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その後の『親愛なる押井守様』

――「人狼」と「Avalon」を巡って――

(2000年暫定版)


野田 真外



 

 先日、角川書店の「ザ・スニーカー」という雑誌で「押井守特集」(2000年12月号)という記事のお手伝いをさせていただく機会に恵まれました。その時に担当していた編集部のO内さんは、とてもチャーミングな女性でして、私はすっかり大ファンになってしまいました。と、それはさておき、そのO内さんは2000年の夏にこっそり行われた試写会で「Avalon」を見た感想として、「今までの押井さんの作品に比べてとても優しい感じのする映画」だとおっしゃっておられました。もちろん、その時点では私はまだ未見でしたから、「どこいらへんが?」みたいなもう少し突っ込んだ話は聞こうにも聞けませんでした。

それから約二ヶ月後の十一月四日、「Avalon」は東京国際映画祭の正式出品作として上映され、私もようやく見ることが出来ました。私は基本的に映画を見る前に内容に関する情報を聞いてしまうのがキラいな人間でして、今回もそのO内さんのコメント以外はほとんど情報なしで上映にのぞみました。なので逆にO内さんの意見に引っ張られたのかもしれませんが、確かに私も「今までの押井作品よりも優しいな」という印象を抱きました。

あの作品についてちゃんと語るのは、少なくともあと数回は見てからにしたいと思っているのですが、せっかくのこういう機会ですので現時点での試論として(どっちか言うたら推論かな?)、その「優しさ」の理由について考えてみたいと思っています。

(ちなみにこの先は「Avalon」のネタバレをおおいに含みますので映画を見てから読んだほうがいいかも)

 

1998年に著しました拙著「前略、押井守様。」において、私は押井作品の傾向として「作品内に描かれる見えない〈他者〉あるいは〈外部〉の存在」について言及しました。詳しく述べると長くなるので割愛しますが(全国書店で絶賛発売中につき購入してくだせぇ)結論として、押井作品における本当の主役は画面上にはなかなか登場してこない〈他者〉であり、作品内では常に主体である主人公とは距離を置き続けるためにその関係性はいつも『不安』や『恐怖』と言ったネガティブなものになりがちであったのだが、それが『期待』のようなポジティブなものに変わりつつあるのではないか? と結びました。そうした傾向が「パトレイバー2」や「攻殻機動隊」のラストの描写において読み取れたからです。

拙著が出版されて以降に公開された「押井監督作品」は「Avalon」のみですが、原作・脚本として参加した作品に「人狼」(監督・沖浦啓之)があります。これは今更補足する必要もないと思いますが、原作・押井守/作画・藤原カムイのまんが「犬狼伝説」をベースにした物語で押井色が強い作品だと思われているように思います。実際私も一時期はそう思っていました。

この作品は、組織のイデオロギー闘争の道具にされ、魅かれあっているのに引き裂かれる一組の男女、主人公・伏一貴とヒロイン・雨宮圭の男女の情愛の物語である・・・という私の印象は恐らくあの映画を見た人の多数意見であると思います。だとすると、あの押井守がついに、魅かれあう男女の情念をまともと描いた初めての作品(つーか脚本)であるということになります。なんといってもキスシーンもバッチリありますし、歌舞伎や浄瑠璃で言うところの「道行き」のシーンも夜の東京を舞台に延々と描かれています。そうやって心と心で魅かれあっている男女の心情を積み重ねているからこそ、ラストシーンで圭を射殺せねばならない伏の慟哭が一層胸をうつと。

しかし、「人狼」に関してのいくつかのインタビュー(例えば角川書店「人狼マニアックス」)に答えた押井守は「自分には描けない『官能性』を持つ映画になった」「原作者としては満足している」などと発言しています。これは言葉を選んで「沖浦批判」にならないように配慮しているのでしょうが、言外に「人と獣の物語は恋愛じゃない」「演出家としては不満がある」と発言しているようにも取れます。そこで思い当たって、慌てて「人狼マニアックス」に掲載されている、沖浦監督が手を加える前の、オリジナル「押井脚本初稿」を読んでみると、キスシーンだけではなく「官能性」に相当するシーンがすっぽりと抜けているのでした。私が先ほど「道行き」と呼んだ、夜の街を徘徊するシーンも分量的にはほんの数行しかありません。

ラストの銃殺シーンも、少なくとも私にはもっと冷酷に撃ち殺すシーンのように読めました。撃つ直前に「苦痛に顔を歪めて目を閉じる伏」という描写が押井稿にはありますが、おそらくこれは沖浦監督の解釈では「愛する人を殺さねばならないという矛盾」への苦痛なのでしょう。しかし前後の印象から素直に読むと、私には「伏が『狼』になるために自分の中の『人』の部分を切除する」ことへの苦痛というふうに受け取れました。

 

やはり、「映画『人狼』は沖浦作品であって、押井作品ではない」と考えるべきなのです。

当たり前っちゃ当たり前ですけど。

 

