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1985

ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD

登坂正男

§一般的序

 

 表現芸術においては、作者は演繹的に作品を構築していく。しかし鑑賞者にとっては、与えられるのは既に完成した作品のみである。よって鑑賞者にとっては作品は帰納的に読む事を要求されるものである。

 作品研究は、作品の鑑賞から始まり作品の鑑賞に終わる。その中間の分析・批評・評価は、作品から汲み取り得る汲み取り出す探索・発掘課程である。厳に戒めねばならないのは、分析。批評・評価までをもって作品研究を終えたとしてそのまま作品を「整理済み」のファイルの中に放り込んでしまう事である。その作品の意味・意図を汲み出し評価を下した後で、更にもう一度、それまでに自分が発見した全てのモチーフとその組み立てを知覚・認識しながら、通しで鑑賞する。それこそが作品に対する礼儀であり、かつまたその作品から味わいうるすべてを充分に味わいつくす、芸術鑑賞の極みに至る態度である。

 

 本論文は映画=「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」にいたく感動を覚えた筆者が遂行した、前記の「分析・批評・評価」の芸術鑑賞の課程段階の成果を記し留めたものである。よって筆者はこの論文を、既に「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」を十度以上観た方々にお読みいただきたい。そして本論文を読み終えられた後、もう一度、何らかの機械を利用して「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」を鑑賞していただくことを望む。

 

1985年5月

登坂 正男

§序

 

 公開されてから早1年以上経過している。なのに、その衝撃は未だにこの胸から、頭から去ろうとしない。「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(以下BDと略)と一体何という作品であったことか。

 公開されてからまだ1年しかたっていない。なのに早くも劇場アニメ史上最上級の秀作という評価が確立してしまった。一体何という作品なのであろう、「BD」は。

 なのに、その評価によって来るところが未だに明確にされていない、というのも遺憾ながら「BD」の著しい特徴である。私見によれば、観た人は皆「BD」に感激している、感激しているのだが何に感激しているのかだか自分にもわからない、といった態である。

 ある人はTV版「うる星」の集大成、押井「うる星」のオン・パレードと言い、ある人はラムとあたるのパラドキシカルな関係の総決算と言う。ある人は夢を見ていたのは誰かにこだわり、またある人はキャラクターの生かし方にのみこだわる。

 何と言っても驚くのは、アニメ誌・同人誌等に載った感想・評論・解題類の内容の多様さである。表現の巧拙・論理の正否も様々だが、同じことを言っている文章がほとんどないという事は注目に値する。鑑賞者一人ひとりがそれぞれ全く違うものをこの作品から受け取り、また読み取ったといっても過言ではない。

 「BD」に関して飛び交い入り乱れる批評群を見て、これは何故かと僕は考え込んだ。そして思い当たったのは、この作品が宇宙論を展開していた、という事であった。宇宙論といっても、現象としての物理的宇宙を論じているという意味ではない。人間の精神に映じる外界のすべてを:その素材を、構造を、機能を、初源を説明し納得するための包括的「仮説」としての「宇宙論」という事である。

 宇宙論というからには、全てを論じなければならない。従って、当然自分自身をも論じなければならない。宇宙論は必然的に自己言及構造を持った表現となるのである。故にそれは極めて数学的、より正確には数学基礎論的なイディオムを持ち込む/達成することになる。R・デデキントによる無限集合の定義:「ある集合Mに属する真部分集合mの要素がMの要素と一対一対応可能であれば、集合Mは無限集合である」、これは正しく宇宙論の本質をも言い表している。少し説明しよう。例えば自然数の集合Z。1, 2, ・・・n, n+1, n+2・・・と無限に続く。ここで集合{2n}を考える。2, 4, ・・・2n, 2n+2, 2n+4, ・・・である。そしてこの{2n}は明らかに自然数の部分集合である。次のような対応を考えてみよう。:1→2, 2→4, ・・・n→2n, n+1→2n+2, n+2→2n+4, ・・・と言う訳でこの対応は無限に続行できる。しかるに前述の如く{2n}は明らかに自然数の部分集合である。即ち、自然数の集合はその真部分集合と等しい密度(集合の要素の数のこと)を持つ。故に自然数の集合Zは無限集合である。ZとZの部分集合との対応づけは他にも{3n}でも{4n}でも{2n-1}でも、それこそ無限にできるが、それら全てがZと一対一対応可能である。無限集合においては部分と全体が等しい大きさを持つのである。

 この「部分と全体が等しい大きさを持つ」という命題をよく覚えておいてほしい。この命題は以下の議論において更に重要となる。というのも「BD」が、場面によってマテリアルは変わってもその[カタチ]は同じであり、さらにはそのカタチを発展させることによって、全体を超越的に有機性を持たせて構築するという方法論によって作られているからであり、それをこれから論証して行くのであるから。

 ところでその前に。このような数学的概念と芸術表現との結び付きを考えるなら、「BD」の前売りポスターとも考え併せて、誰しもM・C・エッシャーの名を思い起こすだろう。そう、エッシャーこそ正に前述の命題を実践して、宇宙論を絵画で表現した画家であった。単なる”だまし絵”の画家などでは決してない。押井氏も自分のやろうとする事の先駆者に対して、敬意を払う意味であの様なポスターを描かせたのだろう。(この際、高田○美の画才は論外とする)その上での、{BD}中の夜の友引高校校舎内シーンである。エッシャーのパクリによるお遊びは「ルパンIII世/ルパンVSマモー」でもやられていたが、あれはほんとに単なるお遊びだった。だが「BD」では全くその意味が異なる。あのシーンは「BD」という作品全体の象徴の一つとして、極めて有機的に全体と結びついているからだ。それは描くものと描かれるものとの関係構造、また描かれたものの存在のレベルとその真実性とを象徴した表現だったのである。あのシーンを単なるドタバタとしか見取れない者に「BD」を語る資格はない。(もっとも、ただのドタバタシーンとしても充分楽しめるように出来上がっているというのがまた凄まじいことなのだが)

