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論文発表の手段としてのホームページ


清瀬 六朗





「身近になった」インターネット


 インターネットも一部の特殊な人たちのものではなくなり、私たちの生活の日常の領域に入ってきた感がある。自分はパソコンなんて持っていない、コンピューターの使いかたなんてまったく知らない――という人はまだ多いかも知れない。それでも、そうした人も、その人の職場や属している団体がホームページを開いていたり、その人が採取した情報やデータが電子メールでどこかに送られていたりというかたちで間接的にインターネットにかかわっているかも知れない。

 にもかかわらず、インターネットについて報道で流されるイメージには、いまでもなお「見知らぬ遠い国」について語るようなニュアンスがついて回るような気がする。一方では、よほど条件を揃えないと整えることのできない環境を前提としてようやく可能なことを「インターネットではこんなこともかんたんにできてしまうのですよ」というかたちで紹介し、インターネットはまさに夢の技術のように宣伝されることもある。他方では、猥褻画像や「爆弾の作りかた」の情報などが掲載されているとか、インターネット経由でクレジットカードの番号が知られて銀行のカネを知らないうちに使われていたとか、アメリカではインターネットに依存しきって社会に適応できない学生が何割いるとか、そういう、ありとあらゆる犯罪と反社会性の根源がすなわちインターネットであるというような報道がなされることもある。私がこの文章を書いた1996年の6〜7月ごろには、インターネットがテレビのニュースでとりあげられているのをよく目にした。そのころには、同じニュース番組の同じコーナーで、まえの日にはインターネットのすばらしさが一面的に報道され、一夜明ければ、インターネットの暗黒面がこれまた一方的に報道されるというようなことだってけっして珍しくなかった。

 現在の標準的な――あるいは標準から少し落ちるかも知れない環境でパソコンを使っている私から見れば、インターネットは、そんなにすばらしい技術にも見えないかわりに、諸悪の根源というほどの暗黒世界にもまったく見えない。もちろん、ここを舞台に犯罪が行われればやっかいなことになろうというぐらいは容易に想像がつく。また、環境さえ整えばそうとうにすごいことができるだろうということも理解できる。だが、「ひじょうにすばらしい環境のもとでインターネットにアクセスすれば」とか、「インターネットをできるだけ邪悪に使おうとしたならば」という仮定をはじめから立てて、可能性の極限ばかりを語るという方法でインターネットを理解しようとしても、それにはしょせん限界がある。

 そんなことから、ここでは、その程度のユーザーである自分がインターネットやホームページについて考えていることを書いてみたいと思う。現在の標準的な環境のもとで、特別な技術も持ち合わせず、またべつにインターネットにマニアックなこだわりも持たないユーザーが、インターネットやホームページというメディアについてどう考えているのか――そういうところに立脚することは、可能性の極限を想定して夢や悪夢のような話を繰り返すよりもずっとその理解のために役立つと信じるからである。

 なお、「ホームページ」というのは、ほんらい、そこからいろいろなところに行けるおおもと――つまりhomeになっている「ページ」のことであるらしい。私たちが普通にホームページと言っているのは「Webページ」などと呼ぶのが正確なんだそうだ。だがそのへんは普通の慣行に合わすことにしたい。





論文発表の手段としてのホームページ


 私も、はじめて友人宅でインターネットというものにアクセスするまでは、インターネットに繋ぎさえすれば、即座に画像でも映像でも自由自在に見られるものだと思っていた。繋がってから画像が出てくるまで優に10分はかかったとき、私は「インターネットってけっこう時間のかかるメディアなんだな」と思った。もっとも、その当時のその友人の環境は、パソコン通信(BBS)経由で、いまから思えばあまりよいものではなかった。当時――1996年の年頭――は大手のパソコン通信ネットも十分にインターネットに対応してはいなかったのである。それでよけいにページが表示されるまでイライラしながら待つ時間が長かったのもたしかだ。でも、逆に言うと、そのころにはまだパソコンを持っている友人のほとんどがブラウザを入れているという状況からはほど遠かったのだ。「そのころ」からまだ一年も経ってはいない。また、これだけすぐれたブラウザが普及した段階でも、画像データの多いサイトはよいサイトではないと言われているところを見ると、状況が根本的に変わったわけではなさそうである。

 だが、インターネットというのが「時間のかかるメディア」だというのは、瞬時に世界を結ぶ電子メディアだという思いこみがあるからである。同じ情報をたとえば郵便で取り寄せる手間を考えれば、端末の前で星が流れたり地球が回ったりしているのを眺めている何分間とか十何分間とかが何であろうか。送る側にしても同様である。WWFのシスオペの話によると文章をホームページに載せるにはそれ相応の時間がかかるらしい。けれども、同じ文章をコピーなり輪転機なりで印刷して、封筒を買ってきて、宛名書きして、糊でもって封を張って、そいつを自転車か何かに積んで郵便局まで持っていって、局員が親切だったらいいけど不愛想な局員に「なんだ手間のかかる仕事を持ち込みやがって」という態度で重さを量ってもらったりしたりなんぞする手間と比べれば負担はずっと軽減されているというものだ。

