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さまよう


清瀬 六朗



 この思考系列すなわち心の説話Mentall Discourseには、ふたつの種類がある、第一は導きがなく、企図がなく、恒常的でないものである。そこには、ある意欲または他の情念がもつ終末と目標のように、それにつづいてくる諸思考を支配し方向づける情念にみちた思考が、ないのであり、そのばあいには、諸思考は、さまようといわれ、夢のなかでのように相互に適合しないようにみえる。
     ――トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』第3章
       (水田洋訳、岩波文庫版(1992年改訳)に拠る)



 ――あれからどれほどの時が過ぎただろう。

 いや、この問いはまちがっているかも知れない。「あれからどれほどの時が過ぎたろう」と私が問うまえに「時」というものがあったのかどうか、それを問わなければならない。「時」は私が問う前からずっと流れており、私がそれを問うたかどうかなど問題にせず、刻々と――そうまさに刻々と流れつづける、そんなものなんだろうか。

 くだらない。

 この「くだらない」というのは自嘲なのか? そうかも知れない。そうではないのかも知れない。自分のふと思ったことが正しいかどうか? 自分の考えようとしたこと、あるいは自分の考え――それを確かめる。それが、くだらないのか。

 なぜくだらないと思うのか。それを確かめようとしても何もわからないに決まっているからか。いやそんなことはない、はじめから確かめても何もわからないに決まっているものを確かめようなんて思うはずがない。

――いや、これはおかしい。

 「はじめから確かめても何もわからないに決まっているものを確かめようなんて思うはずがない」だって? この考えかた自体がいまだ証明されていない前提にもとづいているじゃないか。ということはまちがっているかも知れないということだ。

 この世界は、つねに単純な真実を覆い隠す、じつにさまざまな仕掛けに満ちている。それにうっかりのせられて、その仕掛けを仕掛けた者の望むとおりの結論にたどり着くような愚は避けなければならない。ことに私のような職業の者はその騙される愉悦に満足していてはならないのだ。私の職業――もしかすると「天職」。だが、これほど天性に見放された「天職」ってものがあるだろうか。

 それは、まあ、いまはいい。いま考えている問題はそれではない。

 人間ははじめから不可能とわかっていることをしようと思わないのか?

 何がおもしろくないといって、容易に解決がつく問題ほどおもしろくないものはない。容易に解決のつかない犯罪だからこそ探偵小説の題材にもなるというものだ。だが「おもしろくない」と「くだらない」というのはちがうのだ、たぶん。私がいま「くだらない」と思った問題は、かんたんに解決がつく問題ではなく、まったく逆のものなのだ。

 考えても答えが出ない問題だからこそ考えるのがおもしろい、というような、わかったような口をきくのはやめよう。私は、「あれからどれほどの時が過ぎたろう」と私が問うまえに「時」が流れていたかということを考えるのが「くだらない」と言った。だが、「くだらない」と言いつつ、私はそれを考えようとしていた。もちろん答えには到っていない。それどころかほんの一歩を踏み出したところで「くだらない」とおれは考えるのをやめてしまったのだ。

 どうして私は考えるのを中断したのか? この問いになら答えることができそうだ。時間は有限であり、納期は刻々と迫り、そしてその考えをたどりつづけることにはどれだけの時間を要するかよくわからないからだ。というより、その考えを――「心の説話」をたどりつづけると、その納期に間に合わないことが明白そうだという考えが私の心に浮かんだからである。

 だが、待て――私は問うていたはずだ、私が「時間」のことを考える前に「時間」は流れていたのか、と。この問いは、当然ながら、時間は私が意識しても意識しなくても刻々と流れつづけるという単純な答えを否定するような答えをあらかじめ期待していた。ところが、いまのこの「時間は有限だ」という考えは、こんどは定量的な時間というべつの考えを前提としている。

 これはいったいどういうことだ?

 「時間」がいいかげんなのか、それとも「時間」を意識する私自身がいいかげんだということなのか?

