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■WWFNo.11 扉のことば




 理性の営みに属するところの認識を取り扱う仕方が、学としての確実な道を歩んでいるかどうかということは、その成果を見れば直ちに判定できる。もしこの取り扱いが、諸般の準備を調えたうえいざ目的に達しそうになって頓挫するとか、あるいは目的に到達するためにたびたび後戻りしてはまた元の道を取らねばならないとか、あるいはまた同じ学問に携わっている人々を共同の目的を追及する仕方について一致させることができないなどという場合には、かかる研究はまだまだ学として確実な道を歩んできたとは到底言い得ないのであって、まだ全く模索にすぎないと言って差し支えない。それだから、できればこういう確実な道を発見するというだけでも、すでに理性に対する功績なのである。たとえそのために、深く考えもせずに立てられた目的の中に前々から含まれていた多くのものが、もう無用であるとして捨て去られねばならないような仕儀になるとしても、やはり功績だと言ってよい。

……そこで本書のような著述では、最初のうちはほとんど避けることのできない不明瞭な点をはっきりさせることや、また全体に対して弁護を試みることなどは、私の著述をよく消化した立派な人達に期待したい。何によらず哲学に関する論文は、個々の部分についてならあら捜しのできるものである。しかし体系の構造が、いわば有機的統一を有するものと見なされるならば、かかる体系的構造はこの場合でも一向に危険に陥る憂いはない。それにしても新しい体系の場合には、これを通観し得る敏活な精神をもつ人達は、実に少ないものである──しかしまた通観しようとする興味をもつ人達は更に少ない、およそ革新はこの人達にとってはまことに苦手だからである。また個々の部分を、全体の関連から無理に引き離して互いに比較対象すれば、どんな著書についても、矛盾らしい個所を指摘することができる、特にそれが自由な談話の様式で書かれている著書ならなおさらである。こういう矛盾は、他人の判断を頼りにしている人達には、本書に関して不利な印象を与えるが、しかしこの著書の全体的主意をよく把握している人ならば、容易に解決できることである。とはいえ、一個の理論がそれ自体だけで確立しているならば、この理論にとって最初はひどく危険なものになりかねなかった作用と反作用とは、時とともに却って理論の表面的な不整合を修正する用をするし、また公平で見識があり、そのうえ真正な意味での通俗性をもつ人達がこの事に当たるとすれば、じきに必要な洗練をすらこの理論に与えるのに役立つのである。



イマヌエル・カント『純粋理性批判』第二序文より




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