 画像ファイルの転送にもほとんど通信時間を食わないような通信環境が実現されればともかく(それもそう遠い先のことではなかろうけれど)、すくなくとも現状(1996年夏)の標準的なユーザーの通信環境を考えれば、ホームページは論文や資料などのテキスト形式の文書の発信手段として力を発揮すると考えるのが妥当だと思う。ただし「標準的なユーザー」が論文なんか読みたがるかどうかという嗜好の問題はとりあえずカッコに入れるとして――だが。

 そういう考えのもとに(かどうかはよく知らないが)、WWFでは、ホームページを主として論文を読んでいただくための手段として位置づけている。

 インターネットのホームページは元来は学術論文の発信の道具だという話を聞いたことがある。これは、現在のホームページやブラウザの仕様や機能を考えてもうなずけるところである。

 ここからしばらく学術的な業績を発表する手段としての従来の出版の現状と、同じ手段としてホームページが持っている可能性について考えてみたい。学術出版は現在の日本の出版界ではたしかにどちらかというと特殊な分野である。書店でも、小さな書店では、講談社学術文庫やちくま学芸文庫のようなサイズのものでさえ学術書なんか置いていないところが多い。

 そんなものをとりあげるのに何の意味があるのか、とお思いかも知れぬ。だが、学術出版は、出版をめぐる問題点が一点に集まったような面を持っている。それは、出版社の事業である以上、多少の赤字は出てもともかく採算をとらなければならない。学術書を廉価で出すために一般向けの書物や雑誌を値上げすることは、競争の激しい出版界の現実を考えれば不可能だ。一冊で1000円する講談社学術文庫の本を500円で売るために少女漫画雑誌『なかよし』を値上げするというわけにはいかないのである。だが、他方で、学術書には出版物としての質が求められるし、また基準とされる質を満たしている学術書について「売れないから出さない」という態度をとることを許さない面がある。「質の良いものを世に出したい、けれども採算が……」という出版界の苦悩が典型的に表れるのが学術書なのだ。けれどもそれは学術書にかぎったことではない。質の良いものを出さなければならないという要請と、採算をとらなければならないという要請がぶつかりあうのは、映像も含めてすべての出版物について回ることなのである。





学術書出版のきびしい現状


 出版のなかでも学術出版という分野が占める役割は貴重なものがあり、多くの出版社が厳しい条件のなかで学術書の出版をつづけている。その努力には頭が下がるところである。だが、どんなに努力しても、当面は突破困難な難関というものを学術出版は抱えているのも事実だ。

 学術出版が抱える最大の問題は、それが少部数しか捌けないということであろう。

 学術出版をその本領とする東京大学出版会は、1994年、『知の技法』を大ヒットさせて大儲けしたというような話がある。が、これは例外中の例外である。もともと『知の技法』は学生数が千人以上もいる学部の共通テキストとして作られたもので、それだけでも売れる素地はあったのだ。同じように、たまたま何かの事情でその研究者が世間的注目を集めたばあい、その著者が学術書として出版したものが、学術書としてはけた違いに多く売れるというようなこともときどき起こる。もう10年以上も前の話になるが、やはり東大出版会の例で、京極純一元教授の『日本の政治』がやはり学術書の枠を超えて広く読まれたという。だが、こうしたことは、学術書のなかではひじょうに稀な例外にすぎない。『知の技法』がいくら売れても、東大出版会のほかの学術書がそれにつられて爆発的に売れるというようなことはないのである。

 少部数しか捌けないということは何を意味するか。もちろん価格の高騰である。同人誌でもそうだが、少部数しか印刷しないばあいには一冊あたりの単価は高くなる。だからといって多部数を刷って単価を下げればいいかというとそんなこともない。多部数を印刷しても、売れなければそのぶんの費用は回収できないし、さらに、在庫を保管するために費用がかさむ。けっきょくそれは価格を下げることにはつながらないのである。

 価格の高騰は当然ながら「売れない」という結果に結びつく。そうすると、それだけ捌けないわけだから、印刷部数はさらに少なくなり、その結果としてさらに価格が高騰するという悪循環を招くのである。

 学術書を求める人たちがみんなそろって「たとえ十日間パンの耳と水だけで生活することになってもあの本を買う!」というような求道者的精神の持ち主であればまだその悪循環にも歯止めは利くのだろうけど、貧乏な大学院生はもちろん、やはりそんなに金銭的に豊かなわけではない大学の先生がただってそんな高潔を装っているような余裕はない。

