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『押井論』によせて


1 評論とは何か


へーげる奥田



 これまで、押井論と題した一連の文章において、押井守作品をめぐって垣間みられるさまざまな知的地平の部分に触れ、これを論じてきた。ここにあって筆者の目的は一応の達成をみたが、いくつかの気になる点が残されたことも事実であった。

 ひとつには、この研究の総体を理解できた読者が少数だったことがある。たしかに、『押井論』は、従来著された多くの「評論」とは、若干そのスタイルを異にするところがあり、誰にでも広く語りかけるものでない。じつのところ、この文章の執筆を決めた当初は、「押井守」という文字列の登場しない押井論というものをもくろんでいた。結局そうはならなかった理由はわかろうというもの、「読者」にエンリョしたのである。やっぱりやりたいようにやればよかったと、いま若干後悔している。これほど気を遣ってやっているにもかかわらず、どうも世間の連中は読みが浅いらしく、「明示」してあることしか読みとろうとしない。しかしいちばん困るのは、内容を読まないで批判される向きである。どうやら字づらをさっとみて、おおざっぱに「あ、ガクセツが引用して書かれているな」などと思ったが最後もうそれ以上全然読まない。読まないで批判だけはする。内容を読んでいないものだから、その批判の内容は必ず論旨や学的方法論の問題ではなく、形式的なスタイルの問題に終始する。これに応えるにはまず何が書いてあるのかという点から説明せねばならず、またこういう輩にかぎってこちらの言葉などまったく聞く耳をもっていないため、いささかうんざりする。いままでどんな相手でも問われればできる限り応じてきたが、もうあんまりレベルの低い輩は相手にせぬことにした。(念のため付言しておくが、『押井論』には多くの称賛や激励をいただき、筆者は非常に感謝している。これに対して上記のような「批判」をした者は、1994年10月現在2名であり、そのいずれも深い読解に基づく傾聴すべき意見とはお世辞にも言えぬものであった。)

 のちに述べることとなるが、『押井論』はそもそも主観といった要素に依拠しないというポリシーのもとに書き上げたものである。だが、こういったジャンルの文章において完全に主観やドグマを排去することは本質的に不可能なことであるし、また筆者としても、主観自体を完全に排去しつくそうとは考えていない。そこで、筆者の押井守作品に対する主観、目的論的な解釈、個人的なドグマなどは、隠喩や暗示に託すことにした。たとえば第一章『現象の思考』は暗に『ビューティフル・ドリーマー』論になっている。多少なりとも注意深く読解していただければ、筆者の解釈の地平には比較的容易に到達していただけるつもりで書いている。

 このように、『押井論』は、押井守作品をめぐる知の体系を提示していく研究でもあるが、同時にさまざまな隠喩や暗示を含む。しかしそれ以前にこの文章は、「評論」というジャンルそのものに対するひとつの問い直しでもあったのだ。だから、『押井論』を書くにあたっては、その対象とする読者として「押井守」、また「押井作品を論じるであろう論者」を想定していた。そのためこの文中においては、平易な表現などには特に気を配ることなく、若干の専門的な用語も注釈なしで使っている。これはつまり、読者も筆者と同等の「戦闘力」をもった論客たることを期待した、筆者の敬意の現れにほかならない。

 だがこのことが、哲学や学術の素養をもたない読者を疎外することにもつながったことを否定することはできない。むろん、ある程度高度な論を展開するためには、それなりの専門用語や、特殊な予備知識を要求することはやむを得ない。そして、あの『押井論』の目的と史的使命においてその方法は基本的に誤ってはいなかった。当時、押井守がプロ・アマ含めて十分な知性のもとに正当な評価を得ていたとは言いがたいし(その数少ない例外については後に述べる)、そのインフラストラクチャーの構築にはこういった方法が最も合理的だったのである。

