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ビューティフル・ドリーマーの構造分析

 

 

 

松本 晶



 

なぜ「構造分析」なのか?

 

 作品の解釈、批評にあたり、その「構造」を明らかにしようとする行為の動機、意味、効用は何かと言えば、色々理屈はつけられますしょうが、究極的には作品世界を理解=掌握=この手にしたいという欲望そのものだと私は思います。しかし面白いことに構造化されている押井作品はそのような動機に対して逆に自己言及的に否を突きつけるわけで、これで私は押井作品にマイッてしまいました。それはともかくとして、この利己的な動機を意識せずに、作品を自分に生じた事件としてではなく外部の事柄として語ることは、しばしばネット上だけでなく散見される無意識的ゆえに手に負えない傲慢な一般論か、それとは対極にある恣意性に甘えた「独断と偏見」という唯我論的言いたい放題を導き出しかねないことを、まずもって自戒の意味で述べておきましょう。

 

 さて、作品の評論は受験国語的な正解発見行為でもなければ、世界の究極論理を探しだす物理学の親戚でもないことは確かなようです。様々な哲学・立場の人々が異口同音に主張するには、解釈・評論とは作品と自分の出会いという「出来事」であり「関係」なのであって、作品そのものと鑑賞者の共同作業の場であるということです。

 ならば同じ作品を見ても様々に異なる見方が存在するのことは極めて「正当」であるべきで、各人が好き勝手な「印象」批評を述べることすら何の問題もなさそうなものです。しかし鑑賞行為とはあくまでも「相互関係」であり、個人の一方的なケセラセラの相対主義的、唯我論的な哲学に居直る態度とは全く異なるということです。ですから各人各様の作品世界を個人の中でどう暖めようと勝手ではありますが、「私」という一鑑賞者が作品と共同で作り上げた臨床例を「他人」に説明する際には、物理的実体ではないとしても作品と鑑賞者の「関係の枠組み」とでもいうべき何かが必要となるでしょう。そのようなものをここでは取りあえず「構造」と呼びたいと思います。

 ですから解釈学的な立場と一見反対のことを言うようですが、もし「押井学」というものが特定の意見の合う偏った人々の間の共通点の確認な

どというぬるま湯ではなく、各分野の人々の相違を際だたせることにより逆に押井作品と私たち自身の関係により肉薄するという逆説を承認するものであれば、そのための第一歩、すなわち叩き台として相応しいのは各人の語る哲学ではなく、押井作品自体の声と文字と映像に回帰しつつ、その意図やモチーフをあたかも実体の如く捉え論じ、各人の異なる考えを様々な土俵に載せて反証の淘汰圧に晒し鍛え上げてゆくことだと思います。それを通過した後に初めて、解釈学的な批評や評論が輝き出すのではないかと私は信じております。作品とはあくまでテクストであり鑑賞者が作品との関係から「抽出」した思想をわざわざ元の作品で再度検証するなどナンセンスと考える方もいるかもしれません。しかしそれならばその思想なり哲学を語る場が、なぜその作品でなければなかったのかという疑問は残ります。ですから今の段階でまず為されるべきことは、ひとつの作品全体を通した要素の分析という還元的作業と解釈学的に演繹・統合され導き出される思想との統合の試みなのでしょう。

 が、所詮これも私の極論、当然私もこのような厳しい基準に適合するようなモノが書けるはずもなく、これは私のたどり着けない夢であり願望であり、更には私の独断であることは言うまでもありません。ですから勿論、これとは別の考え方や方法論(特に一定の土俵に上がること自体の危険性を自覚している方々や論理を使わずに一気に本丸に迫る方法を考えている方々)を否定するものでも揶揄するものでもありません、念のため、老婆心ながら。

 と言うことで、テツガクの出来ない私としては、今回実際に作品の構造分析作業を混乱も含めたそのままのカタチで提示してみました。ですから、構造自体への反論や、そこから導き出される思想的意見は喜んで肥やしにさせてもらいたい思いますので(随分と自分勝手なヤツ)、ご面倒でも是非WWF編集部奥付または私のWEBサイトに、辛口の批判をお願い致したくお待ち申し上げております。

 

 

<前書き>

 これが商業誌や売れセン狙いの同人誌であれば何か「つかみ」の文章でも書いて始めるのがお約束でしょうが、この本は何てったってWWF、さっそく押井さんの劇場版映画の出世作である『うる星やつら2/ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)の「構造」の分析を始めましょう(オンリーユー? 知らんな、そのような名の映画は!<知ってるじゃんオレ>)。初めに言わねばならないことは、これはもともと登坂正男さんの「ゲーデル・エッシャー・(バッハ・)BD」(以下GEBDと略)というそのスジでは有名な同人誌論文に触発され考えたもので、この文章の前半のアイディアの大部分は登坂さんのものであることは強調しておかなければならないでしょう。そして後半の構造から導き出される思想についての考察にはWWFのへーげる奥田さんの「押井論」と野田真外さんの『前略 押井守様』に思想史的な面と考察面で大変お世話になりました(って言うかそれらを下手にこねくり回しただけみたい)。今回はその下手なパロディにならぬよう頑張ってみましたので、既にそれらを読まれた方もここで読むのを中止しないで頂ければ幸いです。

 さて登坂さんの提示した論文GEBDは一般にはBDの構造分析、一種の構造主義的批評と評されているようで、様々な方面の知識を駆使して為された数学的な分析が基本となっており、説得力豊かであると同時にエンターテインメントとしても面白く読める文章で、今もって商業誌・同人誌を含めた押井守評論の代表的作品の一つだと思っています(登坂さんの御厚意により私のWEBサイトで閲覧できるようになっていますので是非一度ご訪問下さい)。

 しかし登坂さんと異なり?、当時は『うる星やつら』と言うかラムちゃんに心底ハマっていた私としては、そのような現役バリバリのオタクとしての自分の実存問題なものを勘定に入れてBDという作品を考えると、登坂さんの分析ではどうも食い足りない部分がありました。理由はふたつ。ひとつには、BDから始まる押井作品は(あくまで私にとってと限定しなくてもよいのですが一応そうしておきましょう)すぐれて「オタク論」である(過去形かも)という視点が登坂さんの文章に欠落していたから(普通ないぞ)。もうひとつの理由は、そのようなオタク的実存問題(笑)だけではなく、登坂さんの分析がいわゆる「構造主義的」というよりはむしろ「形態分析」に近かったからではないかと思い当たりました。構造なるものが多義的である以上、この言い方も極めて曖昧なものですが、ジャン・ピアジェによる定義では、構造主義とは動態構成主義のことであり、予定調和的、共時的、静態的に出来上がり存在しているもの(共時的、つまり「構造」をある時間で止めてみた時の静的な断面ということで、以下これを「形態」と呼ぶことにしましょう)は構造の名には値しない、とのことです。もともと「構造主義的分析」という分類も登坂さん自身が言っているわけでもありませんし、彼が敢えて意識的に物事の形成の関係である「構造」ではなくて、「実体」である「形態」を重視した分析を行ったのかと言う理由も今では少し理解出来てきるような気もしますが、まあそれはまた別の話です(登坂ウォッチャーとしてはそのほうが面白いかも)。

 というわけで? 以下述べるのは自分自身を納得させるために行った実存的な(再笑)文章であると同時に、BDの「構造」分析みたいな中途半端で妙チキリンな文章です。読みにくいのはどうぞご容赦の程を。なお登坂さんへの反論という形で書いたこの文章の元原稿みたいなものも私のWEBサイト上にUPしてありますので、もし気が向いたら見に来て下さい。

(げげちち・まつもとのHP ;http://members.cool.ne.jp/~akmatsumoto/index.html

 

 私は「構造主義」や「ポスト構造主義」などの思想が学問の様々な分野に与えた衝撃って実感出来なかったのですが(私が単に無知&理解力が足りないだけという可能性が大ですが)その理由を説明した本とかを読むとこんなことが書いてありました。

つまり従来の西欧の知は形而上学的観念を背景とした主体とか理性とかを揺るぎないものとしていたのに対して、それらの思想によれば人間行動や社会の仕組みが恣意的で実体ではないモノ同士の関係である「構造」や「システム」という権力に支配されているというのが、西欧の人達にはショックだったのだ、と。基本的にその「構造」だけを取り出せばBDも紅い眼鏡もこのショックを律儀にトレースしたように思えますが、実はそれも西欧近代に感染した人だけの悩みに過ぎないのでは?だからこそ私(たち)が作品に近づくにはオタク的問題が「必要」だと思うのですが、皆さんはどう思います?