 研究者の世界に身をおく人から間接的に聞いた話であるが、ある大学で、ある新刊書の著者を招いて研究会が開かれた。その著者が自分の新刊書の内容について報告を行い、さて質問やご意見はありませんかという段になったとき、研究会に出席していた先生が最初に出した質問が「あなたは自分の本にこんな高い値段をつけて売ってもいいとでもと思っているのですか?」というものだったという。この種の話は、別の、いまは大学の先生になっている大学時代の友人からもきいたことがあるので、日本の研究者の世界ではそれほどの珍事件ではないようだ。私などは、三千円とか五千円とか一万円とかいう価格でヘーゲルや吉野作造や丸山真男の著作が手に入るのなら安いものだと思っているが、そういう価値観は通用しないようである。日本の研究者の世界では、ヘーゲルや吉野作造や丸山真男の著作に対して、ゲームのプレーヤーが『ドラゴンクエスト6』に対して払うほどの、ガイナックスのファンが『エヴァンゲリオン』のLDに対して払うほどの対価を払う価値すらないと考えている者が思いのほか多いようなのだ。これが私の一方的な誤解であれば幸いである。だが、ともかく、「高い学術書」は、その主要な講読層からもあまり歓迎されていないことは残念ながらまちがいないようだ。

 また、これも学術書が「売れない」ことと関係するのだが、在庫切れが起こりがちだということもその欠点として挙げられる。大学の専門課程で卒業論文をまじめに書いた経験のある人ならば一度や二度は「在庫切れ」で苦い経験をしたことがあるだろう。文献リストに挙がっている、ほんの数年前に出版された本の取り寄せを書店に依頼した。するとしばらく待たされて「品切れ再版未定」という返事が返ってくる。古本屋に行ってみるとあることはあってもなんか高い。それからあちこちの図書館を回ってみても見つからない。とくにそれがある分野で共通に読まれるテキストであったようなばあいには、似たような論文を書いている者が先にそれを借りてしまっていて、なかなか返ってこないというようなことも多い。また、そうした、特定分野を研究する者のあいだで広く読まれているようなテキストが品切れや絶版である例も思いのほか多いのだ。最近では文庫や新書でも「品切れ再版未定」という例が多い。とくに某有名ブランドの文庫・新書に多くて困るのだが、しかしこれは諸般の事情を考えればその老舗の書店を責めることはできない。

 もともと少部数しか印刷しないから、出版してから数年後には在庫がなくなる。在庫がなくなると再版かというと、出版時にも少部数しか売れなかったものを再版しても売れる見込みなどとれるわけがない。絶版にはならなくても、そのままいつまで経っても「品切れ再版未定」という実質上の絶版状態がいつまでもつづくわけだ。

 出版界もそのことは意識していて、たとえばいくつかの会社や生活協同組合の共同企画として復刊リクエストを募ったりもしている。だがそれでそうした需要が完全に満たされているとはとてもいえない。





改訂にともなう問題点


 さらに、品切れになっても再版を出すことがむずかしいという状況は、改訂版の発行を妨げる有力な要因にもなっている。アメリカ合衆国などでは、あくまで日本と比較しての話であるが、比較的、学術書の改訂がなされることが多いと聞いている。ところが日本では学術書を改訂しようという志向はあまり強くない。

 その理由は、たとえばいちどまとまったかたちで出されたテキストはどんなものであれ尊重すべきだという一種の気風にも由来するだろう。たとえば、「戦後民主主義」を代表する日本政治思想史研究者の丸山真男先生などは、自分の著書を改訂するについてはひじょうに慎重であった。それは、丸山先生が古典の研究者であり、テキストをそのときの都合でこまめに改変することがそれを読む者にどれだけ大きな影響を与えるかをよく知っていたからでもあろう。丸山先生の「改訂」に対する姿勢は単行本『忠誠と反逆』のあとがきに見ることができる

 こまめに改訂を重ねることは、一方では、過去の誤った判断を修正し、著作や論文のなかに盛られたデータをアップ-トゥ-デートなものにしていくという点で読者に大きなメリットを与えるものである。過去の著者の誤った判断に基づく断定を信じて読者が世界観を形成する――それは、その過去の判断の誤りを認めている著者としては放置してはならないできごとのはずだ。当時の雰囲気やデータの偏りによってある国の体制を「すばらしい」と断定していたのが、その雰囲気がさめ、幅広いデータが入手できるようになってから、その体制にはひじょうに問題があると考えるようになった。ところが、まだその「すばらしい」と書いたほうの本が出回っていて、それを読んだ学生が「そうか、あの国の体制はそんなにすばらしいのか!」と信じてしまったとすれば、これはその人の本意に反することといわなければならない。社会的に専門家の責任を問われるようなケースに発展することもあろう。いま挙げたのはいわゆる「文系」の例だが、同じようなことは「理系」でも起こりうる。ただし、管見のかぎりでは、「理系」の著作のほうは比較的こまめに改版(あるいは同テーマによる新規全面書き直し)されているように感じる。

