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「押井作品の構造論」の総論的要約と蛇足

 

 

 

松本 晶



 

 この章は後に続く面倒くさくて細かい議論の要約です。もし読後に具体的な理由まで知りたいという奇特な方はこの後の「押井初期作品の構造論」も続けて読んでみて下さい。中・後期作品については次回(そんなものがあればの話ですが)に回したいと思います。実はこの章で私が述べているのは要約と言うより、最近の押井作品への「無い物ねだり」ではあります(単に私がそれらの面白さに気付いていないという可能性はとりあえず置いておく)。これは中期までの作品の素晴らしさから来る過度の期待と将来の作品への希望が合わさってのものですので批判というより押井さんへエールと捉えて頂けると幸いです(って超エラそうですが)。そんな柄にも無いことをしたので、以下の文章は我ながら上空飛行的なエラソウな印象評論と何ら変わるところが無い上に、聞きかじり読み囓りの知識をエラソウにひけらかしたデタラメ一杯なので、出来れば地味な後の方の文章の方を見てもらいたいところです。

 

 『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)から『人狼』にかけて、押井守さんの描くものは、当然と言えば当然ですが、徐々に変遷してきているように思えます。それを私見(要するに私の見た作品内での独断と偏見)でおおざっぱに分類すると

 

初期 ; 『BD』、『紅い眼鏡』に代表される(人為的な)入れ子構造を持った作品

中期 ; 劇場版『機動警察パトレイバー2‐the movie‐』に代表される二項対立の繰り返しから生じる創発的構造の作品

後期 ; 『攻殻機動隊』『人狼』に代表される模索期・移行期作品・構造不明??

 

 となると思います。イロイロと大事な作品が色々抜けてるんじゃねーかと怒る人も多いでしょうが、ワタクシ的にあと気になるのは『天使のたまご』と劇場版のパトレイバー1くらいなので、これらについては別の機会に触れていきたいと思います。話を戻しますと、仮にそれぞれの作品の構造に応じて思想的なものが暫定的にでも語り得ることが出来るとすれば、それらは

 

初期 ; システムへの畏れとその戦線の確認、そして挑戦

中期 ; 不自由なシステムを再確認、そのなかでの行動と他者は如何なるものかという模索

後期 ; システム自体への挑戦から他者との出会いへの変遷

 

 というようになります。私はここで厚顔無恥にも「システム」なるコトバを無造作に使いましたが、これは別にかのミシェル・フーコーの使うような哲学的用語でもなく、ましてやシステム工学やらの用語でもない、私の勝手な用法です。それを簡単に言えば(言えるのか? オイ)「夢と現実」「主観と客観」「自分と他者」「自由と制度」「自由意志と強制」「個人と社会」等の二項対立の寄せ集まって出来ている「何か」それ総体という意味と、そのうちの「自分側」ではない方のコトという意味として使っています。とにかく、初期と中期は押井監督のルサンチマンとも思えるそれらシステムへのこだわりから生ずるであろう独特のリズム・形態・構造によって独特の手触りを感じさせてくれました。

 ここで是非強調しておきたいのは、それら作品の構造やテーマなどは単なる対象物すなわち学問や知の体系としての興味であったわけではなく、まさしく私(たち)オタクの自我問題、実存的問題であったことです(少なくとも前・中期までは)。なぜならここを外した議論からは(少なくともオタク&アニメファンである私にとっては)押井さんが最も嫌うであろう「神の視点から物事を見聞きし、神の座に納まる」という空疎な書生哲学しか出てこないと思うからです。

 とにかく、見事な映画的形態とそれを裏打ちする(というより不可分一体の)思想的モチーフ、さらにはそれらを共有する押井監督と視聴者とその関係(錯覚していただけかもしれないにせよ)、これらを見事に構造化していた初期・中期作品は十年近く経った今でもその魅力が色褪せることはないと思います。

