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ある没落者の鏡像

――『究極超人あ〜る』によせて――


ブラックバイソン





 本来このような場所に文章を書く場合、主観的に考えられたものを客観的な価値のあるものへと高めるまでは発表することを手控えるべきであります。そうでなければ、一方通行的意見の押し売りになってしまい、同人誌サークルが本来担うべき成員相互の意見交換による精神修練の場としての機能を損なってしまうことになるでしょう。そう考えた場合、これから私が書く事には主観的表現が多く──それはあたかも個人用にしつらえられた日記や、一人称と二人称とで作られた手紙文のごとく──発表文としては失格かもしれません。しかしここに限って言えば、その内容の生々しさから言っても、私がその受け手として想定する人々(実は私自身をも含んでいるのであります)が共通して現在置かれている状況から言っても、そのような表現方法がそれなりの説得力を持ち得ると判断した次第であります。

 さて、前置きが長くなりましたが本題に入りましょう。「究極超人あ〜る」と言う作品に関して、私たちの世代の同業者の問でよく耳にする意見を概観してみますと、「哀しさ」「懐かしさ」「あの頃は良かった」と言ったものに集中しているようです。そしてなぜそのような感慨が持たれるのかと言う点に関しては、およそ次の三つの点に集約されるようです。
(一)この作品のあちらこちらに懐かしの漫画、アニメ、SF、特撮のネタがちりばめられている。

(二)少年誌連載の作品としては珍しく高校文化部と言う素材を扱っており、いまだに高校文化部的空気をひきずっている人間、ことに我々同人誌関係者やマニアの心をおおいに刺激する。

(三)物語に現実と同様の「時間」が与えられている。つまりそこでは「幸福な狂騒」に対して「永遠の継続」が望み侍ない事が暗示されてしまっている。
 これら三つの点のうち、(一)と(二)からは「懐かしさ」と「あの頃はよかった」と言う感情の起源が導き出されます。それでは残る(三)の要素によって、あとの「哀しさ」と言う感情が説明されてしまうかというと、事情はもう少し複雑です。そのあたりを少しこれから突っ込んで見てみましょう。

 思い起こしてみるに、私たちはこれまでにも数多くの愛すべき作品(TV、没画、小説を問わず)に出会い、同じ数だけ世界が閉じるのを経験して来ました。一つ作品の終了というのは、それを愛した当人にとっては何とも切ないものですが、その切なさは新しい愛すべき作品との出会いによって、やがては忘れられてゆきました。然るに私たちは数多くの作品との別れを経験しながらも、結局は幸福な時間の永続を信じる事によって、安心立命を得てきたのかもしれません。

 ところが、この「究極超人あ〜る」と言う作品は、かつて私たちが身をおいた愛すべき狂騒の世界全体を、その世界に終わりがある事をも含めたうえで描いてみせる事によって、知らず知らずのうちに私たちがそのうえに安らってきたところの永続の意識に対して、それを外から捉える視点を作りだしてしまったと言えるのではないでしょうか。そしてこういう自らの境遇を自覚させられてしまったと言う事、これこそが私たちがこの作品によって抱かされる「哀しさ」という感情の起源ではないでしょうか。

 翻って、私たちの現在おかれている状況を概観してみましょう。数年前、多くの人々(これは主にわれわれ昭和三十年代生まれから四十年代生まれにかけての世代が中心でありました。)の間において没画やアニメに対する関心が量高潮に達し、いわゆるアニメ・SFブームと呼ばれる現象を形成しました。そしてこの一連のブームはその影響力、持続力、根の深さから言ってもかなりのものでありました。それがいまや完全に過去のものになり、かつてその渦中に身をおいた多くの人々が夢中になるべき具体的な対象を見失いつつある…と、まあこんなところが現在の私たちを取り巻く状況でありましょう。

 ところで、「ひとつの時代の終焉」とでもいうべきものがその中に身をおいた人の心理に与える影響というのは、例えば「ひとつの作品の終了」とか「高校卒業」のような場合とは全然違うように(少なくとも私にとっては)思えるのであります。後の二者における「終わり」というものは多分に形式としての色合いが濃く、その内容であるところの人々の意識としてはいまだ継続的であったり反芻可能であったりするものです。しかしこれが「ひとつの時代の終焉」といった場合には、これは後の二者をも包括し得る概念であり、さらに形式としては客観的なものを持っていません。「ひとつの時代の終焉」というものは、それを体験した人々の意識にとって「慣れ親しんだ世界が知らず知らずのうちによそよそしくなっていく過程」として表象されるのであります。

 このような時期をむかえた現在、人々はとかくセンチメンタリズムに陥りがちです。そしてこのセンチメンタリズムこそ、さきほど「究極超人あ〜る」から私が導き出した「自らの境過を自覚してしまった事により生じた哀しみの感情」に由来するものと結論されるのであります。

 この、無意識のうちに幸福な狂騒の永続を欲しながらもそれがかなえられない、という人々のおかれている哀しい境遇こそは、本来的に人々のおかれている境遇なのでありますが、狂騒のうちにあっては隠されていたのであります。それが「ひとつの時代の終焉」とともに人々の意識のうちにのぼってきたのであります。同人誌サークル活動に携わる私たちのような人種にとって、そのような境過を糊塗してしまい、無い物ねだりの子供のようにどこかにおもしろい作品はころがってないかときょろきょろし続けるような態度をとる事ほど嫌忌すべきものはありません。やはり私たちは、このような境遇をしっかりと捉え、自覚することによってそれを乗り越えねばなりません。そのような態度をとってこそ、本当の意味での作品を観る目を養う事ができるのであります。作品を観る目の獲得とは、即ち人聞しての精神修練と同義でありましょう。と、まああまり堅っ苦しい事を言っても仕様がありませんが、これからも私たち同人誌サークル活動を続けていく者としては、あまり人間的に見苦しい状態に堕する事なく、現在おかれている厳しい状況を乗り切っていかねばなりません。私たちはそのようにして愛すべき作品世界の価値を高めてゆくべきなのであります。




(1987/07)







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