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――あるいは、映像、時に敷衍して押井論、お気に召すまま――


谷風 公一



 

 本稿は、約三年前に書いた拙論を一部改稿したものである。

 まずは、今回予定していた原稿が、私事都合で全くの完成を遂げぬことを述懐した上で、しかし、なお、本稿がある程度「押井論」という枠組に合致するものである旨、申し添えておく。

 この文書には「押井」の「お」の文字も登場しない。しかし、そこは諸敬友方々の長大な想像力に深く負うことにし、この企画に際して立ち上げられたメーリングリストの中で噴出した数々の苦塊の内のいくつかを砕くこと能うものと期待しつつ、敢えて黴蝕黄土の遺物を掘り出すものである。

 なお、今回予定していた『終わりのない世界から始めるために』なる論考の上梓を、有り難くも期待いただいた方々には、この場を借りて、深くお詫び申し上げる。 (執筆者) 

 

[はじめに]

 九〇年代初頭、「色を見、音を聞く刹那」という一文を目にした時(西田幾多郎『善の研究』)、私は漠然と速度のことを考えていた。仏人ポール・ヴィリリオ。自らを哲学者ではなく都市計画者と呼ぶ彼は、かつてのメルロ・ポンティの聴講生であり、生前のガタリやドゥルーズと論を交わしつつ(『ミル・プラトー』には彼の言述引用が多々ある)、一方でパリ建築専門学校の学長であった経緯を持つ、仏哲学の異端児である。今年六八歳になるヴィリリオは、現在も、現代技術や戦争の形態を、速度という観点から考察し、思索を展開している。湾岸戦争、ユーゴ内戦、PKO派遣など、当時の状況の突端の中で戦争というものを考え始めていた私にとって、彼の著書との出会いは鮮烈を極めた。例えば『純粋戦争』(UPU、一九八七年)の中で、彼は「戦争の永続化、私が純粋戦争と呼んでいるものは戦争の反復ではなく、はてしない準備においてのみ遂行される」と述べる。核抑止と兵站学を念頭に置く、この「純粋戦争」なる語彙を造語したヴィリリオは、核戦争を「始まった時には全て終わっている」ものとし、冷戦構造におけるそれを「イデオロギーの代わりに偶像崇拝を置く」ものとした。テクノロジーに無限定にのめり込み歯止めも利かない「現代知」の中で、純粋戦争とはまさにその枠内でのみ作動する戦争であり、それは可逆的に、知の領域をすでに歪めつつあること全て、終末観の中で諸知識を一本化しつつあること全て、として、世界に認知される。すなわち「純粋戦争」とは全域的な否定態としての戦争状態なのである。そしてさらに、ヴィリリオは、それらに通底するもの、として「速度論」を採用する。

 

 無論、戦争とは、それが隣人を殺さない、というレベルで非日常であり、気付いた時には遅すぎる産物なだけに、このような「戦争的物」を、「止まって考える」哲学的思考に、それも大戦前には熟成期を迎えつつあった西田哲学に投入するのはあまりに不粋だ。西田イデオロギー論は廣松渉や小林敏明に任せればよい、私の興味はあくまで状況のリアルにある。『純粋戦争』出版以降、戦争形態はさらなる展開を見せており、当然ヴィリリオはそれにも反応した。技術の革新と共にヴィリリオも歩む。彼が哲学者ではないひとつの理由はそこにあるだろう、彼は「速度」という哲学的思考を武器にするジャーナリストなのだ。旧いジャーナルはフーコーの手にでも掛からない限り、あまりにアルシヴィックだ。そして、湾岸戦争を「まだ分かりやすい戦争」と、ユーゴ内戦を「真に我々のものである」と語る(イベント「ガタリへのオマージュ」における発言)ヴィリリオの次の標的は、やはり『電脳世界』だった。それまで密かに光ファイバーケーブルや超導体を「純粋経験的」と呼んでいた私は、純粋経験とアフォーダンス理論を「恵まれないカップル」にしてみたりもしていたものだが、『電脳世界』を入手するに及び、ようやくかねてよりの試行の端緒を拙くも開くことになる。

