WWFNo.17のページへ戻る



ガイナックス作品について




清瀬六朗







 私は、アニメにしろ小説にしろ実写の映画にしろ、作品をテーマからアプローチすることで理解しようとする傾向には懐疑的である。

 作品からテーマを抽出することは、それとは関係のない部分を切り捨てることでもある。あるいは直接にテーマに触れていない部分をテーマを基準にしてすっかり秩序づけてしまうことである。そうやって作品からテーマを見出すことこそが作品鑑賞にとって重要だ、というのはひとつのイデオロギーにすぎない。

 高畑勲はテーマによって作品を秩序づけることに強い意欲を持つ作者である。物語そのものにテーマを基礎とした連続性を求めるだけではない。絵の表現についても同様である。それもその隅々まで求める。たとえば、主人公が空に舞い上がる描写は主人公が空に舞い上がるような気もちであることの表現である。そして、主人公が映画のその場面で空に舞い上がるような気もちになるのは、物語上、そこでそういう気もちになることが必然だからである。ぽつんと一本だけで立っている木は、やはり主人公の孤立した心の象徴でなければならない。音楽もテーマによって決定され、作曲され使われる。

 テーマによってピン止めされた一点のまわりに、テーマによって秩序づけられた物語が存在する。物語はどんな物語でもかまわないが、ただ、それがテーマを表現しているものでなければならない。そのためには、物語のテーマへと人を導入し、そのテーマに関する真相を表現するクライマックスを経て結末にいたらなければならない。そして、すべての描写はその物語の要求を過不足なく満たすものでなければならない。

 高畑勲の作品はそうやって美しく秩序づけられている。

 『うる星やつら』の演出家となった押井守は、宮崎駿の『未来少年コナン』に、テーマを基礎とした物語の連続性の確保への志向と、漫画映画作者としてそれに反しようとする志向の緊張関係を見出し、ともに悩んだ。もちろん、映画が物語として完結してしまうことが嘘であることなど、押井守ははるか昔から知っていた。だが、物語による美しい秩序づけから、漫画映画の表現がとつぜん飛び出してしまったことは、やはり押井守にとって驚かなければならないことだった。物語が映画のなかで完結することの嘘を知っていたからこそ、それに驚くことができた――というのが真相かも知れない。

 そもそも連続性を認識するのは読み手や観客のほうである。

 読み手や観客はその連続性をもとに物語を認識し、そしてその作品の核心としてのテーマに到達する――このことは仮説に過ぎず、しかも実証されているわけではない。しかし、この仮説を実証されたものとみなす。あるいは、このような過程をたどるのが本来であるという想定を持ちこむ。げんに学校ではそう教えるではないか。それにもとづいて、その手順を逆にたどることで作品は作られる。そうすると、見る側も、作品がテーマから物語へ、物語から細部にいたる描写へという過程で作られていることを意識し、その過程を逆にたどることで作品を理解しようとする。ここに、テーマを根拠とする作品づくりと作品理解の構造ができあがる。

 しかし、美しい秩序づけによって押さえこまれた自然状態がそれによって放棄されたわけでも失われたわけでもない。それは、テーマによって秩序づけられた物語によって配置しなおされ、その物語の部分的な仕掛けとして活用されることもある。しかし、それが勃然と美しい秩序づけに反抗することもある。コナンの太陽塔からの跳躍はその反抗をみごとに表現していた。それは、たとえその後にコナンが物語にとって正当にも捕えられたとしても帳消しにできない効果を残した。

 さらにそれは「反抗」するだけではない。テーマによる秩序づけの下に組みこまれた「自然状態」の要素は自分自身の連続性を要求する。漫画映画的な痛快さは、それが物語のクライマックスに活用されるだけで収まっているわけではない。漫画映画的な痛快さそのものの連続性を要求するのである。もちろんこの表現は嘘だ。観客にはそういう痛快さの連続性を求める性向が備わっている。

