世界という姿をさらしていく。その導き手として、犯罪者 帆場は設定されているわけですね。

 疑うことによって世界が一変する。しかも、これは一回きりの過程ではありません。『ビューティフル・ドリーマー』や『紅い眼鏡』では、疑うことによって世界が変わるという場面が何度も繰り返されるのです。一つの世界に見える世界は、じつはたくさんの世界が積み重なってできているものだ。その複数の世界の積み重なりの描写に重点が置かれていたように思います。

 しかし、劇場版『パトレイバー』の二作品や『攻殻機動隊』、近作の『アヴァロン』では、自分や世界を疑う前の世界と疑ってみた後の世界という二つの世界の描写に重点が置かれているように思います。『ビューティフル・ドリーマー』や『紅い眼鏡』では同時に鳴り響く和声に、それに対して、近作では二つの旋律の流れを対比させる対位法に、より重点があるように感じられるのです。それは、此岸と彼岸、この世とあの世の関連として考えることもできるでしょう。

 

 2.「他界」の探索

 

 私たちが現実に生きている「この世」のほかに、もう一つ、またはそれ以上の「別の世界」がある。そういう認識は、中世以前の人にとってはむしろ常識だったと思います。

 ここではヨーロッパのキリスト教圏に関する話に絞りましょう。

 天の世界と地上の世界はまったく別の世界であるというのが常識だった。天の世界は完全であり、地上世界は不完全であるというわけです。それが同じ物理法則で動いているのだということを明らかにしたのがニュートン物理学でした。空間というのはただ一つしかなく、そこでは同じ物理法則が働いているというわけです。コペルニクス、ガリレオ、ケプラーと引き継がれてきた「天の世界の法則を知る」という流れが、ついに、天上の世界と地上の世界の区別をなくしてしまった。それが近代の世界観の基礎を形作っている。デカルトの「考えている自分の存在だけは疑えない」という思考が合理論哲学の基礎になったのも、世界が一つであるという信念をそれが基礎づけうるからです。

 逆に言うと、近代が始まるより前は、人間の住んでいる世界とは違うまったく別の世界があるのだというのがその常識だったわけです。

 キリスト教化される前のヨーロッパはどうかというと、キリスト教とは違う「多神教」が信仰されていました。そして、その多くが、やはりこの世界と違った世界の存在を想定していました。その信仰にまつわる物語は、ゲルマン神話やスラブ神話など、「神話」というかたちで、または伝説や物語として伝えられています。お話であれば神への信仰とは直接にはぶつからない。また、信仰そのものは、キリスト教のなかで聖者崇拝というかたちで生き残りました。もともとは在来の神への信仰だったものを、信仰の対象をキリスト教のために命を捧げた聖者に置き換えた。聖者を信仰しても、聖者はあくまで人間であって神や救世主ではありませんから、やはりキリスト教のたてまえとぶつかることはない。ヨーロッパ文化の根っこの部分に大きな影響を残しています。

 ヨーロッパというのは奇妙な成り立ちをした世界です。いまのヨーロッパ人の多くは、ケルト系、スラブ系、ラテン系、ゲルマン系など、インド‐ヨーロッパ語を話す系統の人びとです。しかし、インド‐ヨーロッパ語を話す人より先に、ヨーロッパには先住のヨーロッパ人が住んでいました。イタリア半島に文明を築き、地中海の商業民族として活躍し、初期のローマを一時期支配したエトルリア人がその典型です。また、インド‐ヨーロッパ語を話すヨーロッパ人のあとには、フン人、アヴァール人、マジャール人、ブルガール人、モンゴル人などの中央ユーラシアの遊牧民がやってきています。インド‐ヨーロッパ語を話すヨーロッパ人も最初はそういう遊牧民だったのかも知れません。ヨーロッパというのは、そういう過去のさまざまな文化を引き継ぎつつ成立している、文化が多く重なり合ってできた世界なのです。しかし、同時に、それがギリシア文明とローマ帝国が残した帝国原理とキリスト教の結びつきによってまとめられ、それ以外の要素は目につかないところに隠されている。それがヨーロッパ文明のあり方なのです。

 映画の『アヴァロン』は、そのような多様なヨーロッパの神話のなかで、ケルト神話と、その系譜を引くアーサー王伝説を軸にして世界を描いています。

 アーサー王伝説の成り立ちについて、ごく概略的なところをお話ししましょう。イギリスは、ローマ帝国と接触したころにはケルト系のイギリス人が住んでいました。ちょうどカエサル(ジュリアス・シーザー)やアウグストゥスがローマに皇帝制度を導入し、またイエスがキリスト教を始めたころです。その後、ローマ帝国が衰退し、崩壊すると、イギリスにはゲルマン系のアングロサクソン人が移住してきて、先住のケルト系イギリス人と戦いが起こりました。このケルト人とアングロサクソン人との戦いのなかで、ケルト系イギリス人を率いてアングロサクソン軍を撃破し、そのイギリス侵入を一時的に足止めした英雄がいたと伝えられています。この英雄の名は伝えられていないのですが、のちにこの英雄にアーサー、ラテン語名アルトゥリウスという名が与えられ、その生涯が伝説化されることになりました。

