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“SF冒険少年漫画”の時代


〜手塚治虫『0マン』をめぐって〜



鈴谷 了



 手塚治虫が亡くなって間もなく10年になろうとしている。手塚作品については多くの評論がすでに書かれ、あえて今何かを書くというのは難しいかもしれない。また、手塚作品と接した環境や状況によっても受けた印象や評価が変わってくるだろう。

 筆者の場合は、1975年から刊行された朝日ソノラマのサンコミックス版『鉄腕アトム』が手塚漫画との本格的な出会いだった。その後間もなく刊行の始まった講談社版の全集が筆者の主な「手塚体験」である。したがって、自分が生まれる前や物心がつく以前に発表されていた作品の方がはるかに多い。従来手塚作品を論じた人の多くは、何らかの形で「現役」として手塚が描いていた作品に接した人々だった。その意味では、筆者のような出会い方はやや特殊な部類に入るのかもしれない。(筆者も連載中の『ブラック・ジャック』などは読んでいたが、それが手塚治虫を強く意識する機縁になったわけではなかった)しかし、手塚作品が「古典」となるに従い、これからは筆者のような「読者」も増えていくことになるのではないだろうか。


 さて今回取り上げるのは『0マン』という作品である。論じる前に書誌的な作品データを示しておくと、1959〜60年に『週刊少年サンデー』に連載された。総ページ数が700ページを越え、全部で46章からなる長編である。ちなみに、この一九五九年は『マガジン』と並んで『サンデー』が少年週刊誌として産声を上げた年で、この『0マン』は『サンデー』での手塚の二作目に当たる作品であった。ジャンルとして分類すれば、「大河SF冒険少年漫画」ということになろう。この点についてはあとから改めて触れたいと思う。

 単行本には比較的恵まれており、手塚プロダクションのホームページなどの資料によると、過去7度単行本化が行われ、うち3種類は今日でも入手可能である。小学館文庫版に至っては今年(1998年)の4月に完結したばかりだ。(注1)ということで、内容についての説明は失礼ながら省略させていただく。何しろこの作品はストーリーが多岐に渡っていて、呉智英や四方田犬彦といった錚々たる論者ですら「要約は困難である」と書いてしまっているくらいなのだから、浅学な筆者がそれを省略しても非難されるには当たるまい。

 と書いてしまうのもあんまりなので、簡単な説明をすると、0マンというリスから進化した超人類が地球征服を企てて人類に戦いを挑むのが主なストーリーである。この0マンの作った超兵器・電子冷凍機によって地球は寒冷化し、人類は宇宙に移住先を求めたり0マンと戦ったりするが、いずれもうまくいかない。だが電子冷凍機が停止し、0マンの側でも政変が起きたりして一時は人類と0マンの間に和解が成立しかける。しかし一部の人間の思惑でそれは潰え、最後は0マンの方が地球を去る。主人公のリッキーは0マンの少年だが人間に育てられたため、人間の味方として行動することになる。


 『0マン』は『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブラックジャック』などには及ばないものの、それなりの知名度はある作品である。特に連載当時にこの作品に出会った世代には大きな印象を残したため、主としてその世代の論者によっていくつもの文章が書かれている。(注2)それらの文章も念頭に置きつつ、しかし筆者が『0マン』について感じながら、それらの文章が答えてくれなかった点を中心に話を進めたい。



 《「生身の少年」への「憧れ」》


 その昔、アニメ・特撮・SFファンの間で「設定当てクイズ」というものが流行ったことがある。要するに、いくつかの設定をあげてそれに該当する作品を答えさせるクイズで、非常に有名な作品名を答えると、それよりはマイナーな別作品が「正解」とされるようなものであった。模倣〜岡田斗司夫流に言えば「パクリ」〜によって発展してきたこのジャンルならでは「遊び」だが、その伝に従って一つ問題を出してみよう。


 ・主人公は脚力の強い少年である。
 ・主人公はモリ状の武器を手にしている
 ・地球環境を変える超兵器によって人類は滅亡の危機に瀕する
 ・人類は移住先を求めて宇宙に脱出するが結局地球に戻ってくる
 ・主人公には、喧嘩をしてから親しくなった、粗野で食いしん棒の友達がいる。
 ・ヒロインの男の肉親は、物語を左右する機械の秘密を知っているが結局絶命する
 ・主人公と敵対する国には、地下に抑圧された人々がいる
 ・そこで起こった水害がきっかけで、抑圧された人々が立ち上がる