同書から、訳者本間邦雄の解説も含めて、二点、引用してみよう。

 

 

 

 そして、私はこれらの言述を基に、純粋経験と仮想現実を速度論枠内で接続する小論を一旦は上梓した。それは端的に言えば、純粋経験を包容する「一の意識」「普遍的意識」を、広義の純粋経験としながらも、しかし純粋経験を説明する、という性質の許に、一元的な根源実在として概念化されざるを得ない不安定なもの、すなわち自覚の前段階のものとして定義し、それを仮想現実に対応させつつ、純粋経験に速度論を投入する、といった内容のものであった。だが、問題がひとつあった、「一の意識」と仮想現実が各々にもつ不安定さの所在位置は果たして同じか? 否、断じて否である。ヴィリリオの「事故の博物館を作るべきだ」という言述、ある技術の発明は、その事故発生の可能性を決定的に含み込む、ということ、これを踏まえるなら、仮想現実の不安定性は、戦争と同様、可能性という意味で、間違いなく未来にあるものであり、さらには、それは唯物的なものであり、概念として不安定である普遍的意識とは、その所在を異にするはずであるのだ。すでに、西田もその思考の内に据え置いた「生活世界」において決定的な存在となっている仮想現実を指差して、今さら「狼が来た」と連呼することに意味はないだろう。なにより、ヴィリリオの「実体は絶対的で必然的であるのに対して、偶有性=事故アクシダンは相対的で偶然的」という二元的な叙述に対し、西田はあいにくとその哲学的広がりの内で絶対形而下主義者だったのだ……。

 

 ともかくも、この推論は、その意味で、「哲学的」に失敗に終わったというわけだ。

 

 さて、では今、私は再度、純粋経験を引っ張り出してきて、何をしようというのか? さしあたって、まずは、当時発見することができなかった、ある興味深いテクストを読む所から始めてみよう。

 

 

[本論]

 大橋良介は、西田の技術論の連関で、純粋経験と仮想現実を結び付ける(『西田哲学の世界』筑摩書房、一九九五年、一二八〜一四一頁)。大橋は、西田の「経験科学」(昭和一四年)という論文が、後期西田哲学の重要な論文「絶対矛盾的自己同一」の直後に執筆されたことを指摘し、場所論的転回後、西田根本定式の実践的・理論的応用の第一歩として「技術の問題」が主題化されたことから、後期の西田が技術の問題を極めて重要視していたのでは、と示唆する。以下、この大橋の論を要約しながら、西田の技術論を見てゆこう。

 

 まず、踏まえねばならないのは、西田の絶対矛盾的自己同一が、群論的自己同一の骨格を持つ、という点である。自己を鳥瞰することとは、自己が一旦、他者性を内に含み込みつつ、一対一対応で「写像」に変換されることである、という群論的性格を、西田は自らの自覚概念に投入する。よって、鳥瞰された自己の内には「本来の自己」は属さず、また、この「写す/映す」という行為を於て行う全ての系を、いわゆる「場所の於てある場所」という重層構造として、西田は、示唆するわけだ。やはり、これもまた群論的性格、すなわち「圏」の思考に通ずるものであろう。そして、鳥瞰することとは何、と言えば、「世界から見る」という語彙が相応しい(アフォーダンス理論はここに対応させるべきなのか?)。「物となって考え、物となって行う」こと、それは「自己を通して世界が考える」ことであり、「我々の行為は、個物的多として絶対者の自己射影点であることから起る」(西田幾多郎全集一〇巻、一五八頁)のである。これが群論的変換以外の何者であろうか。そして、鳥瞰する者の正体は「世界的自己」「主客未分」といった語彙となるのであり、恐らくここに純粋経験の思考は生きていることになる。西田特有の「自己が自己に於て自己を見る」なる宗教的な語彙に至るにあたり、西田は哲学的に「世界が自己に於て世界を見る」ことを経由している、と考えればよいだろうか。ここにおいて、群論的に全てを映す、という行為の許に、「矛盾的自己同一」が出現し、これが西田特有の「ねばならない」という語彙を介して、絶対哲学的「矛盾的自己同一」すなわち「絶対矛盾的自己同一」に到達する。あるいは、そのような絶対性を形而下に投入するにあたり、西田にとってさしあたり技術論は「手っ取り早」かったのかもしれない。

