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チャチャその可能性の中心


清瀬 六朗




 (註) ここで『赤ずきんチャチャ』または『チャチャ』と表記するのは、とくに断わらないかぎり、アニメーション版およびそれに依拠する作品(CDなど)のことである。
 なお、ここでは、便宜的に、『チャチャ』全74話を
と分けてよんでいるところがある。なお、いわゆる「プリンセス編」は1話から56話までである(プリンセスの出番はそれ以後もないわけではないが)。
 



一 やっこちゃんの弁証法


 「評論」という場でひとつの作品について論じるには、まず、論者自身がその作品自体に関心を持っているという前提が必要である。これは自明の事柄のように見えるが、必ずしもそうではない。ひとは、「癒し」だとか「戦後民主主義の愚劣さ」だとかいった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するためにアニメーションを論じる。それでは論じたことにはならない。「作品」の外にどんな「主張」も作者の意図も前提しないで論じること――それが作品を論じることの意味である。

 『赤ずきんチャチャ』は傑作である。ことに魔法少女ものとしては近年稀に見る傑作の一つと言ってもけっして大げさではない。

 『チャチャ』は傑作である。しかし、「じゃあ『チャチャ』のどこがどういうわけで傑作なの?」と問われて、「それはコレコレだから傑作なんだ」とすっきりはっきり説明しようとすれば、これは思いのほか難しい。

 「いや30話でさあ、この話、演出してるの佐藤さんって人で、いま『イサミ』やってる人なんだけどさ……」という調子で一時間でも二時間でもしゃべる自信はある。でも、そうやってしゃべったところで、いや、たぶんそうやってしゃべればしゃべるほど、「これって『チャチャ』のおもしろさの断片にすぎなくて、ほんとはこの作品のおもしろさってこんなものじゃない、いやいましゃべってる十倍や百倍のおもしろさはある作品なんだ!」という思いが募っていく。これは、私だけではなく、おそらく『チャチャ』のファンはならばひとしく思い当たることではないかと思う。

 「『チャチャ』のここが傑作であるゆえんだ」と断定できないのは、ファンとしてまだまだだからだ。
 ――などとはけっして言えない。そんなことはけっしてない。

 むしろ逆である。安易に『赤ずきんチャチャ』のおもしろさとかいうものをとくとくと列挙してみせるような人物こそ、『チャチャ』のおもしろさなんか実際には何もわかってはいない。そう考えてまずまちがいないと私は思っている。

 じつにファンにはそんなことを指摘する必要なんかないのだ。

 ファンにとって重要なのは、自分が『チャチャ』という作品が好きだということ、ただそれだけである。それにリクツをつける必要はまったくない――そう、やっこちゃんにとっては、自分がセラヴィーが好きであることが、唯一、重要なのであって、セラヴィーが抱いている人形がエリザベスという名まえであることとか、セラヴィーの得意な料理が何かということとかは、知っている必要のないことなのと同様に、である!

 やっこちゃんのセラヴィーへの想いからすれば、セラヴィーへの自分の「想い」をくどくどと解釈することこそ邪道である。

 やっこちゃんは、「相性はバッチシ!」(CD『聖まじかるレビューVol.1 』)で、マリンに「もっとも、マリンなんかにセラヴィーさまの渋い大人の魅力がわかるはずはないけど」と言う。

 まさにそのとおりだ。

 もっと直截に言えば「わかってたまるか!」である。

 でも「わかる」って何だ?

 ことばで説明し解釈すること抜きで「わかる」ということはありえないはずだ。たしかにそれは「わかる」ということばの定義による。しかし、ここでは、とりあえず「ことばで表現することで理性的に理解する」という意味にとっておこう。すくなくともここではやっこちゃんはことばで説明すること自体を拒絶しているのだから。

 ここでのやっこちゃんのセリフは、たしかに「マリンなんか」にいくらことばにして説明したってどうせわからないはずだという、やっこちゃん一流のイヤミをこめたものだ。

 しかし、あくまでこのセリフだけに限定して、ちょっと考えてみよう。「マリンなんか」に向かってその「魅力」を語ることを拒否する。しかし、「セラヴィーさま」の魅力をことばで語ることを拒否してしまえば、やっこちゃん自身だって「セラヴィーさま」のよさを「わかる」ことはできなくなってしまうのではないだろうか?

 そのとおりである。

 そして、おそらく、それでいいのだ。

 やっこちゃんは、自分で「セラヴィーさま」の魅力をことばで語ることで理解しようなどという動機をそもそも持っていない――自分が好きならばそれでいいのである!

 おっと、『聖まじかるレビューVol.1 』を聴いた『チャチャ』ファンの君よ、君はただちに反論を思いつくはずである。それじゃあ「しいねちゃん叫ぶ!」のしいねちゃんはどうなる? 相手もいないのにチャチャの魅力をあれこれ数えていたしいねちゃんはチャチャが好きではないのか?――と。

 そこで私は答えなければならない――いや、けっしてそんなことはない、そんなことを言いたいのではない、と。だが、そのことの説明はもうすこし待っていただきたいと思う。ここで話をいったん作品と「評論」との関係にもどしておきたいからである。

 作品自体に関心を持つというのは、すくなくともその最初の部分で、ここでやっこちゃんがセラヴィーについて持っているような感情を持つことが最低の条件なのだ

 ――私がこの文章の冒頭でもったいぶって書いたのは、つまりそういうことである。

 なにも難しい話ではない。

 ほんとうにすばらしいと思う映画や舞台や、あるいは小説や音楽の演奏やらに出会ったとき、ここでこの作品について語ってしまうと、そのことばのぶんだけ感動が失われてしまう、と感じたことがある人は少なくないと思う。あるいは語ろうとしても、「うーむ」という感嘆のうなり以外はことばが出てこないこともある。その作品については語りたくない、自分だけのものにしておきたい――そういう、あたかもやっこちゃんがセラヴィーについて持っているような思いを持つ。程度の差はあろうが、そういう思いを経過してはじめて、自分はその作品に関心を持っていると断ずることができるはずだ。私が「作品自体に関心を持つ」と表現したのはそういうことである。

 しかしそれでは「評論」など成立のしようがないではないか?

