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五島プラネタリウムをめぐる思い出

 

 

清瀬 六朗


 

五島プラネタリウムの閉館

 

 二〇〇一年三月、東京都渋谷駅近くの東急文化会館最上階にあった五島プラネタリウムが閉館した。

 閉館まぎわになって多くのマスコミに取り上げられたので、ご存じの方も多いかも知れない。私が閉館のことを知ったのはその一年ほど前のことだった。年度末が近づき、例年だと次の年度の予定がいろいろと発表される時期になってもそれがなかなか出なかった。もっとも、ほんとうに出なかったのか、私がたまたま目にしなかっただけなのかはよくわからない。また、二〇〇〇年度三月で、その時どきの天文現象や宇宙についての話題をテーマにする「星空最新ニュース」などいくつかのプログラムが終了した。なんかいやな予感はした。そんなころ「諸般の事情から閉館することになりました」というチラシが置いてあるのを見つけたのである。

 虚を衝かれた。

 数年前から危ないのではないかとは思っていたのだ。夏休みに子どもを連れた家族が来てにぎやかだったことなどはあるものの、そのほかはいつ行ってもたいてい閑散としていたからだ。しかも日本経済の状態は悪かった。とくに東急グループの状態はよくなく、老舗店舗を手放したことが大きく報じられた。ワンマン経営の果てに倒れたそごうは特殊事例としても、百貨店という業態自体が追いつめられていた。創立時に出資し、いまも場所を化している東急と、独自の財団法人であるこのプラネタリウムがどういう財務関係にあるのかはよく知らない。ただ、東急百貨店にプラネタリウムなんか援助している余裕がないのは明らかだった。

 それでも日本経済最悪と言われた時期は過ぎていた。「なりふり構わぬ」とまで言われた小渕内閣の財政政策で経済はいちおう持ち直したことになっていた。それも、小泉内閣の「聖域なき構造改革」が始まったいまではもうだいぶ昔のことのように感じる。ここ二年ほど、年初には「経済は危機を脱した」という雰囲気が強く、年が進むにつれてだんだん悲観論が強くなるという流れがあるように感じる。今年も年の初めには「今年は株価は上がる」などと言われていたのだ。そんなこともあって、二〇〇〇年三月には、その日本経済最悪の時期を乗り切った以上、もうだいじょうぶだろうという安心があった。

 そこに閉館の知らせが来たのだ。

 たしかに、わからぬでもない。一九九六年には百武彗星が、一九九七年にはヘール・ボップ彗星が来た。一九九八年から九九年にかけては獅子座流星群の大出現が期待されていた。二〇〇〇年にはリニア彗星 C/1999 S4 が明るくなるかも知れないという予測があった。しかし、二〇〇一年に獅子座流星群の日本での大出現の予測はあるものの、それを除けばしばらくは何十年に一度という天文学的なできごとは起こらない。二〇〇一年三月が「潮時」と考えられたのかも知れない。

 

 

 プラネタリウムの巨大な機械

 

 このプラネタリウムで使っていた機械は、まだ「西ドイツ」だったドイツ連邦共和国のカールツァイス社で造られた巨大で武骨な黒い機械だった。

 五島プラネタリウムは解説員が座る解説台がドームの北側に置かれていた。北極星の投影される場所の下に解説員がいることになる。解説用のポインタは解説員がその台から照らしていたし、スライドなども解説台を基準に投影することになっていたから、このプラネタリウムでは解説台の前がいちばんよい席であった。

 私はその解説台の前の最前列に座ることが多かった。

 プラネタリウムでは、何光年とか何万光年とかの遠くにある星を直径十メートルの有限の球体に投影しているわけだから、投影された星空はどうしても歪んで見えてしまう。投影する機械にいちばん近いところがその歪みがいちばん少ない。だから、私は、解説台の前で投影機にいちばん近い北側最前列に座ることが多かった。

 ところが、ここに座ると、機械が巨大すぎて南の空がよく見えない。さそり座のアンタレスとかオリオン座とかが真南に来ると、プラネタリウムの機械に隠れて見えなくなってしまう。ここのプラネタリウムの投影機は、半球状のドームの中心にどーんと居座るそんな巨大な機械だった。

 そう、まさに「機械」だったのだ。この機械は歯車と電気モーターで動く。穴の開いた原盤の後ろから強い電球の光を照らすことで星を投影する。複雑な惑星の動きも、実際に惑星の軌道と同じかたちをした軌道の上を電球が回転し、その光を一方にだけ漏らすしくみで投影されていた。プラネタリウムの機械本体は昔ながらの「歯車で動く機械」だった。