 このアーサー王伝説には、「アングロサクソンと戦うケルト人の英雄」というだけではない、様々な要素が流れ込むことになります。もともとはケルト人の英雄だったのが、しだいにアングロサクソン系イギリス人の英雄ということにもなってくる。また、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』の原型となったトリスタンとイズーの悲恋物語やペルスヴァル伝説などもアーサー王伝説に加わります。

 他方で、アーサー王伝説は、ケルト神話の影響も強く受けています。キリスト教が入ってきたとき、旧来のケルトの信仰が流れ込んで来た場の一つがこのアーサー王伝説だったのです。

 ケルト人には独特の他界観がありました。

 ケルト人は、アングロサクソン人やフランク人、ラテン人といった人びとに対しては、イギリスやフランスの先住民ということになりますけれども、ケルト人自身も先住民族を征服することによってイギリスなどに定着した人びとです。ケルト人がイギリスに定住する以前には、ドルメンやストーンヘンジなどの巨石文化を築いた先住民族がいたと推定されています。イギリスのケルト人も、神話のなかで、自分たちより先に何代もの人びとがイギリスに住んでいたと伝えています。

 ケルト人は、自分たちの征服で追われた先住民族は、他界に別の国を作ってそこに住んでいると考えました。その他界は、多くのケルト人たちは先住民族の残したドルメンなどの巨石遺跡の地下に広がっていると考えましたが、アイルランドのケルト人たちは遠く海の果てにあると考えていました。そして、地下か海の果てにあるその他界には、普通の人は死なないと行けないけれども、とくに幸運な人や英雄はその他界に行って帰ってくることができると考えていたのです。

 そういう物語の一つに、海の底に都が眠っているという物語があります。その都が何かの罰を受けて海の底に沈められてしまった。その近くの海岸では、ときどき海の底から鐘の音が聞こえたりするという。特別に幸運な人がたまにそこを訪れることがある。そして、その人がそこで何かを買えばその都は再び浮き上がることができるのだけれど、けっきょくその訪れた人はお金を持っていないので、都は浮き上がることができない。そういう物語です。このような物語は道徳的な意味づけをされているけれども、もともとは、海の底に自分たちの住んでいるのとは違う世界があるというケルトの世界観を表現したものだといわれています。

 ちなみに、このあらすじは、セルマ・ラーゲルリョーヴの『ニルスの不思議な旅』にそのまま使われていて、押井守が演出に参加していたアニメにもこの物語があったのを覚えています。それで、このエピソードが押井守の演出ならおもしろいと思っていたのですが、どうも押井守の演出ではないようです。

 さて、アーサー王の死にまつわる伝承は、このようなケルト人の他界観を反映しています。身内のモルドレッドの反乱で傷ついたアーサー王は、部下に命じて、「湖の姫」という妖精から与えられた聖剣エクスカリバーを湖に返す。このケルトの妖精というのは、自然崇拝とその独特の他界観が結びついた存在で、自然の聖霊であるとともに、他界に移り住んだ先住民でもあるわけです。エクスカリバーを返した後、傷ついたアーサーは湖の妖精たちの出迎えを受けて船で島へと渡っていく。この島がアヴァロンという名まえです。アヴァロンの名の由来はいくつか説があるそうですが、「リンゴの島」という解釈もできるそうで、リンゴというのはケルトでは多産・再生の象徴だといいます。

 アヴァロンは、死に臨んだアーサーが渡った場所ですから、アーサーの墓である。しかし、はっきり死んだと告げられているわけではなく、そこで傷を癒してまた帰ってくるかも知れない。実際、中世の一時期、イギリスでは、アーサーは実在の人物であって、しかも必ず帰ってくるとまじめに信じられていたようです。アヴァロンとはアーサーが赴いたケルト的な他界、つまり、人間の世界とは異なるもう一つの世界だったわけです。アーサーは英雄ですから、他界との行き来ができる人間です。

 押井監督の映画『アヴァロン』は、そのようなアーサー王をめぐる伝説を下敷きにし、重なり合った多様な文化を隠し持つヨーロッパで撮影された映画なのです。

 映画『アヴァロン』とアーサー王伝説とが符合する要素は、いまお話ししたアーサー王伝説の概略からいくつでも読みとることができると思います。ここでは、私たちの生きる「現実」の世界と「アヴァロン」というゲームを通して向かい合うクラス・リアル、つまり「もう一つの現実」の存在を挙げようと思います。