 そうなのだ、自分で「私はこの作品がすばらしいと思う」という思いをかみしめているときに「評論」なんてそもそも必要がないのだ。

 だが――ここでふたたびやっこちゃんに話を戻そう。

 やっこちゃんはなぜ自分が「セラヴィーさま」にふさわしいかを懸命に語ろうとするのか?

 その動機は、自分の「セラヴィーさま」への想いを理解しようとせず、セラヴィーへの想いが自分とはくらべものにならないほど低い(とやっこちゃんが思っている)チャチャの存在である。あるいは、自分が「セラヴィーさま」を想っている程度よりはるかに低い(とやっこちゃんが考えている)程度にしか想っていないのに、リーヤへの想いなどというものをことあるごとにひけらかすマリンの存在である。つまり、やっこちゃんにとって、自分の「セラヴィーさま」への想いをまったく理解しようといないくせになにかと目障りな(26話のサブタイトルでいえば)「おじゃま虫」の存在である。

 そういう連中を、なんなら「他者」とか「外部」とか表現してもよい。もしやっこちゃんがチャチャやマリンといった「他者」を「ちぇすとぉ!」の一撃で打倒することができないのならば――やっこちゃんはチャチャなりマリンなりに、自分のセラヴィーへの想いをことばにして語り、それによって相手を撃退しなければならない。

 やっこちゃんは、セラヴィーのすばらしさを、あるいはそのすばらしさを理解できる自分のセラヴィーの弟子(あるいは恋人)としての資格を、チャチャやマリンに「弁証」しなければならないのだ。

 ここに「弁証法」が誕生する。

 こじつけではない。弁証法というとメンドウだが、ディアレクティークというと要するに「対話」である。じっさい、弁証法の原型の一つはプラトンの対話篇なのだ。

 プラトンの著作のなかでいちばん有名な「ソクラテスの弁明」を思い起こしていただきたい。いや、内容はひとまず措こう。私の興味はこの「対話」が行われた場にある。ソクラテスはだれに対して弁明したのか? それは、ソクラテスがやってきたこと、(魂の)生命がもしあればこれからもやろうとしていることを、まったく理解しようとしない連中、それでいて、ソクラテスのやろうとすることを妨害しようとした連中に対してだ。

 ソクラテスにとってのアテナイ市民、やっこちゃんにとってのチャチャやマリン――そうした相手に出会ってはじめて、自分の何かへの熱烈な「想い」をことばで表現することが必要になるのである。そこではやっこちゃんはセラヴィーへの「想い」をことばで語らなければならない。いや、いったんそうした相手が現れたときには、「マリンなんかにはわからないでしょうけど」と説明を拒絶すること自体が、じつは雄弁な「対話」の――「弁証」の――要素になってしまうのである。

 では、そうして「想い」をことばにして理解してしまうことは墜落――じゃなかった、堕落なのだろうか?……うーむ、またつまらぬネタをふってしまった……。

 当初の「想い」からすればたしかに堕落であろう。

 堕落というだけではない。じつはこれは危険な行為だ。対話するということは、相手にもちゃんと反論のチャンスを与えるということでもある。だから、もしかすると、やっこちゃんがチャチャに対して「セラヴィーさま」への「想い」をことばで説明すれば、ただちにチャチャが反論に転じて、その結果としてチャチャのセラヴィーへの想いのほうが上だったと判明してしまうかもしれないのだ。あるいは、マリンによって、セラヴィーの魅力など「リーヤくん」にくらべればたいしたことがないと論証されてしまうかも知れない。

 けれども、やっこちゃんはすぐに気づくはずである。

 そうやって自分の「想い」をことばにすることで、かえって自分の「想い」が「ほんものである」という確信を得ることができる。「客観的な真実性」への確信を深めることができると言ってもいい。「チャチャやマリンにここまでは認めさせた」――その「自信」がやっこちゃんのセラヴィーへの「想い」をさらに深めるのである。

 逆に言えば、こうやってことばにして説明してみてたいしたことのないような「想い」は、じつはたいした想いではなかったのだ、と思えてくる――あとからそう「思えてくる」のであって、さいしょから「たいした想い」であったかどうかは、このときにはもはや問題にはならない。

 ここにひとつの転倒が起こる。

 他人には――「他者」には――説明できないような「想い」をいっそう深めるためには、その「他者」に対して積極的にことばでその「想い」を語るという過程が必要だと思えてくるわけだ。そうして、そのときもしそうした「他者」――そうした相手が見つからなければ、ムリやり相手がいると想定してでもその「想い」をことばにするのである。

 だから、しいねちゃんが「叫」んだときには、しいねちゃんの「想い」は、けっしてチャチャは「かわいい」とか「性格がいい」とか「好きでーぇす」とか「け・つ・こ・ん、しましょーーっ!」とかいうだけで言い尽くせるものではなかったはずなのである。

 弁証法というのはつまりそういうそういうことなのだ、と理解すればいい(いいのかよ、そんな大ボラふいて……)――と私は思っている。「あるがまま」に、説明を加えることなしに持っている「想い」がまずある。こうした段階は、もっぱら「自分に即した」段階、すなわち「即自的」な段階などと言われる。

 ところが、それは「他者」(やっこちゃんにとってのチャチャやマリン)が登場することで、その「想い」に自分で説明を加えなければならなくなる。または、「他者」が登場しなくても、みずから「他者」に語りかけるかたちを装うことで自分の「想い」や真実性への確信を深めようとすることもある。この、説明や省察の加えられた段階が「対自的」な段階といわれる段階である。