 

<映画BDの基本ユニットとその階層構造>

 

「映画のなかの夢は、映画そのものと全く同じなのである。」

ベラ・バラージュ/草創期の映画理論家 『視覚的人間』より

 

 BDの映画を見た殆どの人が気付いていたように、この映画では似たような場面が幾つも繰り返して少しづつ手変え品変え提示されています。学園祭前日が繰り返されていることに始まり、その中でのドタバタ劇、すなわちレオパルドを中心にした破壊劇も少なくとも三回繰り返されていました(サクラさんのセリフ「二度目は悲劇、三度目は喜劇というが、一生やらせておくワケにもいかんか・・・」)。それぞれのシーンはただの破壊シーンに始まり、日常的概念である夢と現実の境界の崩壊というように抽象的なものに至るまで、各人の生活の前提や生きる根拠の破壊ということで取りあえず特徴付けられます。しかしここで注目すべきなのは、一見そのような類似に当てはまらないと考えられる場面(例えば温泉マークの下宿でのサクラさんによる破壊劇等)も同様のモチーフを持っていることです。それによってこのBDという作品は、その丸ごと殆ど全てが相似形なモチーフ、同様な形態のユニットの積み重ねで出来ている極めて巧妙なスタイルを持った映画だということに気付かされたわけです。一つの例として、その基本ユニット自体のモチーフを登坂さんの論文GEBDから引用すれば「<それを初めて観る>者がいて、それを観て<驚く>。そしてドタバタやっているところへ、<誰かがやってきてその世界を破壊してしまう>。」となります。このモチーフに当てはまるものをピックアップして、これら要素・ユニットにU (n); (n=1, 2, 3, ・・・・)と名前を付けるとすれば、それは具体的には以下の通りになります。

 

U (0) ; オープニング;日常生活に必要なものは全て揃ったなかでの「世界」の崩壊

U (1) ; ラムの電撃によるレオパルド暴走による純喫茶第三帝国の崩壊

U (2) ; サクラさんの暴走による温泉マークの部屋の破壊

U (3) ; ラムの電撃によるレオパルドの行水しているプールの水蒸気爆発

U (4) ; 登場人物ご一行様の夜の友引高校探索とそれによる既存の高校存在の混乱(崩壊)

U (5) ; 大亀出現による友引町の外の世界の消失(否定、あるいは世界観念の崩壊)

U (6) ; 大亀出現後の友引町の街並みの崩壊(友引前史序説第三章抜粋)

U (7) ; あたるによる聖バク発動での廃墟の友引町自体の崩壊

U (8) ; あたるの頭突きによる面堂との夜の買い出しシーンの破壊

U (9) ; あたるの逡巡でラムとの鬼ごっこの負けによる過去のうる星世界の破壊

U (10) ; フランケンあたるの夢邪鬼との決闘によるその世界からの脱出(破壊)

U (11) ; あたるのダッシュによるコールドスリープ(ハリボテ)部屋の破壊

U (12) ; あたると白い少女のDNA部屋での対話後の落下/上昇による夢邪鬼の世界からの脱出(破壊)

U (13) ; あたるとラムのキスによる新「うる星世界」誕生かと期待した瞬間、旧うる星世界的運動(めがね・面堂ご一行さまのお約束)によりあえなく破壊

 

 そして面白いことに、これらのユニットが集まって更に大きなユニット、言い換えれば集合S(1)‐S(8)を作っていると考えてみると、それら集合はそれら自身の要素と相似形・同型になっていることに気付きます。ゆえにこの集合同士も相似形・同型であることは明らかでしょう。つまりBD全体を眺めてみると、同型の要素と集合が入れ子構造を取っています。と言うかそうなるように集合を作ってみると、怖い程上手く行ってしまう、というのが本当のところですが。具体的にはどのような集合を考えるかと言うと以下の通りです。

 

S(0) = U (0) ; BD作品の象徴的原モチーフ

S(1) = U (1) + U (2) + U (3) + U (4) + U (5);(学園祭前夜の繰り返しの世界)

S(2) = U (6) + U (7) ; (友引町崩壊後の世界)

S(3) = U (8) ; (学園祭前夜の繰り返しの世界のパラレルワールド)

S(4) = U (9) ; (「うる星やつら」の基本世界のパラレルワールド)

S(5) = U (10) ; (「うる星やつら」TV版的パラレルワールド)

S(6) = U (11) ; (「うる星やつら」TV版的パラレルワールド)

S(7) = U (12) ; BD作品全体(すなわちS(1)‐S(6))の結末

S(8) = U (13) ; 押井「うる星」世界の結末

 

 いちいち具体的に示しませんが、これらの集合のモチーフは先にあげた「<それを初めて観る>者がいて・・・」という形態によく当てはまります。この集合の取り方を見てお分かりの通り、BD前半部分の学園祭前日の繰り返し全体S(1)と、後半の大部分を占める友引町崩壊後の廃墟生活S(2)は共に大きなユニットの集まりですが、S(3)以下のあたるの悪夢遍歴の様々なシーンを含む集合はたかだか「要素」を一つしかもっていない随分と不自然に小ぶりな集合の取り方をしています。しかしこれを「うる星やつら」の可能世界・パラレルワールドという視点から考えると、そのようなS(3)以下の細かいシーンもS(1)、S(2)と同値であるというようにも捉えることが可能かと思います(というか後々の論理整合性のためそうした)。

 繰り返しますが、集合S(1)‐(8)の形態・モチーフはお互いに相似形態で、さらにはそれら集合の要素である任意のU (n) (n=1, 2, 3, ・・・12) とこれまた相似形態になっています(ですからS(3)からS(7)はそれぞれU (8)からU (12)と相同、より強い意味での相似と言えるわけです)。これを視覚的に示したのが<図1>で、この図からもBDはその全体が相似形態なユニットや集合が入れ子構造をとって成り立っていることが視覚的にも分かります。部分と全体が等しいということから、登坂さんはその初期の論文ではBDにカントール・デデキントに始まる近代無限集合論の概念を見出し、最近では更に理論を進めて部分と全体の形態が相似形で入れ子構造を成していることからBDはハウスドルフ次元の確定出来るフラクタル構造形態をもった作品であるということを発表なさっています。後者はアナロジーとしても話としても面白いのですが、そこにはキレイな形態を抽出しようとする余りの牽強付会、多少の無理があるという感想は免れないでしょう。前者については後に吟味しましょう。

 二度目の繰り返しになりますが、S(n)の基本モチーフ・形態はその要素であるU(n)とほぼ相似型で、それは「<それを初めて観る>者がいて、それを観て<驚く>。そしてドタバタやっているところへ、<誰かがやってきてその世界を破壊してしまう>。」というものです。ただS(n)のモチーフに関してはこれだとちょっと大ざっぱ過ぎるのと、後々の議論を進めるにはややモディファイした以下のモチーフと仮定した方が妥当であると思います。つまり

 

 「身の回りの状況=世界の理不尽さに気付いた者(たち)が、これは本来の状態ではない=夢=虚構の現実ではないかと疑い、ついには誰かが作ったその夢=虚構を壊し(壊され)現実に戻った。しかしそこも別の夢=虚構であり、しかも本人たちはそれに気付いていない。」

 

 このモチーフが興味深いのは、否定的な自己言及が二重に含まれていることです。つまり自分の住んでいる世界の真偽を疑うということは、すなわちその世界の一部である自分をも疑うことに他ならないからです。これはまさに自分を含めた一切を疑う西欧の様々な思想の流れの一つでもあるようですが、これは後にまとめて述べましょう。兎に角、BDにおいては温泉マークに始まり、サクラさん、面堂と世界の自明性を疑い始め、そして実はあたるやメガネ連中も遊び呆けていたようでも、その世界の時間と空間がめちゃくちゃになっていることにはとっくに気付いていたようです。ここで注意したいのは、このような自己否定のモチーフを静的で固定された実体と捉えてしまうと、後々このモチーフと映画を見ている私たちの間に矛盾が生じてくることです。別に我々の鑑賞態度が作品のモチーフと一致しなければならない理由は「一般的」には何も無いのですが、このBDという作品に限っては、そのことが重要となるので(理由は後述)、このモチーフはあくまで運動としてのみ扱い得るベクトル(モチーフの運動方向)としてα→と表すことにしておきましょう。つまりα→は各ユニット、各集合の自己否定、自己破壊のベクトルであり、構造の時間による微分みたいなものと考えて下さい。更にこのモチーフのもう一つの重要な点は、その夢=虚構を造る者が同時にその同一世界にいる、ということでしょう。つまり夢邪鬼は、自分で造った虚構の世界を神のように俯瞰鳥瞰して見ているだけではなく、その世界を自分の住処としていることです。このような「創造者が被創造物と同一世界にある」もしくは「世界の創造者がメタのレベルではなくて同じ次元にいる」ことを、これまた実体的な形態ではなく世界生成の運動としてのベクトルという意味でβ→としておきましょう。

 以上をまとめると、映画BDの全体の構成は<図1>に示すように、α→、β→というモチーフ、すなわち「否定的自己言及」と「創造者が同一次元にいて世界を生成している」というベクトルを持った相似形のユニットが「入れ子形態」(これをγ→としておきましょう)を成しているということになります。以上示したBDの「形態」は、私の解釈で各シーンを抜き出し、さらに都合のよい集合を作ったという意味で恣意的なものに過ぎませんが、それら全てが虚構だとしてもその要素全ては紛れもない上映作品(の一部)です。他にも多分様々な要素、集合、形態の捉え方があるとは思いますが、私の予想としては、異なる手続きや方法でBDの妥当な別の形態を「想定」しても、次に示すようなBDと私という鑑賞者が出会うときに生じる出来事としての解釈、評論の大筋は変わらないのではないかと想像しています。

