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Talking Head『鑑賞のための映画制作システム解説』




霧多布 涼




 『トーキング・ヘッド』はまぎれもなく映画史を語る映画として観客の前に出現してきた。そしてその映画史を語る題材として、押井守監督はアニメ映画の末期的制作現場を取り上げた。その内容の面白さたるや比類のないものであるが、その世界の特殊性ゆえに使われる専門用語や完成までの作業行程等、一般観客の中には説明不足を感じる向きも少なからずいたようである。そこでここでは実際の映画の制作行程を順を追って解説し、併せて本編中に使用された用語についても説明を加えようと思う。


 (1)実写映画の場合

 『トーキング・ヘッド』は実写映画作品である。ただ世界としてはアニメ映画を扱っているので両者の行程の違いを知らなければならない。なお、制作前の準備段階については本編中に登場しないので、ここでは省くことにする。

 撮  影 :言うまでもなく俳優の演技をフィルムに収める行為のことであるが、気を付けてほしいのは現在の日本の撮影現場では、画だけでなくセリフ等の音も同時に収録しているのがほとんどだ、ということである。(同時録音、略して同録という) 撮影済のフィルム(ネガ)は現像所へ、録音済の6mmオープンリールテープは録音スタジオへそれぞれ送られる。

 現  像 :送られてきたフィルム(ネガ)は現像されると同時に焼き増しされてラッシュフィルム(ポジ)が出来上がる。この段階でフィルムはネガとポジの2本が存在する。2本は共に編集パートへ送られる。

 リーレコ :意味としてはリレコーディング(Rerecording)=再録音のこと。送られてきた6mmテープから音をシネフィルム(録音媒体。シネテープとも言う。正式名称は Cinematic Recoding Magnetic Film。これがどんな物かを簡単に説明すると、通常のフィルムには感光乳剤が塗られているが、その代わりに磁性体が付着しており録音することができる。色は茶色)にコピーする作業。録音されたシネフィルムは編集パートへおくられる。

 編  集 :ラッシュフィルム(ポジ)とシネフィルムをばらしてシーン順、カット順につないでいく作業。一般に編集というと画をつなぐ作業と思われがちだが、音をつなぐのも編集パートの重要な仕事である。画に合わせて音を切ったり、つないだりするのが可能なのはラッシュとシネが同じサイズだからで、リーレコはこのために必要な行程なのである。完成したラッシュとシネは録音スタジオに持ち込まれる。

 ダビング :正式には Film Doubbing。略してF.Dとも言う。ラッシュを上映しながら、シネフィルムに録音されたセリフ、さらに音楽、効果音等を調整卓でミックスして別のシネフィルムに録音し、音の完成版をつくる作業。出来上がった完成版のシネフィルムは現像所へ送られ、ラッシュフィルムは編集パートへ戻される。

 ネガ編集 :戻されて来たラッシュフィルム(ポジ)を元にして、ネガフィルムをシーン順、カット順に同じようにつないでいく。完成したネガフィルムは現像所へ送られる。

 音ネガ変換:完成版のシネフィルムに録音されている音を波形(モジュレーション)に変換し、その波形を撮影して音ネガを作成する。波形はネガフィルムの端のサウンドトラック部分(2mm弱)に感光しており、したがってフィルムの大部分を占める画の部分には何も写っていない。

{注:この行程については筆者も実際の作業を見たことがないので、ハッキリ言ってよく解らない。ご存じの読者がいたら是非教えていただきたい}

 初  号 :ネガ編集の終わったネガフィルム(画)と完成した音ネガの2本をオプチカル処理で合成し、1本のポジフィルムを焼く。このとき同時に画ネガの各シーン、各カットの色調、明るさを補正して、画の流れを統一するタイミング処理も行われる。こうして出来上がったのが初号で、これを上映してプロデューサー、監督等のOKが出れば、直ちに同じ行程で、各劇場に送られる上映用のプリント(ポジ)が焼かれる。


 (2)アニメーション映画の場合

 アニメ映画と実写映画では、その作業行程に違いがある。ここではその違う部分のみを記すことにする。それ以外の部分については実写映画とほぼ同じと考えて頂いてよい。

 作  画 :読者の皆様もよくご存じの、原画 → 動画 → 彩色 → 仕上という一連の流れで作業が進行する。だがアニメ映画『トーキング・ヘッド』では流れたことなどただの一度もなかった。

 撮  影 :アニメ映画の撮影にはマルチプレーンカメラという特殊なものがつかわれる。これを簡単に説明すると、多層になった透明な平台(ちょうど多機能コピー機の出口に付いている多層の受け皿、これが水平になり四隅に支柱がついたようなもの、と考えればよい)の上に駒撮り専用カメラが下向きに設置されている。各層にセル画がおかれ、真上から撮影するとひとつの画としてフィルムに収まる。

 アフレコ :正式にはAfter Recording。撮影された画に合わせて声優がセリフを喋り、それをシネフィルムに録音する作業。当然ながらアニメだけでなく、実写映画でもアフレコは場合によって行われる。アフレコ当日までに画がすべて完成しているのが理想なのだが、現実にはそんな事はまずあり得ない。となると声優は色の着いていない、原画をそのまま撮影したフィルムに声を当てたり(原画録り)、本編中のScene36 編集室に見られるような、何も写っていない白見のフィルムに声を当てるタイミングを示した棒線だけが入ったものに向かって喋ったり(白見線録り)しなければならないのである。『トーキング・ヘッド』は正に究極で、予告編ですら一枚の画も入っておらず全て「差替え」という事になる。

 ダビング :基本的には実写映画と同じであるが、この時点でもまだ画が完成していない事もある。そうなると完成した音に合わせて画を動かすという、まったく逆の作業行程になってしまう。


 (3)誰のための作品なのか?

 一般観客はこの映画を見てはたしてどこまで理解できたのだろうか?たとえば以下のセリフを聞いてどう感じたのだろうか。

Scene11 制作室
半田原「寝呆けてんじゃねえ! テンバンにブツのっけるのぁ原版前の一回こっきり、ネガ現のみのオール差替えに決まってんだろが! シネからタイミング拾ってシート上で音に絵ェ合せるからアブダボに絵はいらねえ、従ってフィルムもいらねえから編集もいらねえ!」

ここまで来ると、もはや業界人以外にはわかるはずもない。となればこの作品、実は押井監督は同業者向きに作ったのではないだろうか。考えてみれば『トーキング・ヘッド』というタイトルにも一種の含みが感じられる。この作品でヘッドとは文字どおり首のことだが別の意味ではヘッド=責任者、つまり監督のことであり、この作品は監督 押井守 の完全なる意志の反映と考えることもできるのである。


 (4)おわりに

 以下のセリフのやりとりは『トーキング・ヘッド』の中で筆者が最も気に入ったもののひとつである。そこには紛れも無く押井監督の意志が感じられる。

Scene16 監督室
《私》「映画評論家には二種類の人間しかいない」
多美子「アニメが嫌いな評論家とそうでない評論家」
《私》「アニメを見ない評論家と見る評論家だ」

 注) この文章を執筆するに当たり、映画『トーキング・ヘッド』からの引用は、全て「トーキング・ヘッド 絵コンテ集」に基づいて行いました。





(1992/12)




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