 私が「くだらない」と衝動的に言いたくなった、その衝動は私の口癖なんだろうか。私には出会ったものを片っぱしから「くだらない」と片づけるような口癖はない――と思う。あってほしくない。けれども自分で自分の口癖ってやつが他人にどう聞こえるかまではなかなか気づかないものだ。

 そもそも口癖というのは鳥のさえずりのようなものであり、カラスがカァとかグギャァとか啼くのとおんなじで、おれは「くだらない」と啼く、そんな程度のものにすぎない。それに意味を求めるのはカラスがなぜカァとかグギャァとか啼くのかを穿鑿するに等しい。カラスのカァやグギャァは、カラスの発声器官と私たちの聴覚、聴いた音を自分の口で再現しひいてはそれを書きとめるときの習慣や感覚などといったことを考えればなんとなく飛躍だらけでも筋の通った説明というやつができそうなものだ。おれもそういうふうにして「くだらない」と啼く――あるいは吠えるのだ。

 だいたい人間というやつは脊椎動物であって、そのもとをたどれば三葉虫とか古生代の凶暴動物アノマロカリスとかから逃げまどうだけの弱々しい魚だったのだ。おさかなが水中で息をするために――あるいはプランクトンとかの捕食も含めて生きるために口をぱく、ぱくさせるということ、その口の動きは、人間の幼児がいちどは興味を示すように、かどうかは知らないがおれは子どものころに興味を示したように、唇で泡をはじけさせ「ぱっ」という軽い音を立てる、その口の動きとなんらかわらない。

 同じように私たちには「ことば」がある。

 「ことば」は鳥のさえずりとか――そう、おさかなの口ぱくぱくとかとおんなじものなのだ。

 ――ほんとにそうか?

 そんなことがあり得るのか?

 同じように私たちには「ことば」があるのか?

 「ことば」は鳥のさえずりとか――そう、おさかなの口ぱくぱくとかとなんかちがったもの……なのではないか?

 聖書には「はじめにことばがあった」とかいう一節があったはずだ。この考えによると、つまり、その口をぱくぱくさせることを質料として――「質料」ってのがむずかしければつまり素材として、それにことばという形相が加わったのだ。そんなふうに考えてみてはどうだろう?

 イデア論という考えかたがあったはずだ。世界には真の実在としてイデアというものがある。しかしそれを人間は直接に見て確かめることができない。私たちが見ることができるのはイデアの影、それだけだ。そこには何もないとわかっていても私たちはイデアの影を追い求め、イデアの影の映っている壁面を挿し貫いて世界の真の実在を捉えたつもりになる。

 いやそれはちがうのかも知れない。そこに世界の真の実在などないことを知りながら、私たちはなおイデアの影を追い求め、それを挿し貫こうとして必死に追いすがる――というのがほんとうの話かも知れない。

 ――なぜだ?

 真の実在は、手を伸ばしても届かぬ太陽の向こう側に隠されているというのに。

 質料や形相についてのこんな表現は不正確かも知れぬ。だがじつのところ「哲学者」たちが形相や質料についてどう「正しく」解釈しているのかまで私はかまっていられない。
 「哲学者」たちは、そもそもかの救世主より前の時代の異教徒の古代哲学者のことばを使って聖書のことばを粉飾しているにすぎない。そのことばそのものが発話行為以上のものではない――と海の王国の哲学者は言った。音を出し、その音をさまざまに変化させるのを楽しむ。それが聞き手に理解できないのを見て楽しむ。あるいは理解できるわけもないのにその発音の変化から何かの意味を紡ぎ出そうとする聞き手のようすをみて楽しむ。あるいは聞き手はなんと愚かなのだろうと苛立ち不快になる――ときには不快になってみることをも「哲学者」たちの精神は求めているのかもしれない。ともかく「哲学者」たちの営みはそれだけのための何の意味をもなさないものなのではあるまいか。

 いや、そうだ、発話行為というと、もしかすると神の賜物というのは「発話行為」から意味を見出すこと、見出したいという好奇心というかもっと本来的な探求心にすべての人がすべて動かされずにはいられないといったようなこと――いや意味を見出さずにはいられない劫罰のようなもの、そのことを言っているのではあるまいか。

 話す者が音を変化させる――その音の変化を音の変化する鳴き声の一種として受け取っておけばそれでいいものを、ではなくそれになにか意味があるのではないかと穿鑿してしまう、それが神の賜物であり、同時に劫罰なのであろうか。そうだとすると、おさかなの口ぱくぱくと、私たちのことばというものとは、ちがったものであるようだ。

 神はことばをみずからしゃべることはない。

 神のことばをことばとするのは、神からことばを受け取った――もしかすると神からことばを受け取ったと勝手に思っている――人間の業なのだ。

 ――とこんなふうに考えてはいけないだろうか?