 

§「BD」論

 

 「BD」での構造支配原理は、inter-scene conversion における invariant な意味論の展開である。では「BD」の原モチーフとは何か。それは映画中盤に現れる「亀の背上友引世界」だ。あれは正に”うる星ワールド”全体の象徴でもある。面堂が評していたではないか。「・・・日常生活から不都合を無くすために、この世界は実にいい加減に、ほとんど言語道断といっていいほどデタラメにできている」と。この言葉、「BD」のみならず、原作をも含んだ上での「うる星やつら」全体を評するものでなくて何だというのだ。

 ところで、これまで種々成された「BD」評を読むと、どういう訳かこの「亀の背上友引世界」のモチーフを重要視したものがほとんどない。あっても、単なる観客驚かしの為の冗談程度にしか見られていないようだ。まあ実を言うと僕も最初の頃はそう考えていたのだが、ある日友人の下宿で「BD」のビデオを観ながら交わし始めた、半分冗談のつもりの会話から、実に意外な真相がころがり出てきてしまったのである。その時の僕ら二人の驚愕と臨場感を如実に再現するために、その日の会話を要旨をしぼって以下に概述してみる:

 

 「亀の上に世界が乗ってるというのは、確か古代インドだかエジプトだかの宇宙像だっけか・・・」

 「古代インドの創世神話だよ。確かインドの地方神話の一つで、ちょうど日本神話のオノコロ島みたいに、海から大地を作ろうとしたときにしくじりかけて沈みそうになったのを、神々の中の一人・・・ヴィシュヌ神だったかな、亀に姿を変えて海に飛び込み大地を支えたってことだ」

 「それで大地の下に海亀。アハハ、正しく友引町だな。(この辺りではまだ本気ではない)ところで、どうして古代インドでは亀なんかを持ってきたんだ?」

 「うーん、古代インドに限らず、まあ亀ってのは海と同一視されてたようだね。海からやってくる生き物ってことでさ。竜宮伝説だってそうだし・・・」

 「海=亀、ね。あ、なるほど、そうすると亀の上に陸があるというのは、つまり陸は海に取り囲まれたもの、という観念の象徴になるわけか」

 「そうそう・・・まてよ、海=水でもある訳よ。万物の源は水である、つったのはターレスだっけか?」

 「ヘラクレイトス・・・は、万物は流転する、か。でもまあ似たようなもんだな。水は方円の器に従う。なるほど、世界の素としての水、その水より成る海、その海から突き出た陸ね・・・(急にガク然とする)オイ、ちょっと待てよ。レオパルドが2番目に出てきたシーン、確かプールのなかだったよな?」

 「そう、プール・・・・なに、つまり・・・・」

 「そう、水に囲まれてるってことよ。ということは、あのプールのなかのレオパルド、というモチーフはちょうど亀の背上の友引町と同じ意味になるじゃないか」

 「レオパルド=亀、か。ちょっと観直してみようか?」

[そのシーンをサーチしてみる]

 「わ、ちょっと待て、もう一度戻せ!」

 「どうした・・・・?」

 「レオパルドを映すこのアングル、このズーム・バック!」

 「ウム確かに!」

[再び早送りして、ハリアーのシーンを観る]

 「亀の背友引町が現れるカット、そっくりだ!まったく同じだよ、おい」

 「うん、これは決まりだな。レオパルドは亀と同じ象徴だ。言ってみればこれは前駆モチーフだな。ブラームスの第一交響曲の第1・4楽章の序奏と同じような働きがあるわけだ。おっ、すると頭の方の2年4組のシーンも?」

 「それは間違いない、ほれ、アニメックの84年4月号のBD特集でどっかに書いてあったろ、レオパルドの砲身に振り回されて窓から突き出る温泉マーク、という図式は後の温泉マークの失踪を暗示している、とかって」

 「ふうん、アニメックも割とマトモなことを言うもんだね。しかしさすがのアニメックも、あのプールのレオパルドと亀世界が同じ意味だとは気付かなかったようだな・・・あっ、ちょっと待て!サーチ止めろ!」

 「今度は何だ」

 「温泉マークの下宿!」

 「このカビだらけの部屋かあ?」

 「違う、カビが問題なんじゃなくって、今のカットだ。ほれ、サクラ先生にブン回されて温泉マークが・・・」

 「なるほど、またもや窓から飛び出す。これも前駆モチーフって訳か?」

 「・・・これはコジツケ過ぎかな?レオパルドはないし・・・」

 「いや、そうだ!ああああ、た、大変なことが分かってきたぞ!」

 「何事だ!?」

 「ウソだ、嘘だ、夢でござる、信じられんこんなこと!まさかここまで・・・ここまで押井さんが天才だったとは!」

 「だから何なんだよ」

 「いいか、わかってきたぞ、これはほんとおにトテツもない映画だ。押井さんはキューブリック並みの天才だ。証拠をあげるぞ。まず今の温泉マークの下宿の部屋だが、カビとキノコで一杯だな。カビは何から生まれる?湿り気、つまり水からだ。あの部屋はプールのレオパルド同様、水に包まれているんだ!」

 「む・・・そう言えば、長い時間経過を表すだけなら、ホコリが一面に積もっているという描写でも良い訳だしその方が一般的だよな・・・それをあえてカビとキノコにしたってのはやはり?」