 「もう一つの現実」を追い求めるというこの主題は、押井監督の近作に、表面に現れるか現れないかは別として絶えず鳴り響いている「固執低音」でもあります。劇場版『パトレイバー』第一作では、後藤やレイバー隊が守ろうとしている東京に対して、犯罪者 帆場が指し示した原初のイメージのような東京があり、それは後藤や松井や遊馬の探索によってしだいに姿を現してくる。『パトレイバー2』には、平和な日本に対して、柘植が体験した戦争に満ちた世界が「向こう岸」にある。登場人物はそれぞれの道を通ってまさに向こう岸へと渡っていくのです。この作品には、その二つの世界を往来することはできても、二つの世界が融合することはあり得ないのだという悲しい諦観を見ることもできるかも知れません。また、『攻殻機動隊』の草薙も、身体に制約された世界から電脳の海へと渡っていくわけです。

 ケルト神話では他界と行ったり来たりすることができるのは「英雄」だけだとされていました。押井監督のばあいは、その契機になるのは、自分への懐疑、または自分は何者かを探るという探索です。その探索を成し遂げた者が「他界」へと渡ることができるわけです。

 では、その探索の動機とは何か? 作品によって様々な描写がなされています。劇場版『パトレイバー』の二つの作品では、とりあえずそこに犯罪があるからです。そして、その犯罪を未然に防ぎ、また、犯人を逮捕するのが、警察官の任務だと主人公たちが考えるからです。『攻殻機動隊』と『アヴァロン』では、いわば主人公の向上心が鍵になっていると言えるかも知れません。草薙は、自分の身体をすべてサイボーグ化して最高の運動能力を手に入れた。けれどもその欲望にはまだ満たされていない部分がある。しかも、自分の欲望を満たしていくことが自分にとっての制約を否が応でも自覚させていくということにも気づいているのです。『アヴァロン』のアッシュは、より上級のプレイヤーを目指す衝動とともに、マーフィーと決着をつけたいという思いもある。劇場版『パトレイバー』の第一作を除く作品には、そこに恋愛感情が関係して来ます。

 しかし、義務感とか向上心とかいいますと、何か、前向きに積極的に生きていく、まさに近代社会で推奨される生きかたをする人間の心情のように見えますけれども、どうも押井監督の近作のキャラクターの心情はそのように明るい前向きなものではないように思えます。遊馬とか野明とか太田とかは別として、後藤や南雲や松井が、帆場や柘植の犯罪にこだわるのは、たんなる「警察官としての義務感」ではない。むしろ、そのような犯罪を追わなければならないという義務感があって、それが後藤や南雲や松井を警察官でいさせている。また、草薙やアッシュをレベルアップしたいと駆り立てているのは、前向きな開拓精神と言うよりは、むしろ焦燥感です。

 そして、その義務感や焦燥感の根源を探っていくと、「自分がいまの自分であることへの懐疑」、もっと言うと、「自分がいまの自分であることへの不安」へと行き着くだろうと思います。その不安から逃れるために探索せざるを得ない。それは、犯罪者を探索するのであっても、自分を裏切った相手を追い求めるのであっても、同時に、「自分とはいったい何なのか」、「自分がいまいることの根拠がこんなに薄弱でもいいのか」という自分のいまのあり方に対する苛立ちを伴っている。それは自分自身に対する探索の過程でもあるわけです。

 しかし、そういう探索に対する抵抗も、当然、ある。それは「自分が自分でなくなることへの不安」です。いまの自分であることにはどうしようもない居心地の悪さを感じる。けれども、その居心地の悪さから逃れようとして、自分が自分でなくなってしまう、自分の存在が消えてしまうことへの抵抗感もあるわけです。その抵抗に抗して探索を成し遂げた者、まあそれをケルト神話のように「英雄」と呼ぶかどうかは自由ですけど、そういう者だけが「もう一つの現実」に到達することができる。

 そういう神話として、押井監督の近作を見ることができるだろうと思います。

 

 3.映画という「他界」

 

 では、押井監督は、どうしてそういう映画を撮り続けるのか?