 

 

 大阪四つ橋の電気科学館

 

 じつは、この1950年代製のカールツァイスの機械は、私の子どものころのあこがれの機械であった。

 私は小学生時代を関西で過ごした。1970年代のことである。そのころ、私は、ひと月に一回、両親にプラネタリウムに連れて行ってもらうのを楽しみにしていた。一時間以上もかけて大阪の四つ橋に行き、四つ橋駅の上にあった電気科学館でプラネタリウムを見るのだ。

 この電気科学館のプラネタリウムには、大学生になって東京に引っ越してから、帰省した折りに一度だけ訪れた。子どものころに巨大だと感じていたドームが意外と小さいのに驚いた。その後、この電気科学館は取り壊されたか、それとも移転したかで、その場所にはないはずである。いずれにしても、その後、もう十年以上も行っていない。

 電気科学館ではプラネタリウムのチケットだけを買うと、プラネタリウム以外の階には入れない。そのプラネタリウムに通じる古い階段のまんなかに、使われなくなった古いエレベーターがついていて、周囲の金網がほこりをかぶっていた。いまではたぶん日本ではどこでも実用されていないであろう手動操作式のエレベーターだったろう。止めかたを間違うと階の途中で止まってしまうし、扉も自分で開けなければいけない。そういうエレベーターだ。建物の壁に使ってあった大理石には化石が埋まっていて、マジックで落書きのようにその化石の場所が示してある。いまでは絶滅した種類の珊瑚だったのではないかと思う。なんせ小学生だったから詳しいことはわからない。四つ橋の電気科学館というのはそんな建物だった。

 ついでに言うと、プラネタリウムの帰りによく買い物に寄った心斎橋そごうの建物は、ほんとうにまぶしく金色に輝いていた。いま、売却するとかしないとか言っている、あの心斎橋そごうである。百貨店やデパートは大阪ではもう珍しくはなくなっていたけれど、地方から出てきた小学校低学年の子どもにとっては、やっぱりあの心斎橋そごうは夢の空間だった。

 で、この電気科学館のプラネタリウムの投影機が、その1950年代西ドイツカールツァイス社製だったのだ。

 解説員はそのことを自慢にしていた。いつ行っても、星空解説の最初に、この機械は西ドイツ製のすごい機械で、日本には五台しかないと聞かされた。その五台の他の一台が、二〇〇一年三月まで渋谷で動いていたあの武骨なでかい機械である。「西ドイツ製の巨大機械」というだけでこれはすごいと思える、そういう時代だった。その後、小学校の遠足で他のプラネタリウムに行ったとき、そこのプラネタリウム投影機が小さくていかにも安っぽく感じたのを覚えている。

 いまでもカールツァイス社はプラネタリウムを造っている。最近は光ファイバーで星を投影するというような高度な機械も造っているらしい。でも、国内メーカーでもすぐれたプラネタリウムはいくらでも造られている。それに、いまでは、巨大な機械を「すごい」と感じる感覚はなくなった。現在では、巨大なのは無能の象徴みたいに、そして、小さく精巧なほうがずっとかっこよく感じられる。

 そういえば小学校低学年のころの私は蒸気機関車も好きだった。これも巨大な鉄製の武骨な機械だ。蒸気機関車の牽引する列車に乗ってみたいとは思っていた。けれどもその思いはかなわなかった。両親は「煤くさくて煙たいだけだからやめたほうがいい」と言った。また、そのころには私の住んでいた地域では蒸気機関車は貨物列車専用になっていて、蒸気機関車が引く客車列車はなかった。そのうち蒸気機関車の営業運転そのものがなくなってしまう。そのずっとあと、真岡のC一二の切符を取ったことがあるけれど、これは寝過ごしてしまって乗れなかった。そんなこともあって私は国内ではまだ蒸気機関車の牽引する列車に乗ったことがない。そうこうするうちにこんどは「客車列車」そのものが絶滅寸前だ。

 プラネタリウムが、オーストラリアや南極の星空を投影したり、一万年後の星空を投影したりするのが私にはわくわくするような驚きだった。いまとなっては、どうやって投影するかというあらましはわかっているので、機械的操作で簡単に南半球の星空でも何千年後の星空でも投影できるのはすぐに理解できる。プラネタリウムの機械にはもともと南半球の星を投影する原盤も入っているし、何千年前や何千年後の星空というのは地軸の傾きの方向をずらせばおおよそは再現できる。でも当時はそんなことはわからなかった。解説員に「みなさんはいま一万年後の星空の下にいます」と言われれば、ほんとうにその空間ごと知らない時間に来てしまったように感じていた。