 これはいずれも『0マン』にまつわる設定だが、この設問だけ見れば『未来少年コナン』と答える人もいるはずだ。

 『未来少年コナン』は、筆者がちょうど『0マン』を読んでいた頃(1978年)に放映された、宮崎駿監督のテレビアニメである。そして状況からみて、『0マン』が『未来少年コナン』に対して何らかのヒントになった可能性はほとんどない。

 もちろん、細かいストーリーや様々なキャラクター設定ではこの両作品には多くの違いがある。切迫した「世界の危機」の中で痛ましいほどひたむきな『0マン』の主人公・リッキーに対し、コナンは何事もポジティブにとらえて楽天的に振る舞う。それは作品のカラーにも大いに関係している。

 だが、この両作品で共通する要素の一つは、「超人的な力を持ちながら、軽装・軽武装の生身の少年が主人公」という点だ。「軽装」というのはほとんど普段着(それも半ズボン)というだけではなく、外見上明らかに「特異な肉体」ではないことも含まれる。つまり、「見るからに強そう」「見るからに足が速そう」という体つきではないということだ。早い話、『スーパーマン』や『ターザン』のように、肉体的な外見が軽装・軽武装であることを補ってもいない。

 少年を主人公とし、彼を「ヒーロー」として扱うというスタイルならば、必然的な帰結という見方もできるだろう。しかし、ここまで徹底した軽装・軽武装というのはあまり多くはない。たとえ本人が軽装・軽武装でも巨大ロボットに乗っているというのでは、「軽武装」とは言えない。あるいは普段は軽装・軽武装でもメタモルフォーゼによって力のあるものにかわるというのも異なる。

 「軽装・軽武装で超人的な力を持つ少年」という設定は、二つの要素をその中に潜ませている。一つは人間が「人間」である範囲で可能な限り高められた能力、そしてもう一つは「人間」であることによって受ける「痛み」である。「万一傷を受けたら痛いし、ケガもする」という恐れによって超人的な力は中和され、切実で危ういものとなるのだ。

 実際、リッキーは『0マン』の中で二度大きな生命の危機に瀕している。一度はロケットの着陸失敗によってその尻尾を失い敗血症にかかった。(21章、23章)もう一つは「敵」である「0マン国」の独裁者・大僧官に刺されたときである。(30章)特に後者は「肉体の痛み」という点において興味深いシチュエーションでの出来事だ。この場面は、人間の和平交渉団に対して恫喝をかける大僧官に対し、リッキーがその長い服の中に潜り込んで、銃を突きつけ逆に脅迫をかけている状況である。ここで銃口は大僧官の肉体にめり込み、脅迫は「痛み」を伴っている。(ちゃんとめり込んで描かれている)これに対して大僧官はナイフで服の上からリッキーを刺す。ここで「痛み」を受ける関係が逆転しているのだ。

 『未来少年コナン』においても、「肉体の痛み」はときにコミカルな表現を含みながら何度か見られる。ケツ叩きであるとか、(押井守が評して有名になった)三角塔からの脱出などがその典型である。

 またヤリ状の武器は、基本的には持っている人間から大きく離れて使われることはない。もちろん(コナンがラナを救ったときのように)「投げる」ということは可能だが、あとから本人が回収しなくてはならない点で「飛び道具」とは異なる。その分本人のリスクは大きくなると考えるのが自然だ。

 さらに、『0マン』と『未来少年コナン』において共通するのは、そうした「軽装・軽武装の少年」が、科学の先端にある超兵器と対比的に描かれる点である。『0マン』には電子冷凍機をはじめ、原子分解銃(当たると物質を原子レベルにまで分解する光線銃)・ブッコ・ワース光線(物体を異次元世界に転送する)といった超兵器が登場し、物語を強く支配する。そうした超兵器との対比が「生身の体」をより強調しているのは言うまでもない。

 「軽装・軽武装の少年」の動作を規定するのはもちろん肉体の動きである。言葉を変えて言えば、アクションだ。『0マン』には実際多くのアクションシーンが存在する。手塚が好んだ取っ組み合いの格闘シーンはもとより、蹴る・殴るといったシーンは枚挙に暇がない。さらに、走る・跳ぶといったものまで含めて、「肉体の基本的な動き」を目一杯に広げたいという「憧れ」のようなものが感じられる。