 ただし、不用意な改訂には逆にデメリットもありうるということも指摘しておかねばならない。たとえば、過去に誤った判断に基づく誤った断定をし、それが社会的に(研究者の「社会」であっても)強い影響力を持ったとする。それが情勢の変化で不適切だったことがわかったとする。その著者が、改訂に名を借りてその部分を黙って削ってしまい、「自分はそんなことを言った覚えはない」というポーズをとるという、はなはだ不誠実な行為を行う可能性もあるわけである。故意に不誠実をやったのなら著者が一方的に悪いわけで弁護の余地はない。だが、なお、著者は良心に基づいてその改変を行ったとしても、前の版の誤った記述に強い影響を受けた者のほうは「あの先生にだまされた!」という受け取りかたをしてしまうかも知れないのだ。

 このようなことはそれほど頻発するわけではないし、また、そういう可能性があれば、著者は、改版に際して「旧版ではこれこれの記述を行ったが、その後の情勢の変化でそれは不適切であると判断した。ゆえに新版ではこの記述を削る」という断りを入れるという方法で無用のごたごたを回避することができる。またそうするべきである。

 ただ、改訂がもたらす問題点はそれにとどまらない。最初に書かれたときには一貫していた文章の論旨が、細かい論点での修正を繰り返すうちに変化して、一貫性を欠いた文章になってしまう恐れもあるのだ。一貫性を欠いたというまでにならないにしても、たとえば、最初に書いたときには一部の例外的な現象として軽く触れていたにすぎない事項が、その後の情勢の変化で重要なものだということになったばあい、もともと「軽く触れただけ」だった部分の記述が異様に長くなるということは大いにありうる。そうなると文章全体の文脈を把握するのが非常にむずかしくなってしまう。

 改訂は、過去の誤りによる判断や古いデータをそのまま現在の読者に伝えないためにはどんどん行う必要がある。だが、安易な改訂は、悪質な改竄に場を与えることにもなりかねないし、また、文章自体の一貫性を損なったり、文章をわかりにくいものにしたりする可能性もある。学術書を改訂するについてはこういうむずかしい要請があるのだ。

 改訂に伴う問題は、事実上、それが改版のときにまとめて行うしか方法がないというところに由来するものが多いように思われる。もちろん、その制約がなくても悪質な改竄がなされる可能性や文脈が一貫しなくなる可能性もある。だが、もし、この点を改めることができれば、改訂に伴う問題点の影響は大幅に緩和されるだろうと思う。たとえば、以前の判断を変えなければならない事件が突発したとする。著者のもとには「あの本に書いてあるのとちがうじゃないか」という問い合わせや抗議が殺到するとする。そのときすばやく「いやじつは以前の情勢ではこういうことが起こることは予測できなかったのだ。その予測できなかったことについては、こういう当時の情勢ではむりからぬ根拠があったのだ。現在、情勢は抜本的に変わっている。とりあえずこういうふうに考えるべきではなかろうか」という判断を著者が示したとすれば、著者が「あとになって悪質な改竄を行った」と非難されることはなくなるだろう。逆に、その質問や抗議が来たときに何の反応も示さず、あとでこっそり問題の記述を削除するような著者がいたならば、その著者は「悪質な改竄」について弁解の余地がないということになる。そうすると著者には負担をかけるが、学術的な業績をめぐって誤解が生じ紛議が生ずるという不祥な事態が回避できるという点で、学界全体には利益となるはずである。





速報性の問題


 ある学術書が打ち出した業績についていちばん活発に議論されるのは、じつはその本が新刊書として出された直後である。これは論文でも同様だ。新刊書が出れば、それに対する書評があちこちに発表される。ばあいによってはその書評に対する論評がさらに出たり、著者が書評の批判に反論するなどの動きもあるだろう。また、その新刊書に触発された新しい研究というのが出てくることもある。

 本来ならば、著者は、その批評や論争や新たな研究が自分の本をめぐって出てきたことを、その本の読者に広く知らせるべきであろう。そうした批評・論争は一部の雑誌でしか行われない。しかも、ある本をめぐってA誌とB誌でそれぞれ別々に論争が起こっているばあい、A誌の読者はB誌を読まず、B誌の読者はA誌の存在すら知らないというようなことはごく普通にあり得る。その結果として、その批評や論争に特別に関心があってそれを追求しているような少数の人を除いて、ある業績について社会的にどういう反応が社会的にあったのかをトータルに把握することはむずかしくなる。ばあいによっては著者ですら把握しきれないことがある。そうして、その議論が醒め、忘れられ、新研究が積み重ねられることで論争の意義も薄れてきたころになって再版が出て、その部分が改訂されたとしても、その改訂は学界に対してあまり積極的な意義は持たないとものになってしまう可能性が強い。