 

<BDの構造の発展とその指し示すもの>

 

「ショットはモンタージュの要素である。モンタージュは要素の組立てである」

プドフキン/モンタージュ理論創始者クレショフの弟子

 

「ショットはモンタージュの要素ではない。モンタージュの細胞であり胚珠である」

エイゼンシュテイン/『戦艦ポチョムキン』監督

 

 それではとりあえずBDと言う作品が以上示したような形態を持っていると仮定したときに、そこから私が汲み取ったもの、私とBDの関係である「構造」とはどんなものだったでしょうか? それを明らかにするために、形態から構造に至る話をこのまま進めた方が一貫したキレイな文章になりますが、それだとなぜこのような形態の分析をしているかという動機がぼやけてきてしまいそうです。そこで一旦、以下暫くBDの形態を織りなす各要素について再検討してみましょう。

 

 繰り返しになりますが、BDのモチーフ取り出したその形態の要素の特徴は、(α→)否定的自己言及をもったモチーフが(γ→)入れ子形態をとっていて、そこでは(β→)創造者と創造物が同一次元に存在する、ということです。しかしこれらはちょっと複雑で要素と言うにはあまり相応しくない感じがします。実はこの3つのモチーフは更に簡単な要素の組み合わせとして表現することが出来て、その二つは

 

(A)自己意識(=自己モニタ=自己懐疑=メタ的視点= 自己言及)

(B) 二項対立

 

となります。この二つの要素を使い(α→)‐(γ→)のモチーフは次のような手順で導かれます。まずBDで描かれる最も基本的な二項対立(B)は夢と現実です。現実において夢は虚構として否定されるものですが、今自分の置かれている世界を(A)意識し疑い始めれば現前の世界は自己の意識以外の何者でもないことは論理的に否定する手段はなく、結果自分を含めた自己の世界を否定する運動、すなわち否定的自己言及(α)となって現れます。(γ)の入れ子形態は(A)「自分を意識する」ことが、すぐさま「「自分を意識する」を意識する」になり、さらに「「「自分を意識する」を意識する」を意識する」となり・・・のようにメタ方向への運動はそのまま入れ子形態を作り出すことが容易に想像できます。(β)はものを作る人間、つまり作家としての押井さん自身の自己言及であることを思い浮かべると簡単に説明がつきます。つまり作家は夢=虚構世界を造りだしますが、それは夢であると同時に作品という実体=現実でもあり、その二項対立 (B) をしている自分と作品をメタ的視点で眺めれば(A)、それはすなわち(β)のモチーフそのものです。少々出来過ぎの感もありますが(そうでもないか)、この二項対立はこの後の押井作品のキーワードになっていくことを考えると、この推測・仮定もあながちデタラメばかりではなさそうです。

 というわけで、よくBDの評論でしばしば話題になる疑問、BDのメインモチーフは「夢と現実の等価性」なのか「夢に微睡む者達への警告」=「他者性の喚起」なのか、という「二項対立」的議論がありますが、これはそれぞれ上記の(β→)と(α→)のモチーフに他なりません。ということでそれらは別に対立するものでも二者択一するものでもなく、BDでは両者が同時並行して述べられていたのであり、双方とも自己言及と二項対立というBDの「基本公理」から導き出される「定理」であることは以上の議論で明らかでしょう。蛇足で言えば、このことが何を暗示しているのかというワタシ的な解釈(BDの構造の一端)をすれば、夢(自己と意識)と現実(他者と存在)の不可分性を徹底して意識しないで行われる他者との邂逅や超越的概念が、逆に如何に自己中心的な押し付けに陥りやすいかを知る押井さんは、まず夢と現実の徹底的な相対化が先だ、という覚悟をBDにおいて表明したのだと思います。更に蛇足で言えば、サントラの題名にあるようにBDは「メインモチーフ・不安」なのであり、BDでは以上述べたモチーフの未分化な状態としての「不安」をまず皆に共有して欲しいという「動機」が最も強いんじゃないでしょうか? まるで前線から日本に戻って来たばかりの諦めていない柘植行人のように。

 ですからBDでも後の作品と同様、二項対立とその否定というモチーフがこれでもかと言うほど様々な形で描かれています。具体的シーンをあげれば、日常と非日常の同居(夜の街のチンドン屋)、客観的なで未来へ向かい一方向へ流れる時間とループする主観的時間(繰り返される学園祭前日)、現実と夢の混乱(温泉マークのデジャヴ、妄想?)、開かれた空間と閉じた空間(友引町から出られない面々と内部に再誤配される電話)、客観的時間と主観的時間への誘惑(夢邪鬼タクシー)、時空間的の次元の混乱(友引高校突入捜査の際の階数の変容<2階建て‐3階‐4階へ>に象徴される・後でエセ数学的なことにちょっと言及)、鳥瞰的にメタ的に一定の事実平面から脱出する試みの挫折=犬の視点vs.メタ的な鳥の視点(面堂家私設軍隊のシーハリアーという垂直移動による友引町脱出の失敗)、恒常的な日常から速やかな終焉・廃墟への変容、それに伴わない日常生活の恒常性、と話の風呂敷を畳み始める前までのBDの物語は全てこの調子で描かれていたわけです。そしてその否定の契機となるのはいつも誰かの意識、自己と自己の世界を鑑みて否定的契機を見つけだす自己言及なわけです。

 

 以上を確認した上で、形態から構造へのの話に戻りましょう。ここで再度確認しておきますが、私が問題にしたいのは、BDという作品がいかに優れた形態を持っていることを解明したいわけでも、押井さんがどんなに優れた問題意識を持って卓越した方法論でそれを描こうとしたかでもありません。BDの形態がどのように作動して私(たち)を魅了したかという、作品の機能、作品と鑑賞者の相互関係、すなわち「構造」「関係の枠組み」なわけで、それこそが私の知りたいことです。

 さて、以上述べたようにBDの各要素はその形態に優れて相応しいものを極めて整合的に配置した素晴らしい作品であることは分かりました。しかし改めて考えると押井さんは何故これらのモチーフ

(1)否定的自己言及(2)入れ子形態(3)創造者と創造物が同一次元に存在する

もしくはその要素

(A)意識 (B) 二項対立

というものをBDという作品を作るにあたって採用したのでしょうか?それは自己言及にせよ入れ子構造にせよ、それらが無限の階層を生み出すからだと思います。では何故無限の階層が必要だったのか。これ以降は全く私の推測ですが以下のような「動機」を考えています。

 映像作品において、ロゴスもパトスも含めた何らかのラング(言語体系)の領域での描きたいモチーフがあったとき、これをそのまま表現のモチーフとして単品で出した場合、それが肯定的命題として機能するなら別に問題は生じませんが、もしそれが作品の要素(って言っても作者に始まり他者も世界も何でもカンでも結局は人間に関することなので、結局はヒトを描く表現ならどんなものでも)に関する否定的命題の場合、ラフに言えば自己言及から「嘘つきのパラドックス」(私はウソを言っている、っていうアレですね)が生じるからです。対処法は幾つかあります。気付かないフリをしてシラをキリ通す(本当に気付いていない場合は非常に多いが)、神様の視点を詐称する、悩むポーズを見せる、等々です。しかし押井さんの用いた方法はその何れでもなくて、否定的な自己言及という自分も作品も鑑賞者も世界も引き込めるような構造自体を作品にしてしまう、という見事な「解決法」です。このことは数学的な階層構造が自動運動的(つまりヒトの観念の自然な方向に)に階段を上がってゆくようなもので、無限集合論とBDとの接点みたいになるところですので後に解釈論的・意味論的なことでまとめて述べましょう(先走って言えば、実はまだ「解決法」は色々あって、様々な命題を含むそのシステム自体が「正常」でないことを認めてしまえば嘘つきパラドックスやゲーデル命題的の致命的パワーは霧散してしまうような気がするのですが・・・たとえばラングの外とかはどうでしょう?)。

