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§押井論によせて 3




へーげる奥田




3.三つの方法



 「テツガク的」というマクラコトバを、押井守作品の評として何度か目にした。確かに、押井守作品において哲学的思索を喚起するようなイメージは多いし、なにがしかの「高度な思索」を感じることも少なくない。だがいままで、そういった要素はあまり的確には論じられてこなかった。

 制作側の方法は日々進歩している。10年前の手法よりも進歩した方法で作品を創る制作者は多いが、相応の手法によって作品を「観る」といった鑑賞者はやや少ないのかもしれない。この作品は気に入ったとか気に入らなかったとか、そういうことを印象論的に述べるのではなく、押井守作品の何がどのように哲学なのか、そこにどのような世界観が潜むのか、作品中に立てられた真理要求とは何なのか、誰かもう少し語ってくれはすまいか。そんな欲求から、「押井論」を書いたのは1987年だった。しかしこのときは、あくまでWWFの基本的方法を実践し、関連する知の体系を提示するにとどめ、鑑賞の主体である読者に判断をまかせる形式をとった。

 そしたらどうも誰も判断してくれなかったらしい。

 そういう訳なので、とりあえず筆者の描いた押井守体系を一度きちんと総括しておきたいと考えてこの文章を書く。

 ひとくちに押井守作品といっても、その地平は広い。切り口や意味、方法等の位相は広範な分野にまたがり、またその思惟は深い。近年押井監督が多く作品に含み入れる虚構論や状況意味論といった内容もまた重要なテーマであるし、『御先祖様万々歳!』などに顕著であった構造主義的な方法も決して無視することはできない。ミシェル・フーコーが『言葉と物』で提示したベラスケスの絵画と論理的に等価の構造をもつ『パトレイバー劇場版1』の解明なども興味あるテーマだ。

 「押井論」の方法は、押井守体系に三つの方向から言及しようとした。ひとつは、『うる星やつら』TVシリーズから『天使のたまご』等を生んだ、いわば「現象学の時代」とも言える時期の作品群に内在する哲学的部分について、『ビューティフル・ドリーマー』に対するハイデッガー的解釈を中心に行った。

 第二に、押井守作品を根源的に規定する「動機」を抽出し、「驚異」と構造、「懐疑」と意味、「単独者意識」と実存、そして「終末感」と時間の哲学といった諸問題にそれぞれふれた。具体的には、レヴィ=ストロースとリクールにおける「トーテム」と「ケリグマ」の関係を、押井守作品の「犬系」と「鳥系」の関係に投射して論じ、またさまざまな文化に内在する「終末」の思考習慣について述べた。

 そして最後に、ミシェル・フーコーのエピステーメーの問題から、押井守作品にしばしば登場する論理のふしぎな交錯や、近代的知の根本に迫る問題意識について論究した。

 ことわっておくが、これは「押井守が○○という先人の影響をうけてこういう表現をとった」というたぐいの話ではない。あくまでも押井守作品という独立した知的営為を、他の思索者のやはり独立した世界認識と対照し明確化しようという試みであった。

 今回はそのうち、第一部について述べることとする。

 『ビューティフル・ドリーマー』という作品でまず問題とされるのは「時間」である。鑑賞者がまず異変に気づくのは、時間のループによる奇妙な感覚であろう。鑑賞者はここから少しずつ、奇妙な異世界に導かれる。しかしその世界の描写は、他に多く類をみるような単なる異化効果を狙った演出とは一線を画す。それは、押井守作品がきわめて根源的な世界とひととの関係論に深くかかわっていることに由来する。その構造を追ってみたい。

 この作品において、「世界の描写」ないしは「世界の創出」に大きな努力が払われている(これは押井守作品全体に対して言えることだが)。ふつう個別的・眼前的状況の総体として意識されている「通俗的な世界」を、いったん解体して、あらたに全体化された「世界」を創出してゆく。この手法は『天使のたまご』にも生かされているが、その際通俗的世界を排去する舞台となるのは「夜」であり、鑑賞者の「気分」にはたらきかけ、世界を世界論的な意味づけのもとに創出するための媒介となる気分は、「不安」であろう。「夜」を舞台にした特異な世界の創出、物語論的還元とでも呼ぶべきであろうその方法は、一種の現象学的方法とすら言えるのかもしれない。

 この作品に描かれる「世界」は、その構造の点においてもハイデッガーの方法に通底する。すなわち、ここにおいて「世界」は通俗的な意味を解体され、「〜をするために〜が指示される」という構造、すなわち道具の指示性によって構成される認識の地平という要素に還元される訳である。

