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経済学の思考



ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』翻訳刊行によせて





清瀬 六朗





マルクスの理論的予言が的中したかに見える恐慌の時代に、マルクス主義経済学に元気がないように見えるのはいったいなぜなのだろう?


 どうしていまマルクス主義経済学者の声をあまり聞かないのだろうというのが私には不思議だ。

 一九八〇年代、私がマルクスの考えかたについてはじめて聴いたときにはあまり説得力を感じなかった。資本主義が進めば恐慌が頻発する? 労働者が窮乏化する? そんなアホな。げんに、資本主義は進んでいるけれども、不況はあっても恐慌は起こらない。労働者も窮乏化しているようには見えない。春闘で大規模なストライキが行われたという記憶ももはや遠い思い出だ。でなければ資本主義が未発達なよその国のできごとだ。資本主義経済が恐慌の危機にさらされているようにも見えなかったし、労働者の賃金は上昇しつづけていた。

 こう感じているのは私だけではなかった。「窮乏化論」なんて冗談でしかなかった。大学の先輩たちのあいだでは、頭の古い先生について「あいつは窮乏化論から教えるんだぜ」という陰口が叩かれていて、その先輩たちはそれで笑ったものである。先輩たちには、また、私のような年下の者に「窮乏化論なんて知ってるかい?」と言う意図もあったのだろう。先輩たちは、「窮乏化論」と言ってただちにマルクスの議論だとわかるのは自分たちの世代が最後だと思っていたにちがいない。

 そのころ危機にさらされていたのは「マルクス‐レーニン主義」を掲げるソ連圏のほうだった。冷戦構造が崩壊し、「社会主義は西側の自由民主主義に敗れた」という議論がさかんに行われるようになると、マルクス主義者も強く反発した。悪いのはマルクスやレーニンではない、スターリンだ、冷戦で破綻したのはスターリン主義であって、マルクス‐レーニン主義は無傷だという主張も出された。マルクスは早く来すぎた、マルクスの予言した事態はこれから始まるのだということを強く主張するマルクス主義者もいた。

 冷戦崩壊の百家争鳴のなかで、マルクス主義者たちはとても元気だという印象を受けた。

 それから一〇年足らずが経過した。

 世界経済は大恐慌の危機におびえている。

 昨年(一九九七年)から何度か「世界同時株安」の波が世界市場を駆けめぐった。そのたびに好調のアメリカ合衆国経済がその波を食い止めた。ロシアの財政破綻がヘッジファンドの投機を大失敗に追いこんだときにはアメリカ合衆国政界・財界エリートは大慌てで救済策を打った。しかしアメリカ合衆国経済はその影響を受けて徐々に体力を奪われつつあるように見える。

 「窮乏化」だって現実のものとなりつつある。日本経済はマイナス成長に転じた。大型企業の倒産が相次ぎ、失業率は上昇している。アメリカ合衆国がいまの好況に転じる際の経済回復は「ジョブレス・リカバリー」と呼ばれた。景気は回復しても失業率は下がらなかったのである。公共事業と開発の大規模な展開、完全雇用(失業率〇パーセントを実現すること)、それを実現するための赤字財政――そういうニューディール型の経済回復とは明らかにちがっていた。現在のアメリカ経済を支えているのは中産階級以上の活発な投資である。労働者階級は経済発展に取り残されつつある。階級の分化が進んでいるのだ。

 かつてマルクス主義者たちは「マルクスの予言のとおりであれば資本主義経済は先進国から先に崩壊するはずなのに、社会主義化しているのは経済後進国ばかりではないか」という攻撃に悩まされなければならなかった。しかしいまやアメリカ合衆国や日本のような先進経済が危機に直面している。

 「恐慌」も「窮乏化」も現実のものになった。これほどマルクス主義にとって都合のいい機会はないように思える。

 しかし、書店では「近代経済学」の経済学者が書いた本ばかりが目立つ。いまもてはやされているらしいクルーグマンは正統派の新古典主義経済学者だという。また、「公共事業に政府が大規模にカネを投入したから経済は回復する」というケインズ主義的楽観論もときおり見かける。それなのに、「この恐慌の波状攻撃で世界経済は破滅し、新しい共産主義社会が始まる」などと書いた本は見かけない。

 では、新古典主義やケインズ主義の経済学が世界経済危機に十分に対応できているかというと、そういうわけでもない。

 政府が赤字財政を組んで公共事業を展開すれば景気は回復するという主張がケインズ主義の立場から何度も主張された。しかし、日本に関するかぎり、その主張は残念ながら実現していない。新古典主義の立場からの主張は分析としては正しいのかも知れない。しかし、新古典主義に基づく経済改革をIMFがアジアに押しつけた結果、インドネシアは大混乱時代に突入したし、韓国の経済状況はさらに悪化している。やはり経済回復の原理としては十分とは言えなかったのである。

 もちろんケインズ主義も新古典主義も「無能をさらけ出した」わけではない。この世界大不況という状況に対して経済学者たちはよく戦っていると言うべきだと私は思う。

 だが、あくまで望ましくない仮定として言うと、世界恐慌が現実のものとなったら、ケインズ主義や新古典主義がその状況にどれだけ対応して行けるだろうか?