 そして、その「対自的」な認識を通して、自分の「想い」への確信がいっそう深まることになるのである。哲学を少しでもかじった人ならば、私が話をどう持って行きたいかおわかりだろう。この過程こそが「保持しつつ捨て去る」過程、つまり「止揚」(アウフヘーベン)なのである。

 福沢諭吉が『学問のすゝめ』で「真理は異説争論の際に生ずる」と規定しているのもこのように読むべきだ。大切なのはあらかじめ定められた真理性を信奉することではなく、異説と争論することを通じて、自分の立場の真理性への確信を深める過程こそがたいせつなのだということこそ、福沢の強調した点だったのだ。

 ――と、いま読むときにはそう読めばいいのである。たぶん福沢諭吉自身はそういう読まれかたをあまり予想しなかっただろう。たぶん福沢は「あらかじめきまった真理」というのがあると信じていて、それを発見する手順として「異説争論」を持ち出したのだと思う。なにより福沢はニュートン物理学を準則とした人であった。『文明論之概略』の冒頭に「議論の本位を定める」ことの重要性を説いた(その筋では)有名な一章がある。この部分はよく「議論についてどんな判断基準をとってもいいが、その議論のなかではその判断基準にそった一貫性を持たせなければならない」という趣旨にとって、一貫性の重要性を説いているように読まれるが、そうではない。表面的にはいろいろなものがかみ合わないように見えても、それを統一的に説明できる根本原理があるはずだ、その根本原理を「本位」として議論しなければ生産的な原理はできない、というのがこの章の主題である。そのモデルは、『文明論之概略』に明示的に言及されているとおり、ニュートン物理学であった。
 けれども、そういうことは、いま読む私たちにはあんまり問題ではない。さっき書いたように、あとで私たちに「思えてくる」ことと、そのときご本人が(この例だと福沢諭吉が)「どう思っていたか」というのはちがうのである。いま意味があるのはどっちかということを考えなければならない。そして、福沢諭吉についての考証でもやっているのでないかぎり、「いま」の考察にとってより意味があるのは、あとで「自分たちにどう思えてくるか」、あるいは、いま「自分たちにどう思えるか」ということのほうだといって差し支えないと思う。


 さきほど引いた「ソクラテスの弁明」を例にひいても同じことが言える。

 ふつう、この「弁明」は、ソクラテスが「無知の知」について語ったテキストとして読まれている。自分は無知だと自覚しているソクラテスが、ギリシア世界で最大の知者だと神託で告げられた。だが、それを容易に信じることができなかったソクラテスは、自分より知者であると自分で思い、また世間でも思われている政治家・作家・職人などに対話を挑むことで、神託を検証しようとした。すると、ソクラテスは、対話を通じて、その連中が自分よりもモノを知っているわけではないことを見出だした。では、モノを知っていないソクラテスが、その連中より多く知っていることとは何か? それは、「自分はモノを知らない」ということ、まさにそのことなのだ。

 ――だいたいそんなふうな話だ。そして、「自分の内面をまず問題にするようになったのが、ソクラテスによってもたらされた哲学の偉大な進歩だったのですよ」というようなきょーくんがこれにつづくわけだ。

 ところがこの読みかたにはじつは大きな難点がある。

 この「弁明」を通じて、なるほど、詩人や政治家や職人たちがソクラテスよりモノを知っているわけではないということはわかる。また、その連中が自分の「無知」を自覚していないのに対して、ソクラテスは自分の「無知」を自覚しているという言いぶんもわからないではない。

 だが、そもそも、ソクラテスが前提としていること――つまりソクラテスは無知であるということの証明は、この「弁明」をつうじて、どこでもなされていないのだ! そして、その証明がないかぎり、ソクラテスが政治家や作家や職人を論破できたのは、じつはソクラテスはその連中よりもモノを知っていたからだ、と解釈するのが自然である。そんなことは、原作『チャチャ』の19・20話のセラヴィーのエピソード(アニメ版では61話「ヤングセラヴィーの冒険」・62話「スクープ! ピンクの秘密」――最初に執筆したのはこのエピソードが放映されるずっと前だった)を読んだ者にはごく当然の結論にちがいない。しかし――セラヴィーってのは(ファイナルファンタジー5の)「ものまねしゴゴ」みたいにやなやつなんだな。

 そうではない――これは客観的に「無知の知」を説いた対話などではないのだ。対話を通じて、「自分は無知である」という自分の確信を深めること、あるいは「自分は無知である」ということを出発点にする対話法の意義への確信を深めること――それこそが、ソクラテスが生命をかけて展開したこの「対話」の意味だったのである。

 やっこちゃんは、まさにそのプラトンの伝えるソクラテスと同様に、チャチャやマリンにセラヴィーについて語ることで自分の「セラヴィーさま」への想いを深めることができた。すなわち「止揚」を実現したのである。

 そして、同じ効果を期待して、『チャチャ』のファンは『チャチャ』について書くのだ。いやしくも、作品についての「評論」という以上は、すくなくともそのことが最低条件である。「評論」を書くという作業はこの「止揚」の過程にほかならないのだから。

 逆に言えば、その作品が好きでもなんでもないのに、その作品について「対象化」し、「客観」的に語ろうとしたところで、そんなものには(その作品に対する「評論」としては)何の価値もありはしない――あるはずがないのである。そんなものは、産業社会も成立していないところで、産業社会を対自的に「対象化」したところに成立するはずの――いやそこにしか成立しないはずの――マルクスの共産主義社会の実現をいきなり持ち出すのと同様の行為だ。

