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『紅い眼鏡』私論的試論

 

 

 

松本 晶



 

 以下の文章は先のBD論の前に書いた文章なので、つながりが良くない上に用語の使い方が多少異なっています。例えばこの文章で言う「構造」は「形態」とごっちゃになっていて、その両者の意味で言葉を使いロジックを飛躍させている部分もあるのですが、今回は勢いを重視して殆ど書き直さないでおきました。

 

<要約>

 

「紅い眼鏡」は幾つものメタレベル的解釈が可能な重層的構造を持っていると考え得る。しかし最も整ったと思える構造を抽出しても、得られるのは予定調和的な静的構造ではなく対称性の破れた鏡像構造である。それは都々目紅一の度重なるメタレベルへの渇望と「紅い少女」に象徴される「救いのための外部」という相反するベクトルにより成っており、そこから導き得る「テーマ」は無限の階層からなる自意識と決定論的世界観という絶望的呪縛への抵抗の手段としての(重層的あるいは無限のステップを要求する)非決定である。逆に言えばこれは現実の有限のレベルでの無限の懐疑、あるいは決定論的絶望に裏打ちされているようにも思われ、最後の解釈を鑑賞者に委ねているように思える。あなたの問題なのですよ、と言うように。

 

 って難しそうで曖昧な言葉を使うとラクですねー、アタマ使わないしキチンと突き詰めて考えないでいいから。以下本文では私のないアタマを搾ってもっと明快に解説してゆこうと思いますが、その努力に脳が追いつきそうもない上にこの作品はどうしてもウェットに(他人に了解可能な形にするにあたって削られる思い込みを捨てられない、と言う意味)語りたくなってしまうので今のうちにスイマセンと謝っておきましょう。

 

 

<構造把握の際の混乱>

 

 で、正直に言いましょう。ええ、泣けましたとも、何度見ても。この映画の公開当時の私の精神状態とも相俟って、「紅い眼鏡」はまるで自分のための物語かと思うほど感情移入してしまいました。かなり病的でヤバイ時期であったようです。『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)のときもそうでしたが、『紅い眼鏡』の時も「自分の解釈の仕方」以外の評論を撃破したいという強迫観念が沸々とわいていました。ただ幸いにも?寡聞にして私の考え方を脅かすほど「強い」解釈を持った評論を目にすることが出来なかったため、この物語を「対象」として分析して真剣に「自分のための作品の記憶」を録っておくという作業に手を着けることはありませんでした。ですから今から述べることは変形された記憶を手繰り寄せて無理に感情と理論を一致させようとした歪な回想になるかもしれません。

 ですからそのバイアス(歪みや偏見等)の原因になりそうな私の当時のこの作品への思い込みをもう少し正直に言っておきましょう。当然ですが見終わってすぐに映画の構造解析やら思想解釈など思いも付きませんで、それよりも何度見ても(劇場へ数回は見に行きビデオでも十数回?)最後のシーンではやたらと胸が詰まってしまい大変に困りました。つまり死んだ筈の紅一から電話を受け取った少女が微笑み、そしてモノクロから紅く色付いてゆき、朝焼け前の紫の空に向かってクルマ(タクシー)で彼方に走り去ってゆくシーンです。その「救い」の表現に「ああ、よかったね」という感想だけがアタマのなかでグルングルンしていました(映画『風の谷のナウシカ』のラストに匹敵する、と言うと押井さん本人を含めてイヤがる人は多いだろうが、この件については後々別文でキッチリと言うことがありんす)。とても分析どころではなかったことは確認しておきましょう。

 で少し落ち着いてから中身を検討しようと、自分の記憶を辿るとそこに初めにあったのは「混乱」でした。一見したところでは、この作品もBDと同じ「夢中夢」の形をとっているように感じられます。しかしちょっとよく考えてみると、一体どこから夢に入りどこから醒めたのか、つまり現実と夢の間のメタレベルと階層構造が(もしそのようなものがあるとすればですが)直感的に把握できないことに気付きました。つまり構造の「混乱」こそが目的ではなかったかという考えも浮かぶくらいでした、柘植行人のやったように。