 「軽装・軽武装の少年」という点では、しばしば手塚マンガとは対極に語られる白土三平の『サスケ』(『0マン』より3年遅れて描かれた)もまたその範疇に含まれるだろう。サスケが木から木へと跳び移る描写は『0マン』におけるリッキーの動きを髣髴とさせる。もちろん、白土は劇画のラインでそれを描き、アクションの描写もより合理的なものになっている。

 「肉体の動き」を絵で表現することへの欲求あるいは「憧れ」が常に存在することは、今日に至るまで数多くのアクションを扱った漫画が存在することを見れば明らかである。しかし、「軽装・軽武装の少年」を主人公としてそれを描いた例は、上の3つの他にはさして多くない。なぜか。

 一つには、「痛みを伴った生身」をマンガやアニメの線で描き出すには、それに見合った描写力が要求されることがあげられるだろう。それは単にリアルな肉体を描けばよいというものではない。絵が(その作品の世界で)「痛い」と思わせるに足る線で構成されていることである。『0マン』の時期までの手塚マンガにはそうした描線があったことは夏目房之介が指摘したとおりである。『サスケ』にしろ『未来少年コナン』にしろ、『0マン』とは違ったレベルと文脈ではあるが、そうした描写を実現したからこそ、十分な説得力を持って受け手に受け入れられたのだった。

 もう一つは、そうした「生身の少年」が主人公であることが「必然」と思わせるだけの設定と「理由づけ」がそういくつも作れるものではないことにある。『0マン』においては、リッキーが人間を越えた0マンであり、しかも0マンの中でも特に優れた能力の持ち主だという点に帰せられる。『サスケ』ならば、それは「科学的」に裏付けのある(と作中で解説される)忍法を彼が会得しているからだということになる。『未来少年コナン』の場合は、コナンが(他の多くの登場人物と異なり)「自然の環境」の中で育ったということになるのであろう。これらの設定は何度も使えるものではない。

 描写力と設定、これらが受け入れられる基準は時代によって気まぐれに変化する。『未来少年コナン』のあと、二〇年もそれを継ぐに足る作品が現れないのは、「生身に近い少年」という設定そのものがもはや受け入れられにくいということなのであろうか。

 『0マン』に話を戻すと、この作品が発表された頃、「劇画」が新たなマンガ表現を生み出しつつあった。その中で、手塚治虫は自らの表現方法でどこまでアクションや「生身」の描写ができるのかということを試してみたのかもしれない。



 《大人と子ども》



 以前から手塚治虫を語る際に「大人と子どものジレンマ」や「青年期の意識」といった言葉が使われてきた。それを受け入れるとしても、作者だって10台や20台と同じ創作意識を持ち続けたわけではない。年齢に応じた変容というのが見られる。

 同時に、少年漫画という形式が基本的に「年少の読者に年上の大人が与えるもの」というスタンスで書かれたものだという制約は常にある。手塚治虫は1950年代前半までに書いた多くの作品では、「子ども向け」でありながら明らかに「青年的」なテーマを用いていた。そこでは読者が「子ども」であるという配慮は必要最小限にしかなかったというべきだろう。

 だが、『0マン』の連載を開始したとき、手塚治虫はすでに三〇歳になっていた。(ちなみに連載開始の直前に結婚している)『0マン』においては、「子ども向け」の中に「大人」を描こうとする部分があちこちに見える。

 たとえば、大僧官の娘・リーズは人間との和平を願う心から、人間の代表団として訪れたリッキーと密会し、自分が父を説き伏せると告げる。だが、彼女を大僧官と交渉するための人質にすることを考えていたリッキーの父は、密会を知ってリッキーにその導きとなることを命じる。(この場面は画面に横長のコマが重ねられ、父の足にすがって泣いて抵抗するリッキーとそれを諭す父親が畳み掛けるように描かれている)

 その次のページではリッキーの父は、人間代表団の首脳に人質作戦がうまくいきそうなことを告げる。人間側が喜んでいるのに彼は笑顔を見せていない。「ただリッキーにやらせることは親としてはたまらない気持ちです」と語るコマでは去っていく彼の足元が描かれているだけである。

