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さる旧友に寄せて

――あるいは押井守「鑑賞者」論の試み――


鈴谷 了



 

 押井守の愛好者というのは、アニメファンの中でもいささか特殊な地位を占めているという見方がある。しばしば押井守に対する嫌悪が語られる背景に、そうしたファンの傾向を指摘する説もある。いったい、押井守の愛好者とはどういった人々なのであろうか。

 

 本号にもいろいろな形で押井守に関心を抱いた論者の文章が載っているはずだ。筆者は熱心に押井系のサイトなどを覗いているわけではないので、昨今の押井ファンがどういう層の人々なのか、今一つはかりかねている。ゲーム、ミリタリーといった方面から入ってきた向きもいるだろうし、若い世代はすでに確立した「エスタブリッシュ」として認識しているかもしれない。ちょうど本稿の執筆直前に東京国際映画祭の『アヴァロン』を見に行ったとき、入場を待つ行列が予想以上に多彩な客層だったことに驚いたものだ。昔から考えれば隔世の感である。

 ここでは15年前、私が押井守作品に出会った頃の頃の回想から当時の「押井守ファン」の一人について書いてみよう。そこから、押井守作品にとっての「鑑賞者」について語ることができれば本望であるが、ただの思い出話で終わるかもしれない。

 

 

 筆者の中学・高校時代はアニメブームが大きく爛熟した時代だった。けれども、筆者はその時代とはほぼ無縁に過ごしていた。それは中学二年の頃にアニメを見なくなっていたからである。「アニメファン」として再びアニメに目覚めたのは、大学に入る直前のことだった。『ガンダム』『うる星やつら』『マクロス』『ミンキーモモ』といった時代を画した作品は、ちょうどその間の(筆者にとって)「空白」の時期に世に出ていた。

 大学に入ってすぐ、筆者の住んでいた地方で『ミンキーモモ』の再放映が始まり、すっかりそれにはまっていた。

 そんな筆者にアニメの情報をあれこれレクチャーしてくれたのが、大学のサークルで同期だった男である。彼は元々『うる星やつら』のファンであり、高校時代にはファンサークルの活動にも参加してそのあたりの情報には詳しかった。

 彼は「今放映している『うる星やつら』はおもしろくない」と言った。それは監督が替わったからで、去年までの監督の時代はすばらしかったと説明した。

 「前の監督が押井守ちゅうねんけど、その押井守が監督やったときはホンマ凄かってん」彼こそが筆者に押井守という人物のことを最初に詳しく教えてくれたのだった。

 「その押井守は、『ビューティフルドリーマー』という映画を撮って『うる星』を降りたんや」。そして彼は『ビューディフルドリーマー』を絶賛した。ネタバレをしない範囲で構成などを紹介し、見終わっていろいろ考えた、とも語った。

 筆者もアニメ誌などを通して『ビューティフルドリーマー』が評価の高い映画だということは知っていた。だが、それがどう凄いのかということについて具体的に知ることができたのは半分彼のおかげだった。下宿にビデオを持っていなかった筆者は、何とか早くこの映画を見たいと思ったものである。

 彼はほかにもアニメ『うる星』のスタッフやエピソードについていろいろと教授してくれた。やまざきかずおは絵描きとしては上手かった、とか森山ゆうじも上手いが最も素晴らしいのは遠藤麻未であるといった話である。後にアニメ系の『うる星』同人誌を目にして、それらの意見はアニメ派の『うる星』ファンの間では結構スタンダードなものであることを知ったのだが、筆者はなるほどと感心して聞いていた。

 そして、押井守が今作っているという『天使のたまご』についても話していたような気がする。当時すでに(読者となっていた)『アニメージュ』には毎号この作品の記事が出ていてそちらも一応目を通しており、彼からだけの情報であったかどうか、今となっては判然としない。ただ、彼がその公開を待ちわびていたことだけは確かである。

 

 