 もちろん漫画映画的な痛快さだけがテーマによる秩序づけに反抗する特権を持っているわけではない。音楽、色、繰り返される同じような表現――すべてがその反抗の可能性を持っている。そして、自分の連続性を作り出し、作品を支配しようとしている。

 テーマにより秩序づけられた作品には、もうひとつ連続性についての虚構があった。

 作品は直接に観客の属する社会に繋がっているだけであって、それ以外のものと繋がっていてはならないという虚構である。

 作品を見た観客は、「ああ、自分の生きている場にこの作品と同じような問題がある」とか、「世界にはこんな問題をかかえて生きている人たちもいるんだ。それを自分の身近なもののように捉えられた」とか思わなければならない。観客にとって、作品は、作品以外の観客の日常の社会へのアプローチの糸口にならなければならない。観客は社会のなかのいろいろなつながりのなかにいなければならない。その観客を中心としたつながりのひとつが作品でなければならない。そして、作品は、観客および観客が属する社会としかつながりを――連続性を持ってはならない。もうひとつ言えば、その観客は、作品に対して、物語を経てテーマを探索するというアプローチを採る観客でなければならない。それがテーマによって美しく秩序づけられた作品の要請である。

 しかし、こんなにたくさん「なければならない」を要請してくる秩序が自然状態を抑圧するためには、相当な巧妙な仕組みと、それを可能にする条件と、そして自然状態を抑圧するためのエネルギーが必要である。

 ことに、作品は、観客個々と、あるいはその属する社会とのみ関係を持っているべきだという虚構はたやすく壊された。もともと物語というのはそういう享受されかたをしないのである。

 『忠臣蔵』はそれ自体も長い物語である。しかし、それが人気作品になると、さらに『忠臣蔵』にいろいろなエピソードをつけ加えるようなかたちで新しい作品がつぎつぎに生まれた。また、主人公を変えて『忠臣蔵』を模倣したエピソードも生まれた。

 これが中国の『水滸伝』となるともっとおおごとである。『水滸伝』のもとになった雑劇もたくさんあるし、『水滸伝』ができてからそれに対する外伝的エピソードもいくつも作られた。いやいまも作られつつある――コミケでも手に入れることができるはずだ。また、『水滸伝』を模倣した物語も東アジア世界で作られつづける。『南総里見八犬伝』はその一例に過ぎない。これも、いまも作りつづけられている――栗本薫の作品を見ればこれも一目瞭然である。

 ギリシアの悲劇は作中世界の時間に厳格な条件が定められていた。しかし、それは背後に観客のだれもが知っている神話上・歴史上のエピソードがあることを前提条件としていた。たとえばソフォクレスの『アンティゴネー』はオイディプス王にまつわる物語を観客が知っていることを前提として、アンティゴネーの死をめぐる一段だけを舞台に上げている。観客のだれもが知っている事件を題材にしているからこそ、古代ギリシア演劇は共同体の一体性を表現するものとしての役割を果たすことができたのである。

 物語は、直接に観客とのみ繋がり、観客によって社会の投影であると理解される――ということはもともと幻想にすぎない。物語は先行する作品との関連で、先行する作品を基準に対照されることで評価される。「あれは自分の知っているあの話と同じだ」、「ここは自分の知っているあの話とちがう」という評価のされかたをするのだ。その「自分の知っているあの話」が多くの人のあいだで共通すれば、その社会の「名作」や人気作品の地位を獲得する。また、そうした作品に対照されることを意識して作られた作品は、その作品自体も多くの人に評価される可能性を強く帯びる。

 物語は、それぞれの物語が孤立して社会と繋がっていたわけではない。それはむしろ不可能なのである。なぜなら、もともと社会の側が、新しくやってきた物語を、それまでスタンダードに知られていた物語との関連で受け入れたり拒絶したりしようとするという「物語を受容するための機構」を持っているからだ。物語はむしろ他の物語との関連のなかで社会に受容される。