 また、0マン国で警視総監を務めるドリールという登場人物がいる。0マン国で雪解け水による洪水が発生した折、リッキーは彼の妻子をたまたま救出し、その自宅に招かれそこに彼が現れる。大僧官脅迫(前の章を参照)の犯人として捕らえられたあと脱走していたリッキーは「お尋ね者」だったので、当然彼は逮捕しようとするが「命の恩人を牢屋に入れるのは恩知らず」という妻の強い抵抗に遭い、断念する。その後、リッキーを連れて洪水発生の現場を訪れた彼は、国外へ通じる出口でリッキーに銃を突きつけた上で「しかしおまえを殺せばわしは妻との約束を破ることになる」と無理矢理出国させてしまう。さらに、0マン国の革命で大僧官は国外脱出し、彼は護衛を命じられる。しかしリッキー親子に拘束され、ロケットで移送される途中に見張り役のリッキーから銃を奪おうとして取っ組み合いになり、ロケットから地上に落下。リッキーはつむじ風によって一命を取り留めるが彼は果てた。「おまえのような良い子を殺そうとした天罰だよ。だがな おれは警視総監として仕方がなかったんだ」

 「良い子」という言葉に時代を感じる人もあるだろう。それはさておき、ここにあげた二つの例は、自分の使命のためにやむなく子ども(であるリッキー)を辛い目に遭わせなくてはならない大人を描いたものである。それは「悪人」という描写ではもちろんなく、「大人の事情」とでも呼ぶべきものだった。子どもの側からはそれは明らかに理不尽なことであるが、大人の側もそれに悪意を持ってやってはいない。

 基本的に『0マン』は古き少年漫画の例にもれず、「善悪」が結構明快な作品である。(これについてはまた触れる)だが、この二つの例はいずれも「悪人」とはされていない人物によるものであった。

 1950年代初期までの作品、たとえば『来るべき世界』などの場合、「大人」というのはどちらかといえば少年を中心とする主人公たちに対し、いささかカリカチュアライズされる存在であった。大人に対する畏怖や違和、反発といった若者が必ず抱く感情がどこかに入っていたのである。ちょうどそれは『来るべき世界』において、心理的な拷問の結果対人不信になってしまったロックの視点である。あるいは、手塚治虫が書き下ろし単行本としてこの時期最後に発表した『罪と罰』(ドストエフスキーの、あの『罪と罰』の翻案)などにもそれが反映している。

 しかし、『0マン』に出てくる「大人」には、カリカチュアライズの色は薄い。(まったくないとも言い切れないが)

 そして、何よりもこの作品最大の「悪役」とされる大僧官の描写をあげることができる。大僧官は最初、リッキーが母と帰国したときに登場する(9章)が、このときには独裁者というよりは山賊の親玉のような風采にしか見えない。だが、次第に豊かな表情を持つキャラクターへと変わっていった。その最大のファクターは二一章で登場する彼の娘・リーズであろう。リーズと対話する場面では彼は「一人の父親」としての顔を見せる。(それはリーズが、当時としては斬新な、「わがまま」であることを自覚しながらそれを肯定するキャラクターだったこととも関係している)同時に、それ以外の場面では彼の「独裁者」らしいしたたかさと彼なりの「信念」も強く描写されていった。それは「独裁者=権力の亡者」という図式からは明らかに逸脱している。

 『0マン』では、リッキーをはじめとするメインキャラクターの大半はその登場から最後に至るまでほとんど絵の変化が見られないが、その中で例外的に大きく変わったのが大僧官だった。もしかすると作者は大僧官を描くことが一番楽しかったのではないか、とも邪推したくなる。

 「子ども」の正義感と、それとときに対立する(しかし嫌がらせではない)「大人」の事情を描くという図式は、この作品が明らかな「少年向け作品」として発表されたこととも深く関係している。だが、以前は「青年」として一つにまとまっていた作者の自意識がこの時期「大人」と「(大人が描く)子ども」にある程度分化していたと見ることもできる。あるいはその二つの意識を統御していたのが「青年」の意識だということも可能だ。もっとも、漫画の世界ではその当時手塚自身のそれを追い越す勢いで、描き手の意識が成長し分化していった。『0マン』においてはそれでもまだ、それまで手塚治虫が用いていた手法で作品世界が一つに統合されている。やがて先端的な手法を苦闘しながら吸い上げ、手塚作品のスタイルは大きく変わってしまうのだが、そのあたりについては夏目房之介の一連の著作に譲ろう。