 その年の秋、『天使のたまご』が発売された。自宅通学だった彼はレンタルでビデオを借りてさっそく鑑賞し、サークルの雑記帳に「すごい」という感想を記していた。何がどう「すごい」のかは触れられてはいなかったが。

 まもなく彼は「『天使のたまご』が公開上映されるので見に行こう」と筆者に誘いをかけてきた。筆者も「どんな作品なのか」ということには関心があったので、その誘いに乗った。何よりその「押井守」のアニメ作品を初めて目にできるのだ。

 当日、朝早くに待ち合わせて大阪・梅田の東映会館に出かけた。関西の古いアニメファンには「アニメポリス・ペロ」の上、といった方がわかりがいいかもしれない。朝早く出かけたのには訳がある。上映は朝の一回だけだったのだ。筆者は彼と映画館近くのファーストフードで朝食を摂り、会場に向かった。入り口では抽選券を配っていた。終演後に当選番号を発表するというもので、一等商品はその『天使のたまご』のビデオソフトだった。「当たればいいのにな」と思いながら客席に入った。小さい小屋ではあったが、時間帯を考えれば結構な客の入りだった。

 このとき、筆者は初めて押井守の映像を見た。それは不思議で消しがたいイメージだった。ストーリーを語らず、設定に依拠せず、そういったものの解釈を観客に委ねるような映画にはそれまでお目にかかったことがなかった。同時に異様な世界設定と緻密な描写に驚いた。「いったいこれは何なのだろう?」とあちこちで思いながら、けれども不快感は不思議となかった。

 上映が終わってロビーに出ると先ほどの抽選結果が掲示されていた。筆者の抽選番号が当選の中にあった。ただしそれは一等賞品ではなく、天野嘉孝によると思われる「天」という字のレリーフがついたキーホルダーだった。「あんまり嬉しくないなぁ」と感じながら受け取った。残念ながら現在は行方不明である。

 小屋を出てから、彼に「どうやった?」と聞かれた。筆者は「凄い映像だ」とだけ答えた。『天使のたまご』は当時の筆者にとって刺激的ではあったが、そこからすぐに傾倒するという作品ではなかった。まず「世界」の解釈に悩んだ。冒頭と最後に現れる巨大な球体が「太陽」であると知ったのは、ずっと後のことである。そして、自分が愛好している娯楽的な作品と、この『天使のたまご』が同じ「アニメ」であることへの戸惑いがあった。テレビアニメの類はどんなにここが凄いと理屈をこねても所詮低俗・稚拙で、こういう「高踏的」な作品が「理解」できないといけないのか?というコンプレックスもそこには含まれていた。

 一方の彼は、言いたいことはあるのだが十分言葉にできないもどかしさがある、といったようなことを上映会のあと話していたように記憶する。しかしその後彼の口から『天使のたまご』についての話を聞く機会はなかった。

 

 

 それから数カ月後、イベント情報雑誌で『ビューティフルドリーマー』の上映があるのを発見した。筆者は胸躍らせてそれを見に行った。もちろん彼にも「上映がある」ということは伝えたが、都合が合わず結局一人で出かけた。十三(じゅうそう・大阪北郊の街。関東でいえば川崎のような歓楽街)の、パチンコ屋や飲み屋に挟まれたビルにある独立系の映画館だった。併映は『カリオストロの城』で、この組み合わせはこの頃名画座とか独立系の小屋ではしばしば見られたものである。

 『ビューティフルドリーマー』はおもしろかった。彼が絶賛するのも当然だ、と感じた。そしてやはり不思議な印象を受けた。あれはいったいどういう意味なんだ? という部分がいくつもあった。