 このように書くと、論争が整理されてからその成果が反映されるのだからいいではないか、という反論があるかもしれない。論争当初の論点には、多分に誤解に基づく無意味な論点も多々見られる。学術書はジャーナリズムとはちがうのだから、「ホット」なうちに拙速に議論をまとめようとするとかえって当を得ないなるのではないか、といった反論である。

 そういう面もあろう。だが、誤解に基づく無意味な論争は、それが広い範囲の目にさらされ、広い範囲からの指摘が得られたならば、いっそう早くそれが「誤解に基づく無意味な論争」であることが当事者にも理解できるのではなかろうか。広い範囲にさらされることでいっそう無意味な論争が拡大することもあり得る。しかし、それで広い範囲に拡大するようなものは、表面的には無意味であったとしても、なんらかの意味で学界の構造を反映しているわけで、それを表面に浮かび上がられたというだけでも意味があると言わなければなるまい。学術をめぐるさまざまな情報の「速報性」は、ジャーナリスティックな意味での「速報性」とは質的に異なる面を持っていることを理解しておく必要がある。

 また、議論が鎮静化したあとから議論をまとめると、当初の議論のなかに出ていた重要なポイントでありながら、そのあと議論がつづかなかったために他の議論に埋没してしまった論点がそのまま忘れられてしまうことになりがちである。ときおり、「この論点は早くも50年前のこの本で提出されていたが、その後、長い間、問題にされることはなかった」というような記述のある論文に出会うことがある。こういう書きかたは、自分の身のまわりの「最近の同業者」を貶すには有効なレトリックであるため、そうした意図で書いているのではないかと感じられるものも多々ある。そのあいだその論点が問題にされなかったことには十分な理由があるような場合もある。だが、ほんとうに貴重な論点が、その当時、その論点呈示に反応する者がなかったために埋没してしまっていたというようなこともあるかも知れない。そして、そういうことがあったとすれば、やはり学術にとってはその時間は大きな浪費であったと言わざるをえない。そうした浪費はないに越したことはない。

 落ちついて論点を整理してみるということは必要である。だが、それが必要だからといって、そのことは、いま議論になっていることを広い範囲の者に知ってもらうという速報性の必要を否定する根拠にはぜんぜんならないのである。いま起こっているホットな論争、いま提出されている批判・疑問点を、とりあえず広い範囲の研究者に知らせるということは、必要なことなのである。





ホームページの利点


 インターネットのホームページという技術は、これらの難問を解決するのに大いに力を発揮するのではなかろうか?

 まずコストの問題であるが、ホームページを開くのであれば、読者が一人であっても数万人のオーダーであっても、コストにそれほど差はない。読者が少数だからコストがかさむというような事態は生じないのである。また在庫管理に悩む必要もない。現在、WWFのホームページは、プロバイダにホームページ開設に伴う料金を払うことなく開いている。もちろんズルをしているのではない。ここのプロバイダは、3メガバイトまでのホームページの開設は無料という制度になっているのだ。これはべつにこのプロバイダが奇特なのではない。ほかのプロバイダでも似たようなサービスは提供されているはずである。

 3メガバイトというと、仮に単純計算で二バイト文字(漢字・カナなどの「全角」文字)をぎっしりと原稿用紙に書いたとして原稿用紙に4000枚弱になる。普通の研究書ならば数冊が収まる量だ。寡作な人ならばこれまでに発表した全業績が収まってしまうかもしれない。実際にはホームページとして表示するための記号(「タグ」という)が入ったり、タイトルや背景の制御文字が入ったりするのでそれだけ容量を食うが、そのへんは原稿用紙にびっしり文字を書くわけではないのでおあいこだろう。また、画像を入れると3メガバイトぐらいはすぐに消費してしまうが、ここのプロバイダでは、月に200円ぐらいの料金で5メガまで、それ以上でもその程度の安価な料金で増設を認めてくれる。ヘーゲルにドラクエ並みの出費を惜しむような気風のあるところではまさに注目すべき価格である。

 しかも、受け手の側はそのテキストをダウンロードすることはじつにかんたんである。そのためにはプロバイダと契約したりブラウザを買ったり電話代を食ったりとたしかにいろいろたいへんだ。ヘーゲルにドラクエ並みの出費を惜しむ気風のなかでは敬遠されるかもしれない。が、ダウンロードしたテキストを自在に自分のノートに取り込める簡便さなどを考えれば、それぐらいの出費はけっして高くはないはずだ。

 もちろん、ホームページのシスオペが削除しないかぎり文書は残るのだから、作者のほうに絶版にする意思はないのに入手不能などという事態は起こりにくい。もしそれが起こるとすればシステムが持っているディスクの容量が足りなくなったばあいである。そのばあいには、シスオペが、古くなったものやアクセスの少なくなったページから順番に削除していくということも考えられる。だが、本を保管しておく倉庫の費用に比べれば、ディスク増設のコストはずっと小さいはずだから、すくなくとも現在のような「品切れ再版未定」の嵐に悩まされることも少なくなろう。古本屋さんにはちょっと困った事態かも知れないが。