 まあ、いい。

 この「発話行為」ってのは言語学者ソシュールの言ったラングだかパロールだかどっちかの訳語だ。たぶんパロールだったと思う。でもラングだったかも知れない。どっちだっていい、おれにはフランス語はよくわからんし、よくわからん以上、つまりどっちでもいいのだ。が、ともかく、かの国ではこのパロールってことば、「神のことばとしての聖書」とかいう含意があったりするそうだ。

 神――また神か。まあいい。そのうち考えることにしよう。

 ソシュールはともかくかの国の言語学者だ。つまり一バイト文字を常用していることばを国語としている国の言語学者だ。そしてこの一バイト文字というやつは音が変化するたびに一文字という原則で書かれている――かの国の言語も英語ってやつもその原則からはずいぶんはずれているけれども。Enoughと書いた綴りが、iの音と、nの音と、aより口を大きく開いた発音と、fの音で発音されるなどということはちょっと見にはわからない。だいぶ見てもわからない。であるからこそ、実際に発音とずれてしまった文字体系を排除し、発話行為から言語を考えるという方法をソシュールは考えた。

 だが、ソシュールの祖述者があるいは言うかも知れないように、あるいはソシュール自身が考えたかも知れないように、ソシュールは文字という煩瑣で不完全で見苦しいものをみごとに消し去った――というわけではない。ソシュールはむしろ発音を完全に反映することのできる理想的な文字体系があると仮定してその言語学を構想した、と考えるべきである。もうおわかりだろう、と、難事件を解決した探偵のように燕尾服でも着て得意満面で私はソシュールに向かって言わなければならぬかも知れない――いやきたないコートをぞんざいに着て眼鏡で自分の視線を巧みに演出しながら言うほうが似合っているかもしれない。この国の昔の芝居にあるように、見栄を切る、アクションを華々しく差し挟む――そういうことも芝居にはたいせつなのだ。

 ともかく、私が言うべきなのは、ソシュールはかの国の文字を憎み、それを消し去ろうとし、そしてかえってそれに深くとらわれてしまっていた――そのことなのだよ。ソシュールはあるいは目前の不完全な文字体系を消し去ることで真の実在たるイデアを掴んだと思ったのかも知れない。だが、やはり、ソシュールも壁に映った影に向かって銛を投げた、その一人にすぎなかったのだ。

 古代ギリシア語でことばのことをロゴスlogos という。私たちがコンピューターなどに「ログイン」するというときの「ログ」はこのロゴスという語に由来している。

 ともかくこのロゴスというのは一バイト文字の文化圏でできあがった思考だ。発音する、それをなるだけ発音の小さい単位に区切って文字に変換し、それをキーボードから入力する。そうすることで私たちは神と「ロゴス」を共有する――と考えるのはじつは幻想である。

 かの一バイト文字の国々で誤って「エホバ」と呼ばれた神は、たしかにロゴスは与えたけれど――あるいは、何かの巧妙な仕掛けによって私たちの目には神から神と語ることばとしてロゴスが手渡されたように見えるけれど、それはちがう。コンピューターの中には〇と一から成る計算の連鎖があるだけでそこにことばはない。

 神自身にことばはないのだ!

 おっ! びっくりした。

 なんだ、犬ではないか。

 この飼い主と犬はいつからここにいる?

 水平線が見えてしまうかと錯覚しそうなだだっ広い埋め立て地だ。どこかから近づいてきたならその兆候がずっとまえから感じられてよかったはずだ。

 そのような疑問を許す論理は、じつはさっき私が自分からあいまいにしてしまった論理そのものであるからして、そうやって問うこと自体がむだなのかも知れない。

 ――なにをぉ? きさまがぼさっとつっ立ってるからだろうが、気をつけろ!

 と、この憎々しげな飼い主は言うのではなかろうか。

 こいつはいつもそうだ。その体が肥えているのは、「ふてぶてしい」ということばを身体で世間に示すためにちがいない。それにあの黒眼鏡とコート――。

 おれのまねをするんじゃねえ!

 犬はしばらくおれに向かって吠えていた。

 十分に吠えさせておいて、飼い主のふてぶてしい男は、しっ!と犬を叱り、縄を引っぱった。

 飼い主に似てふてぶてしい犬は、最後にひとつ、おれの顔を未練たっぷりに見てから、飼い主に合わせてどこかに行ってしまった。

 ざまあみろ。飼い犬はしょせん飼い犬だ。ご主人様のお許しがなくては自由に何をすることも許されない。

 ご主人様のお許しがなくては自由に何をすることも許されない。

 野良犬はちがう。自由にさまよい、自由な相手に吠えかかり、自由にメシをあさり、そして自由にねぐらを探す。そう、いまのおれのように。

 もし自由――あるいは自由意思ということばに意味があるとすれば、それは飼い犬と野良犬のちがいをはっきりさせるためにあるんじゃなかろうか。

 ――で、野良犬と飼い犬、どこがちがうというんだ?