 映像作品となるとその傾向はますます強くなる。物語だけではなく、映像表現の傾向その細かい技術まで、さらに音楽や制作会社がどこかということまでが、他の作品との関連のなかで評価される傾向が生まれるからだ。ある作品と同じスタッフが撮った別の作品は、スタッフが共通しているというだけでかなりの数の観客を獲得するだろう。ある作品で評価された俳優が主演だというだけで――あるいは出演しているというだけで――やはり見に行く観客も多いだろう。

 テーマによって秩序づけられた物語に抑圧されていたさまざまな要素は、そういう既存の他の作品とのつながりを強化することで個別の物語の束縛を離れようとする傾向をますます強めるであろう。

 あるいは、既存の作品を評価するために導入されたなんらかの整理のしかたがその離脱する力をさらに助長するかも知れない。剣劇もの、恋愛作品、大河ドラマというようなジャンル分けもそうだし、作品の評価のしかたの分類などもそういう役割を果たすだろう。

 物語が、そして映像作品が大衆化して行くにつれて、テーマによって秩序づけられた物語の統制力は力を失った。それに統制されていたはずの要素が作品の外の世界との結びつきによって社会に受け入れられているということがあまりに明白になったからである。作品が作品のなかだけで完結していることなどだれも重視しなくなった。作品はテーマによって秩序づけられた物語によって完結させられていなければならない――などということは、教科書のなかと、教科書に忠実な生徒たちの頭のなかにしか存在しなくなった。その発想のイデオロギー性が暴露されたと表現してもよい。

 ガイナックス作品はそのイデオロギー性の暴露を当然の前提として出発している。

 『王立宇宙軍』はそれを作っている若手制作者集団の自画像であり、困難に挑みどんなピンチのときも絶対にあきらめないポリシーを持った青年たちの物語として描かれた。

 『トップをねらえ!』は、その作り手がこれまで見てきた作品――それもおもにアニメ作品からのパクリを前面に展開させることによって、それが他の作品を前提に作られていることを積極的に見せようとした。物語の受け手が、他の先行する作品との関連のなかでそれを受け取ることを当然の前提とした。それは、あえて「この場面はあの作品と同じ」という発想を喚起することを目標にした。「あの作品と同じ」という発想をしたとたん、それをした人間は作者の罠にはまるのだ――ということを『トップをねらえ!』はわざと強調した。罠にはまった人間は、どんなに自分の純潔を証明しようとしても、「作者と同類の人間である」という規定から抜け出ることができなくなってしまう。『トップをねらえ!』はそういう罠であった。

 『ふしぎの海のナディア』は、いい子アニメを作ってほしいと期待するNHKの製作側を裏切ったか騙したかなにかして、「ヴェルヌ原作の名作アニメーション」で人種差別問題の大切さを啓蒙しようという意図をすっかりご破算にした。そして、クライマックスで宇宙に行って戻ってくるという「王道」を堂々と実現して帰還してきた。受け手がかぎられているビデオアニメーションとちがって、家族みんなで見るということがたてまえになっている時間帯の放送枠で『トップをねらえ!』と同じ試みを平気でやってのけた。それだけではない。逆にそういうファミリー枠でやってはいけないことになっていた「後味の悪いおわりかた」をわざとやるようなこともやった。

 『おたくのビデオ』は、これまでの作品で、宇宙軍士官や少年や少女に仮託されていた自分たちを正面から題材にした。しかも本編で「リアル」路線をやっておいて、続編ではやっぱり宇宙に行ってしまうという、どこかで見たようなパターンを鮮やかに決めた。パターンが見え透いていても笑えることをごり押しで証明しようとしているようだった。付録映像には、アニメのソフトにセル泥のインタビューを入れるなどということまでやっていた。この作品に対して、「自分をネタにするようになったらおしまいだ」などと言っていた人物が『エヴァンゲリオン』に協力してこの集団の延命工作に加担したのは皮肉なのか大蒜なのかそんなことはどうでもいい。