 

 大橋の論に戻ろう(一三一頁〜)。まず、西田は科学における「操作」概念に、行為的直観と絶対矛盾的自己同一の関係が成立する現場を見ようとする。すなわち「操作」を、物の自然法則に合わせてなされる行為と見るのである。そしてそのような客観性は、操作が技術を含むことを示唆している。「技術とは我々と自然との合一と云ふことである」。技術は、基本的に自然法則に従う、または応用するものなのである。そして、技術はそれにより代替される身体を概念としての身体性の原点に回帰させる。世界を行為的直観の内に映し込む身体性のメカニズムの中にあっては、世界は「技術的に把握せられ、技術的に自己自身を形成してゆく世界」であり、つまるところ、これがものを作る時の行為的直観に映るのである。さらには、それは技術の本性を身体的と見るとともに、身体的に経験される現実世界そのものを技術的と見るものである、すなわち「歴史的現実そのものが技術的なのである」。

 

 大橋は、ここで西田とハイデガーの各技術論比較を行っている。ハイデガーの技術論は、西洋形而上学的な「有の忘却」との連関で、論が進められる。それはすなわち、思惟によりdas Seinを表象定立しようとする試みであり、その試行がやがて本来表象的把握が可能な現前有das Seiendeとの差異が忘却される事態に至り、有が何ものでもなくなることから、それは「有の忘却」であり、ニヒリズムの契機となる、とハイデガーは言う。自然世界からの表象定立という形でその一切が技術として現前するのが可能であるということ、技術世界が集立されること、それを以て、技術により世界が刻印されるのだ。そうした技術世界が人間行為の世界である、という点では、個と世界の同一化を図りつつ、技術世界を行為的直観の内にポイエシス的に媒介された世界である、という見方をする西田の技術論も、ハイデガーのそれと軌を一にするであろう。だが、ハイデガーにおいては、行為的世界の個としての身体論は、行為者としての身体的存在が現前した被行為物から規定される、という、そこだけ取り出せば非常にネガティブな唯物論として立ち現れる。だからハイデガーは、「現存在は苦境であり、存在が現象するための居場所として支配されている」「死への存在」という姿勢を取り得たし、それによる述語の動揺を他所に、ニーチェを形而上に追いやったのだ。ハイデガーの技術論は、述語の動揺を以て主語の真実とすること、主語との距離から出発し、主語を無力化すること(プラトンの誤用?)、ここに直結している。すなわち、ハイデガーにおける述語行為は、無作為に主語を選択することを含み込んでおり、まさにこの選択可能性が主語を媒介しているのだ。大橋は、恐らくハイデガー技術論のここに注目し、このような述語と主語の関係、そこから技術の危険性を醸成するハイデガーの先見性に同意し、西田にはまだこの危険性が芽生えていないのでは、と指摘する。事実、世界を集立する、という感覚は、仮想現実との連関によりさらに沈降するニヒリズム論と捉えることが可能であるし、私がヴィリリオを援用する理由のひとつは確かにそこにある。現代における身体論が一層深いニヒリズムに直結しているのは明らかだろう。だが、この連関で仮想現実を捉えることは、論の初めにおいて述べたように、仮想現実を先見的アクシダンの内に不安定に据え置くことと基本的に同一なのではないか。この疑問を提起しつつ、大橋の論に戻ろう。

 