 数日後、彼に『ビューティフルドリーマー』を見た話をした。疑問に思った点などを持ち出すと、彼は例によってまたいろいろと筆者に教えてくれた。

 「戦車がプールの中に出て来るのは、その前にラムがプールにでも入れてしまえばええと言ってるやろ?つまり、夢邪鬼がその願いをかなえてやったんや」

 「しのぶが風鈴の路地に迷い込んだとき、それを眺めているあたるがおったやろ? あれは夢邪鬼が化けて見てたわけや」

 筆者にはその辺のことも「わからなかった」のである。筆者は彼の「解説」をやはり感心して聞いていた。

 しかし、彼は「逆向きの信号機」「友引高校の階数」など、作品のあちこちに見られる不整合は「演出サイドと作画側の連絡の不手際によるミス」に過ぎず、「それを何か意味があるとかいうてるのもいるけど、それは考えすぎや」と切り捨てた。そのときは「そういう風な議論もあるのか」という程度にしか受け止めなかった。

 『ビューディフルドリーマー』はエンターテイメントしていて、なおかついろいろと考えさせてくれる作品だからよい、とも語った。筆者も当時それに頷いていた。

 

 

 筆者はようやく押井守について語れるポジションに立てた、と感じた。だがそれ以降、彼と押井守について語る機会は逆に減っていった。

 理由の一つは彼のめざすところにあった。今の言葉で言えば、彼は「オタク」でいたくなかったのである。我々が所属したのは児童文学研究会というサークルだった。漫研ではなくてここに入ったのは、漫研の「オタク的雰囲気が嫌だったからだ」と彼は語ったものだ。高校時代にすでにアニメと多く関わっていた彼は、普通の「映画」の愛好者に進みたがっていた。ファンだった斉藤由貴の映画だからと『雪の断章』を見に行って(監督の)相米慎二を語るようになったという、そんな男でもあった。

 その中で、「アニメ」と「映画」をつなぐ存在として押井守はおそらく最適のポジションにいた。アニメにはまだ愛着があるが、いわゆるオタク的な世界からは離れたい。そんな彼に、従来のアニメ作家よりも「映画」的なセンスを濃厚に伝える押井守は、光明の星だったであろう。彼は彼なりに押井守に「期待」したのだ。

 だが、時代が不幸だった。『天使のたまご』の反動で押井守が大作を撮れない「沈黙」状態が続いた。ちょうどそれは、筆者と彼が大学生活を過ごした間のほとんどに重なっていた。『紅い眼鏡』も当初は関東だけでの公開だった。アニメ界が「冬の時代」を迎え、話題にして盛り上がれる作品が宮崎作品を除くとほとんどなくなってしまった。これらの環境が、押井守に対する彼の興味を相当に萎えさせてしまったように思われる。

 一方筆者は徐々に押井守に親しんでいった。

 『ビューティフルドリーマー』を見てまもなく、『ミンキーモモ』の同人誌を探していた筆者はこのWWFと出会うことになる。そして「低俗で稚拙」ではないかと思っていたテレビアニメも、十分知的な議論の対象になりうることを知った。ここから筆者とWWFとのつきあいが始まった。やがて、WWFから『ビューティフルドリーマー』のダビングテープが送られてきた。(これは『ミンキーモモ』再放映エアチェックのお礼だったと思う)筆者はセリフをそらんじられるほど、繰り返しこれを観賞した。

 その翌年、まず筆者の住んでいた地方で『うる星やつら』の再放映が(週に一度のペースで)始まった。ついに押井『うる星』の全貌が見られる!と筆者は喜んだ。今からならば、大学を卒業するまでには押井守が監督を務めた時期の全話を見ることができる。それからの2年間、『うる星』の再放映は本放映中のどのアニメ作品よりも楽しみだった。ある意味で、それは失われた「空白」を取り戻す時間でもあった。

 『ビューティフルドリーマー』や『紅い眼鏡』のサントラを買ってきて熱心に聞くようにもなっていた。

 そんな頃、飲みに行ったときに彼から「趣味の活動として何をやりたいか?」ということを聞かれた。筆者は当時調べを進めていたアニメの放映データを完成させたい、と答えた。彼は自分の望む創作を書きたい、といったような答だったと記憶する。すでにアニメに飽いていた彼とは少し立場が変わってしまったのかな、と感じた。

