WWFNo.17のページへ戻る



『エヴァンゲリオン』の思考空間




へーげる奥田







■『エヴァンゲリオン』




 過去の文章において幾度か述べているのだが、筆者の場合、基本的には作品を作家のメッセージ、という捉え方をしない。作品の鑑賞というものはそれ自体「事件」として眼前にあらわれ、観る者の知的地平の上で現象する。その邂逅接触こそが鑑賞なのであり、作者というのはその状況の創出に力を貸した者にすぎない。

 だが、押井守の作品の場合、どうしても作家の意図や特定の方向性に指向して論ずることになりやすい。筆者においても、主観的な見解として暗喩の形で提示したとはいえ、基本的にこの方法もとったことは事実である。

 たしかに、こういった多元的な方法は、現象学的方法として純化した方法とは言えなかったと言えるだろう。しかしこの場合、あるていど帰納的な捉え方で考えても差し支えない、むしろ実効性があったのではないかと考えている。単純に作品が作家のメッセージだからというのではない。押井守の作品の多くは、何らかの形で通底するモチーフによってかたちどられているように見えるし、その暗号的な構造の配置や意味によって意味を指示する特有の構成、またそれを読み解くという解釈方法によってなにがしかの有用な成果が得られるという事実があるからだ。それはあたかも一定の基本設計から組み立てられた緻密なプログラムのような構成をとっており、押井守という顕著な個性の描く比較的明確なライトモチーフを中心としたトップダウンの作法をとっているように思えるからである。

 従来、作品解釈という場において、こうした前提──作品が作者の描いたモチーフをもとにトップダウンで構成されているという前提で処理するケースが非常に多かった。いわゆる「作者は何を言いたいか的」アプローチ法である。だがこの方法は、作品のトップダウン的傾向が顕著なケースにしか有効でない。ある種の作品に対してこの方法は「評価」としての意味を持たないように思えることがあった。すなわち、作品の「機能」が、作者個人の意図の正射影とは思えないような作品のケースである。『エヴァンゲリオン』という作品は、まさに「このケース」だったように感じている。


■消費の共有化



 かつて、作品を消費する方法というものは鑑賞者自身の個人的な部分に委ねられていた。鑑賞者は自分の好むところによって作品を観、味わい、時としてそれを「所有」し、反芻し、やがて消費し棄却する。その手法はまったく個人的なものであって、鑑賞者は言ってみれば「個人的な鑑賞者」として作品を消費した。

 しかし、ここ十数年ほどの間に状況は大きく変化した。

 たとえば当初、作品に対して鑑賞者が「語る」ことは稀なケースであった。それはあるときは雑誌の読者投稿欄などにおいて、またあるときは小規模に発行される個人的な同人誌などにおいてなされる、例外的なケースだった。ここにおいて語られることの多くは、多くは個人的経験をもとにした素朴なものであった。ときにそれは紋切り型であったり、互いによく似ていたりした。しかしそれを語る者はほとんどの場合互いの論の酷似など知ることはなく、語りは単独のものとして語られては消えていった。当時は、「鑑賞すること」も「語ること」も、あくまで多くは個人のレベルによってなされていた。

 現代の状況が現れたことにはいくつかの要因があるように思われる。消費をする立場にいた者が社会に出て、自分が消費していたものを再生産するような立場へと転じるような状況ができはじめたこと、雑誌など商業誌がより緻密に「消費」を方法論的にとりあげ始めたこと、同人誌などが一般化し、「語り」の場がより身近なものとなったことなどが主なそれであろうが、特記するべきはやはりパソコン通信やインターネットなどの普及であろう。これらは、消費の方法を定式化し、より効率的に作品を消費できるようなフォーマットを用意した。かくて、鑑賞することも、考え、語ることも、単に個人的な行為ではなくなっていった。ある作品を鑑賞するにおいて、他の多くの鑑賞者との価値観の共有という視点がそこにはつきまとう。効率的に鑑賞し、効率的に語る、言ってみれば「組織的に消費する場」でうまくふるまった者が尊敬を受ける。反面、より専門化した作品消費の「場」はより狭いものとなっていく。こうした原則によって、序列のようなものが成立しているのが現在の状況である。


■「語ること」の消費



 作品を鑑賞することの「消費」的傾向とともに、「語ること」についても同列に扱ったが、実際「語ること」も消費の対象となっているのが現在の状況の大きな特徴である。「消費」は、単に供給される作品を観るということだけにとどまらない。語ることそれ自体、また語ることにおいて使用される「語り口」や「手法」、「論理」や「理論」などについても、現在ではひとつの「財」として消費される。

