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『前略 野田真外様』





へーげる奥田



前略 野田真外様

 わざわざメールをいただくという光栄にあずかりながら、なかなかご返事いたさず申し訳ありません。実のところ、貴方に提起されました問題について、私も考えること多く、すこし落ち着いて考えてからご返答したいといった部分もありましたもので。

 いきなりまことに不躾な物言いで恐縮ですが、『前略、押井守様。』が発行された当初、正直あまり期待しておりませんでした。十数年前に比べ、たしかに多くの評論や研究関係の資料が著されるようになりましたが、実のところいままで出たものの中には押井作品に対して感心するようなアプローチをしているものが少ないように思われたため、ややたかをくくっていかのかもしれません。事実、最初にこの本を書店で見かけた際、ぱらぱらとめくってみてあとで買おうと考え、後日横浜の書店に見あたらずあわててWWFのメンバーに押さえてもらったという次第で……しかしそのときも、ちゃんと巻頭の論文を読んでいればちょっとぐらい荷物が重くてもすぐ買ったことは確かです。勉強不足に加え、先入観にて物事を判断したおのれの態度に反省しきりです。

 じっさい、巻頭論文『親愛なる押井守様。』には相当に感心いたしました。結論から言ってしまえば、かつて書かれたどの評論よりも、押井作品の本質的部分に迫ったものだと私には思えます。

 たしかに、すべての押井作品に対してひとつのキーワードで説明しきることは困難であるように思います。しかし、『親愛なる押井守様。』においてはこのキーワードを、「他者」や「外部」という概念にてかなりの完成度をもって説明しています。これは言い換えれば「世界と人間」というきわめて根元的な問題──たとえば中島梓氏においては、「この、最も本質的な根源的な命題にたえず止揚されてゆかないような考察や思惟や評論はすべて重大たりえないし、基本的には時間のムダにすぎません」とすら言い切っていますね──であり、それは押井守という一個の根元的思惟に対する解読のキーとしては適切なものであったと思います。

 『親愛なる押井守様。』に描かれた押井守解釈はまた、読んでいて非常におもしろい一個の「物語」でもあります。「物語」というものは、人間が世界を解釈する際に使用する一種の装置、もしくはフォーマットということができましょう。私の場合、作品論を書くにあたって、自己自身の「物語」を意識して排去しましたが、これは結果として文章全体を無味乾燥なものにしてしまった観があり、ひとつの反省点とも考えています。

 とはいえ、この部分が迷うところです。いみじくも『親愛なる押井守様。』におきましては、宮崎・押井・庵野各氏の「他者」に対するスタンスが対比されていますが、やはり私はこのうち価値相対主義としての押井守型の対応にもっとも強くシンパシーを抱きます。そしてまた、これが現代におけるもっとも「哲学的」な態度だと考えます。

 なにがしかの絶対的価値に拠り所をおき、他者にもそれを強いる宮崎型の態度はむしろ旧時代のイデオロギー的ですし、他者から身を隠して背世界的な個人主義に陥る庵野型というのも病理的な感じがします。脱線ですが、そういえば、「おたく」という言葉が元来「他者」としての相手への呼称を語源としていることなども象徴的です。当初「おたく」という言葉の定義は、アニメファンとかそういったものではなく、他者をリアルなコミュニケーションの対象として認めない、ないしは認めることのできないタイプの者に対する蔑称だったはずです。その存在の不気味さ不健康さは、『親愛なる押井守様。』にて論じられている通りです。

 『親愛なる押井守様。』を読んで改めてそれを意識したのですが、私自身、ある「物語」を他者に強制する態度や、あるいは自分だけの──今で言う「オレ的」というやつですか──手前勝手な「物語」にのみ逃げ込む背世界的態度に強い抵抗感があったのだと思います。そのため、押井作品に対する解釈は完全に鑑賞者に任せ、論者としての当方は思考のための方式を語るのみにとどめた。私の方法はそういうものでした。しかし前述したとおり、これはとうてい一般的な文章のスタイルではありません。最低限、読者として読んでもらうには、やはり人間のもっとも基本的な世界解釈のスタイルである「物語」の形式をとる必要があるのだろうと思います。まあ、私の場合はべつだん無理に誰かに読んでもらわなくてもかまわないという一種気楽なスタンスが根底にありますから、言ってみればここがプロの物書きとアマチュアとの差というものなのでしょう。