 とはいっても彼がまったくアニメやコミックから訣別したわけではなかった。サンデー連載の『うる星やつら』が終わったときには、やはり感慨深そうにそれを読んでいた。

 

 

 その夏、『紅い眼鏡』と『迷宮物件』が大阪で上映されることになった。『紅い眼鏡』は関東から一年遅れてようやくの公開である。だが、筆者は以前の彼が私にしたように、彼を誘うことはしなかった。夏休み中で彼の予定が確認できなかったこともある。けれどそれよりは、すでに彼の心がそこから離れているように感じたからだった。あるいは別行動で会場に来ているかと思ったが、やはり姿はなかった。当日、開場待ちの行列に並びながら、彼がここにいなくて筆者がいることがどこか皮肉に思えた。

 その上映会で筆者は初めて生の押井守を見た。伊藤和典や高田明美、出渕裕と舞台挨拶に立った押井守は聞き取りにくい声ながら軽妙に喋っていた。

 『紅い眼鏡』は「わかりにくい映画」ではあったが、やはり不快感はなかった。「この作品は構造が途中から折り返されているのではないか」などとおぼろげに思った。登坂正男氏がずっと精密に分析してそのような結論を導き、ちょっと嬉しく思ったのはずっと後の話である。

 それからしばらくたって、サークルの集まりで彼とあれこれ喋っているときに、押井守の名前を出したことがあった。「最近はわけのわからんもんを作ってるみたいやしのう」。その口調は、決して肯定的な響きではなかった。

 彼と筆者は就職活動の時期を迎え、次第に会うことが少なくなっていった。4回生になった春、リリースされたOVA『パトレイバー』の1巻をレンタルし、(筆者の下宿にもようやくビデオが入っていた)彼を含めた何人かで上映会をした。彼は「おもしろい」と言った。もっとも、サンデーに連載されたゆうきまさみのコミック版も「おもしろい」と語っていたから、それが「押井守作品」としての評価かどうかはわからない。ただ、彼の口から押井守作品についての発言を聞いたのはそれが最後だった。

 そんな時期にWWFから登坂正男氏の評論『ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD』のコピーが送られてきた。既存のアニメ「評論」の言葉を使わず、こんな見方だってできるじゃないか! と明快に言い切った文章は挑発的だが新鮮だった。「ストーリー」とか「夢と現実」といった表層的な部分を無視したスタイルに知的な興奮を感じた。筆者は彼にこの文章を紹介しようか、少し考えた。しかし、「不整合」にまつわる発言を思い出し、彼が興味を持つという自信が持てず断念した。

 翌年、我々は揃って大学を卒業し、彼と会うことはなくなった。彼はいかにも映画好きの彼らしい、業界のさる有名な会社(たいていの日本映画のエンドタイトルに名前が出ている)に入った。筆者も彼も就職先は東京だったが、お互い連絡を取ることはなかった。劇場版『パトレイバー』が公開されたのはその夏のことである。

 

 

 ここまで長々と旧友の話を書いてきた。最後に少しだけ、一般化した話を書こう。

 『紅い眼鏡』の中で室戸文明が出すたとえ話の一つに「閉じこめられた鬼」というネタがある。閉じこめられた鬼が、最初のうちは「自分を助け出してくれた奴には褒美を出す」と言っていたのに、長い時間が過ぎたあとには「出してくれる奴がいたら殺してやる」と言うようになっていた、という話だ。この話の含意は人それぞれ思うところがあるだろう。筆者には「期待して待ち続ける者」の心理を語った話と写る。そして同時に、映画であれ文学であれ、作家に対して「身勝手」な期待をかけて待ち続ける鑑賞者の姿にも重なって見える。