 実際のところ、『0マン』の世界には青年的なキャラクターはあんまりいない。何人かいることはいるのだが、「青年期的な悩み」のにおいが希薄である。たとえば終盤登場する(実は初期にもほんの3コマほど出てくるが)谷川という青年にしても、リッキーからは「おじさん」呼ばわりされてしまうし、実際リッキーを叱りつける場面もある。実は終盤では話がこの谷川を中心に進められている。その昔読んだときには、何となく違和感があったのだが、作者としてはリッキーで話を動かし続けることに飽きたか疲れたといった心理が働いたのかもしれない。



 《善悪の倫理》



 手塚治虫は、それまで「勧善懲悪」しかなかった漫画の世界に、「悪も滅びるが善も死ぬ」という手法を持ち込んでストーリーの幅を大きく広げたことで知られる。早い話、それまでは「喜劇」でなくてはならなかった漫画で「悲劇」が描けることを初めて示したのだ。とはいっても「善悪」という価値観そのものまでなくなったわけではない。むしろ、アセチレン・ランプやハムエッグのような「悪役スター」を育てていったところに手塚の一面を見ることが出る。

 「善悪」というものが必要とされたのは、「少年向け漫画」という体裁からの要請もあっただろう。一九五〇年代までは漫画自体が罪悪視された環境だったから、そうした配慮は不可欠だった。だが、何を善悪として描くかという価値判断には、作者の倫理観がある程度は反映されるということもできる。

 『0マン』においては善悪はかなり明確である。アセチレン・ランプやチャコール・グレイ、カクテルの鉄といったキャラクターははっきり「悪役」として描かれている。(どのキャラがどの程度「悪い」かは本編を読んで下さい)そうではないキャラクターや描写があることは前々章で触れたとおりではあるが、それはこうしたオーソドックスな「悪」がいることで目立っている一面もある。それにランプや鉄は読者の同情を誘うような哀れな最期を遂げる。

 『0マン』における「倫理観」という点では、象徴的な設定がある。それは「0マンは嘘がつけない」というものだ。これは『鉄腕アトム』の「ロボットは嘘がつけない」や(時期によってないこともあるが)アトムの「七つの威力」の一つとされた「人の善悪を判別できる能力」などを連想させる。しかし、実のところこの設定はかなりあいまいである。リッキーはじめ、0マンが嘘をついていると思しき描写は何カ所かある。そもそも「嘘」という概念を知りながら嘘をつけないとはどのように考えればよいのだろうか。『アトム』の場合はロボットは機械の頭脳で考えるから存在しないことを答えることはしないという憶測が成り立つが、人類と同等もしくはそれ以上の思考力を持つ「動物」という設定の0マンにはそれは当てはまらない。「嘘」という観念を知っていて、使うこともできるがそれを最後まで貫けない〜「嘘をつき通せない」〜という解釈もできるが、それでも通じない場面がある。

 26章で、ランプに捕獲されて父親を呼び寄せる手紙を書くことを強要されたリッキーは0マンの文字で手紙を書く。リッキーは「おとうさんは人間の文字が読めない」からと答える。しかし、その前の章でリッキーの父は「日本の文字」を認識している。さらにさかのぼって2章では彼はリッキーに向かって「日本人の言葉なんか3日でおぼえてしまった」とまで言っているのだ。(この二つだけでは「文字が読めない」可能性は完全には否定されないが、それは詭弁というものだろう)そのうえリッキーの書いた手紙は「来るな」という内容にも関わらず、ランプには「すぐ来て下さい」と書いたと答えている。ここには「悪人の企みに対しては、正当防衛として嘘がつける」という例外を入れなくてはいけないのかもしれない。あるいは、「すぐ来て下さい」という手紙を書くことがリッキーにとっては「嘘をつく」ことだという考え方もできる。

 とはいえ、筆者にとってこれはそんなに重要なことではない。(謎本的にはおもしろいけど)それよりは、この設定がどのような要請から作られたのかということの方に興味がある。

 「0マンは嘘がつけない」という設定は、21章で大僧官がリーズを詰問したときに出た後、全部で3箇所にあらわれる。残る2つは、29章でリーズの弁明を「嘘だ」と決めつけた人間に対してリッキーの父親が反論した箇所と、33章で祖国の革命の報を隠そうとしたリッキーに対してリーズが問いつめた箇所である。21章と33章は、0マンは隠し事ができないということを(0マンの)相手に強調する場面、そして29章は人間の猜疑心をたしなめる場面だ。

