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「自転車に乗った理屈」の罠

─― 押井守をどう論ずるか ─―

清瀬 六朗



 押井守は「自転車に乗った理屈」と言われた男だという。ここにひとつの陥穽がある。押井守を語ることは、「理屈」で押井守について何か言うこと、または押井守の「理屈」について何かを言うことだという錯覚を起こさせてしまうのだ。だが「理屈」ですべてが語れるのであれば押井守は映画を作る必要なんかないのである。

 『パトレイバー2』(劇場版)が公開されたころからだったか、押井守を取り上げた特集本が商業出版社からつぎつぎに出されるようになった。『攻殻機動隊』では、講談社やバンダイビジュアル(どうでもいいけど『魔法使いTai!』もここなんだよね)の販売戦略もあってか、アニメや映画とは直接に関係のない媒体でも押井守が特集されたりそのインタビューが載ったりするようになった。

 かつては、押井守のまとまったインタビューは、登坂正男氏のimaginary press inc.の同人誌『抽象企業』などでなければ読めなかった。もちろんアニメ誌などにも押井守インタビューは載ったし、大きな映画が公開されるときには特集もあったが、内容的にも満足のできるものではなかったし、それ以前に紙幅が十分でないという不満も大きかった。アニメ誌の特集で使う紙幅に関していえば、近年の『エヴァンゲリオン』などはかなり恵まれているといえよう――もちろんそれが記事としての質がよくなったこと(あるいは悪くなったこと)を直ちに意味することはないわけだが。

 imaginary press inc.の押井守インタビューはこれだけ押井守へのインタビューが溢れた現在になってもその独自の存在価値を失ってはいない。このサークルの押井インタビューに臨む姿勢は、押井守に、押井作品についての「正解」を聴きにいったり、映画づくりの舞台裏や裏話を聞き出すことによってその作品についてよりよく知っているつもりになるというものとはまったく無縁である。それは、『ゲーデル・エッシャー・BD』(初出では『ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD』)で、押井守自身すら驚嘆する押井作品の世界を解釈して見せた登坂氏が相手だからこそ成立しうる対話なのである。

 そもそも、押井守については、たとえば「夢と現実」とか「全共闘世代的な革命への幻想」とかいうテーマが、作品から遊離したところで語られる傾向が強くあった。そうでなければ、難解な実験的作品を作って自己満足に浸るろくでもないアニメ演出家という箸にも棒にもかからないような悪口を投げつけられるかであった。いやいまもその傾向は濃厚にある。

 押井守が、商業誌や商業出版社の出版物で「犬・鳥・魚」についておおっぴらに語ったり、「物語に寄生するもうひとつの物語」について語ったりしはじめたとき、私は少しばかり驚いた。もちろん作品を見りゃわかることではある。だが、作品を見ずにイデオロギー的に語られるという状況に積極的に働きかけるほど、押井守は啓蒙的な人ではあるまいと私は思っていたのだ。

 ――これは喜んで飛びつくと罠にかかるかも知れない。

 押井守にはあるいは悪意はなかったのかも知れない。何しろしゃべりだしたら止まらないような人だ。押井守はずっと前から語っていたのに、ただ編集者やインタビューアーが「犬・鳥・魚」のようなものにそのころになってようやく気づいた――というのが真相であるのかも知れない。

 だが、だれが罠を仕掛けたにせよ、「押井守について論ずること」がその罠にはまりつつあるのはたしかなように私は感じる。

 押井守特集やら押井守インタビューやらが商業誌・商業出版社でさかんに世間に流されるようになった(もちろん同人誌でも出ているのだろうが私はimaginary press inc.とWWFのほかは押さえていない。あしからず)。かつては『抽象企業』シリーズの読者ぐらいしか知らなかった裏話のたぐいも広く知られるようになった。だが、それだけにいっそう、押井守に「あの場面はどういう意味があるのですか?」と「正解」を求めに行ったり、裏話のたぐいを知ることでその作品をよりよく理解したつもりになったりという姿勢が広く根を下ろしてしまったようにも思うのである。

 映画を撮ることは、つねに頭のなかでもう一本の映画を撮るという作業である――というようなことを押井守は『Talking Head』を撮ったときかなんかに言っていたような気がする。それはじつは映画を鑑賞する過程でも同じだ。映画を見ることは、もう一本の映画を自分の頭のなかで拵える作業にほかならない。あるいは、物語という、映画に 共生する ひとつの要素について見てみても、物語を読むということは、自分でもうひとつの物語を作るということにほかならない。そう言えるのではないか。

 登坂氏は近刊で『攻殻機動隊』をベートーヴェン・ラヴェルの作品から語るという試みを行っている。押井守がベートーヴェンやラヴェルをどの程度まで意識したかということは、この語りかたにおいてはじつは意味がないのである。ベートーヴェンやラヴェルについて玄人に迫る知識や理解や思い入れを持った論者が『攻殻機動隊』という作品に出会ったとき、どういう物語を紡いだかということのスリルに満ちた記録なのだ。

 この登坂氏の試みの魅力がわかりますか?

 パソコン通信でアニメについて話をする場が増え、アニメについての情報も多く流され、加えて岡田斗司夫氏の「おたく」礼賛が注目を浴びるようにもなって、そのアニメのどんな細部まで知っているか、その作者のどんな旧作まで見たことがあるか、出演声優についてどれだけのことを知っているか――といった、自分の持っているデータ量の膨大さを誇ることで、アニメを論じた気分になることが流行のようになっている。

 それはデータ量は少ないよりは多いほうがいい。けれども、いくらそれを振り回して相手を圧倒して満足するような議論を展開してみたところで、この登坂氏の試みが持つ押井論(あるいはアニメ論、映像作品論……)としての魅力を備えることは不可能だろうと思う。

 押井守を論ずる方法そのものを豊富にしていくことをめざす論者がせめてもう少しはいてもいいんじゃないかというように私は思うのである。

(おわり)



 この文章は『WWF16』の編集後記として書いた文章に大幅に加筆したものである。

 


 共生  たとえば細胞内に存在するミトコンドリアは、独立の生物だったのが細胞内に取りこまれて細胞の一部になり、細胞内で一定の機能を果たすようになったものだといわれる。このような過程を共生という。共生は非常に多くの生物に見られ、またその過程は現在も進行中である。冬虫夏草と呼ばれる、虫に寄生するキノコのたぐいもそうした共生の一例ともいえる。押井守は、『Talking Head』で、「物語」の映画への侵入をこの「共生」現象に似た形で描写した。
 なお、「共生」というと対等に協力しあううるわしい関係のような語感があり、またそういう含意で転用されることが多いが、事実はそうとはかぎらない。たとえばミトコンドリアは核によってその分裂をほとんど完全に制御されており、その主体性を喪失した共生関係であるとされる。また冬虫夏草のように共生する個体を死にいたらしめる例もある(したがってこれは「寄生」であって「共生」ではないが、他方、昆虫の身体のなかで「共生」に成功している菌類がこの冬虫夏草にきわめて近い種類であるという事実もあり、「共生」と「寄生」の区別はさほど明瞭なものではないようである)。



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