 さてそれが何を意味するのか、具体的にいきましょう。<図1>を見て分かるように、相似形のモチーフ(要素とその集合)が入れ子構造を作っているということから私(たち)が「自然と」考えつくのが、更にその上位の集合があるのではないかという意識、何かまとまったカタチを常に見出そう(発見、発明、捏造)とする自己意識であり、その結果自己言及をそのBDという作品自体にも及ぼすことになります。即ち<図2>に示すようにBDという作品自体が入れ子形態を持った集合BD(0) とすると、必然的に?BD(0)、BD(1)、BD(2)、BD(3)・・・の存在が思い浮かびます(実はここいらへんはかなり苦しいロジックですが、実はこの調子でメタ構造の階梯を登ろうとすると出来てしまうという感じで、まるで何もない空間を踏み出してみたらいつまでも登って行く階段があったような感じです。つまり事後的説明ではありますが、これは構造主義生物学の人が批判するような「身体や言語の階層構造の捏造」問題とは異なるようであるとは言っておきましょう、山勘だけど)。そしてそれらが要素となりそれらを包含する相似形・同型の集合OS(0)を作ると仮定しましょう<図3>。その時要素はBD(0)ただ一つでも構いませんが、実際後ほど示すようにBD以降の押井作品もBD的モチーフという意味でこの要件を満たすものと考えられますのでBD以降の作品をBD(1)、BD(2)、BD(3)・・・BD(n)とすれば、OS(0)の要素は押井的作品全体と考えて宜しいかと思います。ここで示唆されるのは、BDがその後の押井作品全ての出発点であり、公理や原型ととなっているという意味があるのではないかと邪推します(BD公開直後にこんなことはないと考える人はいるでしょうが、先ほども示したように集合は要素がたかだか一個でも成り立つし、空集合っていうテもあります)。さて、ここでもし仮にこれらの集合、BD(n)においても S(n) のモチーフが適用できるとすれば(n=0, 1, 2, 3・・・)、これらのモチーフは具体的にどのように記述されるでしょう? しつこいようですが、この入れ子構造のモチーフをもう一度書けば

 

 「身の回りの状況=世界の理不尽さに気付いた者(たち)が、これは本来の状態ではない=夢=虚構の現実ではないかと疑い、ついには誰かが作ったその夢=虚構を壊し(壊され)現実に戻った。しかしそこも別の夢=虚構であり、しかも本人たちはそれに気付いていない。」=「(α→)否定的自己言及をもったモチーフが(γ→)入れ子形態をとっていて、そこでは(β→)創造者と創造物が同一次元に存在する。」=「(A)意識 (B) 二項対立」

 

となります。まずここは素直にBD(0)と表した「BD」という作品自体にメタ的にこのモチーフを「適用」してみましょう。まず「β→」のモチーフ、「BD」を作った者、すなわち押井さん(と取りあえず考える)が「BD」と同一次元にいるという一見無意味な命題は何かと言えば、これは先ほど「β→」自体の説明で述べたように押井さん自身の創作活動そのもののことであり、夢邪鬼が押井さん自分自身の投影であることは多くの人が指摘する通りです。つまりこの命題自体がメタ的であり、作品のなかに作品の創造者と作品自体の関係を投射したものだったと言えます(それは実は当たり前で要素(A), (B)のところで説明したことの繰り返し)。しかしこれを別の方向から見ると創作活動についての押井さんの面白い見解を聞いているようにも思えます。つまり表現作品とは自己の夢を外部に出したものですから、現実・外部であると同時に虚構・内部であるという表現も出来るわけで、これは実際にこの私たちの生きている「現実」においても成り立ちうる命題をメタ的なベクトルによって作品に投影していることを示唆しています。つまりBDという作品はそれ自体で完結するのではなく、更にメタレベルへ進もうとするベクトルそれ自体を形態として表していると思われます。

 社会人文科学である構造主義では「構造」の明確な定義は難しいのでしょうが、それを模した構造主義生物学によれば「構造」とは実物から抽出され得る実体ではなく、恣意的な「形態」+「機能」ということになるそうです。私は「映像作品とはラングだけでなく深層にも感染するウイルスである」というインチキテーゼを広めようと考えているので、次回(あればの話)は構造主義を模倣した構造主義生物学を更に模倣して押井作品評論(笑)をやってみようと考えています。これはコピーとオリジナルの差異を混乱させ郵便論的誤配を生じさせる極めてポスト構造主義的試み、というのは大ウソで、極めてアニメファン的に面白そうなので試そうと考えていますが、それこそ「カタチ」になるかは疑問ですね。

 次に(α→)否定的自己言及=「身の回りの状況=世界の理不尽さに気付いた者(たち)が、これは本来の状態ではない=夢=虚構の現実ではないかと疑い」をBD作品自体に適用するとどうなるかと言えば、BDを見る者、すなわち視聴者である私たちが「BDという作品が夢であり虚構ではないかと疑う」というよく分からない命題が出てきます。だってBDというのは「うる星やつら」の映画、フィクションに過ぎないわけで、もともと虚構であることを言い張る必要など無いように思えます。しかし何かを虚構ではないかと疑うということは、それ以前には紛れもない現実だと信じていたことを示します。要するにこれは「うる星やつら」を現実として生きていた視聴者の存在を暗示(明示?)しています。そして実際の私および私の周りにいた激烈な「うる星やつら」のファン、オタクであった経験から言うのですが、あの当時の最高潮のブーム時にあっては(すなわち多くの人に共有されているという点で「現実」の要件を満たしていた)うる星やつら=BD世界を私(たち)は「本当の世界」のように感じていた時期がマジであります。別にそれは幻想や幻覚という意味でも、ましてや「夢と現実の区別がつかない」という陳腐なオタク批判などでもなく、宮台真司さんならば「濃密な時間、空間」とでも名付けるであろう、自分が世界と濃厚に関わっていられる強度の問題としての「現実的」時空間ということです。つまりこのようにアニメ的作品世界でしか濃密に生きられないオタク的な視聴者の存在こそが、このBDのモチーフ自体への投影であり、更には作品形態を強固にするわけであり、また逆に言えばさらに上部へのメタ的運動を示唆するわけです(悪人正機説みたい)。先走りになりますが、言い換えれば自閉的であるはずのオタクがBDを見て心底衝撃を受けるというような事態が、押井さん自らの何らかの体験(学生運動でも何でもよいですが)と、彼の「仕事現場」で生じているオタク的問題とが相似形であることを見抜いていたからこそ、そのショックを経てこそ更にメタへのベクトルが可能になるはずだという意志をいま・ここで訴えるには、うる星やつら&オタクという「状況」は最適ではなかったか? と都合よく邪推します、たとえそれが私のオタク的実存のなせる業だとしても。

 しかし実際に押井作品はどう受け止められるかといえば(ラムちゃん命というファン以外は)、殆どの押井シンパのBD論が各モチーフの重要性とそこから導出される「哲学」を語っていても、キャラクターへの思い込みといった極めて卑近でありながら私(たち)自身としての出来事における重要なファクターや、オタク的感覚のうる星やつらファンの存在を、どちらかと言えば否定的に捉えている印象があります。しかしそれはBDのモチーフ自体を解釈するにあたって極めて鈍感 and/or 不徹底な態度であると私は思います。

 逆に言えば、もし以上述べてきたBDの形態を一応認めるけれど、BDに内在するオタク肯定的(というよりオタクから始まるベクトル)なモチーフは否定するというならば、それは即ち形態のメタ的連続性を拒否してそれ以上の思想的な展開を否定することと同値であると私は思います。ですからこの解釈をどうするかが最も意見の分かれるところであり、また私のオタク的実存(再々笑)に関わってくるところです。つまりマジメに議論するなら選択は二つ、このモチーフを馬鹿正直に肯定してオタク的出発点を是とて私たちとの「関係論」としてのBDという非実体論的立場に立ち、さらに上部へのメタ的議論の広がりを受け入れるやり方。もう一つは虚構世界を現実と捉えるというような「夢と現実の等価性」は幼過ぎる哲学だとしてBDを実体としての作品に留め、それ以上のメタ的な解釈哲学的な語りについては沈黙するか、の何れかと思います。私が登坂さんを高く評価するのは(すっげーエラソウ)、私とは志や方向が異なっていても彼が後者の立場を貫きながら、沈黙によって彼自身の哲学を語っているからです。これら二者択一以外の中途半端な方法(例えば基本モチーフは認めるが、私たちの「現実」レベルの夢と現実の等価性というオタク的問題には頬被りして通り過ぎるかもしくは神様の態度でしたり顔に批判し、でもさらにメタ的に展開されるモチーフの言及する哲学的問題は高尚そうなので素知らぬ顔で論じることも可とする、というようにご都合主義で自分を取捨するやり方)は別にダメとは言いませんが、BDの思考方法とは一致していないか、もしくは自らの態度自身が一貫していないかのどちらかであるということを自覚して欲しいものです、ワタシ的には。

 

<更なるメタへの形態・構造の解釈>

 

「良い映画はそもそも<内容>を持たない。映画は<同時に芯であり外皮>であるからだ。そこでは内なるものが外にある」

ベラ・バラージュ 『視覚的人間』より

 