 「そうさ!おまけにこれを観ろ、サクラ先生が温泉マークをブン回すところを!」

 「部屋中をブチ壊して行くな」

 「タタミがこすれ、フスマが外れ、天井の電灯が落ちかかる。この、温泉マークが引きずられた跡のタタミの上の轍、見覚えないか?」

 「わかってきましたよ、言いたいこと。友引町大破壊か、バクによる」

 「正に当たり、決まりだ。しかも、だ。破壊シーンはその二つだけか?」

 「もう二つ。2年4組教室とプールのレオパルド!」

 「そしてそれを破壊させたのは?」

 「どちらもラム」

 「ということはだよ。2年4組教室シーン、温泉マークの下宿部屋しーん、プールのレオパルドシーン、そして亀世界のシークエンスは全部同じ意味を持っているんだ!」

 「わかったぞ!同じ意味どころか構造まで同じだ!いいかい、それぞれのシーンでは必ず誰かしら<<それを初めて観る>>者かいるんだ、そしてそれを観て<<愕く>>。そしてそこでドタバタやっているところへ、<<誰かがやってきてその世界を破壊してしまう>>んだ。今の4つのシーン、プロセスは全部同じだ!」

 「こりゃ途方もない構造主義にして象徴主義の映画だな。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』がかすむほどだぜ」

 「海=水=亀=レオパルド=温泉マークの部屋。うーむ、しかし他人に話して信じてくれるだろうか?」

 「信じるも何も、これだけ歴然たる証拠が目白押し、信じる信じないが問題ではもはやあるまい。こりゃ明らかに意図されたもんだよ!」

 「もちろんそりゃわかってるんだ。けれど、構造主義的象徴主義ってんなら、どこまでその構造が支配してるか。つまり、それぞれのシーンでの役割分担に矛盾はないか、と考えたんだが・・・」

 「役割、か・・・?・・・2年4組シーンとレオパルドのしーーんはOKだな。ドタバタするのはあたるに面堂、破壊者はどっちもラム・・・」

 「しかもラムは常に空からくるしな」

 「だけど、温泉マークの部屋がちょっと・・・」

 「うーん、温泉マークが振り飛ばされるのはよいとして、サクラをラムと見なす・・・というのはちょっとねえ・・・」

 「個々のキャラクターよりも、背負わされた役割の方を主にして考えるべきじゃないかな?ラムと言わず、むしろ世界を識別した者がその世界の在り様に不快の念を抱いてその世界を破壊する、という構造の方を重要視するべきだね」

 「そうか!それでラム抜きのハーレムが気に食わなかったあたるがラッパを吹いて世界を破壊させたのとつながるな!」

 「そうさ、ラッパを吹いて・・・うーん、すると黙示録も絡んでるのかな・・・」

 「これ以上混乱させんでくれー、そうでなくても神話的な原型表現で目一杯詰まってるってのに・・・」

 「原型(アーキタイプ)と言えばな・・・」

 「まだ何かあんのかい」

 「あまりにもありふれた論法なんで控えてきたんだが、よく考えてみたらこの場合あまりにもピッタリ来るんでな」

 「フロイト的解釈だろう」

 「そーそ、いや、ちょっと違うかな。つまりだ、フロイトによれば人間の意識ってものは、より深く広大な無意識の大海に浮かぶ氷山の一角のようなものだ、ってんだろう。海の上に出ている無意識の下に、より巨大な無意識界がある、という・・・」

 「なるほど、キミの言わんとすることは大体見当がつきました。つまりキミはこう言いたいのでしょう・・・」

 「つげ義春はもう止めようぜ!いや、ともかくそれを真に受けるとすればだ、さっきの水=海=世界の素という三重の同一性に更に=無意識というのを加えて四重の同一性を達成できるからね。あ、だけどそうすると三位一体というキャッチフレーズが使えなくなるな」

 「えーんでないの、ハドロンのクォーク模型だってゲル=マンが最初に言った三つ組よりも、チャームまで加えた四つ組の方が正しかったんだし、ハミルトンの四次数だって最初は三つ組の代数を考えようとしてたんだから」

 「素粒子論と数学の話はするなっちゅーの。でもとにかくそういう四重同一性を考えれば、BDの神話的解釈を更に深く掘り下げられるからね。つまりBDの表現モチーフの神話性という段階から、更に神話性の源としてのヒトの一般の無意識界にまで解釈を進められる」

 「うーん、そうするとフロイトよりもユングだな。集合的無意識の海から浮かび上がったのが表意識であり、日常か」

 「そして無意識=夢と、これはちょっと乱暴だが考えてしまえば・・・」

 「む、いや、乱暴とは言えんぞ。大体が夢ってのは、生理心理学的にはREM睡眠時のPGO棘波によって励起される視知覚中枢内での神経活動が視覚心象に誤って翻訳されてしまう現象だからな。その際の翻訳に使われる辞書に当たるのは視知覚神経だし、そいつは無意識界からしか調達できないしな」

 「すると、これはものすごい定立になるな。亀の背に乗った友引町=海から突き出た大地という宇宙像=無意識界から浮かび出ている表意識=夢の上に成立している世界、か」

 「夢の上に成立している世界!おい、そりゃ正に『うる星やつら』全体のことじゃないか!」

 「と言うより、アニメーション、いや映画というメディアそれ自体の構図だよ」

 「更に言えば、表現芸術すべての似姿とさえ言える。いやあ、これは大変なことになったぞ、お前さん」

 「これは既に『うる星やつら』のみの問題ではないな。いやはや、押井さんは途轍もないことをやらかしてくれたな。こりゃ正しく80年代の『2001年』だ」

 「『2010年』は?」

 「ありゃただのスペオペさ。ところで話をまたBDに戻すが、そうすると友引町大破壊の後のシーンというのは一体どういうことになるんだ?」

 「うーん、一番の源になっていた世界が破壊されたんだからなあ・・・親亀コケたらみなコケた・・・」

 「お宅も古いねえ」

 「ところでそのラスト・シークエンスのことだが、あれも結局構造支配から抜け出してなどいないぞ」

 「と言うと?」

 「あたるはあの後、夢邪鬼によっていろんな世界に飛ばされるだろう。で、冬眠カプセルのシーンの次にDNAが来るけど、そこで夢邪鬼が言うだろうが。『今のはだいぶんこたえたようでんな・・・』と。と言うことはですよ、あのDNAランドは最後に出てきたけれど、実は友引町大破壊と第二夜食買い出しシーンとの間にも、また『かけめぐる青春』の前にも、フランケンシュタインあたるの前にも、いちいちDNAランドに戻って夢邪鬼と会話を交わしていたに違いないんだ」