 1980年代に起こった「ニューアカデミズム」のブームは、思想的にはそれほど多くの実りをもたらさなかったが、そこで陳列された多くの難解な「用語」や相手を煙に巻く「論理」は、それを使いこなす者の知的スマートさを強調するための小道具として「消費者たち」の間に蓄積され、一般化していった。この動向は、「語ること」がひとつの「消費行動」となる傾向に加速度を与えた。

 一方、こうしたスタンスが一般化するとともに、テレビや出版の世界が「知的に語るという行為」の市場性に着目したことは当然だったといえよう。かつては「漫画」や「アニメ」に対して評論家が論評をすることは非常に少数の特異なケースであったが、現在では決して珍しいものではない。そうして提示された「語り方」の模倣は、主として自己の知的優位性の誇示を目的とする消費者たちによってさまざまなメディア上に再現されることとなった。かつては作品を語るのに「感性」や個人的体験をベースにした方法が好まれる傾向があったが、大手パソコン通信の「会議室」や、インターネットのホームページなどに顕著なように、最近では断片的な評論理論などの知識や学説を用いて作品を語る手法が目立つ。

 物には名前が必要である。名前が定まらないものを指して言うことはできないし、思考することもできない。「なんとなくだるい」という状態はただの状態であってそれ以上思考の対象たることを拒んでしまうが、たとえば「慢性疲労症候群」など、ある一定の名辞を与えることで思考の射程にとらえることが可能となる(これがそのまま的確な「対策」を可能にするものかどうかはこの場合問われない)。それまでは作品を語る場において、「感性」などの多義的な言葉を用いるほかなかった部分に対し、何らかの専門用語や遣い回しの効くロジックが共通ルーチンとして蓄積したことは、「語ること」の組織的消費構造成立の一要因とみることができるのである。

 以上のような傾向は、作品の鑑賞、またにとどまらずそれについて語ること自体も「効率的な組織的消費活動」として定着したことを示している。これはよいことでも悪いことでもない。単にそういった傾向があるということなのである。


■ハイパーリンク型思考法による構築



 『エヴァンゲリオン』という作品は、以上のような状況下できわめて効率的に効果した。これは、この作品の制作上の方法に大きな関係があるように思える。

 先にも述べたが、作品『エヴァンゲリオン』はある一定のライトモチーフを中心としてトップダウン的に構成された部分より、むしろ断片的なイメージを組み上げた部分を顕著な特徴として成立した、いわばボトムアップ的な様相のつよい作品であったと言える。

 この方式は、ある意味で現代の特徴的なものである。現代社会にあっては、多くのジャンルにおいて組織化・専門化が進んでいる。かつては個人的な領域に属するようなジャンルにおいてもその傾向は顕著であって、より自己の優位性を誇示したい者はより希少性のある知識の獲得が必須となっているのが現状である。

 そんな中で、特定の個人が体系的な──すなわち本当に高度に専門化した知識を修得することは非常に困難である。ひとつのジャンルにのみ高いスキルをもつようなタイプの発言者は、現代では軽蔑されてしまう危険がある。あくまでも広いジャンルにおいて、一見深い知識を持っていそうにものを言うというスタイルが最も自己顕示の目的を満足させることができることは言うまでもなく、そういうふるまいを実現させるためにはさまざまな専門的ジャンルから自己の知的優越を示すような効果のある用語、フレーズ、ロジック、理論、語り口などを適当に引用してくるという方法が最も効率的である。

 このため、現代において成功しているジャンルは、多かれすくなかれこういった構造──それはあたかも、インターネットのホームページがあちこちの専門的な他ページに手軽にハイパーリンクを貼っているようなものである──によっている。極端な例を挙げれば、宗教団体の「幸福の科学」などはその最たるものであろう。その思考空間は、非常に多種の宗教や科学や哲学、またその他不特定の文化ジャンルから引用した知識を無差別に集約することによって成立している。実のところこの「引用」は不正確なものや恣意的な解釈のものが目立ち、一言で言ってしまえばそれは全体的に非常に幼稚なものと言えるのだが、少なくとも一部の信者に対してはその教祖の知的優位性を証明する効果があったことはまぎれもない事実である。

