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碇シンジ君への手紙




鈴谷 了








 前略。

 君は設定によるとまだ生まれていないことになっている。また、君の父君は私よりもあとに生まれたことになっているらしい。むろん実年齢では父君よりははるかに下だが、君の倍以上の年数を生きてきたことも確かだ。

 そう、君のよく知っている人で言うなら加持さんやミサトさん、リツコさんと大体同じ年齢ということになる。

 そういった意味では、君に対して「共感」の手紙を書くことは適当ではない。また、君を叱ることなら、ミサトさんや加持さんがやってくれたはずだ。だから、そのどちらでもない手紙を君に認めることにしよう。あるいはもしかしたらその両方が入り交じった手紙になるのかもしれないが。その理由はあとで説明しよう。



 『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメにおいて、君は主人公として外面の活動から内的世界までをくまなく「暴露」させられた。そのことの意味や当否はひとまず於くことこととして、否応なしに視聴者は君の体と心を通じて『エヴァンゲリオン』を理解することになった。私もまたその例外ではない。 


 普通視聴者が君に最初に出会うのは、あのオープニングフィルムだ。私の場合はさる事情から君の姿をそれ以前に眺める機会に恵まれたのだけど(そのときにはまだオープニングフィルムはなかった)、第一話を迎えたときの状態はそうした機会のない一般視聴者とさして変わらなかったと考えている。

 で、あの印象的なテーマ曲とともにタイトルが上がり最初に映し出される君の映像を見て感じたことを述べよう。それは君の体型および頭の形についてのことだ。

 オープニングフィルムでは君の横顔から斜め後ろへとカメラが動き、それと君の全体のシルエットが挿入されてくる。その君の頭の形にはきわめて特徴的な点がある。後ろの方がぷっくりと膨れた「才槌頭」である点だ。さらに君のシルエットは君がなで肩で、いわゆる「がっしりした体格」ではないことを教えてくれる。

 少なくともこれらの特徴は過去の「ロボットアニメ」の主人公が保持することがなかったものだ。たとえば丸顔であるとか内向的だとかそういった点で「常識破り」と言われた主人公は過去にいたし、事実常識破りだったのだけど、それは君の場合とはいささか次元を異にしているというべきだろう。君は過去の「ロボットアニメ」ではまず間違いなく「主役」にはなれないデザインだったのだ。少なくとも主役はそれなりに太い首と、大きすぎない頭を持っているという点では大きくはずれることはなかったのだから。

 これは君を外見で貶めて言っているのではない。私が初めてこのOPを見たときに感じたのは違和感ではなくて親近感だった。なぜなら、その形の頭を私も保有しているからだ。ついでにいえば、なで肩のシルエットもそうである。


 生身の人間の役者はどんなに苦労して役作りを−たとえば歯を抜いたり髪を染めたり−しても、頭の形まで変えることはできない。通常は役のイメージに適した役者をオーディションなどによって探し出すわけだが、それとて自ずから限界はある。しかし、アニメーションのキャラクターの場合はデザイナーの筆先一つで(アニメーションの制作過程ではそうとは言い切れない部分もあるが)デザインを変えることができる。つまり、君がそのような頭と体型の保有者として設定されたことにはそれなりの「意味」があるというべきだろう。(注1)

 ついでに言えばこのことは結構重要であるにもかかわらず、『エヴァンゲリオン』を見ていた多くの視聴者にはさして気にとめられなかったようだ。むしろ君の「同僚」である綾波や惣流の方に向いていたらしい。曰く「あの胸を強調したプラグスーツのデザインはあざとい(もしくは「燃える」)」といった類である。私もそれに興味がなかったわけじゃない。けれども、それが『エヴァンゲリオン』を見る上で本質的に重要な問題かというと、そうではないと考えている。これは君への手紙だから立ち入って説明はしないが、「あざとい」と考える人は逆に「あざとい」と考えさせる何かがその人の内側にあるのではないか、とだけ書いておこう。

 閑話休題、君はその体型に相応な性格と言動を付与されていた、ように思える。クレッチマーという心理学者が体型と性格の相関なんてことを書いていた。これがすべてにあてはまるとは思えないけども、君というキャラクターの「気分」を代弁していたとは言えるように思える。