 「うん、それは充分考えられる。映画でよく使う省略法ってやつだな。『2001年』で多用してた」

 「そうそう。ところでこの映画全体も一つの夢だ。ということは、この映画の始まる前にも、あたるはDNAランドで夢邪鬼と会話を交わしていた、ということになりゃしないか」

 「む・・・うむ、そりゃそうだ、何たって夢邪鬼は押井さんそのものなんだからな。でも待てよ、DNAランドまでは良いとして、そこからあたるが現実に戻ってしまうのは・・・?」

 「お前さん、あたるが最後に戻った友引高校、あれが現実だと思うかい?」

 「・・・違うな。あれも夢だ。その証拠に夢邪鬼が出ている。でも・・・いや待て、そうか、こう言いたいんだろう、あたるは確かに現実の、と言うよりいつもの『うる星ワールド』に戻った、だがそのいつもの『うる星ワールド』だって結局は夢の中なんだ、と」

 「正しくその通り。いろんなBD評で言ってるだろう、最後にあたるは現実に戻ってくるんだからあれは夢オチだ、と。あの評が僕にはちゃんちゃらおかしくてね。現実に戻っただって?じゃ何か、あたるが画面から飛び出して僕らのこの現実の中に実体として現れた、とでも言うのか?バカバカしい、そりゃ映画とはどういうものか知らんガキの言い草だよ。ま、見方を変えればBDてのはそういうガキに映画と現実との絶対的な距離、隔絶ってものを教え諭す教育映画だったとも言えないこともないが・・・」

 「そういや、『ドリーマーズ・ノート』でもラストに対する受け取り方が二つに分かれてたな。一つはさびしくて仕方がなかった、今一つは安心した、と・・・」

 「そうそう、さびしいってのは、観ている僕等を置き去りにして友引高校に象徴される『うる星ワールド』は勝手に歩み去ってしまったというところで。また安心したっていうのは、結局『うる星ワールド』でのドタバタはあの日常のなままずっと続いてゆくだろうということを予感させてくれたから、てんだろう。でも、その二つの受け取り方、両立できる訳だろ?」

 「もちろんさ。さもなきゃ大人のアニメファンたあ言えん。あの世界はそれなりに自分自身でずっと続いて行くだろう、だから僕等は安心する。けれどその世界には僕等は決して入り込めないんだ。飛び込んで彼らと一緒に」ずっと楽しくやって行くことはできない、しかもそれはBDを観た後からそうなったと言うんじゃなく、そもそも最初からそんな事できなしなかったんだということを思い知らされた、だからこそさびしい、と」

 「そーだなー。あれ書いた人たち、これまでに似たような経験しなかったのかしらん。『おそ松くん』のサンデー連載が終わった時とか、ブラッドベリの『火星年代記』を読み終えた時とか、『ポーの一族』の第三巻までを読み終えた時とか」

 「それにしても押井さん、凄いことやってくれたなあ。全身全霊を込めて、これは映画だーって宣言してるもんね。ラストのラスト、エンディング・クレジットすら終わった後、お前さん気が付いた?」

 「エンド。マークが出なかったことだろ?」

 「そうさ!『終』とも『完』とも、『了』とも『END』とも『FIN』とも、更には『JUST BIGINNING』とも出なかったなあ」

 「まいったね、まったく。学園祭は正にこれからですよ、さあもう一度御覧なさいって訳だ」

 「併映でなきゃ効いたのにねー」

 「カリ城はシッポの先までアンコが詰まってる、けれどBDはシッポの先にアンコがハミ出してる!」

 「凄いねえ」

 「凄いねえ」

 

 以後、その友人とは「BD」の話が出ると、お互い「凄いねえ」と言い合うことしかできなくなってしまった!

 

 以上の会話録、もちろんある一夜の内に全て交わされた訳ではない。お互いに何度も映画館で、またビデオで「BD」を観返す度に新しい発見をしあい、その度毎に互いの下宿に息せき切って駆け付け、あるいは真夜中に長電話をかけあい、何度も論じあって行く内に徐々に築いていった解釈を、適当に脚色してひとまとめにデッチ上げたものである。

 読まれて是非とも気付いて頂きたいものだが、僕と友人との議論では、もはやこれが「うる星やつら」の世界であるかどうかなどという些細な問題には全く拘泥していない。なによりも、「ビューティフル・ドリーマー」という一本の映画としての完成度を追及していったのだ。それ故、「TV版『うる星』でのラムとあたるの関係の総決算」などという、初期に巷で多くなされた評など、僕らはでんから問題にもしていなかった。そちらからのアプローチでは、せいぜい「ドリーマーズ・ノート」が関の山であろうし、また逆に言えば「ドリーマーズ・ノート」はそちらからのアプローチとしては究極的なものだった、とも言えよう。

 

 