 だが現在、十年前のニューアカデミズムブームの時のように、いたずらに難解な現代思想用語を振り回しつつ、知のヒエラルヒーを疑いもなく当然のものとして強調し語る連中が増えている。特定の目的があってそういう方法を取るならまだいいが、いったい何かを相手に伝えたいのかそれとも隠蔽したいのかわからないような文章を見るにつけ、やはり何らかの対応を考えなければとも思うようになった。そこで、かの『押井論』とその周辺について、今度はなるべく平易に、初心者にもわかりやすく、あれこれ語ってみようと思っている。どこまでできるかわからないが、まあ着手してみるとしよう。

 

 「評論」というものは、何の為に書かれるものなのか。人は何を求めて「評論」を欲するのか。筆者のもともとの興味は実のところこの点にあった。

 筆者が『押井論』を執筆した最大の動機は、押井作品に内在する知的領域の透明化……早い話押井作品の中に語られている「ムズカシイ部分」をハッキリさせようというものであった。それまで、押井作品を語る文章といえば、「難解」「シュール」「哲学的」などというわかったようなわからないようなマクラコトバのもとに書かれていた。難解だったらそれを「解」いてやるのがプロの評論家じゃないのか? もしシュールという一語に依存するなら、シュールとはどんなものなのかをきちんと定義すべきではないのか? 哲学的というなら、どこがどのように、どんなジャンルの哲学「的」なのか。──そういったスタンスで押井守を語る者がそろそろ現れてもいいのではないかという欲求が、第一の動機だったのである。

 評論の意義というものを一元的に論じることは難しい。それは、不特定多数の読者に読まれることを前提とした文章である以上、読者の興味を引く要素も当然要求される。だがそれ以上に、それはある「目的」をはたすことを要求される。それは、すでにある作品を対象として記述された「メタ作品」としての機能である。

 およそ人の手によって作られる作品というものは、一定の間鑑賞者の思考や感情をコントロールするという意味において、ある特定の目的のために作成された一種のプログラムソフトだといってよい。鑑賞のために作られた作品(たとえば小説や映画など)にはそれなりの期待される機能があるし、論文や評論にも期待されるべき機能がある。人は無意識のうちに、対象とするソフトウェアに対して、特定の機能を期待して接する。一般に、ギャグマンガに学術的な厳密さをもとめることはよい鑑賞法とは言えそうもないし、世界地図が「面白くない」といって苦情をいうのはお門違いというものである。問題は、要求すべき機能が多義的だったり曖昧だったりするような分野のソフトウェアである。評論などというジャンルの文章は、ソフトウェアとして要求される機能が多義的であるがゆえに、常に葛藤のなかにある。それは、あるときは「書くこと自体のため」に書かれ、またあるときは「語り合うため」に書かれる。それ自体「読まれるため」に書かれた評論はそれ自体が主体であり、本論で筆者が述べんとしているような「読者を再び鑑賞に向かわせるため」に書かれたものとはその主たる目的、機能が異なるのだ。評論に要求される機能はゆえに一定ではない。それは対象とする作品の性格によって、書く者の資質や姿勢によって、いつも異なる。「論じ」られることを必要とせず、評論の論者もまた一人の鑑賞者として接すべき作品もあれば、論の論たる機能をもって、その作者に闘いを挑むことを欲する作品もある。評論を書こうとする者は、対象とする作品がどういった機能の評論を欲しているのかまず判断しなくてはならないだろう。そして押井作品はその後者に属する。

 文章の執筆を云々するにおいて、「作品の経験が見えてこない」といったステレオタイプの意見を目にすることがある。こういった評は、その文章に課せられた「機能」を常に一義的に括ってしまうという誤謬を犯している。読者もまた、その文章がいかなる「機能」を持たされたものなのか、まず判断しなければならない。

 