 書いたときと情勢が変わったばあいにただちに本文を修正することはホームページ上でならばきわめて容易だ。読者も、現在の情勢に合わない記述を見つけたら、ただちにブラウザ付属のメーラーでページ作成者宛にメールを送ればいい。人目につかないように文章を改竄するなどということは、ホームページ上ではむずかしいだろう。

 さらに、ホームページのハイパーテキストの利点は、註の使いやすさである。とくに学術書のばあいは、巻末・章末・節末にまとめて註が掲載されることが多い。そうすると、註の引用もとのページに指をはさんで、その巻末なり章末・節末なりのページをよいしょっと開き、その註を読んでから指をはさんでおいたページにまた戻らなければならない。で、もとのページに戻ったときには、そこのページに書いてあったことをなかば忘れているから、その註のついている箇所のちょっと前からまた読まなければならないというようなことになる。まして、註を読むのに気を取られて、参照元のページに指やしおりをはさむのを忘れていたとなると、もとのページを探すところからやり直しということになり、そんなこんなするうちに集中力がむだに消費されて読む気がしなくなるというようなことになる。最近では、和書でもページをわざわざめくらなくてもすむように脚注形式でページの下に註を入れているものも多いが、これは編集段階で作成するのがめんどうなうえに、字数などに制約が出てしまう。たとえば、ホームページのハイパーテキストでは、一行の本文に対して原稿用紙百枚の註をつけることも可能だ。しかし雑誌ではもちろん書籍でもそれは不可能である。さらに、註に註をつけるとか、註どうし相互に参照するとかいうことを紙の書籍でやるとほんとうにわけがわからなくなってしまうが、この点はホームページの参照機能を使えばそれほどわずらわしさは感じずにすむ。

 もっとも、比較の問題で、あんまり頻繁にファイルどうしのあいだをジャンプする必要の多いような設定にすると、いかにインターネットでも読む側に大きなストレスを与えてしまう。そのへんは適切に配慮しなければならない。この問題はWWFのホームページでも試行錯誤の最中である。頻繁にジャンプが設定されているページと、註をつけていないページ・註を本文中にはさんでジャンプでの参照を設定していないページとがあるのはそういう理由からである(このページは後者に属する)。とくに画像情報の多いページのジャンプに関しては要注意だ。しかし、それでもなお、紙の雑誌・書籍にくらべて、註を付することの自由度は大幅に向上したというべきである。

 そして、ホームページでは、自分の業績に触れている書評の出ているページにリンクをかけることはひじょうにかんたんである。自分の業績に触発された新しい研究にもかんたんにリンクを張ることができる。もし自分の業績について論争が起これば、自分の業績を批判しているページにリンクをかけてもいいし、なんなら論争専用のページを設けてもいい。業績発表直後の自分の業績に対する機敏な対応という点では、ホームページは紙のメディアではまねのできない機動性を発揮するはずである。

 ここまで読んで、ガクジュツとかガクジュツ書とかにはぜんぜん興味がないんだけど、という方もいらっしゃるかも知れない(そういう人はここまで読まないかな?)。だが、ここで「学術書」に即して語ってきたことは、趣味の分野であれ、創作活動であれ、かなりの程度まで妥当するのではなかろうか。

 「品切れ再版未定」に悩まされているのはなにも学術誌だけではない。マンガやビデオやファンタジー小説でも品切れは多い。ことに、こうしたものは商業ベースで割り切られ、「価格が上がっても出版しよう」という決断を出版社がなかなかしてくれないだけに、学術書よりも状況が厳しいという一面もありそうである。古今のトンデモ本を蒐集するという趣旨の「と学会」の中枢に古書マニアが参加しているのもけっして偶然ではないのだ。

 情報を安価に発信できるということのメリットは、いまやガクジュツの人びとよりも、インターネットを自分の「趣味」の分野で利用している人たちのほうがよく理解しているだろう。「趣味」のばあい、書評や論争といったものの重要性は下がるだろうけれど、関連情報へのリンクという点では、そのメリットはガクジュツ方面での活用に勝るとも劣らぬはずである。





来年のことを話すと鬼に笑われるが...


 では、今後、ホームページは隆盛の一途をたどり、紙のメディアは衰退していくのだろうか?