 

 

 理科嫌い

 

 小学校低学年から、毎月、プラネタリウムに通っていたものだから、星の名まえはずいぶん覚えたし、惑星がどういうふうに太陽のまわりを回っているかということも知っていた。しかし、だからかえって小学校の理科で星の話が出てきたときにとまどってしまった。そのころ私はすでに北極星が真の北極になく、したがって北極星はわずかではあるけれども動くのだということを知っていた。そしてそう言った。けれども、先生は

「みなさん観察してみましたか。そうですね、北極星は動かないんです」

と言った。私はまちがったことになってしまった。

 私は理科が苦手だった。天文学が理科の一分野だと知ったとき、私の心は天文学から少し離れていった。中学校の理科で天体が取り上げられたときの試験で私は学年最低点を取っていた。

 なぜ理科が苦手になってしまったのだろう?

 私は化学実験というのは大好きだった。試薬を入れた液体に別の液体を入れたらとつぜん色が変わるというような手品のようなできごとも楽しかった。また、化学の法則性というのもおもしろかった。炭酸カルシウムに塩酸をかければ、二酸化炭素が出て塩化カルシウムというものが残る。二酸化炭素は炭酸ガスともいう。では、希硫酸という物騒な薬品を炭酸ナトリウムにかければどうなる? こんどは、二酸化炭素が出て硫酸カルシウムというのが残る。「炭酸」のつくものに「塩酸」とか「希硫酸」とかをかければ「炭酸」のつくガスが出て、かわりに「塩」とか「硫酸」ということばが「カルシウム」にくっついたものが残るというわけだ。化学式で書いてしまえばふしぎでもなんでもないそういう法則性が私は好きだった。

 ところが物理というのがわからなかった。

 たとえば、物理学の最初に学ぶ原理に「作用があれば必ず反作用がある」というのがある。ところが、「作用があれば必ず反作用がある」のであれば、作用と反作用は必ずうち消し合うのだから、世のなかのものは何ひとつ動かないはずではないか。

 これはじつは問題の立てかたが逆だ。動いていないものや、動いていても速度が変わらないものを説明するときに、「作用と反作用がうち消し合っているから運動の状態が変わらないのだ」と説明する。だから、一つの物体についてその打ち消しあいの関係が崩れれば、その物体に「加速度」が生じて「運動の状態」が変化する。テニスのボールをラケットで打てば、ラケットからボールにかかる力の反作用は、当然、ボールからラケットに働いている。それでもボールが飛んでいくのは、その反作用はラケットのほうに残って選手の身体に吸収されるからで、ボールには「作用」の力の影響しか残らないからだ。「ボール‐ラケット‐選手の身体」全体では「作用と反作用の法則」は保たれている。そして、全体として「作用と反作用の法則」が保たれていても、個々の物体は動くことができる。

 そういうようなことは、力学の初歩を学んでから十年以上経ってからわかったことで、中学生のころはよくわからなかった。そして、力とか加速度とかエネルギーとか運動量とかいうもののあいだの関連がよくわからないままで、与えられた公式にしたがって計算する。自分で何をどうやっているのかまるで理解できなかった。しかも、まずいことに、私はよく計算間違いをする。ここで私は理科がよくわからなくなり、理科の成績は暴落し、そして理科嫌いになってしまった。

 理科がなんとかわかるようになったのは、当時、国立大学を受験するには共通一次で必ず理科を二科目選択しなければならなかったのがきっかけだ。共通一次というのは現在のセンター試験に相当する試験だが、当時は基本的に国立大学だけのもので、しかも、文科系の受験者も理科系の受験者も必ず理科二科目・社会二科目を受験しなければならないという苛酷な制度だった。でもそのおかげで私にはなんとか中学校以来の理科をもういちど勉強する機会ができたのである。

 文科系の大学に進んで、私は理科など勉強しなくていい境遇になったから、それ以上、ほとんど理科の勉強はしなかった。

 その後、ハレー彗星が回帰したときには観望会に行ったりもした。なにしろ七六年ぶりだ。前回の回帰のときには、彗星の尾に有毒ガスが混じっているというので毒ガスパニックが起こったことも知っていた。けれども、話に聞いていた大彗星が、望遠鏡の視野のまんなかにあるのだかないのだかわからないようなぼーっとした霞にしか見えなかったときには、私は正直に言うと失望した。