 『新世紀エヴァンゲリオン』はどうだっただろうか。この作品はまだ完結したところを見届けていないからなんとも言えない(同人誌には締切というものがあるのだ)。放映を見ていたときに感じたことから言えば、この作品は、「この作品はこういう作品である」と決めつけたとたんにそれを裏切るという展開の連続だった。わざとやっているのか、それとも意図せざる結果かは知らない。たぶん百パーセント「わざと」ということはないと思うし、逆に百パーセント未必の故意または事故ということもないだろう。

 ガイナックスの映像作品は、いずれも、映像作品は作品世界の外に関連づけられて評価されることを前提として、その評価を意識して作られている。それに積極的に迎合することで相手を引きずりこむという仕掛けを潜ませたり見せびらかしたりしていることもあれば、逆にそれを裏切ることで観客にいやな思いをさせようとしている部分もある。また、「こんな集団が作っているのだ」という作り手についての情報を利用しているばあいもあれば、それが放送される時間帯を利用していることもある。

 孤立して観客の個々と向き合い、観客を社会に向けるための装置という虚構の崩壊をそれは当然の前提としている。そして、社会が、映像作品を、あるいは物語をどう扱うかということを戦略的に考えてその作品を作っている。そこでは、作品についてどんな情報が流されるか、だれがどんな不快感を感じ、だれがよろこび、そしてだれがどんな悪口を並べるかということすら、作品の一部分に取りこまれているのである。

 だが、ガイナックス作品の意地の悪さは、そんな表面的な生やさしいものではない。

 『となりのトトロ』も『魔女の宅急便』も『おもひでぽろぽろ』も、評価する側はおもにテーマからアプローチして褒めたり貶したりした。文字どおり愚にもつかない揚げ足取りとか身勝手な好みの押しつけに終始するとか意味不明とかそういう「評論」もたくさんあったけれどもそういうのは最初から問題にならない。

 ところが、ガイナックス作品については、テーマからアプローチされることはほとんどなかった。

 『王立宇宙軍』は最初から青年群像として描かれたから、「ただのバカ」のセリフをクライマックスとする青春物語としてテーマからのアプローチの対象になることはあった。人目を引く強姦未遂の場面がその物語に繋がっていたことからもそういうアプローチが行われ、そしてやっぱり褒めたり貶されたりした。これはあくまで私の狭い見聞に基づくもの言いだが、『トップをねらえ!』を高く評価する人ほど『王立宇宙軍』の評価は低いようである。『トップをねらえ!』がアニメ界の権威にとまどいと拒絶をもって迎えられたのに対して、『王立宇宙軍』は概してあたたかく迎えられたということも、権威に「反抗」することがかっこいいと感じる感性には受け入れがたいものがあったのだろう。ま、「反抗」するということばが、悪口をあとに残して逃げ去ることを意味するというのなら、それはそれでかまわないと思うけれども。

 『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』となるとテーマを問題にされることはもっと少なくなった。ガイナックス作品にテーマからアプローチするのはむだだということがアニメ「評論」界の常識となった。

 ところが、作品を「虚心」に眺めるとしよう――もちろんそんな「虚心」はありえないということをガイナックス作品はしつこくこちらに突きつけてくるのだけれど、あえてそれに反抗して「虚心」に眺めるとしよう。作品はテーマによって秩序づけられた物語によって隅々まで統制されており、観客は描写から物語を解き、物語からテーマを発見するという虚構をあえて採用してみるとしよう。そして、作品は単独で観客に向き合い、観客の社会に向かう関心を喚起するものだとあえて考えてみよう。