 君に大事なことを教えておかなければならない。君のクラスメイトであり、また零号機のパイロットである綾波は、実は君の母親のクローンかもしれないのだ。少なくとも私が見ることのできた『エヴァンゲリオン』の作中において、君がこの事実を教えられた形跡はない。(もしかしたらリツコさんから聞かされているかもしれないが)君が初めて綾波に出会ったときに、その痛々しい姿に驚き、その後そのいささかエキセントリックな性格や行動に戸惑っていたことは私もよく知っている。だが、「綾波が母親にそっくりだ」というリアクションを君が取っていたことはなかった。のみならず、君には母親の記憶というものがほとんどないようだ。私が見ることのできた君にまつわる過去の映像には、君の母親が亡くなる直前の場面があった。そのとき君は5歳くらいのはずだが、綾波を見て母親を連想しなかったということは、とりもなおさず意識的な記憶にはその当時の母親は残っていなかったということになる。君が母親の墓参に出かけたのは決して母親への追憶からではなくて、そこが父親と会って話のできる(しかも時と場所が指定された)数少ない機会だったからだと私は思っている。

 一方「父も母もいない」場所で君がどのように育ってきたのかを私は知る術がなかったし、またそれを君に詮索しようとは思わない。大事なことは視聴者が知っていることを必ずしもキャラクターが知っているとは限らないし、またその逆もあり得るということだ。だから、君が綾波とさまざまな関係を経たり、エヴァンゲリオンに乗ることからすぐにエディプスコンプレックス(君のような少年が母親を恋うことだ)という「わかりやすい」メタファー(モノや行動が何かのたとえになっていることだ)に結びつけるというようなことは、安易なやり方だと思う。母親を知らない人間が、なぜ母親を恋い求めたりすることができるのだろう?いや、君を眺める人たちにはそのようなことをする人も少なくないと言うことを伝えたかったのだ。

 あるいはこう言い直してもいい。自分がフィルムから得た情報はキャラクターも知っているという錯覚をしたり、あるいはすべての情報をフィルムから得られなければいけないという思いこみを人はしばしば抱くのだ、と。(注2)

 困ったことに、君の「もう一つの物語」が世に出る頃になって、世間には「解説本」だの「謎解き本」だのといったものが氾濫するようになった。あるいは、君の物語はそういった情報をすべて提示しなかったところに新しさ(大ヒットした理由)があるのだと、鹿爪らしく「解説」する向きも多かった。一般的には、「必要な情報は全部映像の中で提示される」というのが「ならわし」として了解されていることだ。だから、その観点からはそれは正しい。だが、間違えてはいけない。いかなる映像作品においても「すべての情報」が完全に提示されるわけではない。ただ、見る人たちが了解可能な範囲で物語を作るかどうかという違いにすぎないのだ。

 たとえば、一人の老人と数人の従者が敵にまわりを取り囲まれたときに、小さな模様のついた箱を取り出すだけで敵が攻撃をやめてしまうという映像があったとしよう。まったく予備知識がない人がこれを見たとすると「なぜあんな小さな箱一個を見ただけで圧倒的多数の敵が手を出せなくなるのだ?」という疑問を抱くことはごく自然なことだ。その作品の舞台が身分制のある社会で、その箱がその老人の「高貴な地位」を示す紋章である、という前提を理解して初めてその疑問は解決される。上の例の文字をいくつか入れ替えれば、それは君の物語にだって応用可能になる。(君の生きている時代に『水戸黄門』というテレビドラマがあるのかどうか、私は知らないけれど)

 「解説本」「謎解き本」は、「すべての情報がフィルムにあるわけではない」という点では私の考えと同じだ。だが、それはフィルムの中で意図的に描かなかった(あるいは描けなかった)部分に対する推論と解釈を行って「答え」を求めようとするにとどまっている。それは単線的な「謎」と「答え」の関係に作品を縛り付けるものだ。

 君の話から少しそれてしまった。



 君は何度も「なぜエヴァンゲリオンに乗るのか」という自問を繰り返した。いや、それは自問ではなくてひょっとすると本当に誰かに問われたのかもしれない。私の見ることのできた君の映像ではそれは君の内的な独白として読みとれたが、それが本当に内的独白に過ぎないのかどうか、検証する術はないからだ。そのときに私は思った。君ではない誰かが主人公の『新世紀エヴァンゲリオン』はあるのかもしれない、と。ただし、それは今私が見ることのできる『エヴァンゲリオン』ではありえない。その世界では君はごく平凡な一人の中学生として作品に出ないまま終わったかもしれない。などと考えていたところに、テレビシリーズの最終回で「エヴァンゲリオンに乗らない君、綾波、惣流」という映像が出てきた。