 ある面ではそうだろう。学術分野では、ホームページをさしおいて紙のメディアに固執する理由はあまり多くないように思われる。問題があるとすれば、ホームページの利用はインターネットにアクセスする技術とそれを可能とする環境とを必要とするため、まだまだ万人が利用できるわけではないということである。いかにウィンドウズやマッキントッシュの操作性がよくても、それは私たちがそれ以前のコンピューターというもののあり方を知っているからそう思えるのであって、パソコンでインターネットにアクセスするのは扇風機やガスコンロの操作よりはずっと複雑な操作を知っていることを前提としていることを知っておくべきだ。

 コンピューターを用いた数量分析のある草分け研究者は「マッキントッシュはベーシックが動かないので困る」と愚痴を漏らしているという。マッキントッシュの操作性と草創期のベーシックの操作性を比較してそれに反論することは可能だろう。「草分け」の時代には、カードに孔をあけてプログラムを書かなければならなかった。一行に一枚だしカードも薄いものではないからそんなに複雑でないプログラムでもカードの束は相当に厚くなってしまう。その束に手順書を添えてコンピューターの管理者のところまで持っていき、何日後かにその結果をもらいに行くという工程が必要だった。もちろん一箇所でも孔をあけまちがえていれば、それだけ苦労しても出てくる結果は「Error」の一行なのだ。そうなるとまた孔をあけなおして管理者のところに頼みに行かなければならない。ちなみに十年ほどまえにはまだその孔あけ用のカードを大学の購買部で売っていたものである。それにくらべれば現在のパソコンの操作性のよさは相当なもののはずだ。だが、自分が慣れ親しんだやり方で現在のパソコンが動かないから不便だという、そういう感じかたもあるのだということは知っておいたほうがいいだろう。また、高校・専門学校・大学などでのコンピューターをめぐる環境が最近では飛躍的に向上しているとはいえ、自分の都合にあわせて自分の好きなだけネットにアクセスできる学生というのはまだそんなに多くない。こうしたことを考えると、学術発表の手段としての紙のメディアはまだ相当の間は残りそうだ。

 しかし、他面、ホームページという方法での学術上の業績の発表は進んで行くだろうし、また進めるべきである。現在では、ホームページは、開設者が勝手に論文を載せることができるということから学術的な権威を認められないかも知れない。先刻ご承知のことかも知れないが、学術論文が研究者の業績として尊重されるためには、それがただ発表されるだけでは不十分で、きちんとした審査制度を持ったメディアに発表されることが重要なのだ。それはガクモンの閉鎖性を産みがちだという欠点も持っているが、同時に、学術の世界に独断的な議論や論理的能力を欠いた研究者が入ってくるのを防ぐ役割も果たしている。それでもときどき学術の世界が奇妙な気風にとらわれることもあるから万能ではないが、しかし、もしこうした制度がなければ、学術の世界の自浄能力すら失われてしまうであろう。世の「トンデモ」研究者たちはこうした学術の世界の閉鎖性を批判する。だが、閉鎖性を批判するまえに、「トンデモ」研究者が独断的な議論や論理的な飛躍のある議論を行っていないかをまずチェックするべきであろう。それで自ら省みて恥じるところがなければ、そこから学界攻撃の火蓋を切っても遅くはない。

 話が「トンデモ」のほうに行ってしまったが、ともかく学術上の審査システムはそれなりに役に立っているのである。で、ホームページのほうにはそうした権威づけのシステムがないからアカンのではないかという話だが、それはそれで、ページに掲載されたアーティクルの内容を評価するシステムを学界がちゃんと作ればいいだけの話だ。もしかするともうそういうものはできているかも知れないし、また、いまの学界のあり方を前提とするなら早急に作ったほうがいいと思う。

 インターネットでの学術情報の展開という点でリーダーシップを執りうるのは、やはりこれまで学術出版の経験を積み重ねてきた出版社ではないかと私は思っている。この点、当の出版社ではどう考えているのだろうか。……ってこの場でネットで出版社のページを覗けばわかることなのかもしれないが。

 で、またガクジュツの話になっているが、それ以外の分野でも同じなのか、というと、これはそうとも言えないように思う。

 たとえば、マンガなどは、現在の通信速度を前提とすればやっぱり紙のメディアのほうが快適に読めるように思う。最近ではマンガを掲載しているホームページもあるようだが、長編マンガはホームページではちょっと辛いかもしれない。小説などでも同様だ。小説にもいろんな享受のされかたがあるから一概には言えないし、どんな小説かによってもちがうだろうが、多くの小説にとって、読みながらページをめくっていくリズムというのがあんがい重要な気がする。だいいち、なんでもかでもインターネットにしてしまったら、電車のなかで、あるいは寝ころびながらマンガや小説を読む気楽さがなくなってしまうではないか。そりゃ寝床まで端末を引っぱってくれば寝床でもインターネットは見られるけれど、エヴァンゲリオンじゃあるまいし、なんでへその緒みたいなケーブルをそんなところまで引っぱって活動しなければならないのだ。

 新聞や週刊誌・総合雑誌はインターネットで提供されることのメリットは大きいだろう。じっさいネットにページを持っている雑誌も増えてきた。ただ、これも、駅で新聞を買って電車のなかで読むという簡便さは、ネットではなかなか得がたいものである。