 これを見る限りでは、必ずしもこの設定は人間に対する優位を主張するために使われてはいない。しかし、読者が他ならぬ人間であって、しかも「嘘をつく・つかれる」ということに身に覚えがある以上、「嘘をつけない0マン」は「嘘をつく人間」を認識させることになる。それは単に「嘘をつくことはいけません」という道徳的な意味合いよりは、嘘をつく・つかざるを得ない人間を問うものだ。

 手塚作品がしばしば「超越者」から人間を相対化するような設定を用いたことはよく知られているが、ここでは「嘘をつく動物」としての人間を浮かび上がらせているのである。「なぜ嘘をつくのだろう」という意識、それはやはり「青年」的な発想ということができるのではないだろうか。



 《「SF冒険少年漫画」の終焉》



 何度か触れたように、『0マン』が発表されたのは、ちょうど「劇画」が漫画界の新しい運動として勃興してきた時期であった。その中で『0マン』は、それまで手塚治虫が書き下ろしの単行本や月刊少年雑誌(少女雑誌も)で培ってきた手法を生かして、黎明期の週刊少年誌で大河ドラマを展開した作品だった。

 しかし、その『0マン』にも時代の片鱗がうかがえる部分がある。『0マン』には節目節目に「ナレーション」による解説が記されている。それ以前の手塚作品にもまったくなかったわけではないが、ここまで多くはなかったし、説明文も長くはなかった。だが、『0マン』の場合はこんな具合である。

 「何か月かのち……リッキー親子はジャングルを突きぬけてついにヒマラヤ連峰のふもとへたどり着いた/それは想像を絶する旅だった/だが 人間にはだせない体力と帰巣本能とがその旅をやりぬかせたのだ」(7章末尾)

 「0マン国における革命は あっというまに 油に火がついたように広がった/0マン宮の親衛隊は手も足も出なかった/あの洪水の騒ぎのさなかのことで軍に制圧する力がほとんどなかったためである/モルモやポリンはチャンスをつかんだのだ」(34章冒頭) こうしたナレーションは、複雑な物語を年少読者に解説する配慮もあったと思われるが、奇しくも『0マン』連載開始の年に刊行が始まった白土三平の『忍者武芸帳』を意識させる。三六章では「みなさんは……おぼえておいでだろう」という、「賢明な読者はおわかりのことと思うが」のフレーズを連想させるナレーションもある。

 とりあえず、『0マン』ではそうした手法の導入は作品のバランスを崩さず、大河作品らしさを盛り上げている。だが、その後60年代に少年誌に発表された手塚作品では、大河作品と呼べるようなものがなくなってしまう。もちろん、個々の作品にはさまざまな趣向が凝らされているが、複数のキャラクターのドラマが複雑に展開してより大きなドラマを構成するというスタイルは見られない。

 この原因はいろいろあるだろう。一つは年少読者への対応である。呉智英によれば、当時の週刊少年誌は小学生の読者が中心で、手塚漫画は「インテリ少年」の方に愛読されたのだという。(注2の参考文献を参照)手塚自身、『0マン』の中でそれをうかがわせる「お遊び」をしている。10章にヒマラヤの麓の原住民が登場する場面がある。この中の原住民のあるセリフを逆から読むとこうなるのだ。「科学漫画は難しくて読みにくい」。もっとも、よりストーリーを単純にした次の作品『キャプテンKen』は「『0マン』ほどの人気は出なかった」と手塚自身が書いているから、そればかりが原因ではない。

 また手塚治虫が常に前の作品に安住せず、最新作で勝負したいという意識の持ち主だったこともある程度関係しているだろう。だが、あれこれ新たな要素を入れたとはいえ、全体として『0マン』自体はそれ以前の手塚作品から大きく隔たっているわけではない。

 やはり、漫画界を中心とした様々な変化の中で、『0マン』の時期までは成り立った約束事や手法が使えなくなっていった部分の方が大きいと思われる。

 たとえば、電子冷凍機の暴走とそれを押さえるための水爆使用の決定によって、日本人が日本から脱出しアメリカなどへの移住を余儀なくされる、という場面がある。(17章)手塚自身はすでに『大洪水時代』(1955年)でもそうしたモチーフを使っていたが、『0マン』はよりシリアスである。しかし、これですら描写としてはごくわずかだ。「天変地異による日本列島からの日本人の脱出」というモチーフだけで、長編でシリアスなSF作品を生み出せることを小松左京が示したのは『0マン』からおよそ12年後のことである。