 野良犬ということばはじつはある前提においてしか成立しない。野良犬がなぜ「野良」ということばを冠されているかというと、つまり普通の犬は野良にいないはずだという前提があるからだ。野良犬はかくしてかつて飼い犬だったという記憶に初めからつきまとわれているのだ。たとえその由緒正しいポチが生まれてこのかた正真正銘の野良だったとしてもそれはあまり関係がない。犬は飼い犬であるべきだ――世界のなかで最初から決まっていることを、由緒正しきポチ一匹でひっくり返すことなどできはしない。

 犬は飼い犬であるべきで、野良犬はただ飼い主を失っただけの飼い犬だとすると、いったい自由意思とはいったい何だ?

 ――おや、どうだ。

 こんな見捨てられた辺鄙な埋め立て地――セイタカアワダチソウが鮮やかな黄色の花をつけていると書きたいところだが、それは夏の話で、いまは枯草が何層にも積み重なって地面に倒れている荒れ野にすぎない。それに、たしかおれが子どものころ――はてそれはいつのことだろうと問うのにはあんまり意味がない――にはこのセイタカアワダチソウという草はもっとときめいていた。鮮やかな黄色の花、そして鮮やかな黄緑がかった緑、地面からまっすぐ天に向かって伸び、そこから垂直に――そう鳥の羽根の軸に羽毛が生えるように茎から垂直に生えたシンプルな葉、同じように茎から垂直に伸びた黄色い花……おれの少年の日のセイタカアワダチソウはまぶしく輝いていた。

 あのセイタカアワダチソウは、だから、いったいどこへ行ってしまったのだ?

 その辺鄙な埋め立て地に、打ち捨てられた下見板張りのアパートが一軒、残っている。

 埋め立て地に打ち捨てられたアパート?

 そんなはずがない。

 埋め立て地というのはこれから造成するためにつくられた土地だ。泥地とさまざまな形さまざまな高低の盛り土がでたらめに点在する。そのあいだのかろうじて整地された道を灰色の埃を撒き上げながら野良犬のようにダンプカーが走り、泥地も盛り土も草や水草に覆われるまえに泥地も盛り土もかたちを変える。そうして知らぬ間に――そう、少年は毎日まいにちそこに遊びに来ていてもぜんぜん気づかず、そして、ある日、自分たちの自由になるはずの遊び場が、お行儀よく光沢をつけられた芝生に覆われ、その上に瓦の釉薬もまぶしいモデルハウスが建ち、その周囲が白いペンキで塗り立ての柵に囲まれてしまって、とてもじゃないが薄ぎたない街のガキの遊び場にはなりそうもない場所に化けてしまっているのを知る。泥地と盛り土の上に、箱庭でも拵えたようなキレイで薄っぺらな街――それを街というのであれば――ができあがる。辺鄙な埋め立て地はいつの間にかこの巨大な都会のなかでもいちばん輝いた――いや輝かされた場所になり、セイタカアワダチソウの原野は象が海を渡るようにだれも知らぬ間にどこかへ行ってしまう。

 それはうすぎたない誕生から輝かしい少年期へと育っていくための土地だ。

 打ち捨てられた下見板の、黴くさいにおいが漂う雨漏りするアパートなんか、あるはずがない。埋め立て地に老朽化して見捨てられたものが存在するということ自体、何かのまちがいなのだ。

 いや、埋め立て地に老朽化して見捨てられたものが存在するのはあたりまえだ。それは、その役割を終えたものが廃棄物として捨てられ、その廃棄物で海を埋め立てて陸を作った、そういう土地だ。けれども、それはあくまで地下の話だ。掘り返してはならない意識の下の暗部のように、そんなものは埋め立て地では地下に封じこめておかなければならない。もしその地下から自分を脅かしにやってくる者がいれば――いつかはそんなことが起こりそうな気がする――、それはあらゆる手段で阻止しなければならず、それでももしそれが来てしまったならば、私はその相手と鳥にでもなって脱出しなければならない。

 埋め立て地から飛び立つ鳥は、いったいどこに行ったのだろう……?

 ともかく、地下の記憶を封印しつづけるかぎりは、埋め立て地は新生のための場所であって、終末の場所ではない。天に向かってまっすぐ伸びるセイタカアワダチソウのような希望に満ちた土地でなければならぬ。そして、そこになぜこの老朽アパートが?

 写真を撮っておこうか?