しかし、後期になりそのようなモチベーションが喪失(私だけかと思っていたが野田真外さんなどの著書で勇気を出して言えるようになったというのが本当のところで彼の問題系を色々と流用させてもらっています)してきたような気がするのは、押井さんの問題と共に、実は私(たち)の問題でもあるように感じられます。そしてまるで以前のシステムの問題と入れ替わって出てきたような感すらある「他者」とのそれを扱っているのが『攻殻機動隊』や『人狼』と思われます。ここで言う他者とは別に他人でも外部でもシステムでも語り得ない超越でも構いませんし、それどころか自分のなかの他者でも良いのですが、とりあえずここではこの二作品に沿って男女間ということにしましょう。とにかく、これら二つの作品がとてもよく出来ている映画であることには間違いないのですが、だからと言って肝心の他者を描くことに必ずしも成功しているとは思えません。理由は簡単、他者との邂逅が押井さんの本当に求めているものとは感じられないから、だからちっともエロティックでないからです。例えば、押井さんの原案・脚本の『人狼』では人と人との悲しみみたいな感じはよく描かれてはいたように思えますが、何か他者でしかない男女間としての対幻想はまあ嫌々やってます、という感じしかしませんでした。

また『攻殻機動隊』でのインタビューか何かで押井さんは「(素子と人形使いの)祝福されない結婚話」みたいなことを答えていたように記憶していますが、ここで押井さん特有の距離を置いた(以前はそれが他人への無遠慮な干渉を嫌う程良い抑制になっていたのが)描写が素子の葛藤を切実なものと感じさせるのに邪魔になっているような気さえします。だから戦車との肉弾戦での素子の行動も唐突に思えてしまいましたし(野田さんはここで「目頭が熱くなった」と書いていますので単に私の感受性が鈍磨しただけかもしれませんが)、人形使いとの融合での天使の羽らしきものが降ってくるシーンがたとえ男女の交合のエクスタシーのアナロジー的表現や、それこそ「上部構造へのシフト」という至高性の表現だとしても、ドキリともしませんでした。結果、最後のセリフは「ネットは広大だわ」でオシマイにしてよかったのでしょうか?

 

 以上の変遷を構造の面から考えてみましょう。中後期の作品で他者の問題を中心に押し出してきたことと、その作品の構造・様式には関連があると思われます。つまり、初期作品では自己と他者=意識と実在を描くに当たって「夢と現実」というフォーマットを頻用していた押井さんですが、これはそれらの関係を上手く表現し得る否定的な自己言及モチーフを用いた相似入れ子構造という形をとっていて、これが様々な問題を大変効果的に表現し得る大変優れた構造であったと思われます。しかし中期以降、作品を作るにあたって押井さんが考えたであろうことを勝手に推測すると、その否定的自己言及構造も所詮は原理的に自己の中でだけの「人為的・人工的」な構造であって、厳密には「世界」によそよそしく、そして意味を拒否するように立ち現れる他者との関係を描くのには必ずしも適していないのでは?という疑問が出てきたように思えます(勝手な推測)。つまり見事に計算し尽くされた構造はたとえ「世界」や「状況」のよいモデルであるとしても、それと同時にガラスのような脆さを宿してはいないかと心配になったのではないでしょうか。ですからシステムに脅かされつつ永遠に戦闘を持続する可能性のある自己(永劫回帰?)という宣言の次の段階として、自己に対立する「現実」=他者という場面での自分の立ち振る舞い=構造を本格的に撮ろうとしたのではないでしょうか。そのためには構造は自ら緻密に組み上げるだけではなく(そうして出来た「構造」は所詮夢邪鬼や紅一の夢と同じく、手前勝手な夢になってしまう可能性にいつも脅かされる)、押井さん自身が語ったように、二項対立の繰り返しを構造の出来るまで続けるという手法をとったのではないでしょうか。これは簡単なリズム・原理・方程式(ただし非線形)から要素の総和以上の構造が創発してくることのアナロジーではないかと思いますので、複雑系流行りの現在ですからとりあえずこれを「創発的秩序の発現による作品の構造形成」とでも言って「お手つき」しておきましょう。これについて述べるのは次回(しつこいようですがそんなものがあればの話ですが)にしましょう。

 蛇足で指摘するならば、押井さんは人為的構造の弱点を補う?もうひとつの方法として「鳥」「魚」等の一見理解や意味を拒絶するような異物としての「いきもの」のモチーフを作品に挿入し構造を壊乱だか攪乱するというようなことをどこぞの講演で語っておられた気がします。これは方法論としては面白いのですが、実際には依存的押井信者などから「そうか鳥とは異物の象徴か」というように作者の語ることを絶対というか固定化された真実と考えるみたいな納得の仕方をしてしまい、それ以上各人それぞれが自分なりの何かの意味を掴もうとするという異化作用にはならないという救いがたい事態があります(押井真理教だわな)。ただし押井さんはそういうトコロまで計算して意外にも饒舌に自作品のことを語っているヒトだとと思いますので、その戦略は不明ですが押井キライの人が言うように「作品外でテーマを語るなんて」というわけではなさそうです。