 さて先ほど述べたように、自己言及や入れ子形態は無限の階層を生み出すわけで、そのモチーフをBD(0)に当てはめただけで様々な考察を誘導する作品であることが分かりました。それでは更にBD(n) (n=0, 1, 2, 3・・・n; nは自然数) を含む押井作品全体の集合、OS(0)についても以上述べたモチーフが適用できるのでしょうか? そしてもしそうならば、それは何を意味しているのでしょうか。OS(0)の要素であるBD(n) (n=0, 1, 2, 3・・・n; nは自然数) が架空の作品ならば、その集まりであるOS(0)という集合も単に架空の作品群である、と考えるならば議論は先ほどと何ら変わらないものとなるでしょう。しかし要素をまとめて集合を作るという試み自体がメタ方向へのベクトルであったことを思い出すと、OS(0)はもう一段メタ的な概念を指し示しているモノのはずです。ですから再びここでは解釈が二通りに分かれるところでしょう。つまり先ほど述べたように、BD(0)が「現実」における押井さんの創作活動そのものを内包しているとすれば、その集合をメタ的に解釈すれば、OS(0)とは押井さんにとっての、もしくはそれを見ている私(たち)にとっての「いま・ここ」の「現実」であるというやや過激な解釈が成り立ち得ます。もう一つの解釈はかなり穏当で、すなわちOS(0)とはBDを含めた押井作品というオブジェクトレベルに留まりますが、しかしそれは表現作品自体について語ったメタ的表現論、メタ的作品だというものです。しつこいようですが、前者は私の立場、後者が登坂さんの立場です。後者の立場ではこのレベルでメタ的形態の展開は終わりとなるわけですが(だからBDのフラクタル次元が決定し得る)、前者の場合にはいつまでも無限遡及を繰り返す可能性を残しています。ちょっと抽象的な話になったので話を戻しましょう。

 もしOS(0)が押井さん、あるいは私(たち)にとっての「現実」という解釈が成り立つならば、BDで語られたモチーフはどのように適用され、どんな命題を生み出すでしょう。これは押井さん(私たち)がBDの登場人物と立場を同じくしたことを意味します。すなわち

 

「現状の世界の理不尽さに気付いた押井さん(私たち)が(これは虚構の現実=本来の理想社会ではないと考え)ついには誰かが作った現状を壊して現実=理想の社会に戻ろうとしたが、以前の社会が壊れた後の世界も結局は理想としての「現実」ではなかった。」

 

これは随分と分かり易い話です。例えば押井さんの原点が60‐70年台の学生運動等であったとすれば、その闘争により「現実」なるものを変えて新しい現実=理想社会に到達できるかと思いきやその運動は挫折した、というよりもともと理想の社会などというは虚構、幻想に過ぎないのではないかという問題意識(そのままこれをストレートに出してしまっては団塊の世代の随分と安っぽいノスタルジーにも成りかねないこと)を表した命題となります。またこれを私たちオタクの問題と考えれば、「自閉的オタク社会から<現実>への適応を図ったが、その「現実」なるものも所詮は自閉的なものに過ぎなかった」というように、(日本の)社会への一つの批判ともなるかもしれません。ですからここで鑑賞者が思考を止め入れ子形態をこれ以上上部へと遡らなければ、まあ所詮これくらいの映画か、みたいな感想を抱く人がいても無理からぬところで、これは大塚英志さん的な表層的オタク批判や佐藤健志さんの言うような押井批判に繋がりかねないわけです。しかし正直言って、彼らはあまりに近視眼的な早トチリという間違いを犯したと言えましょう。例えば大塚さんはその昔の著書『[まんが]の構造』でこう言います。

 

「<現実>への回路を持たない少年たちに向けられた作品が、まずなさねばならないのは、まさに、失われた<現実>への途をとり戻すために居心地の良い作品世界をいかに破綻させていくか、という試みではないか。いいかえれば、完璧であることを目指すのではなく、作品世界そのものを相対化していく仕掛こそが必要とされるのだ。押井守が好んで使う"夢落ち"(例えば「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」)は、心地よいアニメの画面が虚構にすぎないことへの悪意に満ちた念押しに他ならない。(映画館の画面で繰り広げられたあたるとラムの純愛物語を押井守はラストで二度にわたって「夢だよ」と主人公に語らせていることで否定し、観客を<アニメ>という夢から覚まそうとしている。)」

 これは押井さんの問題意識を見くびって賛成している良い例?ですが、この評論自体はBDのモチーフでお答えを返した方がよさそうです。つまりラストシーン、あたるはラムに向かってあの(ラムにとって)居心地の良い世界は夢だったのだと言い、今まさに現実に帰ってきたのだということを教え諭しているようです。ここまではあたるが大塚さんと同じように見えてくるのですが、その後あたるとラムがキスをしようとするとメガネや面堂たちのジャマが入って中止というシーンがありました。これ、単なるお約束のドタバタと捉えられがちですが、実はここからがBDのミソだったと私は考えています。つまりキスをすればそれまでのうる星ワールドの基本公理「永遠の追い駈けっこ」をキチンと壊して、新たなメタへの跳躍(高々物語次元のなかでの話ですが、これだって共同幻想という物語のなかを生きている我々が別のより自由な物語を目指すことと相似形であることはBDの形態を確認するまでもない)があり得たわけです。それがやはり「うる星やつら」の力学により潰えてしまった。さらにダメ押しをするかのように聖バクを伴った(破壊の契機すらコントロールしている)夢邪鬼が彼らと同じ物語平面に再登場したわけで、これはあたるやラムたちが依然として「夢」のなかに留まっていることをそれこそ念押ししているシーンに他なりません。これは自分の「現実」なるものに疑問を持たずに安堵した瞬間、つまりメタ的な入れ子形態への飽くなき希求=否定的自己言及の運動を停止した途端に「現実」というまた別の名前の誰かの「夢」に絡め取られてしまうことの表現でなくて何でしょうか。これが「現実的に」どんな意味があるか分からない人は結構幸せ者でしょう。このことについては香山リカさんが、ゲームという虚構にハマる子供達について書いていましたが(今手元になくて詳細不明)、要するにゲームという夢みたいなことに逃避しないで現実世界と関わり合えと気楽に言う人達がいるけれども、実際の現実なるものが偏差値絶対の学歴信仰だったり、お金一神教の世の中だったりとあまりにも表層的な幻想の世界と変わりなくて、たとえその「俗世」にあきれ果て精神的な問題を求めれば今度はインチキ啓発セミナーや新興宗教によって「本当の自分」だの「本当の世界」だのを洗脳しようとするという有様、それにもかかわらずお気楽に現実へ帰れという人はおめでた過ぎ、どうかしているんじゃない、みたいなことを書いていたと記憶しています(違うかもしれない)。

 つまり問題は大塚さんの示したような夢と現実の二項対立や実体・現実への安心ではなく、差異への眼差しであり現実を夢ではないかと疑うベクトルそれ自身です。

 また逆に佐藤さんのように、押井さんが現実なのか夢なのか判らずに苦悩する状況というのは実は「挫折からの救済になって」いて「[夢=現実]という図式を使って、実は挫折は起きていなかったという結論を出そうとしている」と決めつけて、押井さんが学生運動の挫折から逃避していると断じる人達もいます。しかしここで問題になっているのは挫折の有無などという過去に妄執した人間の姿ではなくて、一般的な理念のいうものの挫折を契機として語られる「世界観や価値観とそれらを基に構成される自我の揺らぎや崩壊」という極めて私たちを含めた多くの人に共有されるであろう危機感であって、これは押井氏が学生運動を受け止めた上での一般化であると、少なくとも私は思います。

 

 以上実際に示したように、無根拠に信じ込んでいる私たちの「現実」なるものの危うさを疑わないで押井作品を批判する迂闊な者はあっさりとBDのモチーフの餌食にされてしまうわけですが、ではそのような「現状批判」ばかりでなく、先ほどの集合OS(0)は更にメタな集合を作りだして、さらに何らかの命題を提出し得るのでしょうか。ここからは多少抽象的な話になってしまうでしょうが、それは別にどこまでもカッコをつけてまで忌避すべきことでもないでしょう。

 では以下、具体的にBD形態をOS(n) (n=0, 1, 2, 3, ・・・) の集合であるG(n)に適用することで何らかの思想が導き出されるかを実演してみましょう。実はこの問題意識はへーげる奥田さんが「BDは現象学的な作品と解釈できる」というカタチで既に彼の『押井論』において指摘されているのですが、そのようなモチーフがBDの構造を操作することで実際に「導き出される」のか私にはよく分からないので実際に検証するしかなさそうです。これが哲学シロウトの「誤読」であれば、是非詳細に反論、ご教授下さい、いやマジで。

 ここからは形態を用いつつもかなりロジックが飛躍しますので、私自身の考察に堕しているでしょうが、まあやってみましょう。OS(0)が私が見ている世界像だとすれば、それは私的幻想とも言うべき私から見える世界(認識)の枠組みです。ではそこから類推して他のOS(n)は何かと言えば他者の私的幻想ということになります。私にとって他者とは突き詰めれば私の認識に存在するモノであり、それは他者にとっても同様であると仮定すると、集合同士は相似形であると言えますが、それすらも客観的な実体としてのものではありません。そのときにOS(n)を集めて出来る集合G(0)は私(たち)の社会の共同幻想ということが出来るかもしれません<図3>。そこにBDのモチーフを当てはめるという暴挙を行うと(つまり要素から全体へ逆転写する)と以下の命題が作られます。