マルクスとJ.S.ミルはイギリスの中産階級勃興期に登場した。そしてアメリカの中産階級勃興期に登場したのがヴェブレンである。


 マルクスが経済社会の破滅の過程を考察したのはいまから一五〇年ほど前である。仲間の才気煥発な青年エンゲルスが、当時の経済先進国イギリスの工業都市で進行していた事態を観察していた。その観察をもとにマルクスが資本主義経済の破滅への理論を組み立てたのである。

 たしかに早すぎた。当時のイギリスは最初の産業革命で低コストで生産された繊維製品が国内にありあまっている時期だった。製品が売れないから値段が下がる、値段が下がると会社の儲けが減る、会社の儲けが減ると給料が下がる、給料が下がるとだれも製品を買わない、だれも製品を買わないから製品が売れない――そういう悪循環が恐慌頻発の原因になっていたのである。

 世界に繊維産業以外の産業がなく、市場の拡大も望めないのならば、マルクスの考えた過程はすぐにでも実現したかも知れない。政治・思想面での啓蒙的な自由主義の発展と経済の自由化が手を携えて進んでいるかに見えた時代の背後にマルクスは本質的な破滅の影をいちはやく看取したのである。

 しかし、まだ産業化されていない分野は重工業を中心にまだ広く残されていたし、この時代から世界市場は一挙に本格的に拡大しはじめる。したがってマルクスの考えたとおりには事態は進展しなかった。もしマルクスの考えたとおりに資本主義が恐慌の波状攻撃で壊滅していたらマルクスは『資本論』なんか書いている余裕はなかったにちがいない。しかし、その拡大期の資本主義を観察しながら『資本論』の研究に没頭する時間がまだマルクスには十分に残されていた。

 マルクスの時代は新しい思想としての自由主義の拡大期でもあった。そして中産階級の勢力の拡大の時代だった。

 まだ教会の影響の強かった当時の学問の周縁からJ.S.ミルやダーウィンやハーバート・スペンサーが登場してきていた。いずれも自由主義の理論の基礎を作るうえで大きな役割を果たした思想家である。

 ここに名を挙げた三人は、学校にはほとんど行っていないか、行っていてもエリートではなかった。その学問の周縁から出てきた思想家たちの思想が新たな時代を築いたのは、その自由主義を新興の中産階級が受け入れたからである。中産階級の中心は産業革命のなかで富を蓄積した産業資本家だった。大貴族と庶民とのあいだに大きな格差があった当時のイギリス社会で、産業資本家はその中間を埋める階級として成長してきたのである。半世紀前にはただの成り上がり者にすぎなかった連中が、いまや資本家・中産階級として、大貴族と張り合う勢力として社会に根を下ろしていた。

 自由主義とマルクス主義は、そういう中産階級成長の時代のロンドンで対になって生まれた思想であった。マルクスのいうブルジョワ階級は、現実にはイギリスの中産階級として姿を現していたのである。自由主義は中産階級の繁栄を描き、マルクスはその破滅の構造を解明しようとした。方向は正反対であったが、いずれも新しく訪れた「中産階級の時代」に対応しようとした思想だったことには変わりがない。

 この二つの思想が、その後、一世紀以上の世界を支配しつづけたのである。新古典主義とケインズ主義は自由主義の後継者であり、西側の社会民主主義と東側のマルクス‐レーニン主義はマルクスの後継者であった。

 イギリスで中産階級の時代が始まったころ、アメリカ合衆国はまだ一部のプロテスタントが組織した同志的な宗教国家にすぎなかった。しかし、アメリカもまもなく産業化の影響を受け、中産階級が社会に根を下ろす。

 この中産階級抬頭時代のアメリカで書かれたのが、ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』である。




ヴェブレンによれば、金銭を持つことと、産業を運営することは別である。「金銭を持つこと」の意味はまず「金銭をたくさん持てばカッコいい」というところにある。


 『有閑階級の理論』の経済学は、勇敢にも新興の「中産」階級を「有閑」階級として捉えなおして構想された経済学である。

 中産階級は「カネがあれば産業に投資する」ような産業資本家として考えられていた。それが資本主義の原動力だと普通は考えられる。それまでは「カネがあれば使ってしまう」のが普通だったのに、どうして「カネがあれば産業に投資する」という行動様式が生まれ、それが中産階級に定着したのか? それを追究したのがドイツのマックス・ウェーバーだ。ヴェブレンのほぼ同時代の人である。

