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 これからのわれわれの未来には輝かしきことはなにも起こるまい。共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない。目の前では静かな機械の音だけが、カタカタと響いてくるとりとめもなく明るい空間が、人工灯のもとに広がっている。世界は暗闇に沈んでいるのではなくて、隅々まで白光灯に照らし出されている。見渡すかぎり明るくなりつつあるのに、それなのに私たちの生は当てどなく、人格的な意志を欠いている。確かなものを求めるためには、それも当てにはならないのだが、内面の暗部へとでも降りていくほかには仕方がないのであろう。

 私がヘレニズム時代との共通性と表現したところのものは、まさにこのような状況を指す。光があるだけで、陰のない世界は残酷である。人間を平板化し、無力化する世界への果てしない単調さは、底抜けに恐ろしい。自分が自由でないことに気がつかず、自由の幻想にばかり生きる無差別社会は、ことのほかおぞましい。光は今、われわれを包んでいる。なぜなら、われわれは自由だからである。しかし、光の先にはなにもなく、光さえもないことが私には見える。なぜなら、自由であるというだけでは、人間は自由にはなれない存在だからである。

 言い換えれば、われわれは深く底抜けに「退屈」しているのである。


西尾幹二『国民の歴史』



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