 あと、紙メディアをやめたばあいの問題点は、ひとつは校正ではないかという気がする。紙に印刷されたものの誤字には気づきやすいが、ディスプレーでは誤字・脱字は見逃しがちだ。もっともこれはディスプレーの文字を見るのに私たちの目がまだ成熟していないからにすぎないので、それが成熟してくればかえって「紙は校正がしにくい」とか言われるようになるのかもしれない。

 また、文字体系の問題もある。特殊な文字を使わなければならないばあい、紙メディアならば、印刷所によけいなカネは取られるがともかくその文字を作って印刷してくれる。ところが、テキストファイルではこうしたことがむずかしい。WWFホームページの環境ではフランス語の表示すら自在にできないので困っているところである。まして、フランス語より文字飾りの多いベトナム語などと来た日には……。まぁそれは徐々に整備していけばいいわけだけれど、それでも、楔形文字やエトルリア文字や甲骨文字のフォントが整備されるのはずいぶん先のことになりそうである。

 そういう特殊な事例ではなく、WWFにとっても身近な問題に、紙メディアで出版したものをそのままページに載せるということの是非があろうかと思う。というのは、紙メディアで買えば何百円かする論文を、ブラウザからダウンロードすればそれよりはるかに少ない費用で入手することが可能だからだ。しかも、紙メディアであれば、さしあたって要らない論文も同じ冊子に入っている以上は買わなければならないが、ダウンロードならば自分のおめあての分だけ取得すればいい。これは不公平ではないか?

 じつはこの文章が載っている『WWF15』のページは夏コミックマーケットで『WWF15』が発売される以前にすでに開かれていたし、いくつかの論文はホームページで先行して読むことができた。『魔法使いTai!』の批評などは本誌で出した文章の増補版が先にホームページに掲載されていた。印刷屋さんの締切ギリギリまで手を入れて、その印刷屋さんに最短のスケジュールで印刷してもらっても、印刷屋さんに原稿を渡してから改訂した版をホームページに載せるほうがはるかに速い。もし貴方が『WWF15』を購入されていたとしたらあるいはご不快かも知れぬが、こういうタイムラグは生ずるものなのである。

 この問題は扱いのたやすい問題ではない。WWFのばあい、本代として読者各位からいただいているのはほとんど印刷費用であるし、しかもだいたいトントン、もしかすると赤字になるかもしれないというあたりで価格を設定している(じっさい赤字になった号もある)。WWF自体に利益は出ないようになっている。むしろ、版下作成にかかる費用や、機器のメンテナンスを考えれば、持ち出しの部分が多いのではなかろうか。

 べつにWWFが良心的なサークルであることをアピールしたくてこんなことを書いているわけでは……少しはあるかな。しかし、途中に商業的な出版社が介在するばあいには問題は単純ではない。出版社は作者と読者のあいだに介在するたんなる中間搾取機構ではなく、その編集スタッフが作品の内容を決定するのに大きく貢献していることもあるのだ。その出版社の編集スタッフの力を借りて本を作っておきながら、それをバイパスしてその業績を提供することをどう考えるか。

 ちなみに、WWFでも双方向にリンクをかけている岡田斗司夫氏のホームページ「オタク大学」では、岡田氏の著書をそのまま公開している(ただしイラストなどは紙の出版物を買わないとついていない)。


 そのほかにも、テキストファイル形式でダウンロードすることにより業績の盗用が紙メディアより飛躍的に容易になることや、著作権をめぐる問題などいろいろあるものと思うが、そのあたりは私の知識ではあまり論じることのできない分野である。その方面に詳しい方々の論を待つしだいである。


― 終 ―
 
 この文章は、本文中でも触れたとおり、1996年夏ごろの情勢をもとにして書かれたものである。もともと私はインターネットやホームページの技術的な面にはほとんど関心がなく、そうした情報にも疎いから、この時点の「現状」に照らしてすらこの文章の現状認識は遅れていたのかも知れない。まして、今後の展開がどうなるか、文字どおり予断を許さないのがこの分野である。
 そんなわけで、1996年夏に書かれた文章であることを念頭に置いてこの文章を読んでいただければ幸いである。なお、1996年10月、ホームページへの掲載に際して多少の補足・改訂を施してある。この文章自体がホームページに既に載っていることを考慮してホームページのURLなどの情報を削ったほか、なぜ学術書をおもな対象にしているかということについての説明を加えた。小見出しもホームページ掲載にあたって新たにつけた。また、刊行時には現在形で書かれていた丸山真男先生(私の学生時代の先生の先生にあたるので「先生」と呼ばせていただくが)に関する記述をホームページ掲載時に過去形に直さなければならなかったのは残念である。ご冥福をお祈りする。




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