 

 テーマといったラング(言語体系)だけによる映像作品の評価は愚かしいことを自覚しつつも作品を追いつめる第一段階としてそれを考えてみると、押井作品は多くの思考問題を内包しているように思えます。前述の野田さんはその著書『前略 押井守様』のなかで、押井さんは『ビューティフルドリーマー』のころから「夢と現実の等価性」ということだけではなく、はじめから他者の問題に沿って作品を描いてきたのではないかと主張しています。確かにその後の押井作品の動向を見る限り、なるほど、そういう捉え方も説得力があります。しかし私の理解では、同じ他者と言っても前期の中心的課題は共同幻想的他者・顔の見えないシステムが相手であり、中期になって個人としての他者の問題が混在し始め、そしてシステムの問題が後退したぶん?対幻想的問題としての他者が突出してきたのが後期作品で、両者の根は同じところにあるのだと思います。ここいらへんは本文で押井作品の構造に沿って検討しての結論でもあります(本文やっぱり見てネ)。実際に私も思うのですが、初期押井作品に溢れていたシステムが不自由だという主張は現状認識としては「正しい」のでしょうが、それを何時までも主張していることは空しいだけで実りも少なくなってくることを押井さんも充分に承知していたでしょうし、だからこそ一見全く異なる問題に見える「対幻想的問題」へのシフトなのでしょう。つまり「夢と現実の等価性」と「他者問題」はこれは同じ問題の両面なのだと私は思います。

 しかしそのような思想的前進?にもかかわらず、これらの後期作品は何とも押井さん「らしく」ないのです。あのルサンチマンが希薄になった画面からは押井の血で描かれた画面という気が立ち上ってこないように感じてしまうのは、押井さん本人の問題もあれば、私(たち)自身の問題や、さらに大きく出れば私たちを取り巻く「状況」にも影響を受けているのかもしれません。しかし『攻殻』と『人狼』の2作品はあくまで転換期、模索の時期だと私は理解しているので、今後の作品に大いに期待しているのも確かです。ただ、もし今後も他者の問題をモチーフとし続けるならば、以下あげるアニメ監督たち(非道い呼称である)との相違が気になるところです。それらはすなわち富野由悠季、宮崎駿、庵野秀明(敬称略)の3人です。多少脱線しますが、押井さんの現在の位置を確認するための外堀固めの意味もあるので少々アニメファンとして「語らせて」もらいませう(そう、私はテツガクなぞ語るつもりはなくて、単なるアニメファンとしての押井ウォッチャーなのだから)。

 

押井さんも含めたこの4人のなかで、作品として他者を描くのことに最も「成功」しているのが富野監督であると個人的には思っています。と言うよりも他者の存在との葛藤が自明であると考える彼は、その葛藤自体には悩むだろうし、その解決不可能性からニュータイプなどという「超越的」(宗教的?)な救いの概念を持ちだしてしまうかもしれませんが、「他者」の存在それ自体には悩んでいないように見えます。それに女性を描くことにかけては、この4人のなかでは富野さんが最も手練れているように思えます。対して押井さんは例えば劇場版パトレイバー2のしのぶについて「父親を求め無意識の血に突き動かされている」ような前近代的?な女だとしながらも、そのぶん情念に翻弄される描写には成功したと考えておられるようです。しかしそれを富野さんの『機動戦士ゼータガンダム』や『逆襲のシャア』での様々な女性の描写(一人一人について述べたいが我慢我慢)と較べると、しのぶさんの情念と理性の葛藤の無さには少々がっかりさせられます。二項対立や葛藤のないところにドラマも思想も生じません。ここでもまた他者尊重ゆえの抑制の利いた押井さんの作風が不利に働いているのではないでしょうか?パトレイバー2では最後に柘植と一緒にアッチの世界へ行ってしまったしのぶさんの代わりに、情念ならぬ少女を断念して地に這い擦り廻ることを健気にも決意したノアの存在が「情念と理性」の交換劇として働いて映画としては二項対立の凛々しい構造に何とか土俵際で留まったように思えます。しかし情念の問題を対立するもの無しになし崩し的に叫ぶのがかつての日本映画の堕落の原因になったことを考えると、何だか私は心配になってしまいますが、これは余計なお世話でしょう。