 

「現実世界の理不尽さに気付いたヒトが、これは虚構の現実と考えて創造者が作った今の現実を壊して真の現実に戻ろうとしたが、結局はその<真の現実>なるものも「現実」ではなかった。」と言う形態が入れ子をなして無限にメタ的に続いている

 

 ということになります。これを認識の思考方法と考えれば西欧の思想の一連の系譜、すなわちデカルトの方法的懐疑に始まり、ニーチェが苦悩した?キリスト教的思考を基礎とする西欧形而上学への懐疑、そして現象学の始祖フッサールの「還元」という懐疑の方法論、という懐疑の歴史の系譜を押井作品のモチーフに見出すことが可能でしょう。またこのモチーフを、存在それ自身への意志、希求、渇望と見なせば、そこにハイデッガーの前期から後期にかけての思想を自らに生じた出来事として駆け抜けて行く押井さん自身の姿が見て取れるかもしれません。ここいらへんの事情は私よりもへーげる奥田さんの『押井論』にある「ハイデッガーにおける世界内存在としての現存在の解釈学的分析論を方法とする基礎的存在論の展開の試みとその挫折および放棄」の近辺を読んで頂く方が適当と思われます。要は挫折なのです。

 しかしBD自体は現象論的モチーフをもっているとしても、私たちや押井さんの「分身」であるうる星やつらのキャラクター達はむしろ現実世界の「存在」への渇望や自己同一性を支える超越的なるものを求め行動しているように思えることから、むしろ私が興味あるのは、なぜヒトが現象論的還元に自由ではなく虚無を感じ、実存に励起された挙げ句に超越的な実存(現存在?)なるものを想定しなければならなかったのかという疑問です。彼らドイツ哲学(ってランボーな分類)の方向は、キリスト教的西欧形而上学の代わりになる自己の支えとしての何か絶対的な超越を希求していたと私には映りますが、それは現代の私たちが近代の男の苦悩を解剖学的にヤレヤレご苦労なことでと思うのではなく、むしろそこには現存のちょっとズレたアニメ映画監督やオタクとしての(かつての)私自身の姿を重ねて見て取る方が相応しいと思います。

 ちなみに存在や自己といったものがどんなに懐疑されても、西欧の存在の思考の系譜ではそれらがヒトが「正しく生きる」のにゼッタイ必要だとア・プリオリに考えられているようですが、そんな思考フォーマットに我々が心底付き合う必要はないと思います。フッサールの現象学は、徹底的な何段階にも渡る現象論的懐疑の後に「本質直感」というものを提唱していますが、これが往々にして超越的な認識技術論と捉えられますし、私だってそう思います。もしそうならば現象学的方法とはBDのモチーフというより、むしろ物語の最後で夢から醒めたと思ったあたるが実はまだ夢のなかであったという「状況」=すなわち自己言及的に否定されるべきでありながら未だ想定されていない「超越的現実」という「要素」のことではないかと思ってしまいます。しかし一方で、竹田青嗣さんによれば「本質直感」とは超越的認識ではなくて、あくまで権利的に想定し得るものであり、彼の読み方では認識のための操作概念みたいなことフッサールは説いているとのことで、半分だけ賛成です。何故半分反対かと言えば竹田さんの文脈での「本質直感」は極めて構造生物学で言うところの「脳構造」に近くて、それは人類共通の認識という肯定的な響きではなく、virtual‐realityやら脳科学やら洗脳やら薬剤による至高体験やら『攻殻機動隊』的ニューロサイバーパンクを知識として知っている私たちにとっては移ろい易い生物学的実体に感じられます。つまりその最後の砦的に語られる本質直感であろうとカントの純粋直感であろうと、いかなる超越的概念も全く信用するに足るものではないことを現代の私たちは「実感」しているからです。しかし問題はヒトは自分を支えてくれる超越的概念がなければ生きられないわけで、これをマジメに考えれば様々な悲喜劇を引き起こすのは半ばやむを得ないことなのでしょうか。その問題意識はやがて『紅い眼鏡』に引き継がれますので、この話はここまでとしましょう。

 

 さて哲学は別のヒトに任せるとして、ここで私はBDのモチーフをわざわざ要素として還元して「(α→)否定的自己言及をもったモチーフが(γ→)入れ子形態をとっていて、そこでは(β→)創造者と創造物が同一次元に存在する。」=「(A)意識 (B) 二項対立」とした意味を示さねばならないでしょう。一つの理由、利点、意義は先ほど示したように、これら基本モチーフがその後の押井作品にも引き継がれていることを感覚的にではなくて実際に議論のできる「もの」として示す根拠の一端にするためです。もう一つは、このモチーフを数学における形式主義的な扱い(あくまでアナロジーですが)を出来るようにすることで、BDの表現しているものの一つであるヒトの認識、自我意識、自己言及構造を抽象的なメタ概念として更に発展させてみたらどうかという出たとこ任せ的な試みの現れです。

 さらに気取った?言い方をすれば、抽象化の動機は至高を求めるためではなく、様々に異質な思考をもったヒトたちにもBDという作品を捉えられるような「取りあえず」の基本的フォーマットのようなものを作ってみたいという欲求です(結局メタ欲求だが数学=私たちヒトの思考のサブルーチンの外部化は私たちのちっぽけな想像力を超えて自動運動的に思いも寄らぬ結果を生み出すことがあるという異化作用を面白く思うから)。つまり形式主義を提唱した大数学者ヒルベルトが幾何学について「点、線、平面というかわりに、テーブル、椅子、ビアジョッキと言ってもよいのだ」というウソのような逸話と同じコトで、初めにBDに無限集合論を持ち込んだ登坂さんもこのような問題意識があったのではないかと邪推しております。

 

 その方向で考えると、面白い符丁が幾つも出てきます。現代集合論の祖であるカントールによれば、全ての要素同士に一対一対応をつけられる無限集合同士は「濃度が等しい」という定義があります。これをもって一般には「無限集合では部分と全体が等しい」というドグマとなって現れますが、この事情はBDの形態に似ているところがあるように見えませんでしょうか(無理矢理そういうことにして話を進めましょう。図を使っての具体的解説は省略)。この無限集合論での一対一対応で集合の要素の数(濃度)を決めることによって展開される論理によれば、次元の異なる線分(一次元)、平面(二次元)、立体(三次元)、四次元(時空間?)・・・n次元ですら全て「濃度」が等しいということが「証明」されてしまうそうです。これを通俗的な?「部分と全体が等しい」方式で解釈をすると、無限を扱った途端に何次元であってもそこに含まれている要素(の濃度)は等しいということになってしまい、これは感覚的にはとても承伏しかねる解釈です。しかし無限の一対一対応によって次元が崩壊するという「状況」は、アニメ等の映像作品と「現実」という二次元と三次元の問題であるBDのモチーフと見比べたときに極めて示唆的なものに見えます。しかしどんな無限集合の濃度も等しいかと言うとそんなことはなくて、ある集合のベキ集合(その要素をある「概念」に沿って再び集められる集合の集合)を取ると、次元増加ではダメだった無限の濃度の等しさが、この「概念化」で乗り越えられてしまうらしいです。これを可能性としての意識、意志、無限の抵抗などと解釈したりすると面白そうですが、これをどう展開するかは個人の自由というものでしょう。

 以上をBDとは全然関係の無い話、よく言ってもメタ的与太話だと思う人も多いでしょう。ところが例の夜の友引高校のドタバタ騒ぎで幾つかそれらしい部分があります。つまり、もともとは二階建ての友引高校(このシーンを見直して欲しいのですが、到着時はちゃんと二階建て=二次元とはマンガ・アニメ・虚構の象徴か?)を、サクラさんは「築60年木造モルタル三階建て」と言い(三次元 ; 当人たちにとっては現実であることの象徴?)、ところがドタバタが始まった途端に四階建てに(四次元、空間に加えて時間もムチャクチャになっている象徴? 実際に三階の上は時計台だと面堂のセリフにもある)なっているという状況描写の凝りようがあります。要するに無限(校舎内の合わせ鏡に映る?無限のあたる、ラムが窓と窓を飛んでいるときに明らかになるエッシャー的空間、無限の彼方まで続く廊下等々)を導入すると次元が崩壊してしまうを文字通り映像化したようにも取れますが、これは数学的なことを敢えて意識して作ったシーンなのか、それとも何か他のモチーフが数学と通底した構造をもっているので押井さんはたまたまそっちを描いたら数学になっちゃったというのか、興味あるところです。が、これは謎のままの方が面白いし、無意識的でしたらもっと面白いのですが(これまたソシュールのアナグラム研究的な話とも関連ありそうで、いやはや、やっぱBDは「公理的作品」で色々「自由」に話が展開出来るから面白いや)。