 この作品の構造の特徴を際だたせるために、BDの構造と比較しながら考えてゆきましょう。『紅い眼鏡』も一見したところではBDと同じメタ物語であり、夢中夢であるという評価が一般的かもしれません。しかしBDが比較的キレイな入れ子構造を呈していたのに対して、この作品のそれは一筋縄ではいかないようです。私の結論めいたことを言えば、この作品は幾つもの構造解釈が可能であり、それは作品が構造に固定化されることを避けるための試みであったと思います。

 BDにおいてはそのラスト近くで、夢邪鬼の作った夢世界(うる星におけるパラレルワールドと同義)からあたるが「失神しては脱出」ということを繰り返していた場面がありますが、BDでは失神の間の様々な「状況」(牛丼買出の場面再現、ラムとの鬼ごっこビキニ勝負にあたるが負けた世界、フランケンあたるの世界、コールドスリープ失敗の世界)は、夢邪鬼(よりメタな意味では押井守であり様々な制作者ら)によって作られたある一つの「基本世界」であり、うる星シリーズにあったかもしれない可能性世界と考えられます。それらパラレルワールドの繰り返しの各場面と、BD作品の前半からの大部分(オープニングすぐ後の学園祭前日のドタバタからバクによる世界の破壊に至るまでの)は作品上での時間的長さでは違っていても本質的には夢邪鬼の作った夢世界という意味では等価であり、BDという作品の部分も全体もそのなかの一つに過ぎないと考えられます(今の話ではメタレベルを変えた話を敢えてごちゃ混ぜにしているので注意)。ですから前章で示したように、大きな意味ではBDという作品全体が(さらには作品・制作者・視聴者が三位一体となって)入れ子構造にはなっているものの、BDの物語世界という枠の中(点線の枠 ; 作品鑑賞という出来事)では同様の構造の「夢」の各シークエンスが映画の時間の流れに沿って作品の現実レベルという平面下に配置されているように感じられることもあります<図1>。その意味するところについてはBDの章で述べたので詳しくは繰り返しませんが、簡単に言えば無限のメタへの切望とその挫折です。読み方によっては最後にほんの僅かの「救い」の材料を提供してはいましたが、厳しい言い方をすると構造という動的なメカニズム・ダイナミズムというより(押井さん自身の言葉を借りて?言えば)決定論的な繰り返しという静的な「形式・形態」として捉えられてしまう可能性があります。ですから登坂さんも「フラクタル構造」映画としてのBDという、どちらかと言えば静的な形態論を展開しておられますし、私もBDが戦線確認もしくは宣戦布告のための映画作品だと考えています。要するに初めての「押井監督作品」としては戦略的にはよかったのであろうと思います(BDのサントラでも「メインテーマ・不安」とありましたが不安とは未決定のこと)。しかし<図1>で分かる通りこの構造が幾度繰り返されようが、それだけなら同じ事の繰り返し、宮台真司さんなんかに変に引用される「終わりなき日常」という陳腐なモチーフに捉えられ兼ねません。ですから押井監督がBDで行った方法で満足したかと言えば、まだこれは前哨戦に過ぎないと考えていたのだと邪推しております。

 

 ではBDという前哨戦の次に来る『紅い眼鏡』にはどのような構造が見て取れるのでしょうか? それを考えるための一つのカギは意識の断絶(ぶっちゃけた話「失神して脱出じゃー)デス)にあると思われます。それらは具体的には少なくとも以下の七つのシーンです。

 

0:暗殺部隊ホテル襲撃時のシーンの暗闇(で暗殺されていた筈)

1:映画館での居眠り

2:月見の銀次と立ち食い蕎麦を食した後の(銀次の裏切りによる)トイレでの悶絶失神

3:アオの下宿での腹痛悶絶後の(アオの裏切りによる)トイレに向かう途中での失神

4:ミドリの家に再び戻ったあとの(ミドリの裏切りの)洗面器攻撃による失神

5:映画館での覚醒からフィルム倉庫まで逃走時に転倒失神

6:タクシーで逃走していると思ったらセットであったことに気付く(覚醒)

7:失神、というより最初のホテルで実は最初から暗殺は成功していた;意識消失という意味では同じ?