 そうした自称「評論」や「評論家」の動機は、せいぜい自分の才能――「自分はバカである」と認める「才能」もふくめて――を見せびらかすことにしかないと判断してまずまちがいない。ことわっておくがだから悪いなんて言わない。フランクリンが『自伝』で書いているように――とこういうふうに見せびらかすわけだが――、虚栄心というのは人間にとってプラスに働くことも多いものなのである。ただ、虚栄心の発露だけで作品へのタンジュンな感想文が「評論」になるわけではない、ということについて、ここで念を押して置きたいだけだ。

 

 補論:「他者」について

 弁証法とは「自己対話」であり、そもそも「他者」の存在を想定しない対話であるという捉えかたもある(柄谷行人「他者とはなにか」『探究T』)。

 私はこの見解を否定するつもりはない。ただ、ここで注目したいのは、弁証法の過程が自己対話であるとしても、ならばどうしてそれがわざわざ「対話」という形式でなされなければならないかという点なのである。また、「他者」とはじつに多義的な概念であるが、『チャチャ』論であるこの文章では、「他者」とは「やっこちゃんにとってのチャチャやマリンのようなもの」であるという「とりあえずの定義」から出発したいと思う。

 やっこちゃんの例からわかるように、「他者」の発見は、自分の、もしかすると過剰かも知れない(と自分でうすうす感づいているかも知れない)「思いこみ」と表裏をなしているものである。やっこちゃんが「しぇらう゛ぃしゃまぁ〜〜!」に何の思いも持っていなければ、そもそもマリンやチャチャを「他者」として見出すことなどできるはずがない。もしやっこちゃんがセラヴィーのことをなんとも思っていないならば、セラヴィーとの関係でいえば、マリンやチャチャは存在しないに等しいのだから。

 だから、すこし上の文で「他人」を「他者」と言い換えたのはじつは正確ではない。「他人」のなかには「どうでもいい人」もいるが、「他者」というのは、すくなくともここの文脈では「どうでもいい人」ではない。「自分にはよく了解できないけれども、にもかかわらず了解することを強いてくる何者か」なのだ。最初にも書いたように、「他者」とは多義的なことばだから、他の人がこのことばを別な含意を持たせて使うことを妨げはしないが、とりあえずここではこのように考えることにしておきたい。

 ま、このへんの話がどうも何を言っているのかわからないという人は、2話と4話を見直してください。私が何を書いているかということにかかわらず、やっぱりおもしろい話だから。あーでもこの本を読んでくださるような奇特な方にはこんなこと言う必要もないだろうな、おそらく。でも、何度も見たという方でももっぺん見ていただければ、かならず新しい発見があると思いますよ。

 ともかくそういう意味では「他者」というのはむずかしい存在だ。「思いこみ」の裏返しとして「発見」されるということは、それがうまく「解釈」されたときには、それはただちに「思いこみ」の一部として取りこまれてしまい、もはや「他者」でも「外部」でもなくなってしまうということだからである。こういうふうに考えたとき、「他者」は、「他者」であることそれ自体に何か意味があるわけでなく、「思いこみ」を挑発して「解釈」を余儀なくするという役割にこそ意味があるわけだ。「解釈」が完遂されたとき、それはもう「他者」ではなくなってしまう。「思いこみ」に対して「解釈」を強いるという一点にこそ「他者」は存在する意義があるのであって、「解釈」が終わればそれはもう「他者」でありつづける理由はなくなるのである。

 こう書くと「他者」とはずいぶんはかない命の持ち主のようだが、そうとはかぎらない。「解釈」とはそうかんたんに完遂できるものとはかぎらないからだ。というより、「解釈」を完遂したかどうかは、その「解釈」をやっている人が、その人だけが決められることである。そして、「思いこみ」が深まるほど、「他者」を完全に「解釈」しきったなどとは思えなくなるものではないだろうか。

 たとえば、である。やっこちゃんのセラヴィーへの思いが深ければ、
「チャチャはしぇらう゛ぃ〜〜しゃまがかわいがってる弟子なのね、やっこ、涙をのんであ゛き゛ら゛め゛る゛わ゛〜〜
で終わるはずがない。

 「ちぇすと〜〜!!! ど〜してチャチャのごときがしぇらう゛ぃ〜〜しゃまのただ一人の弟子でいられるのよ、なっとくいかないわ!」
という新たな「解釈」を強いられることになるのだ。

 まあ、人間、年がら年じゅう「解釈」なんかしてられないから、いいかげんな段階で、その両眼に周囲が明るくて眠れないほどの嫉妬の炎を燃やしつつ
にっくきチャチャぁ〜〜
という規定をおくことによって「解釈」をいったん中止する。そうして、そうやって「解釈」を「一時停止」している状態では、チャチャはやっこちゃんにとってやはり「他者」にとどまるのだ。

 めでたしめでたし。

 でも、こうやって赤土’さんの声を思い出してみると、『チャチャ』ってやっぱりよかったよなあ。

 



二 『赤ずきんチャチャ』にとって「歴史」とは何か?


 さて、ここまで前置きの文句を並べてみたところで、『チャチャ』の固有性を指摘するのが容易でないことにはかわりがない。

 一見したところ、何か新しい特徴が『チャチャ』にあるわけではないからだ。

 変身して戦闘する美少女ものという点では、すくなくとも時間的な前後関係において『セーラームーン』に先を越されている。丸いキャラクターのギャグものという点では『きんぎょ注意報!』に先を越されている。学園ドタバタアニメとしては『うる星やつら』がずっと先行している。日本か外国かわからないいいかげんな世界設定などというのは、すくなくとも『魔法のプリンセスミンキーモモ』(第一シリーズ)以来のパターンだ。ならばそれらの組み合せが独特かといえば、いろんな要素を組み合わせただけでは、独自性は出せても、かならずしもその独自性が作品の固有性を生むとはかぎらない。いろいろな傾向の魅力を組み合わせたつもりで、けっきょくすべてが中途半端に終わり、逆に印象が薄くなってしまった作品だってたくさんあるだ。
 『赤ずきんチャチャ』の放映開始後、後番組『ナースエンジェルりりかSOS』をはじめとする「変身して戦闘するヒロイン」ものが一時期隆盛をきわめた(ぶーりんが戦闘していたかどうかは微妙だが――でも番組終盤ではたしかに戦っていたな)。この文章はそれより前に書かれたものをそのまま残している。ちなみにここで『セーラームーン』の名で意識されている作品は最初のシリーズと「R」までである。そんな時代もあったのだ!