 ところが、ヴェブレンの思考は独特なものだった。中産階級にとって「カネを持つ」ということと「それによって産業を進展させる」ということとは別であるということを、ヴェブレンは『有閑階級の理論』の基本的な枠組みに据えたのである。

 『有閑階級の理論』は難解な書物なので私はその議論をどれだけ的確に把握しているかわからない。そのことを断ったうえで、ヴェブレンの基本的な考えかたをここで整理してみたい。

 人間は最初の「原始未開」の時代には非常な貧困のなかで共同生活をしていた。その時代の人間は、純朴で、だまされやすいお人好しだったかわりに、平和を好んでいた。この時代の人間たちが生存のために獲得した本能は、人間共通の利益になる活動を行おうとする「製作者本能」であった。

 ヴェブレンが人間の原初の共同体のあり方から経済学を構想していることを「古い」と決めつけることはできない。たしかにこのあたりの論法はホッブズやロックやルソーを思わせる。しかし、エンゲルスが当時の考古学・人類学などを基礎にして『家族・私有財産・国家の起源』を書いたのも一九世紀後半のことである。

 ところが、この「原始未開」の時代から、余剰生産物が生じるにつれて、その余剰生産物をたくさん獲得してそれを自慢するのがカッコいいと思われる時代がはじまった。ちまちまと生産しているより、掠奪でがばっと利益を獲得したほうが共同体にとって利益だからである。共同体にがばっと利益をもたらせば、ちまちま生産しているよりカッコいいと考えられる。そういう思考の習慣が人間の社会のなかで確立していった。

 「製作者本能」も生きつづけたけれど、人間の行動のなかでは財産をひとりじめすることのカッコよさのほうが重視される時代が始まったのだ。これがヴェブレンの分類による「野蛮」の時代である。なお、この「野蛮」の分類には普通にいわれる中世の「封建時代」までが含まれている。

 財産をただたくさん持っているのよりも、よりカッコよく手に入れるほうがよりカッコいい。そのよりカッコいい手段とは何かというと、掠奪であり、詐術である。掠奪を支える武勇と詐術を支える狡知がその時代の尊敬の対象になった。

 武勇を誇るたくましい男は、共同体の代表者として他の共同体への掠奪を行うだけではなく、共同体のなかでも自分一人の「偉さ」を強調することを求めるようになってくる。そこで掠奪した女性を妻として家族が生まれ、また従者集団が生まれる。つまり妻妾はここでは奴隷にも似た「財産」として考えられるのだ。財産、家族、従者集団はすべてカッコよさや偉さを誇示するための手段だというのである。

 その「財産」を計測する基準として登場したのが金銭である。

 つまり、金銭はたんに交換のために使用するものではない。それは財産を誇示するための手段なのだ。金銭は使うことだけに意味があるのではない、それを持っていること自体が独特の意味を持っている。金銭は交換価値を代表するものであるだけではない。それは「誇り」を象徴するものでもあるのだ。

 「武勇と詐術」が社会で尊敬される価値だった時代から産業の時代へと時代が移って、そういう金銭の性格は本格的に意味を持ち始める。

 産業自体は人類共同の利益に役立つものである。したがって、産業を運営する精神は「製作者本能」だ。しかし「製作者本能」が時代の精神になったわけではない。産業の進展によって、よく多くの人間が金銭を蓄えることのできる階級に参加しはじめたのである。そして、それらの中間階級がそれぞれ自分の蓄えた金銭を誇示しようとし始める。

 かつてはだれが金銭的に豊かかは一目瞭然だった。しかし、金持ちがふえると、意識して金銭的に豊かであることを見せびらかさないとまわりに埋没してしまう。そこで始まったのがヒマの見せびらかし(「顕示的な閑暇」)とムダづかいの見せびらかし(「顕示的な浪費」)であった。

 カネがあれば働かなくてよい。だからヒマがふえるはずである。またカネがあればムダづかいができる。したがって、ヒマとムダは自分が金持ちであるということを見せびらかす有効な方法なのだ。ヒマを見せびらかすためにスポーツに時間を使ったりややこしい儀礼を伴う社交に参加したりする。また、ムダづかいを見せびらかすために、着飾ったり、役にも立たない飾りのついた建物を建てたりする。