 ――この奇異な、場違いなものを記録に残しておくために。

 おれはさいわいいまカメラを持っている。

 カメラというやつはどうも銃に似ている。銃は一瞬で標的を射抜くが、カメラも何百分の一秒という単位で被写体を捉える。一秒間に何十発何百発の連射の可能な銃があるのと同様に、カメラにも一秒間に二十四コマを撮すことのできるものが存在する。映画――というのがそれだという。

 銃は獲物をしとめる。たとえそれが壁に映った影にすぎないとしても。

 カメラも同様だ。

 「写真」ということばはどうにも気になる。真実を写す――もちろん真の実在を捉えることはカメラによっても不可能だ。だが、このことばには、不可能と知りつつそれでも「真の実在」すなわちイデアを捉えようとする意思が宿っていることを感じさせる。

 ものを作ったのは神だ。

 だがものに名まえをつけるのはあくまで人間の仕事だ。

 写真は何か真の実在を捉えているのだろうか?

 学校の図画の時間には黒の絵の具はなるだけ使うなと教わった。闇にも色合いがある。ある闇は茶色く、ある闇は青く、その向こうに沈澱している景色を反映しているという。それを黒で塗りつぶすのは世界の奥行きを知らぬ浅はかな行いであり、世界への冒涜だという。どんな闇も観察すればかならず色合いが看てとれるものだという。

 けれども、写真に撮って見れば、そんなに深い闇でなくても、それは黒にしか映らない。写真をどんなに賺して看たところで黒は黒で、闇に色合いなんかありはしない。

 写真は、この世には、しょせん、光と影しかないということを、教えてくれている。
 おれは、だから、どちらを信じればよいのだ?

 どちらも真実ではない、真の実在は太陽のように手の届かないところにあり、この世で見るもの感じることはすべて壁に映った影にすぎない――という答えに満足しなければならないのか。

 それでもおれは撮る。

 カメラによって、そこにあるはずもない、埋め立て地の廃墟という「真の実在」の影を記録に残しておくのだ。

 それでおまえは満足するのか?

 いや、満足するはずもない。それで満足するのが私の職業ではないからだ。

 私はそのあるはずもない下見板張りのアパートに足を踏み入れるべく、コンクリートブロックの護岸を飛び下りた。

 下見板張りの打ち捨てられたぼろアパートがどんなありさまだったかは想像にお任せする。おれは、何年も掃除もされていない床から立つほこり――それは鳥の羽毛にちがいないとおれは感じた――を避けようと口もとを覆いながら、軋む階段を二階へと上った。

 おれは二階のひと部屋に入ってみた。

 埃が――もしお好みならば鳥の羽毛がといってもいいが――床に積もっているだけの、何もない部屋だった。

 おれはそのぼろアパートの部屋の隅に腰を下ろし、何度も途中で引っかかる窓を開けた。

 この窓は、まだあの攻撃を受けていない。

 窓に映った影を真の実在とかんちがいして銛を打ち込まれてはいないようだ。

 ともかく気をつけなければならない。窓という仕掛けはこの世のあらゆるところに開き、その向こう側に、手の届かないものを手の届きそうなものとして映している。

 いや、……そうだ、おれはさっきたしか……。

 まあ、いい。思い出せないことを穿鑿したって文字どおり詮ないことだ。

 鳥の羽はどうしてこんなに降り積もっているのだろう?

 おれは窓枠によりかかり、ぼんやりした、いや魚の目のようにとろんとした目で――ほんとの魚の目が「とろん」としているかどうかは知らない――埋め立て地を眺めながら、ふとあの物語を思い出していた。

 方舟から水が引いたのを確かめるために鳥を放ちつづけた、あの人びとの物語を。

 この首都は、たとえばソドムとかゴモラとかにたとえられることはあるかも知れない。だがここをそのまま方舟だなんて考えるのはよっぽど物好きな宗教団体のいいかげんな教祖ぐらいなものじゃないだろうか。

 だが、ここは、まちがいなく、方舟なのだ。

 私は脳裡にそんな思いを宿らせ、そして笑いの息が鼻をすり抜けるのを抑えることができなかった。

 もし私が何十年かまえの地図を持っていたなら、いま私がいるここは海でしかありえない。そして、そんなに地質時代まで遡らなくてもいい、千年とか二千年とか遡ってみれば、この窓の向こうに広がるこの首都の大半は、やっぱり海だったのだ。千年前、はるか西にある当時の首都からこの地を訪れた歌人は、水草の生い茂るこの首都のあたりを船で渡ったのではなかったか?