 

 繰り返しになりますが、BDにおいても物語の中で何度も「夢」のレベルに落ち込んでは醒めるという繰り返しでしたが<図1>、その基本線にあるあたるの属している「現実」の時間空間は私が初回に鑑賞している間の感覚では単線(点線のヨコ棒)のように感じられました(ラスト近く、DNA模型っぽいところで夢邪鬼とあたるが会話していた場所が更にメタレベルに感じられないこともありませんでしたが、それが絵的に成功していたかは疑問)。

 しかし「紅い眼鏡」の場合、「夢」から醒めたと思われる場面は、同時に別の夢の始まりかもしれないわけで、その切り替わりの各1‐6の場面はメタへの上昇なのかそこからの更なる夢への下降なのか判然としません。最初の頃こそは紅一も「ケルベロス隊争乱」から一本に続いている時空間を疑いもせずに信じていたのですが、2‐4にかけてのかつての仲間の裏切り行為の疑い、5での文明から告げられた話、7に至るまでのメタレベルへの上昇への必死の試みとその挫折に続いて、「ケルベロス隊解体」の争乱すらも本当のことであるかが分からなくなり(「人々は熔けかかったアスファルトに己が足跡を印していた」のではなく「ふりしきる雨の中」執り行われた?)「紅一のなかでの時空間」は完全に混乱の極みに追いやられることになります。さらにそれらの苦闘すらも結局は夢のなかの唯我論的な独り相撲的な苦悩であったことが7の暗殺成功の場面で冷酷に突きつけられるわけです。ですから映画のメタ構造分析からは<図2>のように夢のメタレベルの凸凹が適当に反転しても成り立つようわけで、様々なパターンの場合が考えられますが、それらに共通するのは、結局その全体が物語のなかの「現実」(点線のヨコ軸)より下位のレベルのなかでの「コップの中の嵐」であったことを示すような構図となります。

 

 と言うわけでエライ野暮な話なのですが、以上の構造解釈に従って色眼鏡で見た『紅い眼鏡』の各場面の解説(笑)をあらためてやってみましょう。5の場面で文明から認識の危うさを指摘され、紅一は意識消失の前と後ではそのどちらかが夢でどちらかが現実であったかもしれないと疑い始め、それまでの1‐4の意識消失前後のどれが現実だったのか夢だったのか、混乱の極みに追いやられます。そして更には紅一の精神的支柱であり行動の原点である(更にメタ的には物語の前提となっている)「ケルベロス隊の反乱」自体が実は架空のことだったのではないかとまで指摘された紅一は「真実」を求めてメタへの逃走、「真実」と思しき道への階梯を必死で登り始めます。それはまさにフィクションの館である映画(館)から、更にはその実際のマテリアルであるフィルム(小屋)や撮影所からの必死の逃走ですが、気が付けばセットのタクシーに人形の運転手という非現実に「乗っている」自分に気付いて恐怖にかられます。暗い街を放浪し、そして無限遡及を上り詰めた(文字通り何かの頂上の小屋に辿り着いた)紅一がそこで見たものは、紅一の「救いの外部」である「紅い少女」ではなく、雨に打たれて自分に向かって銃を構えるプロテクトギアでした。メタ(現実・真実)のより高い階梯をと求めて見つけたのものは、結局は自分の最後の拠り所であると同時に業のもとであるプロテクトギア=ケルベロス隊の自分であったわけです。しかも自分に銃を構えた。そこで発せられたコトバは当時の私にとってはとてもイタイものでした。

 

 「待っていたのは俺だけだ」と。

 