上記の対話については、その時の僕らの興奮を再現すべくやや筆が走り過ぎ、若干混乱の気味があるので、ここでもう一度整理しておこう。

 僕らのアプローチの出発点は、友引町が乗っていたのが何故亀であったのか、また亀でなければならなかったのか、というこだわりであった。と言うのも、2人共にSFファンでもある僕らは、似たようなシチュエイションの物語を「BD」以前に既にいくつか知っていたのだ。【例えばJ・ビクスビィの短編「今日は上天気」、吾妻ひでおの「みだれモコ」最終話『花の超能力』。どちらも超能力を持つ主人公が自分の好みに合うような世界を作るために、自分の住む街なり家なりを、亜空間や宇宙空間に放りだし、外界から孤立させてしまうのだ。また映像的類似あるいは発想のソースと思われるのが、映画「惑星ソラリス」のラストシーンであり、また映画「天国への階段」の中盤のワン・シーンだ。後者では、主人公を天国へ迎え入れるか否かを天上の裁判所で審議しているのだが、その議場をずっとズーム・バックして行くと、その議場は何と銀河系の中心にあることがわかる、というシカケが出てくる】だから、友引町が誰かしらの意志によって、どこかとんでもないところ、おそらくは宇宙空間に孤立して浮遊しているだろうことは面堂ハリアー発進シーンの辺りで大方予想はついた。だがそれが亀の上だったとは。ただ単に友引町だかが丸くくくり抜かれて宇宙空間を浮遊しているというだけなら、単なる観客驚かしの大冗談として大笑いするだけで済むだろう。だがそれが亀の背に乗せられて、ということになると、その宇宙論のあまりの原型的深さに、僕らは大笑いしながらも背筋にかつて感じたことのない程の慄然としたものが走ったことを認めない訳には行かなかった。実際、その日の内にビデオを買った癖に、なお劇場に週参して繰り返し観に行ったのは、そのシーンの衝撃を追体験するため及び他の観客がそのシーンにどんな反応を示すかを観察するためと言ってよい。

 

 実際、なぜ亀だったのか?誰だってすぐに思い出しただろう、小さい頃に子供用の理科図鑑か何かで見た、亀の上に4頭の像が立ち、その上に半球上の大地が乗っているという古代インドの宇宙像を。ナンセンス、と思いながらもなぜか強烈に印象に残っているイメージ。なぜそんなにも強く印象づけられていたのか。そのイメージの突飛さもさることながら、それがどこかしら奇妙に僕らの心の構造の写し絵でもあることを無意識のうちに感じ取ったからではあるまいか。そんなことを件の友人に話すと、まことに好都合なことに彼は大学時代に民族学を専攻しており、宗教学・神話学にも詳しいという得難い人物であった故、おまけに僕の方は一応心理学専攻であったがため(もっとも深層心理学や精神分析などのなぜか心理学以外の所でポピュラーな方面ではなく、実験知覚心理学という分野ではあったが)、互いに挑発しあって、既述のような”発見”と”解釈”を築いて行ったのである。その”発見”とは、次のようにまとめられる:

 

1、この映画は自己言及構造を持っている。

2、そのための方法として、アイソモルフ(isomorph:同似形態)もしくはアイソモチーフ(isomotif:同似動機)が多用されている。

3、原型的モチーフとして深層心理学的宇宙論が採用されている。

4、この映画の真のテーマは「映画とは何か」ということである。

5、『うる星やつら』のキャラクター自体は単なるマテリアルに過ぎない。だがその利用法があまりにも見事な為、上記1〜4に気付かずとも楽しめるようにできあがっている(実はこれこそが一番凄いことなのかもしれない)。

 

 つまりは「BD」は「うる星やつら」宇宙論なのである。なぜ「うる星やつら」論と言わずに、「宇宙論」などと御大層によぶか。それは[序]書いた通り、宇宙論とは『人間の精神に映じる外界の全てを;その素材を、構造を、機能を、初源を説明し納得する為の包括的仮説(虚構)』であるわけだが、「BD」がものの見事にそれを達成しているということは、これまでの論述で既に明白だろう。「BD」のすべての細部は常に全体の反映であり、かつまた全体はすべて細部から照射されているのである。その統括作業の完璧さはまことに恐るべきもので、かつていかなる映画でもアニメでも類を見なかったほどなのだ、もちろん『2001年』でさえも。

 誰だってこれには気が付いたろう、友引町の住人、というよりラムと共に暮らす友引高校の面々及びその周辺の人物達が、連載読み切り漫画及びTVアニメの常識に従って、何年たとうがまったく年を取らないという浦島太郎的状況をそっくりそのまま絵解きとしてしまったのが、あの亀の背上友引世界である、などということは。先に引用した、面堂のセリフを今一度思い出して頂こう;「・・・日常生活から不都合を無くす為に、この世界はほとんど言語道断と言っていい程デタラメに出来ている」この一片のセリフは、正に「BD」を、そしてまたTVシリーズ及び原作まで含めた上での「うる星やつら」全体を標的にした批評そのものではないか。そうして考えてみると、「BD」中のあらゆるセリフも常に「BD」全体に向けての評論となっていることに気付かざるを得まい。宇宙論というだけあって、何と己に対する評論までも内包してしまっているのだ。「BD」の評論がやりにくい道理である。それらのセリフの数々をちょっと順不同に書き並べてみよう。

 

◯「おのれの下らなん夢に人を巻き込むなっ!」

 「ゴメンよ!」

(もちろん第一夜食買い出しシーンである。友引世界が消滅したあと、まずこのシーンに戻る訳は──もはや説明の必要もあるまい)

 

◯「ウチの夢はねえ・・・ダーリンや、テンちゃんや終太郎やメガネさん達と、ずーっとずーっと楽しく暮らして行きたいっちゃ」

(あまりにも有名なセリフ。だがラムのこのセリフに対しての、しのぶの次のフォローは意外と見過ごされている)

 「なによ、それじゃ今とおんなじじゃない!」

(実はここで既に「BD」の表面的テーマは語り尽くされてしまっていたのである!)

 

◯「しっかしこんなんで本当に客来んのかなあ、メガネよぉ」

◯「やっぱ、あたるの言ったように美人喫茶の方が良かったんじゃないかなあ?」

(「BD」という特異な作品に対する観客への反応への憂慮と、それでも断行しおうとする作品への自信を表す、という解釈は果たして読み過ぎと言えるだろうか?)