 私は、以前やはり主人公になることを自問した一人の青年を描いた作品を論じたことがある。君とはまあある意味で親戚筋にあたるような作品だ。君と単純に比較することは慎みたいが、彼は「自らが主人公であること」を再確認して物語を完結に導いた。

 だから、その映像を見たときには思わず「そういうことを君の制作者たちも考えていたのだろうか」と思ったものだ。それはもちろん君の「可能性の一つ」を映像にしたという、考えようによっては嫌みな場面でもあったわけだが。

 君はもしかしたら「シンジは物語を放棄して自己の解放をした身勝手な奴だ」という非難を耳にしているかもしれない。しかし、それは君に与えられていた「使命」からすれば、妥当なことだともいえるのだ。いかにして自分の物語の主人公たりうるのか、それを示すことを君はおそらく課せられていたのだから。


 その後、「もう一つの物語」の中で君の「可能性」はさらに複雑になった。テレビシリーズの再編集版である「DEATH 編」には、君や綾波や惣流や渚が集まって弦楽四重奏を演奏しようとする場面が挿入されている。これらの場面は君が渚と邂逅した時から「十八カ月前」で「第二新東京市立第三中学校講堂内」という説明の文字が表示されてはいる。だが、それがテレビシリーズや、あるいはその再編集の本編と「同じ」世界、同じ君だという保証はどこにもない。テレビシリーズの描写には君にチェロの演奏ができるという描写や予備知識は一切ないことは(あるいは君にチェロが演奏できそうだという想像が失礼ながら君からは感じられなかったことは)、さきほど書いたとおり「すべての情報がフィルムにあるわけではない」のだから、それ故におかしいということにはならない。だが、この場合は時間的な前後関係において明らかに倒立するという別の問題がある。

 しかも、そのあとには「もう一つの物語」そのものである「REBIRTH 編」が控える。テレビシリーズで私の見ることのできたのとは違った「自己解放」がおそらく君に起こるだろうと私は考えているが、3月に見ることのできた「REBIRTH編」ではまだ君はそこまでたどりついていない。(この文章が世に出る頃にはもうわかっているのだろうけども)いずれにせよ、君は「異なる可能性」をはらみつつ『エヴァンゲリオン』という世界の中にいる。それを君や、君の住む世界を生んだ作り手の責任だとして非難する人たちがいる。その非難には当たっていると思われる部分もあるけれど、君が「アニメーションというフィクションのキャラクター」であることを忘れているように思えることも少なくない。(単に君や、君の世界の作り手を揶揄するだけの人々はもとよりここでは考慮の外だ)


 ところで、弦楽四重奏の場で君がチェロを弾いていた事実を私は重視したい。チェロはいかにも君に合う楽器だと思うのだ。ヴァイオリンのように明晰で強くメロディーを印象づける楽器や、コントラバスのような重く包み込むような楽器では君には失礼ながら合わない。チェロの朴訥とした音色こそ君にふさわしい音色だ。まあこれは日本の有名な童話作家の書いた作品に、君のように不器用なチェリストを描いた作品があったということもある程度は影響しているかもしれない。


 話を戻そう。「フィクションのキャラクター」ならば可能性はいくつあってもおかしくはない。実際、テレビゲーム(君の住む時代にはどういう名称のものが存在するのかはわからないが)の中にはそれを前提として作られているものだってある。テレビゲームと違って、アニメーションは一つのストーリーに沿って話が語られるから違うといういるだろう。けれどもそれは「絶対にそうでなくてはならない」というものでもない。とはいえ、そのような思考を生み出すにはそれなりの背景がある。そのひとつの要因は「感情移入」というものにある。

 人が「お話」を見たりあるいはゲームをプレイしたりするときに、物理的にはまったくその世界から隔絶した第三者としてそれを行う。それは君が日常本を読んだり映画を見たり(そういえば君は家出したときに映画を見ていたね)しているときのことを思い出してもらえればよい。けれども、その作品の「世界」に入るために何らかの触媒(化学反応をうまく進めるために使う、直接その反応とは関係のない物質のことだ)のようなものが使われることがある。それが「このキャラクターの思っていることは共感できる」「このキャラクターがいとおしい」「かっこよくて憧れる」といった感情を抱くことによって得られる場合が少なくない。それが「感情移入」だ。