 大橋は、さらに、このハイデガーの示唆する危険性を西田のテクストに見い出そうとする。大橋は、西田の哲学上の立場が技術考察により、根本的修正を迫られる可能性が、ほんの一瞬ではあるが示される箇所がある、と言うのである(一三五頁)。すなわち「我々の直接の世界が身体的と云ふのは、主客未分以前的に無媒介な世界と云ふのでなく、ポイエシス的に媒介せられた世界であると云ふことである」(西田全集第九巻、二四一頁)なる箇所。純粋経験が「主客未分以前的に無媒介な世界」としてここに顔を覗かせている。無媒介な事実世界は一旦は判断あるいは分別によって対象化され、反省されるにしても、その反省をくぐって、より深化した純粋経験として成立する。直接経験において現前する事実世界、としての純粋経験観は、西田の思索の内において不変なのだ。これを踏まえた上で、一方、大橋は、直接的と思われた現実世界が実はすべて技術的メディアによって媒介されているのではないか、という可能性に基づいた危機感覚を、現代技術世界に適応する。すなわち、目で見、手で触れることのできない、あらゆる現実を知ることが可能な現代のマスメディア情報網を示唆しつつ、それにより現実世界が「像」となる、とする態度である。コンピュータ・シミュレーションが現実世界のモデルを形成し、現実を方向づける時、「像」はもはや「現実の映像」ではなくなり、「現実」そのものであることを主張するだろう、と大橋は言う。無論、現代における情報倫理的犯罪の問題意識の顕在化はそれを証明してくれているだろう。すなわち、仮想現実というリアリティの中で大半の時を過ごす時代における「像」と「現実」の総力戦の渦中で、それでもなおそこに「純粋経験」的な直接性があるとすれば、それは「像」としての直接性かもしれない、という大橋の危惧、それは、「一の意識/純粋経験」論が技術論に出会う時、そこには、純粋経験という無媒介の事実性を基とする相互補完的二項対立の図式世界への萌芽が含まれている、ということ、あるいは、可逆的に、純粋経験の無媒介性が根源から覆される、という危険性を孕んでいる、ということ……。だが、ここで一旦、大橋と途を違えてみよう。私にとって重要なのは、西田技術論が、ハイデガーのそれと、ここで軌を外れてゆくこと、なのである。すなわち、西田の技術論がライプニッツのモナドロジーに依拠している、という事実。仮想現実の不安定さを事故の先見性に委ねるのではなく、概念的に仮想現実を捉え直すこと。実に、本論の目的はここにある。では、西田同様にモナドロジーを援用してはどうか? 先を続けよう。

 

 大橋もまた、西田の技術論がモナドロジーを援用していることを、当然指摘している(一三〇頁)。ライプニッツのモナドは、世界の全体を映す個物である。世界と個物とは調和関係にある。しかし、両者は「絶対矛盾的自己同一」の関係ではない。個物は全体を映すというだけで、この全体に対して独立を宣言する自由な主体という性格をもたないからである。この点で西田はライプニッツに対して、モナドには働くという性質がない、という根本的な批判を行う。「働く」という性質の内には、生死という有限性が含み込まれており、それは神によって創造された不生不滅のモナドにはない性質である。西田にとって、その部分だけは、ヘラクレイトス的な多と一の弁証法的世界を援用した方が、自らの論に整合していた。個物はどこまでも個物であり、全体的一と対立し、全体を逆規定せんとする自由な存在でもあり、この側面から、個物は全体に対して矛盾的関係の内にある。多と一との弁証法的世界は、個物が一方で全体とのモナドロジー的調和をもつのと同時に、全体と矛盾し対立する関係を持つような世界なのである。そして、主体の行為の内に世界が映るということが「行為的直観」なのであったし、それによって「自己が世界を逆限定する」という関係まで含めて、自己と世界との絶対矛盾的自己同一の関係が形成されるのである。無論、ここで、論筋はすでにハイデガーと途を違えている。ハイデガーにおいては、主述同一概念は存在しない。ライプニッツとハイデガーを結び付けるものは、と言えば、襞、だが、その根本において、ハイデガーの襞とは、状況の突端、すなわち存在と存在者を折り畳む述語そのものであり、ライプニッツの襞とは、拠を異にするもの(このことは、ハイデガーがカントの図式論に介入したことと、恐らく無関係ではない。あるいは状況の突端という意味での仮想現実への新たな回路?)。ともあれ、現段階において、ハイデガーの技術論にモナドロジーの残響を聞くことはできない。そして、論は、ようやくここでヴィリリオの言述に戻る。再度、引用しよう。