 だから、ヘタに『チャチャ』を賞賛することは、「そんな作品ならばこれまでにもあった」という不毛な反論をかえって誘発しかねない。だが、ここで注意しなければならないのは、『チャチャ』の固有性は、それらの先行作品と明らかに異なる部分においてではなく、ほとんど同一とみえる部分にこそひそんでいることである。

 彩花みん先生の原作『赤ずきんチャチャ』をアニメ化するときに、アニメの「オリジナル」として加えられた設定がチャチャの変身シーンであったことはよく知られている。私が放映当初に『チャチャ』にあまり関心を持つ気になれなかった一因がこれだった。SMAPのメンバーを主要キャストに使うだけでは足りずに、そこまでしてウケを狙いたいのかよ? それも『セーラームーン』の露骨なマネという卑屈な手段まで使って。地味な少女アニメならそれでいいじゃないか――というのが当時の私の感想だった。放映終了後ひさしい現在に至っても、「原作派」を自称する方がたのあいだにはそういう感想が多いのではないだろうか。

 じっさい、原作のエピソードを使った前半の話数のなかには、原作の流れとこの変身シーンとが、どう見てもうまく融合していない、ちぐはぐな印象の回がいくつかある。とくに、原作を読んでいた人には、せっかく原作では話がうまく落ち着く段になって変身シーンが唐突に挿入されるので、原作のおもしろさが損なわれたと感じた人が多いのではなかろうか? 私はアニメ版の物語がかなり進んでから原作を読み始めたのでよくわからないのだけれど、アニメ誌などでときどき57話以後の「変身しない『チャチャ』」のほうが好きだという投書を見かけるところをみると、最後までそう思っていた人もかなりいるように思える。

 もちろん、「悪魔のキューピッド」の話(「ゾンビ警報! うらら学園」)のように、演出佐藤竜雄氏の絶妙の技とゲスト曽我部和恭さんの演技も相まって、原作をも生かしつつ、それをさらにパワーアップ――「ホーリーアップ」というべきか?――していたエピソードもあったが。

 誤解を避けるために書いておくと、私は『チャチャ』は原作付アニメとして失敗作だなどと言いたいわけではない。たとえば、アニメ版のギャグのセンスは、じつは原作独特ののセンス(まあ「センスがいい」っていうのか「あぶない」っていうのかよくわからんが)を上手に生かしているというところにあると私は感じている。よくアニメ版を見れば、「アニメ版『チャチャ』らしい」演出をつける演出家(上記佐藤氏のほかに桜井さんや大地さんをはじめとして)は、原作にもよく通暁していることがわかるはずである。

 また、シリーズに慣れてしまうと、原作から持ってきた物語と、アニメオリジナルのプリンセスの物語との「断絶」感がかえって心地よく感じられるようになるからふしぎなものである。それは、原作に依拠する「小チャチャ物語」と、アニメオリジナルのプリンセスの物語とが、「チャチャが変身する」という強引に強引を重ねたような一点でかろうじて結びあわされて構成されている、いかにもちぐはぐな「世界」に慣れてしまったということでもある。そのちぐはぐな「世界」を受け入れさせたところに『チャチャ』スタッフの力倆が見てとれる。それは、最初から執拗に「下手」とヒハンされつづけた鈴木真仁の声を「『チャチャ』になくてはならない」ものにしてしまったことについても同じだ。

 「私が伝説の王女さま?」と「なぜなぜ! アロー破れる」の回に至って、ほとんど『セーラームーン』の二番煎じにしか見えなかったこの変身シーンが、じつは『チャチャ』の固有性を雄弁に語っていたことが明らかにされた。

 いや、この二つの話にしても、玩具会社とタイアップした魔法ものアニメとしてはきわめてオーソドックスな展開だった。視聴率の下がる夏場に物語のヤマを設定すること、そして売りつくした玩具にかわって新しい玩具を売るべく主人公の使う小道具を変更すること――まあ春ごろから「どうせそんなことになるんじゃないか」と予想のついていた、定石どおりの展開ではあった。いやあ早いめに「プチビューティーセレインアロー」を買っておいてよかったよかった。

 ところで、少女アニメ、ことに変身ものの少女アニメが、スポンサーの玩具会社やその意向を承けた製作陣の一部によってまったく外在的な制約を受けるということは、たとえば『魔法のプリンセスミンキーモモ』第一シリーズの例を見ても明らかである。それはそれで問題にすべきだし、それがこうした作品そのものをつくるために大きな制約となっているのも事実だろう。そうした制約が課せられること自体、作品にとっては不幸でありかつ不当であるとも個人的には思っている。しかし、だからといって、こうした少女アニメそのものをもっぱら「宣伝のための道具」としてかたづけるという態度は正当ではないと思う。上の『ミンキーモモ』でもそうだし、この『赤ずきんチャチャ』でも、制作陣は、その制約にもかかわらず、またときにはその制約を逆手にとってまで、「作品」としての完成をぎりぎりまで追求しているのだ(『チャチャ』製作の内幕の一端は小説版『赤ずきんチャチャ』10巻(集英社コバルト文庫)のあとがきに小説版執筆者の山田隆司さんが書いている)。