 この一九八六年回帰は、とくに北半球では条件が悪かったのだ。しかし彗星については南半球の人たちに対してやっかみは言えない。一九九〇年代の百武彗星とヘール・ボップ彗星は、地球の北を回っていったため、いちばん明るくなったときには北半球でしか見えなかったのだから。

 せっかく東京に住むようになったのだからということで、あの巨大プラネタリウムを持っているという五島プラネタリウムにも何度か行った。しかし、日曜日に行くと長い行列ができていて、並ぶのにうんざりして、それから行かなくなってしまった。そのときの行列は、閉館まぎわの「星と音楽の夕べ(林原めぐみ特集)」の行列にくらべれば十分の一にも満たないものだったけれど、もちろんそのころそんなことを知る由もない。ちなみに、週一度の企画投影として行っていた「星と音楽の夕べ」の通常プログラムは、この林原めぐみの特集が最後となった。「星と音楽の夕べ」自体はあと二回あったけれども、それは過去の回顧特集だったはずだ。

 

 

 「天文博物館」のすごさ

 

 そういえば、ここのプラネタリウムはあんまり客あしらいが巧くなかった。二〇〇一年二月の「星と音楽の夕べ」最後の通常プログラムのときには、下の映画館でのスピルバーグ作品の先行上映のときにも劣らない行列ができ、その最後尾は階段を六階下までつづいた。このときの係員の方は、その人数を捌くために、明らかに目の色を変えて慌てていた。それ以前にも、受付の「もぎり席」にだれもいないのでそのままなかに入ったら、あとから係員が追いかけてきて「チケットください」と言われて、持ち場を離れていたのはあなたのほうではないかと腹を立てたこともあった。昼の投影時間に間に合うようにメシを抜いて慌てて駆けつけてみたら「この回は特別投影で一般のお客さん向きではありません」と言われたこともあった。でも、そういうところも、いまでは好ましい印象に結びついている。「天文博物館」を名のる施設だけのことはあり、観客に単にサービスすることよりも、解説の内容のほうに全力を注いでいたのだ。そういう無愛想さもあっていいといまでは思える。少なくとも、愛想はいいけど内容がないというのよりはずっといい。そして、内容はたしかにいいのだ。たしかに「その日の夜の星空解説」などは毎年の使い回しで、「そのネタは去年聞いたぞ」というようなネタを何度も聞かされることになったけれども、けっしてそれだけではなかった。

 いまでは天文情報などインターネットを検索すればいくらでも出てくる。信頼できるサイトがあちこちにあり、そこからさまざまな情報を取り出すことができる。しかし、それでも私は五島プラネタリウムで「ここでしか聞いたことのない話」をたくさん聞いた。

 「軽気球座」や「ユリ座」という星座があったこととか、天秤座はもともとさそり座の一部だったのをカエサル(ジュリアス・シーザー)が切り離してしまったのだとか、そういう話はいまだにほかでは聞いたことがない。どの星座が古代オリエント生まれで、どの星座がギリシア生まれかなどという話もここではじめてきいた。

 ヨーロッパの「旧暦」であるユリウス暦と、現行のグレゴリオ暦とでは日付がずれる。なぜその日にちがずれるかという説明はほかのところにも出ている。現実の地球の公転周期が三六五日五時間四八分四五秒なのに、ユリウス暦ではそれを三六五日六時間としているからだ。しかしそんな小さな違いがどうして影響するのかわからなかった。また、なぜ日にちがずれるのが大問題なのかもわからなかった。それを納得させてもらったのはやはりこのプラネタリウムの説明でだった。ちなみに日にちがずれるのが大問題になったのは、ほんの何日かでもずれる暦を使っていると春分の日がずれるからで、春分の日がずれるとなんで問題かというと、ヨーロッパの人たちにとって重要な祝祭日である復活祭がずれてしまうからだ。

 解説員はみんな博識だったし、それに、ここの解説員の人はほんとに星の世界が好きなんだと感じさせてくれた。

 

 

 天文学との再会

 