 みんながヒマとムダを見せびらかすようになると、そのなかでヒマやムダを見せびらかさない生活をつづけることは難しくなる。人間どうしのコミュニケーションがその「見せびらかし」を基本に成立するようになるからだ。ヒマを見せびらかさないで暮らしていれば「あいつはつきあいが悪い」といわれて仲間はずれにされる。ムダを見せびらかさないで暮らしていれば「あいつはケチだ」といわれて仲間はずれにされる。だからまわりの友人たちが「人類補完計画」とか言い出したら自分も『新世紀エヴァンゲリオン』を見なければいけないような気分になるし、まわりの友人たちが「はにゃ〜ん」とか「ほえほえ」とか言い出したら是が非でも『カードキャプターさくら』を見なければいけないような気分になるのだ。『エヴァンゲリオン』や『さくら』を見るという行動は、作品に興味があるからではなくて、自分を防衛するために必要だから行われるのだ。産業社会での消費はそういう原理で行われる。

 もちろん『エヴァンゲリオン』や『さくら』のファンにはこういう表現に異議を唱える方も多いだろう。いい作品だから、さくらちゃんがかわいいから、だから見ているのであって、けっして「見せびらかし」なんかじゃない、と。それはたぶん自分にとっては真実である。また、ほんとうに作品が好きな人どうしのつきあいのなかでは、そういう真情は理解したうえでのつきあいが成り立つだろう。そういう仲間を持てる人はしあわせだと思う。

 しかし、そういう人も、不特定多数の集団のなかでその作品について話をするとき、自分から目立ちたいとは思わなくても、他人が何か立派な議論を展開したりすると「何もわかっていないくせに」という感想を最初に抱いてしまうことがあるのではないだろうか? ヴェブレンは、不特定多数の集団のなかでのそういう心の動きを人間社会を支配する本質的なものと考えるのだ。そして産業社会とは「不特定多数」で成り立つ社会である。

 すでに社会的な名声のある人物がその種の「見せびらかし」をやらなければ「質実剛健な生活を送っていてえらい」と讃えられるかも知れない。しかし、身近にいる人間がひたすらつつしまやかに目立たずに暮らしていれば、その人に対してはそんな敬意はめったに払われないだろう。そんな人はたんにつきあいが悪くてケチでいやなやつとして仲間はずれにされるだけだ。いじめの対象にされることだってあるだろう。

 社会的に名声のある人物の質素な生活は、自分では「見せびらかし」を否定しているつもりなのかも知れないが、社会的に見れば「わざわざ見せびらかする必要もないことを見せびらかしている」と解釈される。だから社会的に尊敬もされる。政府や経済界のえらい人が「日本人はもっと質素に生活しなければいけない」とお説教しても、それは結局は「ああえらい人はあんなことを言っている余裕があるんだなぁ」という「見せびらかし」としてしか受け取られないのだ。

 こうなると、じつは見せびらかすヒマやムダもない人間までヒマやムダを見せびらかさざるを得ないことになる。下層中産階級の家庭では、妻やその他の家族がヒマやムダの見せびらかしによって社会的ステータスを保つのを「主人」が懸命に働いて支えるのが常になってしまう。

 だが、金銭の原理が「見せびらかし」であるとしたら、産業の原理は「製作者本能」であり、人類共同の福祉のために勤勉に働くことである。だったら、その産業の原理は「見せびらかし」を抑制する力として働かないのだろうか?

 働かないわけではない。しかし有用性は容易に偽装することができる。役にも立たない「見せびらかし」を「これは立派に役に立つ。ひいては人類共同の福祉のためだ」と言いわけしてごまかしてしまうことができるのだ。

 「見せびらかし」の原理は、ファッションとして衣服の世界を支配し、保守主義として言論の世界を、ありがたい儀式として信仰の世界を、そして、一般人にはわかりにくいように体系化された学術として知の成果を支配する。だから社会からドロップアウトしないかぎり、「見せびらかし」の原理とは無縁に生きることはできない。産業社会はそういう社会なのだ。

 一面的な要約だとは思うが、ヴェブレンの理論はこんなふうに要約できるだろうと思う。


社会は「制度」によって動いている。ヴェブレンは産業社会の「制度」の根底をなす人間の感情を「嫉妬」であると考えた。


 注意しなければならないのはこれは感情論ではないということだ。最近の人はどうも見栄っ張りになってきた、だから「見せびらかし」が流行するというのではない。全員が貧困でどうしようもなかった「原始未開」の時代を抜け出してからの人類の一貫した行動原理が、現在の産業社会全体に「見せびらかし」として現れているということである。

 みんな「見せびらかし」のために行動しているという推定でその社会のみんなが動くとき、それは「制度」になっていると考える。「制度」が人間社会の全体を支配していると考えるわけだ。それでこのヴェブレンの学派は「制度派経済学」と呼ばれる。現在ではガルブレイスがこの制度派の一員であると見られている。