で「Avalon」です。

「Avalon」のラストシーンでは、主人公アッシュが仮想戦闘ゲーム『Avalon』の隠しステージ・クラスSAという仮想現実世界でのミッションを終了させるために、かつてのパートナーであるマーフィー(マーフィーはこの仮想現実世界から抜け出せなくなったため、現実の世界では『未帰還者』と呼ばれる廃人になっている)を発見して射殺します。ゲームマスターの説明によれば、それが彼女が無事に現実世界へ帰還するための唯一の方法なのですが、実際その保証はどこにもありません。ひょっとしたらクラスSAの方が本当の『現実』で、彼女が『現実』だと思っていた世界の方が彼女の見ていた長い夢だった、ということだってありえます。押井チルドレンには『胡蝶の夢』は必須科目なので、当然そうした可能性を視野に入れておきたいところです。恐らくは劇中のアッシュも「ここ(クラスSA)が本当にゲームの中の仮想現実なのか?」的な疑念は抱いていたはずです。なのに、彼女はかつての盟友であるマーフィーに引き金を引いた、そのわけは何なのでしょうか。

そういえば「Avalon」のラスト近くを見ながら、私は何故か手塚治虫の連作シリーズ「火の鳥」の中の一編「異形篇」のことを連想しました。知らない方のために補足しますと、これは一種のタイムスリップネタで、八百年も生きているといわれる八百比丘尼と呼ばれる尼さんがある女に殺され、その直後その女は寺ごと30年前にタイムスリップしてしまい、寺からも逃げ出せないため仕方なくその尼さんの代役を務めているうちに30年が経過して、今度は次にやって来た「30年前」の自分に殺される・・・という無限ループネタです。

シチュエーションはかなり異なっているのですが、「次の誰かに殺されるまでそこから脱出することは出来ない」という設定が「Avalon」にも共通しているんじゃないかとなんとなく思ってしまったのです。もちろん、そんな設定はどこにも語られていませんが。

アッシュがクラスSAに入れたのは、ある条件を満たすことでゲームに登場する隠れキャラ『天使』を撃った(!)からでした(押井作品の中で『天使』を撃ち殺す、そして新たなステージを迎える、というシークエンスは解釈者としては非常にそそられる部分なのですが、今回はまだ情報不足なので泣く泣く割愛します)。そしてマーフィーを射殺した後、あの『天使』がもう一度アッシュの前に現れます。その『天使』の『悪魔的な笑顔』がこの作品のラストカット(だったはず・・・)でした。その『天使』が手塚作品のキャラクター・火の鳥を私に連想させたのは間違いありません。

手塚作品の「火の鳥」シリーズに登場する火の鳥は、人の生き死にのドラマの中で、時間や空間を自由に飛び越えながら、常に〈超越者〉としてそのドラマを見守っている存在でした。若干ニュアンスは異なるものの、押井作品における〈他者〉と同一の役割と言ってよいでしょう。この火の鳥は神の視点と慈愛を持つ〈超越者〉であると同時に、人に不老不死をもたらすため、常に人間の欲望を刺激してしまう存在でもあります。「異形篇」の無限ループを仕組んだのももちろん火の鳥です。

「異形篇」の八百比丘尼は自らが犯した罪(30年前の殺人)償うために、自分の運命を知っていながら敢えてその身を差し出しましたが、「Avalon」のマーフィーは必ずしも自覚的にアッシュに撃たれたわけではなさそうでした。むしろそうした自己犠牲的な覚悟は、アッシュの方に感じられました。

今マーフィーが彼女の目の前にいるということは、つまりクラスSAは『未帰還者』たちが閉じこめられている世界でありということです。とするならばゲームマスターから受けたミッションを遂行することで、今度は自分が閉じこめられてしまう可能性はむしろ大きいと言えます。ここでの死の方がむしろ外の世界への帰還を予感させます。

とするならばアッシュがマーフィーを撃ったのは、彼を早く解放してあげたいという、その一心だったのではないでしょうか。彼女が現実に帰還するためではなく、むしろ相手を現実へ戻してあげるための手段だったのではないかと。とはいえ、それは私が直感的に「あの世界は誰かに殺されるまで元の現実に戻れない世界なのではないか」と感じたことだけが理由なので、単に私の勘違いである可能性は大ですが。私がこの作品に対して「優しい作品」という印象を抱いたのは、多分この自己犠牲的な(と私には感じた)アッシュの行動によるもなのでしょう。

そして、過去の押井作品では、ある世界(虚構)が完結することで、つまりその虚構の外の世界へと帰還することで物語が完結していました。ところがこの「Avalon」ではその帰還は描かれていません。それが一体何を意味しているのか・・・は今の私にはちょっとまだ受け止めきれていません。いつか解読できるまで、もう少し時間をいただきたいと思います。私にあるのは、それが恐らく私が拙著に書いた「〈他者〉への期待」につながるのではないか、という予感です。きっとその予感が感じられたからこそ、この作品を「優しい」と感じたのではないかと、そう思う2000年の冬なのであります。

 

そういえば「人狼」のラストも「Avalon」のラストも、共に主人公が自らのパートナーを射殺するというシークエンスになっており、奇しくも同じです。「人狼」の方は組織あるいは伏自身という「主体」を生かすために圭を殺したのであって、その理由というのは常に主体の側にあります。一方アッシュは自分が助かりたい一心でマーフィーを殺したのでしょうか。マーフィーを助けたくて殺したのでしょうか。それとも・・・

(未完)

  

(2000/12)



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