 私がここのプラネタリウムにまた行くようになったのは、いくつかの要因が重なり合ってのことだ。

 私が天文学に興味を取り戻したのは、一九九二年の冬、外国へ行く国際線の飛行機のなかで佐藤文隆さんの『量子宇宙をのぞく』(講談社ブルーバックス)を読んだことが大きなきっかけだったように思う。私は旅慣れたほうではないし、海外にもほとんど行ったことがない。だから、「本屋で日本語の本を買って乗り物に乗り、時間つぶしに読む」ということがこのあとしばらくはできないのだと思うと、そのことだけでこの本が強く印象に残った。これから行く国に関係のない本だっただけ、かえって印象に残った。

 じつは内容は半分ほどは理解できなかった。それで、帰国してから、佐藤さんのほかの本を読んだり、リチャード・ファインマンの『光と物質の不思議な理論』(岩波書店)を読んだりした。やっぱり理解できたとはいえない。しかし、わからないことが増えると同時に、わかることもたしかに増えたのだ。量子力学などというものをかいま見たおかげで、物理学というのはいっそうわけがわからなくなったけれども、それでも宇宙について語ることが物理学とも密接に関係しているのだということはわかった。何より、量子力学という考えかたがあるのだということ自体がけっこうおもしろく感じられた。初歩も十分に理解できていないのに先端のほうに触れるということにも、それなりにいいことがあるもんだと思う。

 それから何年かしてシューメーカー・レヴィー第九彗星の木星衝突があった。望遠鏡は持っていなかったので直接に観測はしなかったけれど、テレビや、当時加入したばかりのプロバイダを通じて国立天文台のホームページで写真を見るだけで興味は高まっていった。ちなみにいまも望遠鏡は持っていない。

 百武彗星が来たときには、私がいた地方はずっと北の空が曇天で、「旬」の短かったこの大彗星は私は見ることができなかった。しかし、その次に来たヘール・ボップ彗星は、明るかったし、見えていた期間も長いので、目で見えるかぎりずっとこの彗星を見ていた。彗星を実際に見たのはこのときが初めてだったし、また、いまのところこの彗星だけだ。東京の明るい空で見たので、長く尾を引いているということはわからなかったけれども、でもぼうっと滲んだような星の印象は心に残っている。「東京でも彗星が見えるんだ」と思うとなんとなくうれしかった。

 このときになってようやく私は五島プラネタリウムにまた行くようになった。ヘール・ボップ彗星が去ってから五島プラネタリウムが二か月ほどその彗星の特集をしていたことを知り、見に行かなかったのがなんとなくくやしくて、それからほとんど毎月通うようになった。だから、じつは、私が五島プラネタリウムに行き続けた期間というのは一九九七年の夏ごろから二〇〇一年の二月末までで、三年半程度でしかない。

 

 

 「閉館」の意味

 

 五島プラネタリウム閉館直前にはたくさんの観客が押し寄せたらしい。私は、その「星と音楽の夕べ」最終回に行ったのが最後で、それでも未曾有の混雑を経験したのだが、投影最終日などは最後の回のチケットまですぐに売り切れてしまったそうだ。「こんなにお客さんが来るなら閉館せずにすんだのに」とこぼした関係者の方がいたそうだ。たしか、東急百貨店が老舗店舗を手放し、その老舗店舗が閉店セールをやって話題になったときにも、そんな関係者のぼやきが報道されたように思う。

 五島プラネタリウムが閉館したことの意味、いや、経営事情、もっと直截に言えば慢性的赤字から閉館に追いこまれたことの意味をどう考えればいいのだろう。

 私にとっては、まず、寂しいことではある。五島プラネタリウムに行き始めたのは最近のことだが、あの武骨で巨大なカールツァイスの投影機は、大阪四つ橋の電気科学館以来、「重厚長大」の頼もしい象徴だった。

 現在、プラネタリウム投影機には、光ファイバーで精確に星の位置を投影できる機械や、スライド投影しても星がかすんでしまわないような光の強い機械もある。いや、あるらしい。じつは、私は電気科学館と五島プラネタリウム以外のプラネタリウムにはほとんど行ったことがないのでよくわからない。ここ十年ほどに限れば、浦和まで「ちびうさの自由研究」を見に行ったのが唯一の例外である。ともかく、そのような最新の機械とくらべれば、五島プラネタリウムの巨大な黒い歯車式の機械では、月が惑星を隠すはずが微妙に場所がずれてうまく隠れなかったこともあるし、そんなに大きなものでなくてもスライド投影すると星がかすんでしまう。「時代遅れ」なのは確かだった。