 

◯「引けーっ!力の限り引けーっ!根性見せてみろーっっ!」

(2回出てくる。そうして引っ張り上げていたのが何かを考えれば・・・説明不要であろう)

 

◯「・・・あれじゃ客の四・五人も入いりゃ、床抜けるぜ」中略

 「何とかせにゃなあ」

 「何とかとはどういう意味だ!あれを搬入するのにどれだけ苦労したか!」

 「好きでした苦労だろが」

(あの驚天動地の52秒ワンカットの諸星家朝食シーンの1コマである。製作スタッフ──殊に押井さん──の自分自身へのボヤキと声援とのないまざりを示し、かつまた次のシーン──レオパルドがプールに映った──へのステップ・ボードでもある。ところでこの全員そろっての朝食シーン、僕にはダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の構図を引き写した、としか思えないのだが・・・。キリストが誰で、ユダが誰か──それは読者の想像におまかせしよう)

 

◯「なまじ客観的な時間やら空間やら考えるさかい、ややこしいことになるんちゃいまっか?帯に短し、待つ身に長し言いますやろがな・・・時間なんちゅうもんはあんた、人間の自分の意識の産物なんや思たらええのや。人間それ自体がエエ加減なもんなんやから、時間がエエ加減なのも当たり前や。キッチリしとったらそれこそ異常でっせ。過去から未来までキチンと行儀よう並んでる時間なんて初めからないのんとちゃいまっか。そう考えたらええんとちゃいまっか、なあお客さん」

(あまりにも有名過ぎる藤岡逐也、いや夢邪鬼の名ゼリフ。夢邪鬼のセリフすべて重要なので──おまけに長いセリフが多いので──選ぶのに苦労するが、このセリフは前半においても殊にも重要である。この世界の、また映画全体の、更には映画という表現メディア全体の時空構造の説明となっているからだ・・・いや、別に押井さんがハイデッガーの徒であるなどと言ってる訳ではない。「時間の源は意識なり」という主張を、実世界でなく、映画の中の時間についてだけ語っているからこそ重要なのだ。「時間は意識、現実は夢」、そんな主張を今さら現実世界に対して為そうとする程押井さんは幼くないし、またそれが現実に対する主張だと受け取る程観客が幼いと押井さんが考えるはずもない・・・いや、どうかな?ともあれ、このセリフがやはり映画全体を対象としての自己言及表現であることは、何度も繰り返される「お客さん」という観客に対する呼び掛けを見ても明白である。なに、あれは単にサクラへの呼び掛けだろうって?これだからガキは・・・)

 

◯「生まれたときから人の夢に暮らし続けて、人の夢をこさえ続けて・・・一つくらい自分の夢があってもいいやないけ!それを何で壊さなならんねん、トホホホ・・・」

(それ以外にどう解釈しろというのだ。コメント不要。押井さん、本当にご苦労様でした、意に沿わぬ原作ものなんぞやらされて・・・)

 

◯「お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ・・・」

(言うまでもなくこの作品中最高の名ゼリフである。ズルイ言い逃れだとかゴマカシだとか評する人もいるが、「うる星やつら」の世界を成立させる最大のキイを何ともあっさりとまとめてしまった、実にシャレた真情告白には違いない)

 

◯「責任・・・とってね」

(この作品中での、数少ないラムの、そして最高の名ゼリフ。これ以上多義的なセリフは他になく、ために実に様々な解釈を呼んだが、大旨次の2つにまとめられよう。1:その次の墜落シーンでの”名前呼び”に直につながる、ラムの「自分を選んでほしい」という願い、及び選んだからには責任をとって一緒にいてほしい・・・という意味で。2:前述のあたるのセリフを是認し、またラム自身もその状態の継続を望み、永遠の新規蒔き直しを、無窮の追いかけっこを選んだことへの責任はとってほしい・・・という意味で。どちらを採るかは受け取り手次第だが、僕自身はこれまで述べてきたような、あまりにも周到・緻密に作られたこの作品全体との整合性をとることを考え、2の方が妥当なのではないかと思う。が、断定は避けたい)

 

──こんな風に名セリフを拾っていくと、まったくいくらでもでてくる。メガネのあの古今無頼の壮絶なソレーション「友引前史序説第三章抜粋」、温泉マークの疑心告白。他にもサクラ、しのぶ、面堂。それぞれに名シーン、名セリフが割り振られ、引用には事欠かないが、かなり長いセリフが多くなってしまうので、名セリフ引用はこれ位にしておこう。

 

◯「あんさん、夢で良かった思うてますやろ。現実でのうて良かったと。夢やからこそやり直しがききまんねん。なんぼでも繰り返せますのや。(中略)あんさんさえあんなムチャ言わなんだら、わて、なんぼでもエエ夢作らせてもらいまっせ」

 多分これこそ押井さんの本心だろう。作る側対見せられる側、そういった対立関係よりは、作る側と見る側の幸福なキャッチボール関係の成立こそ、制作者の理想であろう。

 だが結局あたる(=観客)は、それ以前にもそうだったように、そこには満足できず、脱出していしまう。そして原理的にはあらゆる望みをかなえる集合的無意識の「海」から飛び出てどんどん上昇(あれは決して下降ではあり得ない!)し、『うる星ワールド』の中でも最もベーシックにして最上位の階梯である、「日常」に復帰するのだ。

 だが、『うる星ワールド』の、その「日常」を不変に保つために、『メタうる星ワールド』は、「BD」でそれまで描かれたように、不断に変化しているのだ。押井さんはしかしもはやそれを続行できぬほどに疲れきってしまったのだろう、夢邪鬼の最後のセリフは明らかに引退表明である。

 そこで押井さんは最後の努めを果たしていった訳だ。「BD」という作品全体で『うる星ワールド』の基盤としてこれまで隠されていた『メタうる星ワールド』を描ききることにより、その保持能力を確保・保証してくれたのである。押井さんが引退しても「うる星ワールド」はこれからもずっと存続して行くだろうことは、エンディング(オープニング)クレジットが出終わった後にエンド・マークが出ず、日常の開始を告げる鐘の音が鳴り響くことからも明白だ。

 だが、その鐘の音が──他ならぬ「うる星ワールド」の永続を告げる鐘の音が、なぜあんなにも切なく聞こえるのだろう?