 結局、その後の7の場面で明らかになったのは紅一が既に最初のホテルの襲撃で暗殺されており、その間の場面1(の途中)から6は死ぬ間際の紅一の一瞬の悪夢「手前勝手な夢」であったことが明らかになります。これをもう少し緻密な分析でもう少し美しい形態ということに拘った構造を読み取ろうとすれば、それはあるいは登坂さんの「紅い眼鏡・鏡像構造論」にまで昇華されるかもしれません。

 すなわち彼が示したところによると、この物語には夢の中へ入ってゆく場面転換と夢から覚めるそれが多数配置されており、それらは映画の中間地点で丁度折り返し構造を形成しているというものです<図3>。つまり登坂さんは「紅い眼鏡」では対をなしたシーンが映画の前半と後半で丁度鏡像のように折り返し構造を呈しているというように解釈を行いました。一見して分かるように、そのは折り返し点を中心としたキレイな階層図のように見えます。それは中間折り返し点が最も夢の最下層でその前後に対照的にメタのレベルの上昇があるかのようにも思えます。これは映画の前半は夢の深層へと降りて行く経過、後半はそこからはい登って行く様子、すなわち中間が最も夢の深層で始まりと終わりが最も現実に近くなってゆくというようなモデルにも見えてしまいます。(当然、登坂さん自身はそのような単純な階層的理解だけがその構造から導き出される唯一の「解釈・鑑賞」方法であるとは考えていないことは明らかですが。)このことは紅一の階段の下降上昇というシーンに注目して見ればさらに説得力を持ちます。つまり前半では主に紅一は階段をどんどん降りて行くシーンが殆どで、そこで希に降りてきた階段を逆に上ろうとすると、激しい排便痛?に襲われ再び意識消失してしまうという次第です。逆に文明に夢と現実の混乱を指摘されよりメタレベル(真相)を目指そうとする紅一は不気味な街中の階段をどんどん上り詰めてゆくことになりますが、その結果は先ほど示した通りです。これを愚直に図式化すると<図4>のようになります。つまりメタレベルの上昇と下降を階段の昇降そのままだと解釈するわけです。これは鏡像解釈とはズレてしまいますが、その方がシーンとの整合性は改善しています。

 以上をまとめれば、この1‐7までの間が紅一の夢という現実より下のレベルであって、その中、つまり疑い始めれば無限に根拠ないものに後退して行く自意識という近代理性の檻のなかで、「真実」を求めてもがき苦しんでいたという地獄絵図であり、実はその前後では冷徹な「現実」という客観的理性的時間が流れていた・・・というように読み取ることができます。そこにあるのは押井さん自身が登坂さんのインタビュー同人誌上で語ったように、決定論的なシステムへの諦めという認識かもしれません。

 

 

<階層的構造解釈はお好きですか>

 

 しかし自分でここまで引っ張っておいて何ですが、実は私は以上の構造分析には全くもって不満、と言うよりこのような捉え方ではこの作品の最も肝心なことを見逃していると考えます。なぜなら鏡像構造では私の感動に説明がつかないからです(爆)。結論から先に言ってしまえば、『紅い眼鏡』という作品のキモは、決定論的な(と言うか時間の流れの順に関わらず前後逆転可能な)鏡像構造と途中まで見せかけておいて、実はその対称性の破れ(の可能性)によって希望と救いをギリギリの線で提示(というより決意、かな?)したところにあると思います(そこに登坂さんであれば「強い相互作用」と「弱い相互作用」における時間対称性の違いというような物理学的問題を見つけだすかもしれませんが、私にはよく分かりません)。とにかく、その部分無くしては画竜点睛&九仞の功を一簣に欠くというものです。これについて詳しく述べてみましょう。