 以上を踏まえると、BDを実体としての作品と捉えて、有限の言葉(例えばBDとはメタ「映画論」論である、等)で記述しうるという立場の登坂さんは無限の階層を生み出すそのものが実体であると考える「実無限」派であり、BDのモチーフは鑑賞者という要素を勘定に入れて初めてさらなるメタへの発展が可能だと言う私は無限の運動を可能と見なしうるベクトルしか存在しないと考える「可能無限」派という解釈もそれ程無理なことではないと思われます。当然、登坂さんは実無限の立場に立つ現代数学の無限集合論をキッチリと修得されているだろうに対して、私はと言えば「大事なことは全部アニメから教わった」方式のオタクですから、これはしょうがないところですね。

 

<構造から外れたもの>

 

「映画が真に何かを表現しようとするなら、なによりもまず、言語体系(ラング)のカリカチュアであることをやめなければならない」

アンドレイ・バザン/フランスの映画理論家

 

さあさあ夢から醒めてみな、陽気な理性のパレエドだ。光新たな未来像。

・・・そして踏み外す。

ヒカシュー/3rdアルバム『うわさの人類』より

 

さて、構造主義的なBD解析なるものが以上のような「運動」であることを示したかったわけですが、我ながらあまり成功していなさそうです。ですからそれをもう壊す(脱構築?)方向へ進むのもナニですが、まあ一見論理至上主義者でありながら記述できないものこそがニンゲンにとっって大切なことだと言った分裂気味のヴィトゲンシュタインさんの言葉もあることですから、ついでにいってみましょう。

 BDでは自分のいる世界を疑い始める行動するのは、温泉マーク、サクラさん、面堂、あたるというように、顔の見える登場人物ばかりです。しかし実際にその世界を破壊する最初の契機を作ったのは、理性的な「現実」へ還ろうと事態を解決すべきものと捉え主体的に動いていたサクラさんや面堂などではなくて、後先を考えず(表層的ロゴスに左右されない)自分の欲望に正直なあたるだったわけです。このモチーフは「オタクはアニメなどという心地よい夢にかまけていないで現実に戻るべきだ」的にアタマで考えるメタ方向の運動が実は何の効果も現し得ないことを皮肉っていると思われますが、どうでしょう?

 実際にBDの世界を破壊するきっかけになったのはシーハリアーによる垂直移動であり、その後にあたるによる聖バクの発動があり、白い少女との会話で一応完全な破壊があったわけですから、野田真外さんを含めた複数の人々が指摘しているように、それらのうち後の二者は他者と呼ばれる自閉的世界に亀裂をもたらす契機の象徴という解釈も成り立ち得るでしょう。

 しかし彼に他者だと指摘されている夢邪鬼、バク、白い少女についてですが、実は私はもう少し分けて考えたくて、これらのうち後の二つは構造を崩すための三段階のうちの二つの暗喩であると思っており、本当の他者と呼べるのは白い少女だけだと思います、もし他者が自己ではないという意味ではなく外部という意味ならば。順を追って話しましょう。

 まず構造を崩す契機の一段階目は夢邪鬼でも他者でもなくて、ハリアーです。これは直接的に世界を破壊させたものではありあませんが、世界の成り立ちを知りたくて飛行したその結果、世界は亀の上の閉鎖空間であるということが判明したというカタチでの破壊の結果的責任を言ったものです。このシーハリアー (アメリカ海兵隊<ここ結構重要かも>のAV-8Aか?) はVTOL; 垂直離着陸機であり、今まで友引町平面でゴチャゴチャとやってきたことに対する水平方向移動というメタ運動、次元を増やす運動、技術的な方法で人間の認識の限界を突破する方法そのものだったわけです(押井さんはジェット機はお嫌いみたいですがVTOLだから可だったのでしょうか? もしかしたら誰かがカッコイイと主張して通ったのでは? しかしそれこそが異化作用というもので、私はその後押井作品で頻用されるヘリよりもずっと絵になって成功だったと思います)。この技術的メタ運動で明らかになったのは自分の世界を見下ろす位置にいるという神様や「鳥」の視点すなわち鳥瞰図などではなく、その逆に世界=自分たちの世界が閉じた空間(亀の上の友引町)であったという自閉の確認だったという逆説です。しかしそれは構造の否定の契機とはならずむしろ否定的自己言及という形態・構造のベクトルの一部として構造に含まれると考え得るものでしょう。でもまあ第一歩は第一歩です。それが無ければ物語は動き出さなかったわけですから。

 先ほどから頻回に引用させていただいている野田真外さんの『前略 押井守様』において、夢邪鬼も前半部分では顔の見えない不気味な他者であったが、それが後半になり世界の創造者として現れたら主体的自己に成り下がったというようなことを述べており、私もその変遷を興味深く思います。しかし私の考えでは夢邪鬼はもとからBDにしっかりと組み込まれている構造の要素そのものであり、BDの前半では不可知の存在の不気味さを演出するのに「使われ」ますが、初めから本来の意味での「外部」とは言えないと思います。つまり夢邪鬼(世界の創造者としての押井さんの分身)は夢という作品をあたるたち(観客という私たち)に見せているという点ではひとつメタレベルの他者ですが、もう一つ上のレベルで見れば、同じシステムに操られている被害者に過ぎないとも考えられます。よって夢邪鬼(表現者)は他者を演出するための一時的な道化に過ぎませんが、メタ方向へのベクトルを暗示するという意味では重要な要素と言えるでしょう(BDの構造で「創造者と被創造物が同一平面にいる」と述べましたが、これは一見創造者に見える「他者」も、メタレベルをひとつ上がれば所詮は同じシステムに取り込まれている不自由な「演出家」である、というモチーフに他なりません)。だいたい夢邪鬼とはBDにおける押井さんの分身であり、彼は演出家であると同時に登場人物であるという二重の意味を持たされていますが、その意味は演出者の他者性としての一時的匿名性や優越を示すためのものではなくて、メタレベル上昇に伴う演出者と登場人物という二項対立の否定のためのモチーフと私は考えます。もし前者の立場で考えると、登場人物に向かって「夢から醒めろ」と教え諭す神様としての演出者を考えなければなりませんが、私は押井さんが神様の立場に立とうとしているとは考えません。野田さんは「神がやらなきゃ人がやる」方式で神ならぬ押井さんが体を張っておたく的ファンに他者性を訴えているという解釈をされていますが、私はモノを作る人ってもっと良い意味で「利己的」で、そのような「余計なお節介的な慈善」には興味がないと思いますが、どうでしょう?

 バクというかブタも外部や他者と紛らわしいのですが、このタイプの他者は他の押井作品に出てこないと野田さんは述べており、BD特有の他者であるという私の妄想もあながちはずれていないかもしれないと思っています。すなわちマルC付の首輪(とそのハンコがオシリに)が壊れて初めて破壊を司る聖バクになったと考えると、素直に考えれば(と言うかここからは私の完全な勘ぐりですが)第一義的にはその首輪はうる星やつらにおける高橋留美子(小学館?)マルCであると考えられ、そこから解き放たれた聖バクはそのタガが外れた破壊のベクトル、純粋な世界=意味破壊者として夢(作品)をブッ壊したわけです。とするとバクは原作「うる星やつら」という作品そのものの象徴ではないかと。詳細はここでは省きますが「正常なシステムを馬鹿正直に暴走させるとシステム自体に亀裂を入れる」を地で行ったのではないでしょうか? 押井さんの「答え」を聞いてみたい気もしますが、妄想を巡らせて楽しむのが一番でしょう。

さて、私が本当に他者の名に相応しいと思うのは、この白い帽子の少女(幼少期のラム?)だけです。その正体は「ラムの無意識」だとか「アニマ的集合意識」だとか「ロゴス外の無垢で利己的な存在の象徴」だとか、色々な推測が可能でしょうが、これはもう個人の解釈に任せて良い領域ではないかと思います。なぜなら、むしろ彼女は「他者」というより更に認識の外にあって言語的理解を拒む外部と言ったほうが相応しいかもしれないからです。ですから私が思うに、押井さんの「他者」は二項対立で出てくる構造の内なる他者で、物語を崩壊させるという意味での他者は「外部」として「役割」を区別して使っていると思われます。例えば先ほども述べたように夢邪鬼も二項対立の「創造者 vs.世界を生きる主体的自己」という意味では他者ではありますが、後には正体が妖怪だとバレて、メタレベルを登れば同じく何らかの動機をもった主体的自己であったことがわかるわけで、動機を持たない(私たちには不可知という意味で)外部だとは可哀想でとてもそうは断言出来ません。つまりメタ運動は他者を認識し得るわけで、押井さんが言うところの(全ての事象を影から操る不可知の黒幕としての)「鎌倉の老人はもういない」ということとも軌を一にしているような気がします(違うか)。