 もう一度、「BD」の重畳モチーフを振り返ってみてほしい。何度も何度も、作り上げられては破壊される世界(2年4組教室、温泉マークの下宿部屋、レオパルド・プール、亀の背上友引町、etc)。そして「こんな世界はいやだ、もっと別な世界がほしい!」と頑是ない子供のように泣き喚いてダダをこねる破壊者たち(ラム、サクラ、あたる──これがほんとのダダイスト、なんちって)、そしてそれに応えて望まれた世界を作ろうと何度も何度も徒労を繰り返す夢邪鬼。僕ら観客は、どちらに心情を同化するにせよ、その在り様」の切なさを感じ取らざるを得ない。

 むなしい願いと徒労、つまりはこれなのである。一体こんなことをモチーフにしたアニメがかつてあったろうか。

 モチーフの大胆さに加えて、表現の独創性。しかも出来上がったものを見ると、その両者は殆ど不可分の一体と化してしまっている。ポール・ヴァレリーによると、技術作品とは「主題と素材と方法と形式が分離不可能なまでに一体化された表現」であるそうだが、「BD」はまさしくその資格を獲得していると言えるだろう。

 

 いささか尻切れトンボの感もあるが、以上で総体としての「BD」の分析と評価の一応の締め括りとしたい。

 ところで、「BD」は全体を概観しても実に見事な出来上がりを見せているのだが、その細部もまたまことに心にくい、創意に富んだ設計が成されている。むしろ「BD」の、何度繰り返して見ても飽きない魅力は、「OY」(「映画「うる星やつら・オンリーユー」の略;まつもと追加)にも、また3作目の「リメンバー・マイ・ラム」(以下「RML」と略す)にもほとんど見られないもので、これは「BD」の特異性のまあ別の証明にもなっている。ここでその違い方を、「RML」と比べることによって示してみよう(なぜ「OY」ではなく「RML」なのかと言えば、意図的にか偶然かわからぬが、「RML」は「BD」と構造的類似が目に付くからである。もっともあくまで表面的に、なのだが・・・)

 「RML」では、ストーリーの発端として「うる星」メンバーが友引メルヘンランドで様々な怪異に」出っ食わす。四人組がガキ時代の自分達と会う、サクラとチェリーはメルヘンランド内に入れず、挙げ句の果てにあたるがカバにされてしまう。同様に、「BD」でもいつものメンバーが様々な怪現象と出会う。温泉マークが毎日同じ一日の繰り返しではないかと気付く、メガネとパーマの乗った電車は元の駅に戻ってしまう、カクガリとチビの乗ったバスも同様、面堂としのぶの乗った車も友引町から出られない、あたるは水たまりからプールへワープし、レオパルドがプールにつかり、しのぶが風鈴に翻弄され、挙げ句の果てが夜の友引校内大ドタバタ、とどのつまりが亀の背友引町の暴露である。

 両作品における怪現象の提示の仕方は一見よく似ている。だが、その表現の切迫力、並びに作品全体との有機性は月スッポンである。なにより、「BD」の方のそれら怪現象は、個々の場面設定の巧妙さと相まって、異常に魅力的なのだ。これは確かに、押井さんがインタビュー等で自ら語っている通り、自分の偏愛する映像モチーフを個々の場面にはめ込んだことによって獲得されたものだ。つまり押井さんの思い入れが最も強く出ている部分とも言える(もっともそれは「BD」の全場面について言えることでもある)。ところが「RML」での怪現象の提示の仕方及びその内容ときたら、単なるパッケージ化された「うる星」プログラムに沿ったモチーフでしかないのだ。「BD」で感じられたような”思い入れの迫力”がないのである。おまけに「RML」では、それらの怪現象はあたるカバ出現への導入にしか過ぎず、後半では全く関係がなくなる。それらは単に使い捨ての場当たり的モチーフに過ぎないのだ。

 もっとも「BD」のモチーフが魅力的なのは押井さんの演出力だけではなく、観客の誰もが感情移入し易い設定だったせいも多分にある。「RML」での設定は初めから明白に非日常的なので、その分どうしても感情移入の対象としては不利になってしまっている。そこら辺は「BD」における押井さんの計算高さ、悪く言えば「ずるさ」なのだが、本人の趣味から出た設定であることはすぐにわかるので嫌味はない。やはり押井さんの演出力の勝利であることに変わりはない。

 さて、触れる機会がないままに最後になってしまったが、是非ともここで言及せねばならぬことがある。既に何度もいろんなところで取り沙汰された、「BD」中の無数の奇怪な不整合である。一見、単なる設定ミスと思われる(事実、そういう批判もあった)のだが、既述してきたようにこの作品の異常に多層的・象徴的構造と大胆にして緻密極まる表現を踏まえた上で見直すと、単なるミスとして片付けてしまってよいものかどうか考え込まざるを得ない。例えば、「友引前史」朗読シーンで、廃墟の友引町を」メガネらの乗るトラックが走って行くシーンの最初のロングのカットでは、トラックの影と廃墟の街並みの影とが逆になっている。これは単なるミスか?本当に設定ミスと言いきれるのか?それとも異なる日の断面をつなぎ合わせたものなのか?あるいは夢の中での自動的な変容を描いたものか?また、これも公開当初から設定ミスだと取り沙汰された、友引高校は3階建てか2階建てか4階建てかという問題。確かにサクラのセリフでは「3階建て」となっているが、僕らの見慣れた友引高校は2階建てのはずだ。だがその時、画面では怪異の発生によって4階建てになっている。しかしまたエンディング・クレジットのちょっと前、ラムの電撃で窓が吹っ飛ぶシーンでは確かに3階建てになっているが、そのすぐ後のクレジット・タイトルのバックに映るロングの友引高校は確かに2階建てに戻っている。もう一度読者の皆さんにお尋ねしたい、これらは本当に単なる不注意による設定ミスなのか?2階建てが4階建てになり、また3階建てになったりするのは、通常の『うる星ワールド』からのずれの度合いを示すバロメーターと見ることは出来ないだろうか?