 そうすると、意外なことに、テーマからアプローチすることによって評価することに十分に耐えうる作品がガイナックス作品のなかには存在することがあきらかになる。

 『王立宇宙軍』はたしかに青年群像として描かれている。しかし、宇宙軍士官の青年たちがただ青臭くてがむしゃらでひたむきでかっこわるいというところから、それを作ったガイナックス自身に話を持っていかずに、カイデン将軍が語る歴史と文明の「終わらないゲーム」の話に結びつければどうなるだろうか。ルソーの森には帰れない文明の物語をそこから読み取ることはそんなにむずかしくないと思う。そして、たとえば、その文明を象徴する「火」という要素が巧みに作品のなかに織りこまれていることに気づくと思う。

 作者である岡田斗司夫自身が「おたく」作品としてさかんに喧伝する『トップをねらえ!』にしてからが、テーマからアプローチする方法をとればまったく無意味な作品になってしまうであろうか?

 たしかに、『王立宇宙軍』から『ふしぎの海のナディア』・『新世紀エヴァンゲリオン』まで貫くテーマとして、人類文明が生き残る資格というようなテーマを抽出することはできるだろう。しかしそれだけだろうか。この作品では主人公のノリコだけが他のだれともちがう時間を生きている。それはひとつはしつこく繰り返される一般相対論ネタのお遊びにすぎない――のだろうか? 『宇宙船』と『アニメージュ』を全部そろえて、部屋に『ヤマト』や『トトロ』のポスターを貼っているノリコが、他の登場人物が経験する時間を超えていつまでも少女のままでいつづける――「イ」の字が裏返しになってしまう遠い未来までも。このことにテーマからアプローチする方法をあてはめてみればいったいどうなるだろうか。見ようによっては、テーマからアプローチしてまたおたく論に回帰してくる、オカエリナサイ――というような話になってしまうかも知れないが。

 『ふしぎの海のナディア』は原作とちがうとずいぶん叩かれた。しかし、原作とちがうと言えばディズニーの映画化版『海底二万マイル』のほうがよほど原作の雰囲気から遠い。『海底二万里』の名場面がぜんぶ「ガイナ風」にアレンジされてしまっていたというのはなかなかガイナックスらしい――しかし、ヴェルヌが後半生をかけて取り組んだ「復讐」に自分の生の根拠を見出す者たちの姿を『ナディア』は正当に描こうとしていた。逆に、孤島に、ほとんど無一物から文明生活を築くという『神秘の島』の物語は徹底して戯画化された。文明の成否は、最後の段階ではあくまでも神の意思によるけれども、その最終段階まで自力で文明を築ける程度には人類は祝福されているのだ――という信念などだれも信じていない以上、この逆転は当然のことである。

 好悪は別として、この作品はヴェルヌ作品の映像化という作業をかなりの程度まで忠実にやっていると思う。ヴェルヌが問いかけたテーマに答えようという意志をこの作品からは読み取ることができる――もっともガイナックスがどこまでそれを意図したのかはよくわからないけれども。

 以上でガイナックス作品をテーマからアプローチするという方法でも読み解くという試みを提示してみた。

 もちろん、ガイナックス作品をこのように読み解かなければならないということなどない。しかし、同時に、ガイナックス作品を「おたく」的な視点からのみ読み解かなければならないということもないのだ。

 私たちが世界にアプローチする方法や手段というのは自分で思っている以上にかぎられている。社会のなかで、人間が自分の想像力を一定の型にあてはめてしまうのは、個々の人間が持つ可能性が社会に及ぼす破壊的な影響をくいとめるためであり、同時に、社会が持つ可能性が個々の人間に及ぼす破壊的な影響をくいとめるためでもある。その構造に気づかずに、あるいはその構造を知りながら、その型のなかで生きるのであれば、生きることはやさしい。

 しかし、私たちのなかには、同時にその社会の型による制約に抗して、世界にアプローチする方法を獲得したいという強い願望もあるように思われる。

 ガイナックス作品をその願望を解放するようにいざなうものとして見るのか、それとも社会が課した型を型として再生産する稚気にあふれたお遊び集団の作品として見るのか――。

 それは、見る者自身の選択にかかっているのではないだろうか。





(1997/07)










WWFNo.17のページへ戻る