 だからして、千年前とか二千年前の地図を持って私がこの首都をさまよっていたのなら、私はとつぜん気づいたはずだ。

 自分の歩いている場所は海の上だ。

 だからして、この首都は、正真正銘の方舟なのだ。

 さっき私の鼻をすり抜けたのは笑いの息だと書いたがどうもたしかでない。

 もしかすると、それは安堵のため息だったのかも、知れない。

 ――千年や二千年、その時間の隔たりに何の意味があろう。なにしろ時間なんて私が時々刻々と意識してやっていなければろくに流れもしないかもしれない、ぐうたらなやつなのだから。

 そう、だから、ここは方舟の船室のひとつなのだ。

 この窓は舷窓にちがいない。

 この窓からは、まいにち、まいにち、鳥が放たれつづけた。

 この窓からだけではない。方舟には無数の舷窓が開いているはずだ。そのすべての窓から鳥は放たれつづけた。窓の向こうの未知の空間に向けて――窓の向こうにほんとうはないかも知れないまぼろしのような空間に向けて。「世界」と呼ばれるそのまぼろしかも知れない空間が、いまどうなっているかを知るために。

 船客たちはその鳥が帰ってくるのを待ちつづけ、待ちくたびれ、そして――そう滅亡でもしてしまったのだろう。

 鳥……鳥……。

 鳥はどこへ行ったのだろう?

 鳥ももとをたどれば魚だった。魚の鱗が突然変異というのかなんか知らないが変化してできたのが鳥の羽根なのだ。鳥は、もはや魚でなくなった魚なのだ。

 もう、おわかりだろう。

 この首都という方舟から放たれた鳥たちがどこへ行ってしまったか。

 鳥は、方舟から放たれ、そして着陸すべき陸地を探し、それが見つからなくても探しつづけ、やがて飛ぶのに疲れ、力つき、そして星になってしまった――わけではない。

 そう、鳥はまたおさかなに戻ったのだ。もともとの魚の姿に戻って、どこかの海を悠然と泳いでいるにちがいない。

 なぜなら、世界には海しかなく、そこを漂う方舟が浮いているだけで、人びとがまぼろしの中に求めた「陸」なんてものは、どこにも存在しなかったからだ。たぶんそれは人びとの記憶のなかにしか存在しない。なにせ人びとは陸地から船出したことを信じて疑おうとしないからだ。

 けれども、「記憶」は「まぼろし」と同じものでしかない。ちがうのは、人間がそれをどう扱うかということなのだ。人びとは「記憶」のなかに陸地の記憶を持っていた、だからいまも陸地を探し求める。

 ほんとうは、陸地なんかどこにもないのに。

 方舟は何日何夜かまえに船出したのではなくて、最初から海の上を漂っていただけなのに。

 だからして、変わり者の魚を鳥に仕立てたのはいったいだれだったのか?

 神――なのか?

 それとも、鳥なんて最初からおらず、いるのは魚だけだったのに、何かわからないが巧妙な仕掛けによって人間が魚のうちのどれかをふとした拍子に「鳥」というものだと思ってしまったのか?

 そうして、その魚が空へと羽ばたいていき、そうして、その魚を鳥だと思って放った人たちがその魚のことを忘れたとき、魚はまた魚に戻ってもう羽ばたくこともなく泳ぎつづけるのか。

 そうだ。そうにちがいない。

 そして、人に魚を鳥と感じさせるその巧妙な仕掛けそのものが「神」なのだろうか? それとも、その仕掛けを拵えたのが「神」なのだろうか? ――と問うことはあまり意味がない。私にはよくわからないが、数学にはそういう考えの過程を無効化する思考が存在して、それが例のゲーデルの法則ってやつの証明に関係しているという。

 そう、この窓から、あの窓から、この首都のあらゆる窓から、鳥は放たれ、そして魚になって二度と戻ってくることはなかった。

 鳥を殺したのには人間だ。

 だが、それでも鳥を放たずにはいられないように人間を拵えたのは、それはいったいだれだ?

 おれはとろんとした魚の目で埋め立て地を眺めながら、壁によりかかっていた。

 この壁の向こうは――そう隣の部屋だ。ここはアパートなんだからそれはきっとそうなのだよ。そしてこの部屋の住人が鳥を放ちつづけていたころ、隣では……?

 この部屋の住人は隣のことが気にならなかったのだろうか?

 隣の住人の生活というやつを、いや隣の住人の身元や素姓やつまりは探偵と呼ばれる連中が好んで興味を示したがるようなものを、知りたいと思ったことはなかったのだろうか?

 おれは、そう、思った。

 そう思った以上、隣の部屋に侵入してみるのが探偵のつとめではあるまいか。

 おれは、軋む床を、なるだけ軋ませないように用心しながら、隣の部屋の引き戸を引き開けた。

 廃墟だった。

 当然だ。

 このアパート全体が廃墟なんだから。

 床には一升瓶から使い捨ての小型のガラス瓶、飲みかけで投げ出したコーヒーの缶、フラスコ、如雨露、金魚鉢――ありとあらゆる瓶が散乱していた。床にはしみのついたちいさな薄っぺらい布団が敷きっぱなしになっている。テーブルの上には食い散らかした魚の鱗が貼り付いている。ワープロが当然のことながらほこりをかぶったまま放置されていた。

 この部屋の住人は、そう、鳥が鳥でないことを知っていた。

 人が鳥であるとおもっているしろものがおさかなにすぎないことを知っていた?

