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回向する物語

 

 

岩田 憲明





 発  願  文

 

願わくは弟子等、命終の時に臨んで、心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心に諸々の苦痛無く、身心快楽にして、禅定に入るが如く。 聖衆現前したまい、佛の本願に乗じて、阿弥陀佛国に上品往生せしめたまえ。 彼の国に到りおわって、六神通を得て、十方界にかえって苦の衆生を救摂せん。 虚空法界尽きんや、我が願もまたかくの如くならん。発願しおわんぬ。 至心に阿弥陀佛に帰命したてまつる。

 

 私が上にある「発願文」(註1)をはじめて意識して耳にしたのは、数年前、父が亡くなったときでした。私の家は浄土宗の檀家なのですが、この「発願文」は人が亡くなったときに最初に読まれる枕経と呼ばれるものとなります。それまで、私は浄土宗や浄土真宗などの浄土教と呼ばれる日本の仏教にはあまり関心がなかったのですが、父が亡くなる前に「南無阿弥陀仏」と唱えていたのを聞いて関心を抱くようになっていました。

  日本の浄土教は死後における極楽浄土への往生を強調するために、時として現世を軽視しているのではないかと考えられることがあります。そもそも、仏教は無我(実体としての自己)を否定しているのですから、もし人が死後その魂が極楽に行くとすれば、この無我の前提と矛盾することになります。また、「南無阿弥陀仏」を一度でも唱えるだけで往生できるのはあまりに都合のいい話ではないかと言う意見もよく聞きます。「他力本願」というが、それでは自分で努力することは無駄なのかと言うわけです。

  しかし、このような疑問は必ずしも当を得たものとはいえません。浄土教で崇拝される阿弥陀如来はそもそも自然の生命力を象徴した仏の一つであり、その光は生きているものすべてに及ぶとされています。また、極楽往生といっても、それは私たちの命の終点ではなく、そこから新たに命の営みが始まる起点でもあります。よく言われる「南無阿弥陀仏」や「他力本願」の思想も、無我の立場を踏まえるならば、自己を超えたものと自己自身がコミュニケーションをすることによって、自己を新たに蘇らせる契機であるといえるでしょう。

  このように考えて見るならば、現代人が今まで浄土教を省みなかった背景には、自己が確固たる実体として在るということが前提とされてきた常識的な現実意識があったように思われます。

 

  人の人生は単純に死によって終止符を打たれるものでしょうか。また、私たちが生きている現実世界というのは、ただ生きている私たちが常識的に在ると見なしている客観的な世界に限られるのでしょうか。押井守監督はアニメなどの映画を通じて、この問題を常に問い続けてきたように思います。常識的な意識は自らが生きる世界そのものを敢えて問題とすることはありません。私たちが呼吸し心臓を動かすことを無意識のうちに行っているように、世界は何ら問い直されることもなく常識的な人々はただその中で生きています。しかし、現実問題として、世の中は私たちが期待するほど安定したものではありません。常識的意識はさまざまの事柄を無意識のうちに前提としていますが、それらは時としてあっけなく崩れていくものです。今の日本を10年前の日本と比べてみてもそれはよく分っていただけるでしょう。多くの民間企業で年功序列・終身雇用が崩壊する一方、若者を中心にインターネットや携帯電話でのコミュニケーションが当たり前のものとなりつつあります。また、犯罪一つとっても、日本はかつてほど安全な国とはいえなくなっているのも確かです。

  押井監督の作品については夢と現実との対抗関係がよく話題にされますが、理論的に突き詰めてゆけば、私たちが生きている世界そのものが夢であるか現実であるかを明らかにする術はありません。人によっては、「自分が生きている世界が夢ではないか」という思いを思春期に特有な一時的なものに過ぎないと考えている人もいるようです。しかし、アニメや実写を通して夢と現実との曖昧な境界が問われる時、そこには現に生きている人間が不安定な現実に生きている事実を浮き彫りにしているのは確かです。