 あるいは、「科学者」というものに対するまなざしを見てみよう。手塚作品に多くの「博士」や「教授」が登場することはよく知られている。『0マン』の主要人物としては田手上(たてがみ)博士という人物がいる。彼は0マンを日本に連れ帰り(実はリッキーの両親)、リッキーと知り合ってからはその庇護者として行動する一方、「人類に対する警告」を発するような存在として描かれている。何しろNHKの首脳が「あなたの言うことなら」という理由で特別放送を許してくれるくらいなのだ。手塚治虫に「科学者による賢人統治」といったものへの期待があったことは、『来るべき世界』や『メトロポリス』などにもうかがうことができる。しかし、こうした「人類への警告者」としての科学者として新たにキャラクターが作られることはこれ以後なくなってしまう。あっても既存のキャラクターの流用にとどまる。

 そして、科学者自体の描き方が変わる。それを見るに興味深いモチーフがある。学会で0マンを報告するため、田手上博士はリッキーを演壇に立たせる。(16章)これとまったく同じモチーフが『きりひと賛歌』(1970〜71年)にある。ここでは犬様の容貌に変化してしまう奇病・モンモウ病の報告に、その患者が演壇に立たされるのだ。だが、その意図は人類への警告ではなく、発表を行う医者が学界での地位を確保するための材料といった描写がなされている。『きりひと賛歌』が成年コミック誌に発表された作品という点を割り引いても、この違いは象徴的だ。

 「善意の科学者」であれば、たとえば『三つ目がとおる』の犬持医師のようにせいぜい町中の開業医、あるいはブラック・ジャックのような「偽善」を嫌うキャラクターという「ひねり」が与えられるのが70年代の作品である。

 これは「未来」というものへの見方とも関わってくる。『0マン』において、0マン国は科学は進んでいてもリッキーに「ひどい世界」と言わしめるような社会として描かれている。時代環境から当時の世界の状況にそれを当てはめてみることもできなくはないが、そうした寓意なしにでも今日の読者はそれを理解できる。この点は手塚のすぐれた構築力とストーリーテリングの賜物であろう。その一方、「絵」として描かれた0マン国の建造物などは、今日からはいささか懐かしい「未来」である。曲線で構成された高層建築や、柱がなく蜘蛛の巣のように空中を走る板状の道路は、60年代半ば以前に生まれた世代には「21世紀の世界」として見た未来図にも共通する。

 物語の前半で、0マン側の策略によって東京は0マン国と同じような都市に改造される。電柱を建てて電線を張っていくマシンが出てくるのは電線の地下埋設が理想とされる今日からはご愛敬だが、キャラクターが語る主張とは別に、作者の側にこうした世界を描くことへの「憧れ」があったように思われてならない。建築物を構成するラインもまたキャラクターの描線とともに世界を形作り、作品にフォーマットを与えているのだから。

 未来への「憧れ」と、そこにある強圧的な0マン国との乖離があって初めて、超人類との確執という物語が意味を持ってくるとも言える。ともかく、『0マン』においてはラインのフォーマットと物語やテーマがまだ統一した世界を構成していた。そこでは、生身に近い少年が世界が動く現場に立ち会うという設定が嘘にはならなかった。

 その「憧れ」が少々違った形で実現して「未来」に精彩が失われていくのは、『0マン』が描かれてからそう後のことではない。フォーマットに力が失われたとき、そこに巨大な世界を詰め込むという大河ドラマというスタイルは使うことができなくなったのではないだろうか。

 0マン国はヒマラヤの山奥深く、その地中にあるという設定である。そして、「山の地下にある外部からは遮断された超近代的な都市」という設定は30年以上の時を隔てて『新世紀エヴァンゲリオン』の第三新東京市にも共通する。だが第三新東京市は決して憧れのまなざしを持って描かれた未来都市ではない。そこにあるのは、主として60年代の新興住宅地の再現である。つまり、現実の地続きの場所なのだ。