 そういう「制度」の支配を拒否したければその共同体を離れる以外に方法はない。じっさい、訳書の解説によると、ヴェブレンは、学界では、大学に「看板教授」に迎えられて、「看板」として役に立たないとみなされると追放されるという扱いを受けていたらしい。最後には、経済学界も大学も離れてひとり山小屋に移り、自分を顕彰する行為を禁じて孤独に死んだという。

 ヴェブレンは人間を「嫉妬」を原理に動くものとして捉えている。「嫉妬」というのは、たんに人間として高尚だと考えられている感情ではないのと同時に、だれかが何かをしたことに対する反応という受動的な感情だという面も持っている。「見せびらかし」をやるのも、他からは「余裕を持って誇らしげに見せびらかしている」と思われるけれども、自分では「見せびらかしをやらないと自分は無視され、存在を消されてしまう」という焦りからやっている。「嫉妬」で動く産業社会のゲームの参加者は「いちばん目立っていなければ存在を消されてしまう」というせっぱ詰まった感情で「いちばん」を目指しているのだ。

 したがって、その「見せびらかし」は「他人の足を引っぱる」という方向に現れることも多い。他に目立っている人がいれば、その相手に暴露攻撃や中傷を加え、その目立つ部分を帳消しにしてしまうという行動をとる。そのことで自分が劣位に置かれることを避けようとするのだ。

 こういう紹介をすると、人間の本質を「見せびらかし」や「嫉妬」のような醜い面に求めるなんて卑しい理論だという反発を感じる人はいるだろう。だが経済学とはそういうものである。「だれもが自分の利益を確保し、あわよくば自分の利益を拡大するために生きるものである」という経済学の前提自体がかなり利己的で卑しいものだ。

 人間は他人のためにつくすこともあるだろうし、自己犠牲のような行動をとることもある。けっして経済学が推定するように「自分の利益、自分の利益」と血眼になって生きるわけではない。だが、あえてそういう高尚な行動の裏にも「自分の利益」を求める人間の姿が隠れた共通要素として存在するのだというところから経済学は出発する。

 人間の高尚さはそれぞれの人間によって異なる。だから、人間のある種の高尚さをすべての人間に当てはめてしまえばそれは現実離れした議論にならざるを得ない。その現実離れした人間観を基礎にした理論がある社会の理論として採用されると、それは全体主義を生み出す。「高尚」さを誇ろうとする人びとの昂揚感を生むかわりに、その「高尚」な人間観に自分をあてはめようとする者たちのあいだの息苦しさと、その「高尚」さにあてはまらない人びとへの苛烈な迫害も大々的に生み出す。

 社会のなかでの人間の行動を規定しているのはどんなに卑しくても共通要素のほうだ。そう考えたほうが、より万人にとって受け入れやすい、分析概念としても有効な理論が生まれるのではないだろうか。

 また、「人間を超えた法則が人間を支配していると考えると、人間が自分で努力することを阻害し、なんでも社会のせいにしてしまうようになるから、そんな理論は有害だ」という意見も出てくるかも知れない。ある自由主義者がマルクスの理論に対してそう批判しているのを私はきいたことがある。

 なんでも社会のせいにするのはよくないことだと思う。だが、なんでも社会のせいにするのはかならずしも経済理論や心理学理論のせいではない。マルクスも、マルクスの周囲のいわゆる「マルクス主義者」たちも、非常に実践的な活動家だった。「人間を超えた法則」への認識を、その法則のもとで生じた問題を解決するために用いるか、それとも「法則があるんだからしかたがない」という言いわけとして用いるかは、それぞれ個人の問題ではないだろうか。

 冷戦構造崩壊後、何かの「理論」や「法則」を根拠にして発言すること自体が流行しなくなり、それどころかそのような発言はよくないものだという通念が広がったような気がする。政党の示す政策やマスコミの時論も短距離的な視野で構想されるものが多くなったと私は感じている。

 たしかに、社会の現実から遊離した「理論」や「法則」に社会をむりやり当てはめて解釈するような態度は社会にとって有益ではない。だが、「理論」や「法則」を無視して立てられた議論は、かえって、成熟度が低くてしかも矛盾だらけの「理論」や「法則」に足をとられていることも多いと私は思う。


ヴェブレンの基本的な想定。1.人間は共同体に属していなければ生きられない。2.人間は自分が特別な存在だと認められないと生きられない。


 ヴェブレンの「見せびらかし」論は、二つの人間観の組み合わせによって成り立っているように私には思える。

 ひとつは、人間は何かの共同体に属していないと生きられないということ、もうひとつは、人間は自分が特別な存在だと認められないと生きられないということだ。これは共同体に属していないと生命を維持するための物質が獲得できないからという理由ではない。それが原初の動機だったのかも知れないが、人間は「制度」として共同体に所属しつづけるうちに、共同体から離れると不安になるという心理を持つようになった。ヴェブレンはその心理のほうを重視しているようだ。