 同じ宗教団体でも「オウム真理教」のケースでは、「幸福の科学」の方法をより組織化・専門化したものであった。それは「幸福の科学」の行った「引用」よりはるかに正確で高度なものであったが、つまるところ「雑多なジャンルからの知的成果物の寄せ集め」という方法自体はまったく同質のものだったと言える。この方法自体を「オウム的」と称して犯罪性と結びつけるという議論を聞くが、これは現代の知的流行に基づき、その方法にしたがって最も効率的な思考活動を行ったにすぎず、方法それ自体は善いものでも悪いものでもない。悪の要因というものはそれほど単純なものではなく、まったく別の次元で論じる必要があるが、これについては別の場に論を譲ることとする。

 『エヴァンゲリオン』の場合、その主たる制作者が非常にピュアに、自己が生き体験している現代という場の思考空間を吸収し、蓄積し、それをもって構築された作品である。それはある部分体系的整合性を欠き、また体系的で明確な「物語」の構造にはあてはまらないという「現代的・知の特徴」を顕著にあらわしていたが、鑑賞者を愉しませるという「機能」はじゅうぶんに果たしたと言ってよいだろう。


■消費のプラットフォームとしての作品プログラム



 「消費者」は、さまざまなニーズを持っている。『エヴァンゲリオン』は、その思考空間の構築の段階から、非常に多岐にわたる消費者ニーズに応える要素を潜在的にもっていた。隠蔽や陰謀といった現代的モチーフの使用、また精神分析学や心理学の用語の多用による自己内面への指向は、作品世界をよりミステリアスで魅力的なものとし、個人的・内面的な没入といった伝統的鑑賞法をサポートした。また、宗教や科学、哲学、ニューサイエンスなど多くのジャンルの知的成果の集積は、その解読という形で自己の知識・教養を誇示する場を供給した。

 じっさい、今回の消費者動向を眺めていると、多くの鑑賞者が実に多彩な「愉しみ方」をしていることがわかる。最も素朴に(しかしこれこそ最も幸福な道であろう)正面から物語としての作品を愉しむ者、作品世界それ自体を愛してやまぬ者、キャラクターに対する愛着によって作品に接する者、アニメ作品としての作品史的事項や一般には公開されないような業界の希少情報に関する蘊蓄を述べて自己の知識や情報収集力を誇示する者、作品に横溢する専門用語や学説などを解読することで自己の知的優越性を顕示する者、またそうした直接的な鑑賞者を俯瞰的に論評し、自分は彼らより一段階優越した立場にいるのだということを強調する者などに場を提供した。

 こうした一次的消費(一般的な鑑賞)、二次的消費(作品に対する語りによる自己顕示)、三次的消費(作品からやや遊離し、他の鑑賞者や関係者、また社会現象などに対する言及で自己の優位性を主張して愉しむ)の他に、負の享楽もある。作品が思い通りにいかないということで、制作関係者や作品に対して肯定的な意見を持つ者に対する攻撃的発言、嘲笑、罵倒などを行って自己のストレスを解消するとともにその知的優位性を誇示するといった愉しみ方である。

 『エヴァンゲリオン』は、あるていどの偶然はあろうが、こうしたニーズにきわめて合理的に応じるような仕様となっていた。それは単なる「コンテンツ」であるばかりでなく、さまざまな思考空間の構築を恣意的にサポートする「場」であり、いくつものレベルで愉しむための「道具」であった。たとえて言えばそれはパソコンOS「ウィンドウズ95」のごときものである。使用者は、その上でさまざまなアプリケーションを実行する。『エヴァンゲリオン』もまた、その上で「鑑賞」「ファン行動」「自己顕示行動」「ストレス解消」等さまざまなサービスを供給した。その意味でこれはきわめて現代的な作品であり、それゆえの成功であるといってよい。

 こうした作品の性格は、また一方で「消費者」側にもそれなりの対応を要求する。単なる感覚的な視聴以上に、技術的な鑑賞態度が、いわば「ツール」としての作品を使いこなす「ユーザー」としての態度が要求されるのだ。

 以上が『エヴァンゲリオン』に対して筆者が考えている評価である。全体的にシニカルな印象を持たれるかもしれないが、シニカルなのは作品や作品を評価する者ををおとしめて自己の知識や見識を誇示するタイプの卑小な消費者に対してであって、実のところ作品に対してはかなり肯定的な感想を持っている。われわれが考えるべくは、作品をいかにしてより愉しく、より効率的に鑑賞するかといった方法の模索であろう。答えは当然ひとつではない。模索は当分続きそうである。



(1997/07)










WWFNo.17のページへ戻る