ちなみに私の使う「外部」という用語がテツガクやら数学やら社会システム学のそれと同じなのか知りませんので、一応定義(エラソウ)しておきますと、それは「私」の認識の外にあってシステムを形作る最後(最初)の一撃を与えたり、世界やシステムの破壊の時に初めて現れる不可知の「究極原因」という意味で使っています(数学で言うあるシステムの完全性や無矛盾性を保証する「外部」の命題ということからのアナロジーで、ゲーデルの不完全性定理が証明したように内部の命題だけではそれらは確定できない、らしいです)。なぜなら先ほどのBDの形態ではありませんが、私たちの「現実」とは「主体的認識」の産物である以上、外部とは「いま・ここの世界」という私たちの認識からはどんな手段を使って把握しようとしても漏れていってしまうからこそ「外部」と呼ばれるのであり、私たちの認識可能な「世界」の形成や起源についての「外部」の役割とは権利問題としてしか主張できないものではないでしょうか。もし「外部」が顔を覗かせることがあるとすれば、それは世界の「破壊」のときだけ事後的にであり、形式化の果てにそこから漏れ出るものこそ外部への通路だと考えた方がよいのではないでしょうか(一昔前の柘植じゃなくて柄谷行人さんの思想と似てる?かな)。他者は確かに外部として働くこともあり得る存在ですが、メタレベルの上昇により構造のなかに回収されうるものです。

しかしこれは別に野田さんとそれ程違うことを言っているワケではなくて、多分彼の述べる「完全に物語から距離を置いた地点をキープし続けている<少女>α」が私の言う「外部」で、「比較的中心地に近い位置にはいるけれど、やはり物語の進行には基本的に参加してこない<少女>β」が私の言う「他者」=二項対立で仮に動機を隠されている(メタレベルでは明らか)別の主体的自己、というように理解できるので、これは単に言葉の定義の問題でしょう。

 

<外部と他者と男と女>

 

 何か演歌みたいなサブタイトルになってしまいました。さて白い帽子の少女のことがすっかり忘れ去られてしまいましたが、本題はこっち。一般的には?外部と言えば普通は理性や主体的自己や認識可能なシステムの文字通り外にある破壊的なもの、理性を揺るがすデュオニュソス的な壊乱者、意識の下に蠢くコントロール不可のエス、欲動、などということで明るい理性を是とする立場からは忌避すべきものと捉えられがちです。しかし押井作品においては他者や外部とは否定するべきモノではなくて、閉塞された「現実」(=メタレベルから見下ろせば誰かに作られた「夢」)を破壊して、新たな世界への契機となる「救い」の概念として提出されることがしばしばで、BDにおける白い少女もそういう意味があったのではないかと思います。外部は外部なゆえに構造に捕らわれず、階層を越境してどこにでも現れるわけで、チンドン屋と楽しげに練り歩いていた夜の街中、学園祭をボイコット貫徹した教室、風鈴屋の通る真夏の板塀の路地、フランケンあたるのパラレルワールド、そして最後にDNA模型世界に現れて、夢邪鬼の夢世界の「原初の海」の海面から上昇(落下)させるわけです。

 しかし問題は、それで本当にあたるたちを含めたキャラ全員は果たして「救われた」のでしょうか。この問いはメタ的には「外部なるものによる現実の壊乱で私たちは真の世界へと戻ることが出来るのか」と同値ですが、これは前者・後者とも当然ながら否です。形態解析の部分で述べたようにあたるたちは結局最後まで「現実」の地平には辿り着けず、もとのうる星ワールドに組み込まれたままとなりますし、私たちの現世界においても「外部」による混乱が起こってもそれは直接関係者にとってさえその体験は一瞬の世界の変容であり、それ以外の者にとっては「日常における揺らぎ」程度で日常やシステムやフーコーの言うところの「権力」の補完になることが多いようです(押井さんにとっての学生運動がそうであったように)。では押井さんは結局のところ「決定論者」であり理不尽であってもその「運命」を信じているのでしょうか? それとも永劫回帰のような無限の受難受苦を肯定もしくは永遠に抵抗することにしか「救い」や自我を支える「超越」は存在しないと考えているのでしょうか? 実際に登坂さんの同人誌等における押井さんインタビューとかを見てみると、ご本人が実際に「ぼくは決定論者だから」のような発言をされているようですので、制作者の意識レベルにおいてはそうかもしれません(単にテレ隠しや戦略かも)。

 しかし、優れた作品は作者の意図をしばしば越えることがあるわけで、構造的に作られた押井作品は、この文章で延々と述べたように「上位」のメタレベルへ議論が広げられるだけでなく、あくまで「原理的」にはではありますが、その逆に限りなく個人の心的レベルへも降りていける「可能性」を有していると私は思います。すなわち押井さんの現在の最も目につく「弱点」、すなわち自我同一性への絶対的希求と他者・外部による壊乱という二項対立の否定を無限の入れ子構造的に意識に適用してゆくうちに、意識から下意識、無意識、更にその下にあり欲動を動かす何か(イドでもエスでも結構)、さらにそれら実体論的構造を越える間主観的、関係論的な自己と他者の境界まで進みうるものではないかと思います。ただそのようなモノが今までの押井作品に実際あるかというと、正直私にはそう解釈し得るシーンなりシークエンスが見あたらない気がます。唯一、『攻殻機動隊』での素子と人形使いの「融合」がそのような問題に挑戦したモチーフだったのでしょうが、融合された人格がやはりメタ的自己同一性の罠に捕らわれたままなのか、それとも新しい内的認識を手に入れたのか、それはあの作品自体だけでは示し得なかったのではないかと思います(「童の時は云々」や「ネットは広大だわ」じゃあねぇ・・・)。

 思えば押井作品の「主体的自己」、すなわちBDにおけるあたる、面堂、サクラさん、温泉マーク、そして物語後半の夢邪鬼(ラムはどうかと言う問題は後述)、彼ら全ては外的な[夢vs.現実]問題には悩み行動しますが、内的な問題としての[夢vs.現実]には悩んでいる様子は無いようですし、そもそも押井さんの人物の描き方は距離を置いた「他者」としての描写が殆どです。これは押井さんが自己の問題を大切にするが故の他人への強制と他人からの不遠慮な干渉を嫌う現れなのでしょうし、その立ち食い蕎麦屋的世界像は「他者」を認めるという上でオトナの対応であるばかりか、システムや「構造」に操られる人物を「状況」を描くには適した描写法です。つまり自己と世界の問題、すなわち共同幻想的問題の追及には適したフォーマットと言えましょう。しかしそれを意地悪く見れば自己同一性を絶対の自我の規範とすることのネガという言い方もできるわけで、「他者の尊重」は諸刃の剣であることに押井さんは気付いているのでしょうか? 対幻想問題、特に男女間においては互いに自我の境界を侵犯し合いながらも、一時的錯覚かもしれなくても、自我の壊乱と融合に看取れる自己同一性を必要としない自己という問題に必ず突き当たるはずです。私は押井さんの「自我同一性」や「構造」へのこだわりがそのような心的問題に蓋をするための言い訳にならないことを祈るばかりです。

 最後の引き出しまで開けてまで自己の中の他者性にこだわりエヴァを描いた庵野さんに対して、押井さんは「彼のやりたかったことは分かるけれども・・・」と何とも歯切れ悪いコメントをしていましたが、正直言ってこれは押井さんに分が悪いように私には思えます。自己の無限遡及の虚しさと幼さ、作品自体の構造、作品展開の戦略、色々押井さんが言いたいことはあるのでしょうが、それでもエヴァにおいて庵野さんを含めたガイナックスのスタッフが出しきった「勢い」はそう言った諸々の批判を(瞬間的かもしれませんが)色褪せた繰り言にしてしまったように感じられました。今までこれ以上望めないくらい素晴らしい作品を撮ってきた押井さんに対してこんなことを言うのは幼いオタクの無い物ねだりではありますが、思い切って言っちゃえば、いつか作って下さい、押井さんが全部の引き出しを開けて大風呂敷を畳めなくなっちゃうくらいの作品を。異質なものとの出会いから新たな思想・ドラマが生まれるように「自我同一性」と「他者との邂逅」という「二項対立」を乗り越えた、あるいは乗り越えようとした時に現れる作品がどんなものになるか、今から楽しみにしています。ありゃ、いつの間にかBD構造論じゃなくなっちゃった・・・

 

おしまい。

追伸 ; 以上、構造による批評全部ウソ。何がBDの評価決めたかって言ったら、冒頭のシーンと最後のシーン。あとはラムがこの映画で初めて登場するシーン。遠くの夜景と地平近くの僅かな青が美しい漆黒の空から舞い降りた瞬間(意図的だろうと思われる不自然に高いカメラ視線に注)。最後のシーンの怖さは本文中で述べた通りだが、冒頭でキマリ。いきなり説明もなく水没した廃墟の中で何不自由ない電化製品に囲まれて楽しんでいる面々に対してボーゼンと立ち尽くしているあたる。これは押井さんであり、私であり、その当時のうる星ファン全ての縮図だという構造的直感(妄想)が寒気をもって来た瞬間にこの映画の評価は決まってしまいました。分析による構造は後付けの理由に過ぎません。でもこれって脱構築って言うのかしらん・・・?(ウソツキと言います)

 

(2000/11)



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