  人間には答えが原理的に得られない問題も問うことが出来る能力が存在します。哲学者であるカントはこれを形而上学的問いかけと言いましたが、この問いかけは答えが得られないからといって無意味なわけではありません。カントは実践理性の立場からこの問いかけに意義を見出しましたが、私も同じような観点から現実に生きる私たちにとってこの問いかけは不可欠のものだと考えています。とういうのも、このような問いかけを通じて、私たちが生きている現実そのものをあらためて意識しなおすきっかけが得られるからです。

 人には多くのことが頭では理屈として分っていても、実感を得られない多くの真理があります。たとえば、「人は自分を超えたものによって生かされている」という真理がありますが、多くの人がこのことを頭では納得しても、自分の命が危機にさらされないと実感できないものです。かつて、映画監督でも有名な北野武さんが交通事故にあったときに、この「生かされている」という実感を持ったそうですが、日常に追われる常識的な意識にはこのような特別の経験のない限り、自分が生きている現実そのものを問題とする機会はないでしょう。

  映画によって私たちに示される世界は、たとえ自分自身の経験のように強いものではなくとも、何らかの間接的な経験として個々の人間の生き方に影響を及ぼすものと言えるのではないでしょうか。このように考えれば、現実ではあまりない(本当はあまりあってはならない) 現実そのものを揺るがせる経験を映像を通して間接的に体験するのも決して無意味なことではありません。押井監督の作品の多くは現実と夢とを不安定な形で交錯させるために、文学としての奇異をてらう効果のみが話題になることもあるようです。しかし、これは映像の外に生きる私たちの世界を「問い返す」ことを通じて現実世界を描いているといえるのではないでしょうか。かつてゴダールという人はドキュメンタリーとフィクションの間を行き来しながら真実を描写するように努めてきたそうですが (註2)、フィクションとしての映画が夢と現実との不安定な関係を描くことは、フィクションが現実そのものの「問い返し」を行っているという意味で、二重の重みがあるように思えます。

 

  フィクションといえば、浄土教の浄土もフィクションかもしれません。しかし、その教えが真実ではないと言い得るのでしょうか。「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を通して浄土を意識することは私たちの現実の生き方にも大きな影響を及ぼしています。たとえ死によって人の意識に終止符が打たれるにせよ、その人が生きていたという事実が否定されるわけではありません。もし、死に際して心や体の乱れがなく、自然にそれを迎えられるなら、私たちが生きたという事実も安らかに後世に送り出し、自らも極楽往生できたといえるのではないでしょうか。

  私が父の「南無阿弥陀仏」を聞いて感じたのはそのことでした。つまり、その言葉の中に残されたものに引き継がれる命の真実があったのです。そんな時に私は冒頭に引用した「発願文」を耳にしたのでした。

 彼の国に到りおわって、六神通を得て、十方界にかえって苦の衆生を救摂せん。

 人は死によってこの現実からは手の届かない「彼岸」の国へと行きますが、まさに「南無阿弥陀仏」の言葉に託された生きるものへの願いによって、現に生きる私たちを「救摂せん」としているのではないかと感じたわけです。このことを仏教では「回向」と呼びます。回向とは自己の得た功徳を自己や他者に振り向けることですが、「命終の時」というこの現実世界の限界において彼岸に往く者と此岸に生く者とが共に功徳を分かち合うのです。

  昨年11月、今度は母が亡くなりましたが、その時にも、この「発願文」が最初に唱えられました。「命終の時に臨んで」私たちが日頃〈現実〉と呼ぶものは〈夢〉の世界へと流れ去るようです。しかし、この〈夢〉と〈現実〉との流転の物語の中に真実があるのではないでしょうか。〈現実〉は〈夢〉の中で自らを反照させ、再び〈現実〉へと「回向」することによって、真実として自らを現します。この〈夢〉と〈現実〉との行き来の中に真実が浮かび上がるように、映像の世界と現実の世界との間にも回向する物語の真実があるのではないでしょうか。

 

2001/02
  

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