 共同体に属することと、自分が特別だということとは、一見すると矛盾するように見える。しかし、そうではない。

 自分が特別であるためにはそれを認めてくれる仲間が必要である。そのためには、「自分が特別である」ことを認めてくれるような共同体に所属するしかない。また、自分が共同体にほんとうに所属しているという安心感を獲得するためには、その共同体のなかで「自分が特別である」と認めてもらうことが必要だ。そう認めてもらわないかぎり、自分では共同体に所属しているつもりでも、じつはその共同体のほかのメンバーからは完璧に無視されているかも知れないからである。

 かつての共同体では、だれかが「武勇」などの目立つ特徴を持っていると、他は自然にその従者集団へと組織されていくものだった。だが、産業社会が発展するにつれて、その共同体のなかのだれもが「自分は特別だ」と思うようになり、このような「一人の主人と多くの従者たち」という関係は崩れる。

 ヴェブレンは、まだ、家庭を、家長としての父を「主人」とし、その妻(つまり母親)を筆頭の従者とする共同体であると考えている。しかしそのような家族の共同体も現在では存在しなくなりつつある。母も子も家族のなかで「自分は特別だ」と認めてもらいたいという欲求を持っている。「あらゆる共同体で、だれもが特別な存在として認知されたがっている」というのが、ヴェブレンがこの本を書いてから一世紀あまり後の産業社会のあり方ではないだろうか。

 しかも、現在の社会では、個人が所属できる共同体はいくつも存在する。かつてはムラとイエぐらいだったのかも知れないが、現在では、学校にはサークルや部活があるし、大学に行けばゼミもある(ちなみにWWFの起源のひとつはある大学でヴェブレンを読んでいたゼミだという話だ)。さらに、現在ならば、インターネットをめぐればあらゆるところで仲間を募集しているのに出会うことができる。チャットの仲間や、同じ掲示板に書く仲間が、互いのメンバーの個人的なことがらについてほとんど何も知らないで共同体を結成している。

 かつてのムラやイエの共同体に外から加入するのは容易ではなかったし、離脱するのもやはり容易なことではなかった。共同体から離脱すると生命を支える手段すら得られなくなることも多かっただろう。そうでないばあいにも、共同体から離脱したメンバーが利敵行為を働くかもしれないという恐れから、共同体からの離脱は死をもって制裁するという掟が存在した場合もあっただろう。

 しかし現在ではそんなことはない。多くの共同体が加入も脱退も自由だというたてまえで運営されている。だから、ある共同体で「自分は特別だ」ということを示すことができなければ、その共同体を脱退し、そこからべつの共同体に移ることができる。その移った先でも「自分は特別だ」ということを認めさせることに失敗すれば、またべつの共同体に移ればよいのだ。

 もちろん、そういう行動を許すことは、その共同体を「主人」として管理している人間の面目にかかわる。脱退者を多く出したりすると、その共同体のメンバーからも他の共同体からも、その「主人」は無能だと思われてしまうだろう。その共同体の活動にあまり熱心でないメンバーや、その共同体の活動を阻害すると共同体の「主人」が考えるようなメンバーが多く存在する場合でも同じである。無能だと思われると「主人」は「自分は特別だ」という感情を否定されたと考える。

 したがって、その場合には、「主人」とその「従者」たちは、共同体からの離脱を食い止めようとして離脱者に苛酷な制裁を科したり、逆に共同体から強制的に排除してしまったりする。本来の自発的結社のあり方を守っている共同体ではそのようなことは起こらないが、表面では自発的結社を装っていても実質はそうではない団体の場合にはそういうことが起こりやすい。

 「あらゆる人間は共同体に属することを求め、同時に共同体のなかで自分が特別であることを認知されたいと思っている」――この人間観は、自分自身や、私の身の回りや、マスコミで報道される多くのできごとに妥当すると私は思う。暴行がどんどんエスカレートして仲間を死に追いやってしまうような中学生・高校生の集団暴行事件やカルト的で閉鎖的な宗教団体にこの人間観をあてはめることは容易だろう。それどころか、果てしなく離合集散を繰り返す政党と政治家の力学だって、このような人間観に基づけばかんたんに説明できてしまう。

 匿名性を利用したテロリズムはどうなのだろうか? ここでいう「匿名性を利用したテロリズム」というのは宣伝行為を兼ねた政治的なテロなどは含まない。「だれにどういう動機でやられたのか」が被害者にも世間一般にもわからないようないやがらせや脅迫行為である。