 筆者が昨今の「評論」に対して感じる疑問はいくつかあるが、そのうち最も重要な点について述べたいと思う。

 作品の鑑賞は純粋に主観的なものであり、個人の内省的な問題であるから、これを客観的に語れという方が無理なのかもしれない。だが、個人的な「感想文」ならまだしも、いやしくも「評論」を名乗る以上、そこには何らかの客観性が、いなせめて客観的たろうとする努力があるべきである。それは、対象作品に何らかの意味で依存した存在である「評論」の書き手の、対象作品の作者に対するせめてもの礼儀であろうとすら筆者は思う。鑑賞する人間の立場や性格に左右され、そればかりか場合によっては同一の論者においてすらときどきの気分によって意見を変える不確かな「感覚批評」を、筆者は信じない。

 押井守の作品に関して何度かパッケージの「解説」を書いている友成純一という人物がいる。よりによってこんな文章をなぜ押井守の作品解説として採用せねばならないのかどうしてもわからないようなものを書いている。筆者が彼に対してそういう感想をいだくひとつの根拠として、この人物が「好き」とか「嫌い」とかいった個人的な感情を基盤にして「解説」ないし「評論」を書いているという点があげられる。

 じつのところ、こういうスタンスで作品を論じる「評論者」は後を絶たない。

 世間によくある広義の「評論」のなかには、対象となる作品についてどう思ったか、おもしろかったかつまらなかったか、自分をおもしろがらせるには何が足りないかなど、「評論の書き手」の個人的な感想を書いたものも多く、ものによっては書き手のストレス解消の手段以外に考えられぬような罵言文集すらあり、そんな「評論」で糞味噌にいわれる作品の作者こそいい面の皮というものである。単行本の巻末や映画ビデオのブックレットなどを見ても、なぜわざわざこれを書かねばならないのかよくわからぬような内容の「解説」、そう思うのはお前だけじゃないのかというような「評論」などが大抵載っている。

 これらはいったい何のためのものなのか。

 筆者は評論のたぐいを多く読まない。したがって、筆者の読んだものだけがたまたまそうだったのかもしれない。しかし、基本的な思考態度として、ある芸術作品を論じるということ、また論じた文章を読むということのそれぞれの意味は、常に問い直されつづけるべき問題であろう。押井守が映画『トーキングヘッド』で問うたのは、そういう点だったのかもしれない。

 

 評論の論者がひとりの鑑賞者に戻ってともに遊ぶといったスタンスを許すような「詩的な作品」に対するものは別として、評論に求められるのは最終的には「論としての機能」である。論としての機能よりも、それ自体がエンターテイメントを主目的とするもの、またただ純粋に「語ること」を目的としたものもむろん否定しないし、それはそれで構わぬのだが、それはここで言う「評論」ではなく、『〜を読んで思ったこと』といった表題のもとに語られる「感想文」ではないか。論者の体験を反映させること自体は問題ない。だがここで評論というものの根元的な意味を考えれば、単純な主観・感性至上主義をのみ唱えることは、責任ある態度とは言えないであろう。

 多くの評論の執筆者は、しばしばひとつの誤謬に陥る。それは、自己の主体性への固執が、結果として鑑賞者としての読者の主体性を否定してしまうという事実に拠っている。たしかに人によっては、自分が好きなこの作品を他人はどう見ているのかといった興味で評論を読むこともあろう。しかしそれはあくまでも他律的な作品への接し方であり、自ら挑むべき「鑑賞」を、他者に任せてしまうことにはならないか。極端な物言いをするが、対象作品を自分の眼で観、かつその作品について語った評論を読む読者の立場に立てば、論者の一方的な主観至上主義で書かれた評論というものは、論者の到達した結論の単なる押しつけに陥る危険をもつ。その「主観」がよほど秀逸で、それ自体驚異と畏敬をともなう鑑賞の対象となるような場合をのぞけば、それはいわば自分の赤ん坊の写真を得意げにひけらかす親馬鹿の端迷惑となんら変わらない。