 ちょっと話が逸れた。

 この設定編二話について独自性を挙げるとすれば、主人公についての重要な設定が明かされる話数であるのに、まともにシリアスにならずギャグを中心に流していた脚本・演出の秀逸さであろう。それは、それまでの『チャチャ』のなかでの最高の水準に属すると言ってもいい出来であった。といっても、私の感想からいうと、第一部前半では「最高の水準に属する」話が半分ぐらいを占めるんだけど。

 なにしろ、「私が伝説の王女さま?」でいちばん目立っていたのは、主人公であるべきチャチャではなく、第一にやっこちゃん、第二にソーゲスだったのである。ソーゲスはチャチャの素姓を告げるという意味でまだ物語上の重要人物だったが、チャチャの過去にはやっこちゃんはまるで関係がないのだ。

 あ、また脱線になるけど、ここでやっこちゃんについて一言しておきたい。

 やっこちゃんはマリンちゃん・お鈴ちゃんとともに「愛と勇気と希望」の三人組をてきとうに妨害しつつてきとうにバックアップする地位にいるキャラクターだが、他の二人よりもチャチャの物語に深く関わっている場面が多く、その意味で独特の地位にあるキャラクターのように思える。さっきの節ではやっこちゃんを鍵として話を進めたけれども、やっこちゃんはそういう語りかたのできるキャラクターであった。

 このことは、第一部はもちろん、マジカルプリンセス編終了後も、より「『チャチャ』らしい」という印象のあるエピソードではかならずやっこちゃんが活躍するということからもうかがえる。まあたんに某話担当の某脚本家さん・某演出家さんの好みという気もするけれど、私の印象では、やっこちゃんをよく動かすことのできる脚本家・演出家は、チャチャをはじめとする他のキャラクターを描くことについても一流の腕とセンスを持っていたと思う。

 さて話を戻そう。とにかくやっこちゃんよりチャチャだ。

 ところが、この設定編についての事態はそんなものではなかった!

 どこが「そんなものではなかった」のかを説明するために、回り道をして、ここでもういちどチャチャについての基本設定を思い出してみよう。

 はるか昔、平和に慣れたこの「魔法の国」は、とつぜん魔族によって侵略され、その支配下におかれるかに見えた。だが、そのとき、神から授けられたという三つの武器を持った少女がその魔族軍を打ち破り平和を取り戻した。これが初代の女王ジョアン一世である。魔族はジョアンによって遠い北の島に封印されてしまった。

 ところが、最近になって特別に強い力を持つ魔族の長が出現し、魔族を糾合して結界を破り、この国を侵略してきた。国王夫妻は石にされ、国王の父であったジーニアスは宝石に封じ込まれてしまった。このときの魔族の長が(第一部の)現在のこの国の君主すなわち大魔王である。そのなかから、親衛隊長であったセラヴィーは、ジーニアスを封じ込めた宝石とまだ赤子だった王女を救出することができた。その王女こそが、じつはあのおさわがせ魔法使い少女のチャチャなのであった。
 うーむ、この話のころは、この人たちも重々しい物語を背負ったキャラだったのだ、というのは74話まで見てからの感想だったりする。第二部になると、ジーニアスはわけのわからないアイテムのコレクターとして名を馳せ、ニャンダバーに乗って遊んでいたりするし、チャチャはチャチャでジーニアスどころか海坊主まで胸にぶらさげてあばれ回っていた(68話)のだから。

 しつこいようだが、これすらもそんなに独特な設定ではない。「大魔王」の設定などはまさに「常道」で『魔法陣グルグル』にも使われていることには多言もキタキタ踊りも要すまい。また、ギャグキャラ少女がじつは世界的に重要な地位にあるプリンセスだったという点では『セーラームーン』のうさぎとえらぶところがない。ククリもあいかわらずなんかたよりないし――などと書いていたら『グルグル』も終わってしまった。などと書いていたら『グルグル』の後番組である『怪盗セイントテール』まで終わってしまった。行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、というような話はおいといて。

 だが、たとえばこのうさぎの設定とチャチャの設定とのあいだにある、ほとんど顕微鏡的な微細な差異こそが重要なのだ。

 そこにこそ、『チャチャ』をその可能性の中心において論ずるための鍵がひそんでいるのである。

 一般に魔法少女ものでは主人公の魔法少女にはこうした因縁めいた過去なり出生なりが設定されている。それは『チャチャ』や『セーラームーン』だけではない。たとえば、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』では、初代のモモはフェナリナーサ、第二代めのモモはマリンナーサという「夢」の国を故郷として持っていた。そして、どちらのモモも、地上に「夢と希望」を取り戻させることでその夢の国を地上に復帰させることを目標としていたのである。

 『セーラームーン』シリーズでは、月の国(シルバーミレニアムとか言ったっけ? ずいぶん昔のことで忘れてしまった。ちなみに西洋占星術では「銀」は月に属する鉱物である)のプリンセスであったうさぎとその他のセーラー戦士たちは、その月の国を滅ぼした敵と戦うことを使命としていた。シリーズが進むにつれて戦う相手は変わってきたが、うさぎを含むセーラー戦士たちが守ろうとしているものは基本的に変わっていない。それを論じることがここの目的ではないので詳論はしないが、セーラー戦士たちが守護すべきものとしているのは、うさぎたちの住んでいるこの世界そのものである。女子中学生たち(ちびうさが来てからは小学生も?――まあそのへんの細かいことは措くとして)が、明るく、楽しく、純粋に、愛と友情を信じ、夢にあふれて、充実感をもって生きている世界である。ごく大ざっぱにいえば、歴代の敵は、それぞれの目的のためにこうした女子中学生たちのすばらしい世界をおびやかしてきた。その脅威を取り除くのがセーラー戦士たちの役割なのである。