 つまり問題なのは紅一が殺された後の場面だと思うのです(BDも夢邪鬼世界の夢が終わったと見せかけた後が重要だったのと相似形)。文明たちがプロテクトギアを回収しようと紅一のトランクを開けると、そこに入っていたのは沢山の「紅い眼鏡」でしかなかったわけです。「一体いつになったら本物のプロテクトギアが出て来るんだ」と初めて自分の感情を現したように文明が吐き捨てるように呟きますが、このことはこの状況がもう何度も繰り返されたことを暗示(明示?)しています。もしかしたら紅一は既に「実体」である人物の域を超えてしまったのではないか、彼の思いが紅一を無限増殖させて、過去と死という敗北に何度も挑んでいるのではないか? このシーンはそんな妄想をも起こさせました。ここからだけでもトランクの中の「紅い眼鏡」に沢山の意味を見取って作品を語ることは可能でしょう。例えば、無限の反乱、コピー、ニセモノ、世界観、メタ物語(題名そのものですから)、紅一の分身、無限遡及の象徴、等々・・・。しかしそれも、このシーンだけで終わったならBDで見たことの繰り返しにしかならなかったかもしれません。

 しかし本当に心臓が掴まれたように感じたのは、つまり決定論と階層性と対称性が破れたと感じられたのは、文明たちがホテルから撤収していった後に「紅い少女」がすうっと立っているのが見えたときです。彼女は映画の始めで紅一とエレベーターですれ違う(夢へのレベルに下がってゆく紅一とは対照的に彼と入れ替わるように上がって行く)場面はあったものの、主に劇中では紅一の夢の中であるべき劇場のスクリーン上や街中のポスターに現れていた、つまり紅一の夢のレベルと同一平面上、あるいは更に下位(夢・フィクション)のレベルにしか存在しない少女であったはずです。その「夢レベル」の彼女は更に死んだ筈の紅一からの電話をタクシーのなかで受け取ります。そして彼女はモノクロから紅いショールを羽織った「紅い少女」へと「変わって」ゆくのが、モノクロの構造ではなく紅一にとっての紅い「現実」の回復のように思われました(余談ですがそれまでの緑っぽいモノクロの画面はこの紅を引き立たせるために計算された色彩なのでしょう。誰か押井さん作品の色彩論をやってくれないかなぁ・・・)。主人公たちが三原色な名前であることを含め、色彩に込めた意味は多様だと思いますが、一つの意味としては「世界の見え方」=世界観=自我がより一つメタレベルになったことを示しているかのようですが、この場面にはそんな単層的な見方では語り尽くせないような映像の力を感じました。そして彼女の向かう先はdawn purple (ユーミンの歌にもあった?夜明け前のほの青い紫)の空の向こうにあるであろう空港。「新しい」紅一を迎えに行くためでなのでしょう。これは重ねて強調したいところですが、これら一連のシークエンスは全て、まさに今まで示されたメタレベル構造的、階層的決定論の否定・もしくはその可能性ということに他なりません。そのことは紅い少女のメタレベル間の越境からだけではなく、タクシーの(人形ではなくちゃんとした人の)運転手の「人間は夢と同じもので紡ぎ合わされている」と言うセリフでダメ押しすらされます。さらに繰り返し言い換えればメタレベルの越境と破壊による単純な階層構造の否定、決定論的鏡像構造の拒否、同じ過去への無限遡及・堂々巡りに楔を打ち込み、同じ過去=未来でもラセン状に異なった道を歩める可能性を、延々とした地獄巡りの後での(なかでの?)紅い少女という外部による「救い」の可能性を示していたのだと思います(永劫回帰と解釈するテもありますが、私ニーチェ知りません)。

 しかしここまでして決定論的システムを否定してみせても、作品=世界が<図3>で示したような清潔な鏡像構造に取り込まれているという可能性は構図的にも思念的にも残されています。それについて詳しくは述べませんが、感覚的にだけ言わせてもらえば、部分に全体を押し込むという方式というか、無限集合を有限の言葉で取り扱う手管とか、あるいは科学論議や認識論で言われる殺し文句「カテゴリーエラー」っていうような言葉で自然言語で記述される命題を丸め込んでしまうやり方というか、そういったように映像と自然言語による「映画作品」が形式論理の軍門に下る可能性は依然として残されているとは思うのです、特に構造化されている押井作品は。それに対して押井監督はどうしたか?彼はそれをエンディングのメインテーマ、それもオープニングとは異なった変奏を流すことで映像ではない手段でそう言ったものへの否の最後のダメを押しをしたのではないでしょうか。サントラを持っている人は確認できると思いますが、エンディングのテーマはオープニングと主旋律は同じでも異なる変奏部分が挿入されていてより重い展開という印象を受けます(音楽の用語知らないのでメチャクチャだぁ)。つまりよくあるパターン、つまり最後と最初が繋がった無限ループを描く映画作品には収まりきらない「可能性」をここに示したのだと思います。