しかし一方、富野さんには押井さんに較ると正面切って?システム自体へ斬り込んでいこうとする視点は希薄なようです(というより理不尽さ自体が「生」そのものであると悟っているのかも)。その点、同じような年代?でも宮崎さんは理念や共同体を信じやすくて表面上道徳的な(だった?)ぶんだけさらに「悪質」(つまり作家としては良いということ・マジで誉め言葉)かもしれません。

 押井さんによれば宮崎さんは共同体を信じている世代ということになる上に、ちょっとだけモノを考える人達は映画『風の谷のナウシカ』で見せた宗教的な救いの概念に辟易するかもしれません。しかしこの時から既に「絶対に分かり合えない他者」(ヒトの身体もシステムも自然も含めて)の萌芽もすでに見えていたと思いますし、そのような帰結を迎える方向性を初めから持っていたと思います。

 たしかに宮崎さんがマスコミ等で「言葉として」出してくるものは成る程、その世代に相応しい年寄りの説教じみた脱力モノですが、「片手に説教、片手に戦車、もひとつの手?に美少女」状態の彼のその内部矛盾自体がモロに出てくる作品自体には、言語的テーマなんていう表層からではなく集団でアニメを作るという行動それ自身から噴出してくるヒトの業があって、まさにそこが面白かったワケです。実際、劇場版『ナウシカ』でアニメーターとしての庵野さんの描いた巨神兵の吐くビームによる爆発シーンはこの映画に限りない深みを与え貢献をしました。皮相的な科学批判と、それとは逆に科学と映像の破壊の美しさに惹かれるという矛盾が制作レベルと視聴者レベルで同時に生じた歴史に残るべきシーンでした。それが表層的評論家からのお決まりのテーマ中心主義的批判とその対極のオタク技術論的視点という単純さからしか評価されないことが多いのは残念で、実際このことを指摘したのは私の知る限り岡田斗司夫さんくらいでした。だから表層テーマとして「人の業」「システム」「他者」の概念が殆ど言語的に現れてきて二捻り程度の評論家諸氏にも分かり易いために評価される『もののけ姫』ですが、画面としては逆に統率されまくり何とも平板になってしまった結果、映画としては結局劇場版『風の谷のナウシカ』を超えることは出来なかったと私は思ってます。

その庵野さんですが、彼が中心になって(と考えることはイケナイことでしょうか)制作された『新世紀エヴァンゲリオン』の現時点での一般的評価は両極端です。つまり他者を気にしつつも結局のところ唯我論的な視点でしか捉えていない自閉世界作品だという批判と、東浩紀さんの評論(スマン、実は現物読んでない)に代表されるポストモダン的にだか現代フランス哲学的だかによる?高い評価という、二分極化した評価を受けているようです。私は現在のままならば前者の評価(唯我論的)に与する者ですが、彼は今後本当に思想的意味でも大化けする可能性が最も高い作家ではないかと私は期待しています。それを細かく述べていると庵野作品論になってしまうので簡単に言うと、他者とはどう頑張っても自己のなかの他者であると同時に、自我(セルフ全体のことではありません)とは他者のコピーに過ぎないという二律背反を最もよく分かっているのが押井さん以外では庵野さんだと思うからです、「アタマ」でだけかもしれないけど。

 ここで押井作品の話に戻りますが、この二律背反はコインの裏表であり、前者の考えが強く出ているのが押井さんの前期作品であるとすれば、確かにそれらはへーげる奥田さんが指摘するようにフッサールの流れを汲む現象学的作品とかハイデッガー的な存在論的作品と呼べることでしょうし、後者のモチーフが強く出てきたのが後期作品だとすれば、そこでは押井さんの問題系は野田さんの言うように他者の問題ひいては身体論を見て取るもアリかもしれません。しかしこの二つは結局は通底しているモノであって、それを社会との関わりで突き詰めようとしたのが押井さんで、逆に個人の心のなかに入ることで突き詰めたのが庵野さんとなるでしょう。

 庵野さんのエヴァがもし押井さんの前期作品(BDや『紅い眼鏡』や『天使のたまご』)に相当するような、すなわちシステムの確認宣言にあたるものだとすれば、この後に待っている作品は私(たち)の想像以上に豊かなものになる可能性が充分にあると思います。ただし、それはまだ彼にモチベーション(ルサンチマンで構わない)が残っていればの話ですが・・・だからみんなあまり庵野さんを大家扱いして誉めない方がこの後に面白い作品が見れると思うんですけどねぇ。