 でも、なぜ?

 なぜ、人間ならば犯すはずの誤謬を――誤謬と知っていても犯さずにはいられないはずの誤謬を犯さなかったのだ?

 この部屋の住人は、神と何か特別の関係にあったとでもいうのか。

 この部屋の住人には女の子がいたようだ。この薄っぺらい布団がその証拠だ。

 で、その女の子ってのが神さまだったとでもいうのか?

 いや、もっと普通の話をしたほうがよいだろう。

 いったい女の子というのは不可解な生き物だ。そう思うのはたぶん私が男だからだろう。

 おれは男なんだが、いったい自分がまだ少年なのかそれともすでに年老いてしまっているのかわからないときがある。しかもわからなくていっこうに差し支えないのだ。私はさまよう。少年のときもそうだったし、老人になってもたぶんそうだ。男には、飼い犬として生きるか、それとも、「自由意思」によって生きるか、どちらかしかないし、そのどちらとして生きるかはべつに年齢とか成長とかいうやつによって決まるわけでもないのだ。

 だが女の人はちがう――ように思える。「ように思える」というのはしつこいようだが私にはわからないからだ。一人の女の人を知るということは、ひとつの世界を知るぐらいにむずかしい。いや、女の人は幼少のころからすでにひとつの世界を持っているのではあるまいか。周囲に星辰のめぐる空をさえ持った完全無欠の世界を持っており、私たちは行きがかりで――いや何かのきっかけで彼女を知り、追い求める、その宇宙を知ろうとするのではあるまいか。

 しかし皮肉なものだ。量子力学の教えを待つまでもなく、私たちは彼女の宇宙を壊すことなしにはその世界を知ることができない。いや事実は逆であるのかも知れない。彼女の天球儀が壊れ、その天球儀のなかから出てきたときに、はじめて私たちは彼女に遭遇するのだ。そして、私が、ではなく、彼女から問うてくる――「あなたは、だぁれ」と。

 きっと、完全な天球儀をその内に持ち、その天球儀のなかだけで生きていたあの純粋の少女というのは、あの真の実在、完全無欠のイデアと同じように、あの手の届かない太陽の向こう側にしかいないのだろう、たぶん。

 いや、まあ、そういう妄想も、この寝小便のしみの残った薄っぺらな布団とはあんまり関係がないのかも知れぬ。けれども、女の子は、生まれる前だか生まれた直後だかに、もう子どもを生む準備を体のなかで整えてしまっている――という話をどこかできいたような気がする。

 もっとべつのことを考えよう。

 このおやじ、いったい何者なんだ?

 このおやじというのはこの部屋のむかしの住人のことだ。つまり女の子を養っていたはずの人間である。女であったとは思えないし、少年であったとも思えない。

 この女の子と二人きりでこのぼろアパートで生きるのを楽しみとして、自分の才能に見切りをつけながら、うまく行くはずなんかない仕事を、それでもつづけていたというのか。

 そうかも知れない。

 世の中に背を向けて、新聞も、署名も、NHKの集金にも関わりなく生きつづけようという人間にとって、地図では海であるはずのこのぼろアパートほど居心地のよいすみかはないはずだ。どんな過去があったのかは知らないが、時とところをまちがえれば立ち食いのプロになっていたかそれとも客の来るはずもない真冬の雪国で立ち食いそば屋をやっていたか――きっとそんな人間なんだろう。

 それが、この廃墟を残した人間の正体なのだ。

 いやちょっと待て、廃墟を残した? いやだれがそんなことを決めた?

 ただ娘を連れて銭湯にでも行っているだけかも知れないではないか。

 ちょうど夕方だし、野良犬のさまよう埋め立て地を日が暮れてから自転車で走るのは無謀だ。娘を天使のように思ってだいじにしているそんなおやじなら娘を連れて銭湯に行ってそうな時間だ。

 だがここは廃墟じゃないとでもいうのか。

 けれども……そう、あの鳥が飛び立っていった部屋の窓から見えた、あの蜃気楼の向こうの街――とりもなおさずあの首都のことだ――は、廃墟じゃないのか? なんせここからは人が住んでいるようには見えない。あの首都は、「真の実在」の影に向かってあいも変わらず投げつけられる銛や銃弾を一日に幾千幾万と浴びせられている。あの首都から人間を消してしまったならば――あの方舟から人間が滅びてしまえば――あの方舟の人間が自分が放った鳥のことをぜんぶ忘れてしまったならば――あれが廃墟でないという保証はどこにもない。

 そして、これがいちばん肝要なところだが、あの方舟には――あの首都ってところには、たしかに人間がいるのか?