 これは名まえが出ないのだからだれにも「自分は特別だ」と見られることはない。また、個人的にやっているのだから共同体への所属も求めていない。

 しかし、じつは、このような匿名性を利用したテロルは、「世界全体」を自分の共同体と見なしたある個人へのデモンストレーションであることが多い。「世界のどこかに自分に悪意を抱いている相手がいる」と思わせることで、その攻撃された人間の「自分は特別だ」という思いこみを打ち消すことが目標なのである。特定の人間が「自分の特別さ」を否定しようとしているとわかれば、その人間がそれを否定しようとする理由は突き止められるだろう。しかし、攻撃したのがだれかわからなければ、攻撃対象の人間には、まるで世界中が自分に敵意を持っていると錯覚させることもできるかも知れない。

 場合によっては、「世界全体」に根ざした「世界全体」への攻撃であることも考えられる。不特定多数を目標とした匿名のテロルがそれに相当する。これは、「自分の特別さ」を認めている仮想の世界を自分の共同体だとみなして、「自分の特別さ」を認めない「現実」の世界への攻撃だと解釈することができる。

 このような人間観にもとづいて社会工学的に考えれば、異常な行動を起こしかねない共同体や、異常な管理の仕方がなされている共同体に個人が所属先を求める前に、そうでない正常な共同体に所属感を感じさせるような態勢を整えることが必要だ。社会的に見て異常な共同体に個人が加入するにはそれなりの抵抗があるはずである。その抵抗を乗り切るだけの挫折感を抱く以前の段階で、どこかの正常な共同体がその個人の「特別さ」を認めてやるような態勢を作ることがもっとも望ましいと思う。次いで、異常な行動を起こした個人に制裁を科するのが適当だろう。もしその所属している集団に問題があればそれを是正する。最初から「よくない衝動を起こさせるマンガ・アニメ・ゲームを規制せよ」などと叫ぶのは見当違いも甚だしいと私は思う。


経済学はかつて「対抗神学」とでも呼ぶべき人間の本質と世界の構造への洞察に基づいて成り立っていた。危機の時代の私たちにもそうした経済学が必要なのではないだろうか?


 しかし、このような「人間観」が経済学なのだろうか? それは、社会学や、もっと「人文科学」に近い分野の学問であって、経済学ではないのではあるまいか。

 こういう批判に対しては、本書が産業社会での消費者の消費の動機を明らかにしたという答えを返すこともできる。たとえば「第三世界」の貧困の問題についての従属理論などにとっては有益な視点ではないかと思う。「先進国」の文明や生活様式がカッコいいという認識がなく、「先進国」に倣うことを「見せびらかす」習慣が生まれなかったとしたら、従属地域の貧困は、これほど複雑に、またこれほど深刻にはならなかったのではないだろうか。逆に、「先進国」が「第三世界」に対して価値相対主義の立場になかなか立てず、自分たちの文明を判断基準として押しつけようとする傾向を持つ背景には、やはりヴェブレンのいう「嫉妬」があるからではないのだろうか。

 だが、もっと根本的な点で返答するとすれば、経済学とは人間観を基礎にして成り立つものだという答えが返せると思う。

 近代の経済学の祖とされるアダム・スミスは、たんなる経済学者ではなく、社会学や政治学や哲学の分野までを覆う体系を持っていた知識人であった。近年、「自由化」の問題点が指摘されるに従って、アダム・スミスの『道徳感情論』諸版の違いなどにまで言及されるなっている。そのことからわかるように、アダム・スミスの「学」の範囲は、今日の細分化された専門の「学」の範囲をはるかに超えていたのである。

 同じことはマルクスについても言える。マルクスは最初は哲学者として出発し、「資本」の考察に一生を捧げながらも、それ以外の分野についても研究を行っている。私は読んだことがないが「数学草稿」というのもあるそうである。

 現代の自由主義に対して社会主義にとってのマルクスと同じぐらいの影響力を持ったJ.S.ミルも広い範囲の教養を持った知識人である。『自由論』一冊だけでもそれが言及している分野は今日の「学」の眼からするとずいぶん広い範囲に及んでいる。

 先にも触れたとおり、これらの近代的な「学」は、一八世紀から一九世紀に、教会が主導していた知識界の周辺から興ってきたものである。当時のヨーロッパの教会は神を頂点として人間から万物を含むがっちりした秩序をその体系の基本に据えていた。したがって、アダム・スミスやマルクスやJ.S.ミルのようなこの時代の知識人は、それに対抗するためにそれぞれが人間の本質や世界をその体系のなかに含む「対抗神学」を築かなければならなかったのである。神学に相当する大きな体系を自前で持たなければ、人間の本質や世界にまで及ぶ正統神学の壮大な体系に負けてしまうのだ。そこから二〇世紀の自由主義も社会主義も生まれてきた。

 ヴェブレンもそのような総合的な知識人を目指してきた。ヴェブレンが、専門化された「学」を嫌い、専門化された「学」を伝授する高等教育を「見せびらかし」の一種として解釈したのはそういう背景があるからだと私は思う。

 現在のような経済危機の時代に、人間の本質や世界の構成についての大きな体系を含む経済学は不要になったのだろうか?