 すなわち、『ミンキーモモ』シリーズにしても、『セーラームーン』シリーズにしても、その過去の設定は何かの寓意なのである。『ミンキーモモ』では、それは地上から失われた「夢と希望」の象徴であった。また、『セーラームーン』では、女子中学生の日常生活をたえまなく襲う不安が歴代の敵の象徴するものであり、それと戦ってうち克とうとする中学生たちの意志を物神化したのがセーラー戦士たちであるわけだ。
 『ミンキーモモ』や『セーラームーン』をこのように簡単に論じてしまうことに抵抗を感じる人も少なくないであろう。じっさい私とてこれらの作品をこのようにかんたんにかたづけることができるとは考えていない。だが、本論の重点はあくまで『チャチャ』にある。これらの作品についてはいつかまた詳論したいと考えているので、今回はこの一面的な記述を宥恕されたいと思う。

 では、チャチャの「過去」は何の寓意なのだろうか?

 こう問うてみたところで、私たちは気づくはずである。

 ――チャチャの「過去」には何の寓意もないのだ!

 チャチャが何を守るために戦うかといえば、すくなくとも「アロー破れる」までの時期にはじつにはっきりしている。自分自身を――あるいはせいぜいリーヤやしいねちゃんを守るためである。クラスメイトや友だちを守るという話がなかったわけではないが、それはチャチャに向けられた敵の刺客がそのクラスメイトや友だちを巻添えにしてしまったからにすぎない。

 「愛と勇気と希望の名のもとに」――とはいうものの、『セーラームーン』のばあいとはちがって、「愛」や「勇気」や「希望」といった抽象概念が守護の対象になったこともない。ミンキーモモが「夢と希望」を回復することを使命としたのともちがって、チャチャは「愛と勇気と希望」を回復することを第一義的にめざしてなどいない。

 第一部も後半に入ると、さすがに「他人の不幸に義憤を感じて」というような構成の話も出てくる。たとえば「完成! バードシールド」などがそうだし、「進め! マジカル忍者部隊」も、「赤の他人」ではないとはいえ、やはりその部類に属する。それでも、たとえば『セーラームーン』などでは「常道」になっている「他人の不幸」の話はやはり例外に属し、チャチャが戦うのは自分が狙われたときであるという例がいちばん多い。

 また、大魔王の支配を許すと世界が暗黒に覆われる、というような話も出てきていない。せいぜい海が汚れるとか、魔族が出没して特定の地方が荒らされるとかである。

 そもそもこの大魔王というキャラは何の「魔王」らしいワルイことをやっているのかあんまりよくわからない。まあ魔族をはびこらせて、裏でそれを操ってるってことはわかる。でも、魔族を操作するにしても、あいだに立つのがソーゲスとかヨーダスとかハイデヤンスとかではどうも頼りないし、けっこう頼りになりそうだったアクセスにはさっさと裏切られるし、なにより、国民は大魔王の支配する国でけっこうたのしく暮らしているみたいである。一部に魔族の跳梁で不幸な目に会っている人たちはいるわけだけれど、それはあくまで「一部」のマイノリティーらしい。それが団結して反体制勢力ができるほどの状況には立ちいたっていないようだ。「いまはそうやって安穏に暮らせても、しだいに暗黒勢力が侵略してきて世界は闇に……」なんていう、世界を覆う切迫感もこの作品には無縁である。

 そうである以上は「世界を救う」ことがチャチャの第一目的とはいえない。おそらくチャチャは「世界を救う」なんてことは口にしたことがないのではなかろうか(ジョアンについてはそういう表現があったが)。そうではなくて、自分のお父さんとお母さんを助けることのほうが、動機としては強い――いやほとんど唯一の動機のようである。

 つまり、チャチャを動機づけるものは、「他人の不幸」とか、「世界」とかいう、自分の身で実感できないようなものではない。そういう、いちど抽象を経なければ理解できないものではなく、もっとダイレクトに、まさに具体的に自分に関わってくる不幸とか、自分のごく身近な人を「救いたい」という信念とか執念とかいったようなものなのだ。

 チャチャの「過去」は、寓意をこめて語られた「寓話」ではない。それはまず第一に「歴史」なのである。

 理念やテーマに覆われ、しばしばその寓意を表現するために設定されていた「主人公の過去」あるいは「作品世界そのものの過去」を、まず「歴史」として取り出すことで、『赤ずきんチャチャ』は物語のなかの「歴史」を取り戻したのである。それは、いわゆる「テーマ」を第一義的なものとして作品を語ろうとする理念主義的な議論の場そのものにも脅威を与えるはずだ。

 ――いや、論を急ぎすぎたかも知れない。『チャチャ』に「歴史」はどのように現れているか――まずそのことから検討しよう。

 



三 「脅威を与えるもの」としての歴史


 私たちの生きている社会は歴史を持つ社会であろうか――と問うことは、けっしてバカバカしい問いではない。

 もちろん、私たちの生きている社会はもとより、地球にだって太陽系にだって「過去」はある。「過去がある」と表現していいかどうかはわからないけれど、すくなくとも宇宙創成後に現在のような物質が生まれて以来、放射性同位元素はそれぞれ固有の半減期でもって規則的に崩壊をつづけてきた。そうした「規則的な時間の流れ」は宇宙創成の直後まで遡ることができる。

 だから、放射性同位元素の崩壊する時間――水晶発振式の時計が刻む時間と同質である――を利用すれば、私たちは、電磁相互作用と「弱い」相互作用が分離した時期から、太陽系の成立した時期、地球上に人類が出現した時期、カエサルが暗殺されてローマ国王になりそこねた年、関ヶ原の合戦、フランス革命の起こった年、はじめて原子爆弾が戦争に使われた日と時刻、そしてなんなら奇特な貴殿がこの冊子を手にとって見られた時間までを同一の尺度の上にプロットすることができる。