 これは、単刀直入に申しますと、押井監督にとっては映画作りそのものがその自分自身に対する探索の過程だから、つまり、押井監督は、自分がいまの自分であることへの不安に衝き動かされて映画を撮らずにいられないからではないかと私は思います(本人のいないところなら何でも言えます)。

 映画づくりのテクニックをことばで把握しているという点では、押井監督は第一人者の地位を争える映画作者だと思います。そのことは、劇場版『パトレイバー2』の技法を自ら徹底的に解説した本『Methods』や映画『 Talking Head』でわかる。押井監督は、映画の虚構性を徹底して知り抜いている人で、その虚構性を操る技術にも長けています。

 映画というのはもちろん虚構です。物語が虚構だというだけではない。映像そのものが虚構のかたまりなのです。スクリーンを通していかにも三次元の世界が見えているように思えても、じつは、スクリーンには二次元の映像が映っているにすぎない。それを、アングルやフィルターの種類、映す対象などを工夫して、いかにも現実的なものとして抵抗なく観客に印象づける。色だって、光線を工夫してフィルムに映し、それを現像して作り上げた色です。現実の色とは違う。なるだけ「現実感」のある虚構を演出するのが映画づくりである。

 そうなると、映画づくりに必要なことは、はたして「現実」や「現実感」とは何かという探求になります。脚本や絵コンテの段階ではもちろん、眼前の「現実」を二次元のフィルムに映した段階で、それは「現実」ではなくなる。否応なしに虚構になってしまう。いきなりわけの分からない遠い土地に放り出されたようなものです。

 その虚構から現実へと帰還しなければならない。機材やフィルムの選定、撮影、現像、エフェクト、そして編集に至る段階で、どうやれば現実に帰還できるかを模索して帰ってこなければならないわけです。そうなると、帰り先である「現実」とは何かを、これも否応なく問わなければならなくなる。しかも、その「現実」への帰りかたがひと通りではなく、さまざまな帰りかたがあることもわかってくる。色彩で印象づけるのか、編集で一定の流れを作ることで印象づけるのか、さまざまな方法がある。さらに言えば、「現実」には鳴っているはずのない音楽というのがそれに加えられる。そうすると、次に、そうやってさまざまな方法で帰りうる「現実」が同じ現実なのかという疑問が出てくる。そういう現実への問い返しが映画づくりの過程そのものである。

 もちろん、そんなことに頓着しない映画監督もいると思います。自分にとっての「正解」を勘で瞬時に探り当て、その各段階で迷うことをしない監督もいるでしょう。しかし、押井監督はその過程に対して非常に自覚的な人だと思います。これはたぶん、押井さんの犬に対する視線でも同じだろうと思いますが。

 押井監督は、だから、映画作りの方法を作品ごとに変えてくる人でもあります。少なくとも『ビューティフル・ドリーマー』以来、そうだと言えると思います。一九九〇年代以来、押井守は「デジタルアニメの旗手」などとも言われますけれども、それは押井監督の新しがりというよりは、絶えず新しい方法で映画を作らなければ意味がないという押井監督の映画作りの根本と結びついているのだと思います。

 押井監督にとって、映画づくりとは、自分のいる現実に対する、そしてたぶん、その現実のなかにいる自分に対する果てのない問い返しの作業なのだと思います。その問い返しは、果たして一つの現実という世界のなかでできるのか? ニュートンが明らかにした「一つの絶対空間」という世界のなかで、古典物理は解明できても、自分に対する問いかけは完結するのか? 「疑っている自分の存在は疑えない」と言ってみたところで、ではその自分は何者なのかという問いを発した時点で、それに対する回答は、少なくともすぐに一つには定まらない。そうなると、その自分と関連を持っている現実世界、自分によって規定され、また自分を規定している現実世界とは何なのかという答えも、一つには定まらないことになってしまいます。

 「現実の世界」とは何かを説明するために、「もう一つの現実世界」という虚構を持ちこむことは、一つの有力な方法です。

 中世西ヨーロッパのキリスト教世界では、まさに現実世界の秩序を説明するために、神の世界の完全な秩序が想定されていたわけです。ヨーロッパの秩序観は、じつはキリスト教以前のローマ帝国のあり方やギリシア文明、そしておそらくそれに先立つインド‐ヨーロッパ語以外のことばを話す人たちの文明から引き継いだものも多いはずです。しかし、それは中世西ヨーロッパのキリスト教のなかで、天界の秩序としてまとめられていった。「もう一つの現実世界」の存在によってこの世のことを説明するのはケルト神話の世界でも同じでしょう。

 このように「もう一つの現実世界」を通じて自分や自分の住む現実世界を探求するという方法は現在でも有効なのではないか。もちろん、それによって唯一の解は求められない。「もう一つの現実世界」のありようだって、現実世界と同様に多様にあり得るからです。しかし、まさに対位法のように、もう一つの主題が存在することで、自分の主題がどう響くかを確定するためには、「もう一つの現実世界」を想定するのは役に立ちます。その二つの世界の対位法によって、現実世界を描写しようとするのが、押井監督の近作に共通する特徴なのではないか。そして、それは、映像作品の作者としての押井守のあり方の根本にかかわることなのではないか、ということを、とりあえずここでの私の結論としたいと思います。

 ありがとうございました。

 

(終)

 2002/07

 


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