 そこまでけんめいになって人間を捜しに行った者が「人間なんていない」とその真の姿を発見することは、はたしてあり得ないのだろうか?

 人間は、もともと廃墟に住んでいるのだ。

 いや、そこには人間なんてものはいないのかも知れない。いるのは鳥だけかもしれない。でも鳥なんて最初からいないかもしれない。いるのは魚かも知れない。でも魚だって最初からいなかったかも知れない。真の実在は手の届かない太陽の向こうに隠れてしまっている。

 壁に映った影を真の実在であると思ってそこに銛を投げるという誤謬を犯さずにはいられないように、魚を鳥と思って窓から放たなければいられないように、人間は自分たち「人間」というのがたしかにいると思いこみ、廃墟を都市だと思いこみ、そして廃墟の上で都市の生活を送りつづける。

 いったい私は人間は都市にしか住むことができないという確信を持っている。そうではない、人は田舎にこそ住むものだ、と言い張る友人だっている。だが、住めば都という卑俗な俚諺とは無関係に、どこに住んでいる人間だって、都市生活を営んでいる――いやもっというならばこの首都の生活を営んでいる。人間はこの首都にしか住むことができないものだ――それがおれの妙な確信なのだ。

 首都の生活――方舟の生活――廃墟を廃墟でないと思いこんで生きる生活……それ以外に人間の生というものを想像することは、私にはできない。

 汽笛――。

 湾をいく貨物船から汽笛の音が聞こえてくる。

 もう日暮れなのだろうか?

 日暮れになると、埋め立て地で遊んでいる子どもたちを、お母さんが「ごはんだよ」と呼びにやってくる――なんて現場は見たことがない。おれの母親だったら勝手に晩飯を食って「あらおそかったわねぇ」の一言で冷や飯をおれにあてがうことだろう。もしおれの期待した晩飯とちがっていても、家から逃げ出して勝手に野良犬のまねをしていた飼い犬に不平を言う資格なんかありゃしない。飼い主のほうでも、あれだけ遊んできたのだからカネも払わずにどっかで立ち食いそばの一杯も食ってきただろうと思っていることだろうよ。

 日暮れ――おれは帰らなければならない。おれのさまよい歩きもこれで終わりだ。

 終わりだ?

 いったいだれがそんなことを決めた?

 映画にはなぜ終わりが必要なんだと問うた映画監督がいたという。

 だが、終わりは必要なのだ。なぜ必要かを問うのは、人がなぜ虚偽とわかっている真の実在の影をけんめいに追い求めて銛を投げるのか、人はなぜ廃墟とわかっていながらこの方舟――埋め立て地とか首都とか言い換えてもかまわない――の上で生活を演じつづけるのか、人はなぜ魚を強いて鳥だと信じて方舟の窓から送り出しそしてその鳥のことを忘れてしまうのか、人はなぜ犬は飼い犬であるべきで野良犬であるべきではないと考えるのか、それを問うのと同じように、くだらないことだ。

 ――そう、くだらないことだ。

 だが、ひとつの説明は、おそらく、つく。

 この廃墟の部屋を見るがいい。

 打ち捨てられた天球儀は壊れたままだ。

 魚を飼っていた水槽は割れている。

 少女は女になり、少女であることを失ってここから出ていってしまった――のかも知れない。たんに銭湯に行っているだけかも知れないが。

 人は年老い、ものは古びて、壊れたり、動かなくなったり、人びとが使い方を忘れてしまって役に立たなくなってしまう。

 そして、おそらく、世界も――。

 古びて、壊れて、やがて死を得る。それが自然な過程だ。たまごを残して死を得る。たくさんのたまごたちから生まれてくる者たちの多様性は、個体が死を得ることでその種としての生命をかえって永続化させることができる。だがその種としての生命でさえ、ときには小規模に、ときには大規模に失われる。

 そして、おそらく、世界も――。

 だから世界には終わりがなくてはならない。それは救いにほかならないのだ。

 だが、世界を終わらせることによって、何が救われるというのか?

 それとも、それは――。

 物語の終わるその瞬間こそ、じつは物語の語られ始める瞬間にほかならない。

 だから――。

 夜の部屋で、隣では少女が天球儀の中心で眠っているかもしれない夜の部屋で、

 まぎれもない私の部屋で、

 私はひとり、ワープロのキーを叩きつづけている。

                         (おわり)



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