 意味と目的に対する道具の連関──「指示性」による「適所全体性」によって組み立てられた世界。その世界に「投げ出され」、見回し的な理解と解釈によって「世界−内−存在」としての人間は独自の世界を解釈していく。最も実存論的色彩をもつ作品『とどのつまり』に典型的に提示されるような、こうした世界の捉え方は、まさにハイデッガーが『存在と時間』において提出したものとその根底を同じくするものである。しかしそれは、現代においては単なる理論以上のものとしてわれわれの眼前にあらわれる「見慣れた奇妙な世界観」である。すなわち、さまざまな仮想空間に展開する疑似世界、ことにロールプレイングゲーム等によって体験する世界は、これもまたまさにハイデッガーが提出した世界性による還元を経て形成されたものときわめて近いものだと言えるだろうためである(ハイデッガーの時代にはたぶんビデオやコンピュータなどによって創出される疑似世界空間はまだそれほど一般的に普及していなかった筈である)。

 押井守作品においては、「世界」はこのような構造を根源的にもつものとして演出され、またその隔絶された世界に「投げ込まれ」奔走する登場人物たちを描く手法が何度か使われている。実存の哲学も、映像作品の演出も、結局は現実の「世界と人間」の関係を描く作業という点では一致する。

 さて、ハイデッガーにおいては、「世界−内−存在」としてある人間の存在様態を規定する概念として「時間性」が重要である。世界に「投げ込まれ」た人間は「既在」すなわち過去によってなりたち、同時に未来に対する営為としての「企投」によって行為する。この意味において、時間こそが存在そのものの解釈を可能たらしめる地平として機能するものとなるが、押井守作品においてはこの点はやや希薄と言わざるをえない。しかし先に述べたように、『ビューティフル・ドリーマー』においては「時間」が最初の異化をもたらす契機として機能し、それ自体が迷宮化した物語の基体を構成する重要な装置として語られていることも事実である。また『天使のたまご』においては、化石化した「既在」と水没に瀕するペシミスティックな「未来」との間に停止した「時間」が舞台となり、またやはりこの虚構の根底を支える支柱として作用する。そしてそれが氷解することによって虚構世界全体が崩落するといった、物語構造自体を規定するシステムを請け負っているという見方はそれほど的外れではないだろう。

 さて、こうして世界の世界性をつきつけられた視聴者は、次のステップに導かれる。それは、合理的な連関によって保たれ、その中で享受していた秩序ある世界の構造が、すべり落ちるかのごとく崩壊する段階である。ハイデッガーにおいてそれは、「不安」という「気分」において展開してゆくが、押井守作品においてもまた「不安」は中心的概念として強調される。「不安」とは、「心配」などと異なり、世界の指示性が無効化していくことによる最も根源的な「気分」である。「不安」の概念によって、観る者は「世界そのもの」と対峙せざるを得なくなり、現象としての世界を超越し、存在の基体としての世界論の思考へと導かれていく。このあたりのコンテクストは、『天使のたまご』などの押井守の実存論的作品群には共通している特徴だが、むしろファミコンゲーム『サンサーラナーガ』において最も顕著である。物語としての作品の内部において問われる世界論は、虚構としての世界と、それを観る者をとりまく世界との間に感覚的通路を開く解となる。押井守作品──なかんずくその実存論的作品群の鑑賞による奇妙な感覚の根底には、人間と世界との複雑な関係論に対する深い洞察と解釈とがある。

 『ビューティフル・ドリーマー』はしかし、「原作」という形式をもった作品である。その知的冒険は、『天使のたまご』や『紅い眼鏡』、あるいは『サンサーラナーガ2』のような破局をもって帰結とするわけにはいかない。それは、「帰還」を絶対の前提とする必要があったのである。夢邪鬼の見せる表象の世界。ヤスパースの「限界状況」(苦悩、負い目、闘争、死)を思わせるビジョンを経て、主人公は唐突に「帰還」する。

 ハイデッガーの場合、特にその後期の詩的哲学においては、世界への根源的な問いののちに世界はみずから世界となり、そのなかで人間は「放下(Gelassenheit)」しつつ自己へと帰還する。そしてまた、「語り」こそが重要な契機となる。最も根源的な「語り」は「聴くこと」「沈黙すること」「呼ぶこと」などから成り、人間に自己自身を取り戻させるという。

 『ビューティフル・ドリーマー』においてこの役を担うのは、「白い少女」であろう。作品中幾度か登場し、無言のまま佇むこの少女は、押井守作品全般にしばしばその姿を変えて現れ、最終的にはいわば「救済者」としてふるまう。「少女」のささやきに従った『ビューティフル・ドリーマー』の主人公の「放下」と、「救済者」のあらわれぬ『天使のたまご』におけるそれとの差異は、やはり「呼ぶこと」の有無にあるのだろうか。

 以上、押井守作品とハイデッガーの思想における似かよった構造について、(やや恣意的に)駆け足でざっと語らせていただいた。それはもしかすると、岩肌の凹凸を人の相貌に見誤る謂に等しいものなのかもしれない。だが、深淵なる知性が見、そして描写した「世界」の表象が、互いに何らかの共通項をもっていたとしても不思議ではあるまい。「存在」と「現象」の思索から、押井守の知的冒険は出発した。われわれはその思索から生み出された深いダンジョンの奥で、多くのイベントに出会うだろう。その軌跡をたどる知的興奮もまた、押井守作品の愉しみ方のひとつに数えてよいのではなかろうか。



(1996/12)





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