 そして、当然ながらそうした「感情移入」は主役やそれに近いキャラクターにより多くその「材料」が与えられることになる。君も知っての通り、綾波には「内面」がほとんどなかった。それ故に綾波に対する視聴者の「感情移入」はそれとは違ったレベルで与えられた。早い話、綾波に対する性的な関心(この点は君が自分で考えてほしい)と、欠落した「内面」と「生活」を自らの想像力によって「補完」することが「感情移入」として機能したのだ。

 それに対して、君の場合は性的関心や羨望(ケンスケのような)という形ではなかった。その内面を暴かれることによって、君と同じような悩みやシチュエーションをどこかで経験した人々にそれを強く訴えた。逆に言えばそういう悩みやシチュエーションと縁のない人々、忘れたい人々、克服したが故にそれを軽蔑する人々には反発や揶揄を招くことにもなった。テレビシリーズが終わったときには(お節介にも)フィクションのキャラクターである君に向かって「説教」する人まで私のまわりにはいた。それは「負の感情移入」と呼んでもよいだろう。それは決して君一人の責任ではない。君ではない誰かをその位置に据えたとしても、やはりそういう反応をする人はいるだろうからだ。

 「感情移入」には、さらにやっかいなことに、視聴者の側で「補完」を勝手に行い、「このキャラクターはこういうことをしてほしい、いやしなくてはいけない」という感情を生成するという一面がある。テレビシリーズ終了時の反応の幾分かはそれが原因だといってもいい。同時に、さきほど書いたような「一つのストーリー」を当たり前のこととして考えるきっかけにもなっているのだ。


 君が戦ったいくつかの使徒の如く、視聴者は君の心を当たり前のように覗いていた。くどすぎる内面描写に反発した視聴者はいたとしても、フィクションのキャラクターならば内面を覗いても構わないのだ、ということに疑問を抱いた視聴者がどれほどいただろう? 君のいた世界、『エヴァンゲリオン』はあるいは「視聴者がキャラクターの内面を覗こうとする」という構造自体の暗喩(たとえ)だったのかもしれない、と私は思ったりする。これは君自身には関係のないことだろうが。


 ところで、さきほど君と同様の悩みやシチュエーションを「忘れたい」という感情について書いた。これについて説明しよう。ちょうど君たちくらいの年齢の頃のことというのは、10年くらいたってから振り返ってみると「なぜあんなことで」といった恥ずかしさを感じる人が少なくない。だからといって、君やクラスメイトの皆が今の時点で「間違っている」わけではない。それは君の年代では避けがたいことなのだ。逆に君たちが今の時点で、10年後のような感情を抱くこともできない。それはまさしく、君たちの世界を生み出した人々が、君たちと同世代ではないからこそ描き得たものだ。(別の言葉では「客観化する」という)

 その人たちが「14歳である君たち」を描くとは、どういうことだろう。フィクションには様々な年齢・性別のキャラクターがいる場合が多い。それは、自分には経験できないことの方が多いだろう。そういう場合、作り手は自分の見聞した近い立場の人をモデルにしたりしてその人物を作るだろう。けれども、君の場合には少し違うのではないか、と私は思っている。

 正直に言おう。君の感じた悩みやシチュエーションは私にも「わかる」ものだった。君と年齢が離れているのに、だ。そして君の世界を作った作り手の多くは実は私と同じような年齢層に属する人だという。つまり君という存在は、彼らにとっての「14歳の頃の自分」あるいは「現在の自分を14歳のキャラクターに投影した」ものだと考えた方がいいように思われる。それが正しかったのかどうか、それで君が幸福だったのかどうかは私には何ともいえない。それも君の「可能性」の一つだったのだから。


 君について書きたいことはいろいろあるが、そろそろ紙数も尽きた。もう間もなく君の「最終的」な結果を見ることができるだろう。だがそれすらも君にとって「唯一の」ものなのかどうか、わからない。いずれにせよ、その中での君に幸多からんことを祈りつつ、筆を置こう。





(1997/07)








 注1

角川書店から刊行されたムックを見ると、初期設定ではシンジはもう少し「かっこいい」キャラクターとして描かれている。








 注2

第弐拾壱話に綾波(初代?)とリツコの母(ナオコ)の死を描く場面がある。この映像は「誰が」もたらしたものなのか? 当事者が両方とも死んでしまった以上、それぞれの口から語られたものではない。あるいは施設内にモニターカメラとマイクがあってある程度は(ゲンドウを初めとする)関係者が概要を知り得るものだったのかもしれないが、その映像は決して視聴者がテレビシリーズにおいて見たものではなかったはずだ。つまり、死んだ二人しか知らない情報が「作者」によって視聴者に提示されているのである。





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