 

ここにおいて、西田とヴィリリオは、ライプニッツを介して接続された、と言える、すなわち「奇妙な小窓」なる語彙、西田にとって、そして、ヴィリリオにとっても、この窓は間違い無く必要である。それは鳥瞰行為とそのためのモニタを示唆している。ライプニッツは「モナドには小窓がない」と言いながら「モナドは全宇宙を表出する」と言う。そこには確かに西田とライプニッツの行為論的差異があるが、もう一方で、それは決して西田とヴィリリオの違いではない。大橋に倣えば、実のところ、仮想現実と対比されるべきは、前期西田の「一の意識」ではなく、後期の絶対矛盾的自己同一的な「自覚」概念だった、ということになる、と言えるだろう。 さらに、

 

 

という事態に至るとするならば、その時、人間の身体性とその速度認知不可能性の狭間において、この自覚は、「現実」か「像」かの判断未分の状態に陥るに至るのだ。

 

 まとめよう。大橋と途を違えた試論は、一先ず大橋と同じ結論に行き着くのだが、そのプロセスにおいて、純粋経験解釈に若干の違いがある、すなわち、速度認知不可能性に純粋経験を対応させる、という試行。その意味、どこまでも深化してゆく純粋経験をさらに純粋経験とし、それがアクシダンと足並みを揃える点に、仮想現実の危険性を適応する大橋の論に速度を適応することはできない、と思われる。純粋経験は待ってはくれない。逆に、ここでは、純粋経験そのものが常にアクシダンなのである。すなわち、全てが今である、この瞬間に、我々が小窓から垣間見る我々の背中……、それが絶対矛盾的自己同一的な「自覚」なのである。その意味、大橋の言う純粋経験は、時間的単一ベクトル性におけるそれであり、西田同様デカルトの系譜と言える(あるいはハイデガーのニーチェ理解?)。純粋経験に速度を適応させることで、それぞれの純粋経験が、それぞれの系として独立する。その反省を含む円形回路は、至る所が中心となる。無論、我々が来たるべきアクシダンについて語ることができるのは、それらが、反省、というフェイズにおいて、その深淵にある「大きな回路」に接続されているからだが、これは、デカルト的系譜において、「純粋経験認知」枠内で語られる純粋経験である。その連なりの全域性、すなわち「純粋戦争」としての「純粋経験」、来るべきアクシダンに備えての常なる準備、それが速度論的「純粋経験」の中身と言えはしないだろうか。そして、このようにして、仮想現実の不安定性は、「速度認知不可能な純粋経験」というリアルタイム性を含み込んで、ようやく、「可能性」を含み込めた総体的な概念の枠内で語られる。このような可能性の総体は、事象の実在性をも可能性の内に解消する、事象が要求する現実そのものを無に帰してしまう。すなわち、消尽、である。だが、常に消尽をしているからこそ、我々は純粋経験を保持する。いわば、消尽とはリセット機能に他ならず、我々が常に自らを白紙にするのであれば、純粋経験は自ずと到来する、と言える。「完全な抑止」たる純粋戦争状態の中で、もはや動けない我々の目の前にあるであろう、消尽、という事態。これが、仮想現実の概念的な不安定さ、のアクチュアリティとなる。もし、仮に、ここまでを「純粋経験」で覆うのであれば、この場合、速度論としては、不具合が生じることは否めない。なぜなら、速度論における状況の突端は不可視であるからである。この過程においてのみ、ヴィリリオの言うアクシダンは、やはり狼の到来の連呼に他ならない。狼は来るか否か? そのようなことは、もはや重要ではない。そう、我々はすでに知っているのだ、その先にあるもの、もはや不可視、認知不可能な消尽、すなわち、ヒロシマナガサキにおいて、自らの生死も分からぬままに消尽してしまった人々の存在を……。もはやとり残されてしまった、とも言うべき我々は、速度的な認知不可能性、という概念の内で、このこと、「とり残されている」という事実を、実に、被爆者や記録からだけではなく、仮想現実という「像」からも学ばねばならないのである。

 

[了]

 

(2000/11)



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