 だから、日本経済最悪の時期を乗り切ったときには、そうか、それでもこんな時代遅れの機械を生き残らせてくれるところがあるんだと頼もしく思った。それも、渋谷駅近くのビルの最上階という一等地である。それだけに、閉館が決まったときには「やっぱりね」とため息をつきたい気もちだった。

 重厚長大産業時代の日本を代表した蒸気機関車は、いまでもイベントとして復活運転が企画され、場所によるけれどもかなりのお客を集めているし、沿線にはカメラを持ったファンが詰めかける。しかし、プラネタリウムでは、ときどき「復活運転」というわけにもいかないだろう。

 ちなみに、このカールツァイスの巨大プラネタリウムは、いまは渋谷区で廃校になった小学校の跡地に保存されているそうだ。「少子高齢化」のおかげで児童の数が減り、渋谷区では「人口の都心回帰」の恩恵もなかったのか、廃校になってしまった小学校の跡地である。もちろんあの機械が残ってくれることはうれしいけれども、巨大機械式プラネタリウムと廃校になった小学校跡という組み合わせは、いまの日本経済のなかの敗者連合みたいで、複雑な気分である。

 星を客寄せの道具にするのではなく、地味で、言ってしまえばありふれた「毎月の空」のような話題のなかに、ここでしか聞けない話を織りこんでくれた解説員スタッフのことを考えれば、たとえ機械が時代遅れでもこのプラネタリウムがなくなるのは寂しいことだ。しかし、そのスタッフが決めた閉館だからこそ、その決断を尊重したいとも思う。

 それでも、ターミナル駅近くの一等地で歯車式の機械をいつまでも動かしつづけるプラネタリウムがいつまでも残っていてほしかったという気もちはやっぱりある。そういう「偏屈」なプラネタリウムが首都に一つぐらいあってもよかったではないかと思う。

 二〇世紀後半の日本の産業を支えたのは日本で働いていた人たちの高い技術だった。一握りの「エリート」だけが技術を持っていたのではない。工員や労働者の一人ひとりのレベルでも、自分の扱っている機械のしくみを知り、それを動かす技術を理解していた率は高かったのではないか。最高度の科学技術は知らなくても、自分の現場にかかわる技術はよく知っていた。諸外国のことはよく知らないけれども、工員や労働者一人ずつのレベルで見ると、その技術水準はかなり高かったのではないかと思う。すくなくとも最初からテーラーシステム(流れ作業)で大量生産をするのが普通の環境で育成された工場の工員・労働者よりは高いレベルにあったのは確かだと思う。現在でも日本の「町工場」で世界水準の技術を持っているところがあると聞く。そういう層の上に日本の科学技術は成り立っていた。

 それは、つまり、機械について、何がどうなっていて、その機械に何をすればどう動くかがわかっていたからできたことである。現場のレベルでそのことが理解できていたから、日本の工場の工員・労働者の水準の高さが確保されていた。もしかすると、そういう機械を、改良し、だましながらでも使いつづけなければならなかった「貧しさ」も、そういう知識を身につけざるを得なくした大きな要因かも知れない。「日本人は勤勉で手先が器用だ」という評判を作ったのもこういう人たちだったのだろう。

 そういう機械産業がいまの日本では敗者に位置づけられつつある。それでも自分の現場の技術を恃んでがんばっている会社も多いようだ。また、二〇世紀後半の機械産業のねばり強さと工夫の精神を受け継いでシステムを開発していくコンピューター産業関係者がいることだって知っている。けれども、現場の人間にはどうにも理解しようのないコンピューター部品や精密機械を積んだ装置が多くなってきた。機械が不具合を起こすとメンテナンス担当者が来てくれるまで何もできないという状況は多くなったのではないだろうか。

 歯車式の機械からコンピューター制御の機械へと時代は移り、重厚長大は頼もしさより鈍重さを表現するものになってしまった。それとともに技術の担い手の層は薄くなりつつあるように思う。それは産業社会の成熟を意味するのだろうか。そうだとして、その産業社会の成熟は、二〇世紀後半に私たちが享受したような繁栄をもたらすものなのだろうか。そういう漠然とした不安は日本に限らない。マイクロソフトやインテルなどの情報通信技術産業が「繁栄」を支え、そういう企業の一つの業績だけで全体の株価が上がったり下がったりするアメリカ合衆国の経済を私たちは信頼していいものなのだろうか。

 そういう時代に、五島プラネタリウムの閉館という事件はあった。それは記憶しておいていいことなのかも知れない。

 

2001/02

 


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