WWFNo.10のページへ戻る

■WWFNo.10 扉のことば






 どこかで明言しておかねばと考えていたのは、私は、こうしたたいへん「現代的」なテーマを、一見してかるい口調で、おひゃらけたふうにとりあげているので、皆さんはそれが風俗評論とか現代を切るといったものだとお考えかもしれません。しかし私にとって、これは、「世界と人間」という、きわめて昔からの哲学の究極の命題の、現代というシチュエーションにそった敷衍でしかないということです。いまの時代が「たまたま」狂っているから、私たちが病んでいるわけではないのです。人間存在、その意識そのものが、世界とまずコミュニケーションをたえずうちたて直さなくては継続できない、本来不自然なものであり、その存在論の根幹としての「ゆがみ」の上にたって、私たちはあるいは「世界内存在」ということをいい、あるいは色即是空をとなえ、あるいは神に自らを委託し、あるいは経済学によってこのゆがみを処理しようというあやまちをおかしたりしてきたのです。この、最も本質的な根源的な命題にたえず止揚されてゆかないような考察や思惟や評論はすべて重大たりえないし、基本的には時間の無駄にすぎません。口はばったいようですが、私としては、プラトン以来、ショーペンハウアーや、キルケゴールや、カミュらの思惟の流れのはてに、コリン・ウィルソンが「アウトサイダー」という語をもちいてその時代と普遍とを結びつけ、彼自身の思惟とした、それと同じように、二十世紀末を生きる存在として、ロマンとか、ベストセラー、フラッシュマンといった契機によってさいごには「世界と人間」についてのみ語っているのである、とはっきり申し上げておきます。平易で大衆的なものを契機とするのこそ、私が「この時代」に存在していることのゆえんであって、私の命題自体は現代的でも、表面的でも、平易でもありえません。どうか、対象にただちに目をそらされることなく私の考察をたどって頂きたい。それに、その対象とても、平易で大衆的、子供向で低俗などというものは本当はただの一つも人間の営為には存在しえないのです。「下らない」アニメやマンガはそれを作る人間の営為と精神をのぞきこむとき、阿片の夢とそれを必要とする人間精神の深部を明らかにし、のぞきやポルノや倒錯はもっと端的に人間の「精神の中の未知の暗黒大陸」を明らかにするでしょう。こののち、現代とその風俗はますます人に、表面的であることを強い、人びとは、意識してそのように考察という刃をもちつづけぬ限り、ますます「下らない」もの「どうでもいい」現象、うんざりさせられる人びとの表面をしか、ものを考察する材料として与えられなくなってゆきます。その中で、一人でも多くの人が、本質を見る目を保持すること、それだけが辛うじて私たちを全員病んで滅びてゆくことから救うかもしれないのです。



中島 梓『わが心のフラッシュマン』あとがきより





WWFNo.10のページへ戻る