 ここで問題にしたいのは、評論が本来重視するべき「機能」、いまだ見いだされることなく不十分な評価に甘んじている作品の深部を開示させ、その鑑賞の次元を高めんとする機能が、昨今では不当に軽んじられているという点である。その文章の担う機能を見きわめ、機能の優劣をもって評価の基準とすることは、ソフトウェア評価の基本である。

 哲学の世界には、「産婆法」という考え方がある。それは、自分が到達した「真理」を人に伝授するといった態度の否定である。哲学が他の学術と本質的に異なるのは、静態的な真理といった考え方にとどまることなく、追求そのものを目的とする点である。自らが獲得した知識を、到達点としての「真理」として満足したソフィストに対し、ソクラテスはこの皮肉を含んだ弁証法をもって批判した。他者に対して固定化された知識を与えることは「真理」への道にあらず、相手が真理への道を歩みだすことができるように手を貸すことこそ哲学者としての彼がとった方法だった。かの『押井論』もまた、それに通底する方法をとっている。

 筆者のもくろむ評論とは、論者の鑑賞の記録を報告する固定化された文章ではなく、「読者を再び鑑賞に向かわせるため」のもの、これからなされるであろう鑑賞者と作品との邂逅への参与を主たる機能とした評論である。鑑賞者の世界観の変化は、その邂逅においての作品自体を変化させる。幼いとき鑑賞した何らかの作品を、十年ののちに再び鑑賞した場合のことを考えてみよう。その歳月は、幼かったあなたの世界観をさまざまに変化させたはずである。十年後に鑑賞したその作品は、かつて出会った時とは何らかの形で異なった作品になっている筈だ。それは幸運な場合、より深化したものになっていることだろう。その「十年」の効果を読者に施すことができれば、筆者の目的の少なくとも一部は達せられるといってよい。

 いたずらに自己の鑑賞体験に依存した感想文は、結局のところ一読してその用を終える単なる消費財にすぎない。およそコミック・マーケットなどで書かれるものはみな単なる消費財だと言ってしまえばそれまでだが、それゆえに、同人誌の世界が構造としての知的環境を発展させることはいままであまりなかった。こうした状況のままでは、こういった文化がアンダーグラウンドのサブカルチャーの域を脱することはないのかもしれない。

 そう思っていたとき筆者の前に現れたのは、かの登坂氏の『ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD』であった。

 これは1985年、サークル「KSC」刊行の同人誌に掲載された評論だった。そのエキサイティングな筆の運び、独創的な着目点、鋭い論展開で、最初にこれを読んだとき、筆者はまさに「血の温度が一度上がる思い」といったところであった。そしてこれは、当時の押井守解釈にまさに新たなパラダイムを開いたのである。

 この論文は、それ自体読み物としてすぐれた作品である。しかしもしそれだけだったら、現在もなお読まれ続け語られる史的価値を得ることはなかっただろう。それは、作品の鑑賞が、「解釈」という鑑賞者の能動的な営為によって大きく変質するという事実を示した。それは、構造解析による隠喩の解読を主な手法としながら、その方法と成果にのみ依存することなく、常に鑑賞という座へ立ち戻る態度を実践してみせたのである。この論を読んだ者はただその文章を消費するにとどまらず、作品の鑑賞に際して自らの論を紡いだことだろう。それは一種の解釈学の域にまで達する評論であり、鑑賞する知の社会的構造の構築を確実に押し進めた作業であった。こうした作業を、筆者はもくろんでいる。

 最後に付言するが、しばしば耳にする無思考的なお題目に、「書かれたものがすべて」というのがある。そういった発言は「機能」を考えて行うべきだ。鑑賞を第一義に考える作品であれば確かにそのスタンスは正当だが、研究活動やソフトウェアのリリースではそれでは困る。研究成果は常に継続され更新され、時にはその成果について論争を必要とするし、ソフトウェアにはサポートやメンテナンスが不可欠である。こういった立場において、次号から『押井論』についての「解説」を展開していこうと思う。

 

 

(1994/12)



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