 マルクス主義が生気を失っているところを見れば、大きな体系を持つ経済学は不要になったようにも見える。政府の放漫支出が問題になればマネタリズムを、景気が悪化すればケインズ主義を主張していればそれでいいのだ――。

 ――ほんとうにそれでいいのか?

 もし、ケインズ主義政策で完全雇用の経済回復が成し遂げられ、その経済のあり方がどこまででもつづくのならば、それでもいいかも知れない。

 だが、もし、日本が、一〇年ほど前のアメリカ合衆国がそうだったような「ジョブレス・リカバリー」(雇用の回復しない景気回復)を成し遂げたならば、日本人の経済生活は相当に変わらざるをえない。それも、もし「ジョブレス・リカバリー」が実現すれば、会社が変わればいいとか、制度が変わればいいとかいうのではない。これまで日本を襲った経済的な変化では、あいだに会社や国家機関がはさまって、個人とのあいだの緩衝地帯を作っていた。しかし、会社は雇用を保障しなくなり、国家には個人を保護している余力がなくなってくると、経済の変化は個人を直接に襲うことになる。

 自己責任で投資し、自己責任で自分の年金を確保し、失業の危機からも基本的には自分で身を守る――それが標準であるような社会が出現したばあい、私たちはそれに耐えられるだろうか?

 経済学はときには人間を変える。とくに経済学が国家の政策に影響を与えた場合にはその国民の国民性まで変えてしまうことがある。がまん強い国民性を誇った国民が自分の利益のために目の色を変えて奔走するようになるかも知れないし、「貧しいのは問題ではない、平等でないのが問題だ」というメンタリティーで知られていた国民が他人より豊かになろうとなりふり構わずカネを欲しがるようになるかも知れない。

 私は最初にマルクス主義に肩入れするように取れる表現をした。しかし、従来のマルクス主義がそのまま現在の世界経済に対して有効だとは思わない。「ソ連は失敗したではないか」ということ以上に、マルクス主義は自然から無限に資源を取得できるという考えのうえに成り立っているという問題点がある。マルクスの書いたような理想の共産主義社会がもし実現したとしても、それはまたたくうちに自然の資源を使いつくして自滅するだろう。

 これから世界で優勢になる経済学を現在の経済学を基礎に推定すると、それは、自由主義経済学を基礎としながら、人間の生きていくための環境の維持や諸国民のあいだの不合理な不平等を撲滅するためにも有効な体系になるだろう。しかし、経済学が危機に適応していく過程で、経済学はもっと根底的な人間観の変化を起こすかも知れない。現在では考えられないような、また、現在ではどう見ても非現実的な経済学が主流になることもあるかも知れない。

 私たちは、これから出てくる経済学が、自分たちをどういう人間に変えようという人間観を持っているのかに、もっと注意を払ったほうがいいのではないだろうか。



 ―― 終 ―― 

(1998/12)





 ソースティン・ヴェブレンはThorstein B. Veblen (1857-1929)。これまで私は「ソースタイン・ヴェブレン」だと教えられてきたのだが、比較的入手の容易な訳書が「ソースティン」と読んでいるので、ここではそれに従うことにした。『有閑階級の理論』を特徴づける conspicuous の訳語も、「衒示的」・「顕著な」などさまざまな訳があるようだが、ここではこの訳書に従って「顕示的」とした。

 『有閑階級の理論』はヴェブレンの著書 The Theory of the

Leisure Class : An Economic Study in the Evolution of

Institutions, 1889. 高哲男訳、ちくま学芸文庫、一九九八年。

 なお、この訳書によると、ヴェブレンの著書や研究書にはつぎのようなものがあるそうである(私はすべて未見)。

 ヴェブレン『ヴェブレン経済的文明論――職人技本能と産業技術の発展』松尾博 訳、ミネルヴァ書房、一九九七年(原書一九一四年)

 高哲男『ヴェブレン研究――進化論的経済学の世界』ミネルヴァ書房、一九九一年

 J.ドーフマン『ヴェブレン その人と時代』八木甫 訳、ホルト・サウンダース・ジャパン、一九八五年






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