これら3人に対して、前・中期作品までは思想的にも作品の完成度でも大きくリードしていた?押井さんは、現時点ではかなり差を詰められた、ひょっとしたらやや遅れをとってしまったのではないか?と危惧しています(オマエが危惧してどーするというツッコミがあることは承知済みですし、これが押井さんへの過小評価やその問題系に付いていけなくなった私の退化の結果ならばよいのですが、という意味でもあります)。問題なのは、押井さんの今までのモチーフは(決して作家としての資質と言う意味ではなく)その構造として枯渇しやすいのではないかという危惧です。

つまり富野作品のように個対個の葛藤が社会の葛藤と同値であれば、前者は社会のシステムに関わらず常に存在するので、作品へのドライブは消えません。宮崎作品は個がいかなる社会・共同体を選ぶかという視点であり、その選択に悩むことはあっても全世界のシステムが一致でもしない限り問題は消えず作品への動機は残ります。押井作品と庵野作品を乱暴にまとめれば、個が何らかの確実な根拠をどこから得られるのかという探求だった(あくまで過去形)と整理されますが、押井作品はそれを共同体に求めることの否定から始まりながらも他者との可能性を探りはじめたと考えられます。一方、庵野作品は自閉的自己が精一杯の努力で他者との接触を求めるというように評論されることが多いようですが、実は彼は「他者とは分かり合えないからこそ他者であるという厳しい認識の上で、自分のなかから確実なものを引き出そうとする努力が先に来るべきであり、その結果自我は他者の自我のコピーである以上、対象が自然と他者に移るのであって、表層的人為的他者との邂逅や肯定は安易だ」と考えているのだと思います。これは押井作品が共同体への否定的疑念を持ち出したのと相似・同型です。ですから、ここで問題にしているのは思想的・倫理的・道徳的な面での評価ではなくて、作品の動機を形成するという点でみると押井さんの動機は消えやすいのではないかという疑問です。つまり押井作品のモチーフは、一度でも誰かひとりの他者を認めてしまえば、その後の他者との葛藤は「原理的問題」から単なる「技術的問題」になってしまい、思想的問題はともかくドラマの形成という点では不利なのではないかと思います。

 

 ですから、以下は一アニメファンから押井さんへの一方的なキモチ悪いラブレターだと思って下さい。(では始め)正直言って『攻殻』『人狼』は今の日本で望みうる最高に近い良質の作品であることに間違いないのでしょうが、これら作品から漂ってくる匂いはやたらと静謐な思考、キツイ表現なら「勢いが無い」ような気がします。それを円熟とか言うのかもしれませんし、多分押井さんに語ってもらった後で作品を見れば、きっと思想的哲学的映画的に面白い話が出てくるのかもしれませんが、本来の押井さんの本気レベルから言えば私のようなバカにでもビビっと来るようなエンターテインメントを作れるはずです。これらの作品は世界的にも高く評価されているのでしょうが、「映画は国境を越えない」と名言した押井さん自身も何か新しい地平を考えていると思います。だいたいこれと似た(端から見ての)閉塞状況は少し前、BDや『紅い眼鏡』の後にもあった気がします。つまり「問題の所在は分かったけど、じゃあこれからどうするの、何を描くの?」と言う疑問に押井さんが答えようと奮闘していたに違いないと思われる頃のことです。そのために、今の押井さんには「異質なもの」との衝突が望まれるのではないでしょうか。ですから現在の小説の仕事はとても良い方向に働きそうな気がします。もしくは全く逆に『天使のたまご』的な自己の世界を突き詰める象徴的作品のテンションに回帰してみるというテもあるかもしれません。なぜなら押井さんは心的な方向での自己の無限遡及は試してないように思えるからです(ただそれは聞くところによる『トーキングヘッド』(見てません)であり、遅れてきた押井エヴァになってしまうかもしれませんが・・・)。

 しかし確立した自分のスタイルに逆に飲み込まれて自らを縛ってしまう大家の映画監督が多い中で、押井さんにはそうことは無さそうであり、それはやはりスゴイとしか言いようがありません。だから今は模索の時期であって私(たち)の想像もしなかった展開(転回)がこれからあると私は信じています。

 

以上、唐突ですがこれらのことを踏まえて以下の初期押井作品の形態論(上手く行ったら構造論)に移りたいと思います。

 

(2000/11)



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