 「久しく両親と会っていない少年が親と暮らすためにやってきて、高層住宅に住む」というモチーフ、そしてその場所が一人の高圧的な男性によって支配されているというモチーフが単なる偶然の一致としても、この違いは象徴的である。

 0マン国は『0マン』の物語の中で破壊され、最後は0マンたち自体が痕跡も残さずに去っていく。改造された東京は電子冷凍機による氷河に押しつぶされ、ほとんど人工物のない平原と化した。徹底した破壊の結末では、やはり「憧れ」ではなくてリッキーが指摘したような違和と嫌悪が作者の真意ではないか、という声もあるかもしれない。だが、0マン国の社会が革命によって変わり(それはリッキーにとっては望む社会だった)、平和が訪れるかもしれないという読者の期待をいわば裏切るような形で破壊を描いたということを考えれば、それは悪意に過ぎよう。これらの0マン国の描写自体にアンビバレンツな感情が込められていたと考えるのが妥当なのかもしれない。

 物語の一つの極に未来への「憧れ」を置き、そこから人類の危機とその中で活躍する少年を描くというスタイル自体が、今では一つの「歴史」になった。

 「SF冒険少年漫画」が再び描かれることはおそらくもうない。ならば四〇年前の作品にはもはや価値はないのだろうか?その発表当時に読むという「同時代性」にのみ値打ちがあるのか?

 今日『0マン』を読むことは、その背負っていた「歴史」をも含めて接することである。「古くさい」とか「懐かしい」といった判断とは別に、作品の書かれた時代背景をことさら知っていなくても、無意識的に「歴史」の部分を受け取っている。しかも、四〇年前の漫画を読むのには昨今の漫画を読むのとは異なった素養はまったく求められない。古い漫画は時代の刻印を忍ばせつつも、常に今の漫画と同じ地平に立っているのだ。古い漫画を読むという行為、それは他のジャンルにおける「古典」と接する場合とはいささか趣を異にしているというべきだろう。

 漫画のスタイルは常に変わり続ける。それは誰にも止められない。だが、歳月が経ってもその作品は変わらぬ間口で読者を待っている。


 『0マン』の末尾は次のようなナレーション(途中までは田手上博士のセリフ)で結ばれている。「もし人間同士が争って滅びてしまえば0マンはまた戻ってくるかもしれません。それまで0マンはどこかの世界からじっと我々をうかがってるのではなかろうか」

 『0マン』という作品そのもののたどった道をどことなく暗示しているように見えるのは、筆者の深読みであろうか。


(完)










注1

 集英社が連載途中から刊行した単行本(全7巻)を皮切りに、過去7種類の単行本がある。(集英社が版を変えて3つ刊行。そのほかは鈴木出版の「手塚治虫全集」版、朝日ソノラマのサンコミックス版、講談社手塚治虫全集版、中央公論社漫画叢書版、小学館漫画文庫版)後の3つが現在も入手可能なもの。本文は中央公論社版をテキストとしている。連載時の版元だった小学館は完結から37年経ってようやく単行本を出した。

 すべての単行本を見比べたわけではないが、最近の単行本では特に章だての変更等はない。ただし、本によって巻ごとに章の番号を振っているものと、全巻通しの番号にしているものとがある。本文ではわかりやすいよう全巻通しの番号を振っている中央公論社版の章番号を用いた。
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注2

 本文を書くに当たって筆者が参照したものは以下の通り。

呉智英「0マン」:『朝日ジャーナル』1989年4月20日臨時増刊号「手塚治虫の世界」収録の解説文。同誌50〜51ページ(企画『手塚治虫ベスト20作品』の一つ)

 桜井哲夫:講談社現代新書1004『手塚治虫』1990年。第4章123〜131ページ。

 この文章には、名指しこそ避けているが呉の文章に対する明らかな異論が含まれている。


夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房1992年(後ちくま文庫に収録)。

『0マン』への直接の言及は少ないが、その時期の手塚作品について論じられている。

同『手塚治虫の冒険』筑摩書房1995年(後小学館文庫に収録)

 前の続編的内容。『0マン』への言及自体はない。


四方田犬彦「手塚治虫における聖痕の研究」:平凡社『マンガ批評体系1』1989年に収録。手塚作品のキャラクター造形に見える特徴からの手塚論。リッキーへの言及がある。

同『漫画原論』:筑摩書房1994年

 3箇所に『0マン』への論及がある。

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