 

 これに更に視覚的モデルを提出することに意義があるかは分かりませんが、もし少しでも直感的理解に役立つのなら以下のシェーマもいいかもしれません。つまり、円環状に無限に繰り返す(鏡像構造に時間の概念を導入するとこう表せる?)メタ構造ではなくて、下位のレベルがいつの間にか現レベルと等しくなっているような(「人間は夢と同じもので出来ている」)エッシャーの?無限上昇階段(何かの4コママンガで無限下降階段と考え下ればラクだというオチがありましたが、そーゆー解決法?もアリですね)、クラインの壺的な循環構造、メタレベルを決定できないが局所的にアイソモルフの繰り返しを呈する次元決定不能なフラクタル構造、あるいは似たような軌道を描きながらも決して他の線と交わることのないカオス的構造・ストレンジアトラクタ、等々、様々な比喩が思い浮かびます。が、所詮はどんなに数学的・物理的に興味深い構造と通底するところがあろうが、これらモデルを用いてもっと精緻で分かり易い解説が為されることがあっても、それはあくまで現段階では「面白い」以上のことではありません。だいたい私本人がよくこれらの概念よく理解してないっすから・・・(なら言うなよな by ヴィトゲンシュタイン)。

 

 ただ無意識は言語のように構造化されているといった人がいるとかいないとかですが(私のキライな=理解不能なラカンだったっけな?)、もしその意識や無意識の「構造」と表現作品の「構造」が共鳴しあったり引き込みあったりして、心的体制を揺さぶり感動を引き起こすことが一部でも理論化できたりしたら学問的には「面白い」かもしれません。しかし、それでもなお、一旦そのように構造に回収されて絡め取られたと思える感情すら含めた「その何か」は、結局はその構造自体を裏切り脱出しようとするのであり、それをいつまでも静的にせよ動的にせよ「構造」という人間自分自身に理解可能な知識の中に引き止めることは出来ないと思います。しかしそのベクトルすらもそれが脱(ポスト)構造主義という呼び名になってメタレベルでの構造化というように矮小化されそうですが、「犬狼伝説」で鷲尾ミドリが言っていた「血が呼ぶのを待つだけ」という一見超越性への希求に見える危険なセリフだけは、そんな「思想」に回収されないことを祈ります。まあもともと押井さんに関しては杞憂だろうし。

 

 というわけで背伸びして訳の分からない単語をいっぱい入れてしまった不徳の至り(じゃなくて単なるバカ)をお許しくださいませ。だってちょっとかっこつけたかったもので。試論2ではもうちょっとがんばろー(お前はホントにタフじゃのぉー、と言ってみたいっす)。

 

おしまい。

 

追伸 ; もし可能ならば次回では『天使のたまご』、『機動警察パトレイバー2 the movie』、『攻殻機動隊』、『人狼』について形態・構造分析を述べたいと思います・・・がWWFサマに文章拾ってもらえるかどうか・・・

 

 「抽象企業」というサークルの同人誌の押井さんのインタビューは原稿が上がるまで決して見まいと思っていましたが、目出度く脱稿した後に、ツラツラと読んでいると、押井さんの作る極めて構造化された映像やモチーフは結構ホントに意識的ではないらしいですね。この解析をマジにやると、沈黙後のソシュール大先生の後期の未完成なお仕事、「ナントカ詩におけるアナグラム研究云々」と極めて近いことが出来るかもしれませんよ(他人事口調)。コレ、誰か真剣にやりませんか?

 

http://members.cool.ne.jp/~akmatsumoto/index.html

 

(2000/11)



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