 もう一つ、これはほとんど気付かれていないことを。バクのペンダント及び尻のマルCマークが、ラストでは明らかにマルEに変えられている。これは何故か?(これはビデオでの確認は不可能。劇場で確認してほしい。劇場でもかろうじて見える程度だが)またそのマルCマークが亀の背友引町大破壊の際に消失したのは?

 

 このように、「BD」にはまだまだ隠された秘密がたくさんある。僕ら観客の「目」が良ければ良いほど、考察を深めれば深めるほど、「BD」は多用な面を見せてくれる。本論で僕が展開してきた観方も、その一つに過ぎない。僕が用いた方法は、言ってみれば因子分析方に準じたもので、作品の中で成された数々の表現、これをraw dataとし、それらを有機的に統括するための統一的な視座を構築したものである。これを誤読と言われるのなら誤読としてもかまわない。しかし誤読も出来ないような単次元構造の作品など、敢えて過激に言えば、現代において見るに値しないであろう。言わんや、アニメという原理的に無限の自由度を持つ表現においてをや!

 「BD」のメタ的解析の切り口として、今回は宇宙論を採り上げた。だが上述の通り切り口はまだいくらでもあるのだ。本論では言及出来なかったが(既にあまりにも枚数制限を超過している)、例えば「主催者」対「客」という切り口。作品中に一体いくつ「主催者」と「客」という関係が出てきたか、数え上げてみてほしい。例えば2年4組の純喫茶「第三帝国」といずれそこに来るであろうと予想される客、学園祭期間中は浜茶屋として営業する購買部の竜之介の親父とその」客としての犬ども、保健室の先生としてのサクラとそこに行列して来る生徒たち、喫茶「ダ・カーポ」の客としての温泉マークとサクラ、電車の乗客としてのメガネとパーマ、バスの乗客としてのチビとカクガリ、キューベル・ワーゲンの乗客としての面堂としのぶ、タクシーの運転手に乗り移った夢邪鬼と客としてのサクラ、諸星家に一夜の客として転がり込んだ一同、前述の廃墟を走るトラックの」乗客としての四人組、廃墟の映画館の観客としての全員(その時観ていたのが廃墟が作られて行く映画「ゴジラ」だったというのはあまりにも暗示的)、浜茶屋「海が好き!」の竜之介の親父と竜之介、牛どん屋「はらたま」のオーナー兼経営者兼コックとしてのサクラとそこに来る客としての全員。そしてそれらのモチーフは全て夢を作る夢邪鬼とその」客としての全キャラとの投影であり、更にもちろん映画を作った側の押井さんと観客である僕らとの関係の多重投影なのである。

 

 本当の最後の最後に、ちょっとした弁明を。本論文を読んでこられた読者の中には次のような不満を持たれた方もいるだろう:

「映画の構造のことばかり書いてあって、中身とドラマのことはちっとも掘り下げてないじゃないか。ラムのあたるへの想い、あたるのラムへの想いを描いた部分はほとんど見過ごしている!」

 いかにもその通り。だが、御理解いただきたい。僕はわざとそうしたのだ。また、ドラマの部分については、これまでにもアニメ雑誌、同人誌等で散々語られてきたので──もっとも私見によればそれでもまだ語り尽くされたとは言えないが──ここで更に採り上げる必要もないとも判断したためである。本論文で真に指摘したかったのは、これまでの「BD」評で、いかに多くの、そしていかに重要なことが語られていなかったか、あまつさえ気付かれてさえいなかったか、ということなのだ。いろんな「BD」評を読んで、なんとも歯痒く思い、ついには憤りさえ感じるに至ったことが、本論文執筆の直接的動機でもあったのである。思えば、現在のアニメ界は非常に幸福なようでいて、その実極めて悲劇的なのだ。制作者側は非常に高い意識で作品しているのに、視聴者側の意識はその制作者側の意図を読み解けないほどに下位のレベルでしかないのだ。一体アニメ・ファンという輩は眼と頭がちゃんとつながっているんだろうか?コミケあたりにゾロゾロ集まってくる彼らの無邪気さは微笑ましいの限りだが、彼らの無知さ加減は目を覆わんばかりだ。

 つい本音の悪態をついてしまったが、そこでせめて本論文の読者にお願いせずにいられない。「BD」を御覧になった方々の中で、最も多かった観客層は恐らく中学・高校辺りの諸君だろう。つまらなかった人、おもしろかった人、いろいろいられることだろう。だがどちらだったにせよ、是非約束してほしい。十年後、もう一度劇場で(あくまでビデオではなく)「BD」を観てほしい。「BD」は間違いなく10年後でも名画座で掛かっているに違いない作品である(まあ、逆に十年後に名画座でさえ掛かっていないようだったら、結局その程度の作品だったと考えてもらって構わない)。その時、あなた方は最初に観た時と全く違った、新たな感銘を受けることだろう。もし、受けなかったとしたら・・・残念ながら、あなた方は十年間、全く精神的成長を遂げなかったのだ、という他ない。

 

<了>

 

 

 

 

 

 

 


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