 私の手法は、押井作品(押井守の、ではなくその作品です)に対して、その思想的な「方法」、またその思考空間としての「地平」、そしてその思惟の及ぶべき範囲としての「射程」といったアプローチを試みたつもりです。ただし、私の文章はあくまで『ビューティフル・ドリーマー』から『パトレイバー劇場版1』までの作品に限定されたものであり、その後の作品群──『パトレイバー劇場版2』や『攻殻機動隊』などの諸作品──などを合理的に説明することがやや困難と言わざるを得ません(というか、執筆時点での最新作が『パトレイバー劇場版1』だったので、その後の作品傾向を想定していないということなのですが)。この点、『親愛なる押井守様。』においては、むしろこのへんの作品群、なかんずく『パトレイバー劇場版2』の解釈は見事と言えます。

 こういったジャンルの研究に、「正解」という観念を求めることはあまり意味がありません。「押井的思考の世代」である私は、あることに対して「正しい」とか「間違っている」とかいった判定を安易にふりまわす人が信頼できません。科学哲学の議論を持ち出すまでもなく、それは「物事をどれほど合理的に説明しうるか」という点、一種の経済学的思考を基盤として価値判断を行います。その視点から考えて、貴方の『親愛なる押井守様。』は、価値相対主義的な地平に展開する押井作品に対して、主観的解釈の結果である「ひとつの物語」を固定的に提示するという方法論的な自己撞着の危険を内包するものの、その成果は十二分に得られたと言っていいでしょう。

 かつて私は、鑑賞者が押井作品に向かうモチベーションという視点において論じるという試みをいたしました。これはこれで一定の成果があったと考えていますが、『親愛なる押井守様。』においては、押井守自身のモチベーションという問題意識を追求しています。これはむろん仮想の思考実験ですが、「押井守体系」の理解に対して明快な思考地図を提示するという点できわめて有用であり、またその説得力は絶大です(私自身、読んでいてかなり感情移入してしまいました)。この説が正しいとすると、今後の押井作品はどのような姿になるのか。正直、『攻殻機動隊』前後の作品に接するかぎり、私には明快な予想を立てることが困難でした。「他者への期待」をキーワードとした『親愛なる押井守様。』の考察を、私も信じたいと思っています。

 私が同人誌において目指す目的は、正当な評価を受けるずにいる優れた作品に対し、それを受け入れる側の環境に働きかけることで「鑑賞」の質を変えようというものです。この立場はこの立場として堅持し、アマチュアとしての役割を果たしていくつもりです。数多くの研究本や資料集の出版、プロの評論家による批評の実現、パソコン通信やインターネットの普及等、作品を解釈したり、それについて語ったりするための場は、十数年前に比べようもないほど進歩しています。しかし、解釈という営為に対する取り組みの態度自体は、あまり進歩しているように思えてなりません。作品鑑賞という営為が、マニュアル化したり、あたかも書庫にしまい込むことのできるような静態的なものではないということは却って忘れられているような印象すら受けます。鑑賞態度自体もいやにマニュアル化されているようで、たとえば「識者」を気取るなら『ファイナルファンタジー』のシリーズはけなして『ドラゴンクエスト』のシリーズはほめておくとか、とりあえず庵野はダメだと言っておくとか、一定の方式が決まってきているようです。作品解釈についても、他人の提示したものを「正解」という見方で了解し、それで終わってしまうと言った悪弊もあります。こういった状況に対し、アマチュアはアマチュアなりにものを言っていこうと考えております。

 風の噂によると、押井氏が制作にかかっていた『G.R.M』が中止となったといいます。これからの展開はどうなるのか当分目が離せぬといったところです。野田様におかれましても、今後の活動を楽しみにしております。どうか一層のご活躍を。

 それではまた。

草々
へーげる奥田 拝


(1998/12)





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