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 遊びという魔圏からは、人間精神はただ至高の存在へ視線をさし向けたときにだけ、釈放されるのである。ものごとを論理的に考えぬくというだけでは、そこに達するのにとうてい不十分である。人間の思惟が精神のあらゆる宝を眺めわたし、その能力の達成した輝かしい偉業を検討してみるならば、いかなる真面目な判断の底にも、なお一抹の未決の問題点があるのを見いだすだろう。どれほど断乎とした判断の言葉にしても、彼自身の意識の奥では、これが絶対に究極的なものではありえないとわかっているのである。この判断が揺らぎはじめるその一点で、絶対の真面目さというものを信ずる感情は屈し去るのだ。「すべて空なり」という、古い諺にとりかわって、「すべて遊びなり」という、おそらくはやや肯定的な響きのする結語が、湧き上がってくる。

 これは一見安っぽい比喩的表現であり、単なる精神の無力を示しているにすぎないようにも見えよう。だがこれこそ、プラトンが人間を神々の遊びの具であると呼んだときに悟りえた知恵なのである。 

 

ホイジンガ 『ホモ・ルーデンス』 

 


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