 ここ数年筆者は「なぜ人は作品を通じてしか知り得ない『作家』に対して、期待をかけるのか?」という点が気になっている。『エヴァンゲリオン』で噴出し、インターネットに作家の悪罵を平気で書き込むという現象に典型的に現れたそれである。もちろん、根っからの嫌悪もあろう。だが、それよりは「自分を楽しませてくれるはずの者がそれを裏切った」というケースの方が、その根は深いように思われる。(蛇足ながら『エヴァンゲリオン』でシンジが最も激高したのは、まさしく彼の期待を裏切ったカヲルに対してであった)

 その「期待」は元はといえば、作品に接した鑑賞者自身が作り上げたものにすぎない。だが、鑑賞者はそれを「自らのために作家が用意してくれたものなのだ」と考える。それが、鑑賞者にとっての「作家」の像となり、ついにはそれ以外の「作家」を許容しなくもなる。

 もちろん、鑑賞という行為は鑑賞者という個人が「作品」と接することによって起こる、極めて個人的な行動である。作家と鑑賞者が別の個人である以上、齟齬は常に起こるということもできるだろう。その齟齬を自覚すること自体は不可能なことではない。だが、現実にそれが決して容易でないのは、鑑賞者が「鑑賞」の主体である自己を確認せず、無意識のうちに作品を受容していることが(特に映像作品の場合は)多いからにほかならない。

 どのような「期待」がかけられるかは、作家によって、また鑑賞者によって違ってくるだろう。押井守の場合、皆が一様に「こうでなくてはならない」という形での「期待」をかけるタイプの作家ではないように思われる。いわゆる「原作つき」の作品において、押井守が原作のファンから「××という作品はこうでなくてはならない(のに押井守のアニメはそうではない)」という形での対比を受けることは多い。しかし、「押井守が作るのだからこうでなくてはならない」という意見はそれに比べれば少ないし、あってもかなり多岐にわたっているのではなかろうか。

 押井守の作品が明確な答を示さず、むしろ鑑賞者の「解釈」に委ねるスタイルを取ることが多いこと。あるいは娯楽作と「実験的」作品を交えて作ってきたという経歴。それらが、「価値観を共有する熱狂的なマスのファン」よりは「自分だけの解釈を拠り所とする雑多でコアなファン」を生んだのではないかと筆者には思われる。

 押井守が多彩な作品を繰り出す中で、その「自分の解釈」を持って作品に接し続けることに耐えられた者が「コアなファン」として残り、「自分の望む押井守」ではないと感じた者はあっさりと遠ざかり周縁部で交代を繰り返す、というのが押井ファンの構図だというのは極論に過ぎるだろうか。そして、それらすべてのファンの持つ「押井守」像をつなぎ合わせたとき、その広さはとてつもないものになるのかもしれない。

 私も彼も、そうした「期待」を持った鑑賞者の一人だったのだ。

 

 

 劇場版『パトレイバー』公開の翌年、筆者がサークルOB会の幹事を務めることになり、彼にも案内状を出した。彼からは「欠席」の返事が来た。その中には「おまえさんとはもう一度会いたいが」という下りがあった。それからすでに10年、以来連絡はない。もう10年前の連絡先に住んでいることもないはずである。

 その10年間、『パトレイバー2』『攻殻機動隊』と押井守の新作が出るたび、あるいは『エヴァンゲリオン』が話題になったりしたときに、「果たして彼はこれを見ているだろうか?見たとしたらどう思っているだろう?」ということを常にどこかで意識してきた。それは、彼が筆者にとってアニメや押井守の導き手であったこととともに、同年代の「元アニメファン・元押井守ファン」がどうしているのかが気になるからである。

 そしてまた考える。筆者とWWFとの接触や「押井論」の刊行(長年のWWF読者はご存じと思うが、「押井論」は諸般の事情により始動から完結まで相当な時間がかかった)がもっと早かったなら――あるいは今も彼とつきあい続けることができただろうか。

 もしこの文章が彼の目に触れる機会があれば、というのは筆者の秘かな願いである。

 

(2000/11)



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