 だが、残念ながら、そうした時間軸の上に各事件が起こった「時刻」を(ある場合には幅をもたせて)プロットしたものが「歴史」かというと、それはそうではないのだ。そんなものは、せいぜい「歴史」で受験するために受験生が使う道具の一つにすぎない。

 考えてみよう――私たちは、水晶発振式の時計が刻む時間の軸にプロットされた「過去」など、べつだん持っていなくても不都合はないのだ。いや、私たちは普通はそんなことは意識せずに生きているのである。「歴史」とは、私たちが意識しようと意識しまいと存在しているような、たんなる「過去」のことではない。すくなくとも、私たちが意識的に「解釈」を加えないかぎり、「過去」は「歴史」にはならないはずだ。

 社会全体が「過去」を「歴史」として解釈するという意識を持っていないとすれば、それは「歴史を持たない社会」である。そうした社会は事実として存在する。いわゆる未開社会はたいていそうである。

 「未開」なんてサベツ用語・ブベツ用語だと反発される向きは、そうした近代的な意味での「歴史」を「神話」その他のなかに埋没させずに「歴史」として解釈しようとする態度自体が特殊な「文明」の産物なんであって、そうした「歴史」を持つ社会のほうがヘンだと解釈してくださってもかまわない。

 もちろん、その西洋近代的な「歴史」の語りかたは、とつぜん無から出現したわけではなく、より人類に普遍的な基盤――「歴史」に対する原初的な「感覚」のようなものに根づいたものだと思う。げんに、中国にはhistoryの訳語としての「歴史」はなかったけれど、「史」という知の分野に関する伝統とその広がりは西・中欧など及びもつかないほどのものがあるのだ。また近代的な「歴史」の語りかたが「歴史」のある面を歪曲しているのではないかという疑問も私は持っている。だがそれはあとで論ずることとして、とりあえずここではそんなふうに了解しておいていただきたい。

 漫然と時間を過ごし、「過去」を「歴史」として認識しようとしない民族と、「過去」を「歴史」として解釈することのできる民族とをはっきり区別した一人にエンゲルスがいる。エンゲルスによれば、西ヨーロッパ人とポーランド人・マジャール人など世界でも一部の民族だけが、「過去」を「歴史」と解釈できる民族であり、すなわち「歴史を持つ」民族だった。それ以外の「アジア」の民――エンゲルスはロシア人をふくむスラヴ系の民族(ポーランド人のみ除く)をこの範畴に含める――は「歴史」を持たない。「過去」を「歴史」として解釈することができないからだ。そして、エンゲルスは断言する――「歴史」を持つ民のみが今後の歴史を作る資格を持ち、「歴史」を持たない民は淘汰され消滅していくしかない、と。それはいうまでもなくヘーゲルの歴史認識の影響の下に形成された歴史観だ。

 このへんのエンゲルスのスラヴ人観については良知力『向う岸からの世界史』(ちくま学芸文庫)を参照されたい。ただし、実践家としてのエンゲルスが、たとえばロシアの革命家をバカにしていたかというと、じつはそんなことはまったくない。まあ、ロシア語の詩をとうとうと暗唱してみせてから、「いや、ぼくはロシア語をこれだけしか知らない」としらばっくれたというイヤミなエピソードもあるにはあるが――まあそういう人だったのだ。そうかと思うと、後輩の社会民主主義者カウツキーの離婚した妻に思い入れて、カウツキーと疎遠になったというエピソードからわかるようにへんに純なところもある。

 こんなところともふくめて、この人もやっぱりセラヴィーに似ている。

 ともかく、このエンゲルスの発想を、ドイツ人たるエンゲルスのアジアやスラヴ民族への偏見とかたづけることもできよう。だが、エンゲルスのこの発想は、民族間の偏見に解消してしまえるほど底の浅いものではないと私は考えている。

 それはほかならぬ「歴史」の問題を扱っているからだ。

 そして、エンゲルスのこの発想を理解するためにも、私たちは『チャチャ』についての考察を進めなければならない。ま、ならないかどうかはわからないけど、やってみよう。

 この区別でいけば、私たちの社会はたしかに「歴史」を持っている。そう言ってさほど異論はあるまいと思う。

 しかし、社会が――あるいは国家や民族が――「歴史」を持っているということと、私たち一人ひとりがつねに「歴史」を意識しながら生きているということとは同じではない。むしろ、私たちが生きている社会の大多数の人間は、その生涯のほとんどの期間を「歴史」を意識せずに生きているはずである。

 ――そう、自分の素姓や、師匠が自分を弟子にし養っている経緯になど何の関心も払わなかった物語前半のチャチャのように。

 物語前半のチャチャは自分をめぐる「歴史」に何の関心も持たなかった。その関心のなさたるや、セラヴィーがそのあたりの事情を話しているあいだ、リーヤといっしょに眠りこけていたほど徹底している。チャチャ(小チャチャ)が、やっこちゃんに「忙しい子ね!」ということばをもらう(72話)ほど喜怒哀楽の表情をめまぐるしく転変させるのもそのことの傍証になるかも知れない。チャチャにとっては、現在が、その瞬間ごとが、それのみが重要なのだ。「明日は自分の誕生日だから、リーヤとしいねちゃんはその準備に手間をとられていて遊んでくれるひまがないのだ」というような理解はチャチャには自然にはできない。

 チャチャにはたしかに水晶時計が刻むような時間軸にプロットされた「過去のできごと」はある。しかし、それを自覚的に現在の自分と関連させて位置づけることには徹底して無関心だった。自分の素姓も知らなかったばかりか知ろうともしなかったのであるから。このチャチャのような状態を「歴史を持っていない」と表現してもかまわないと思う。

 歴史を持たないということは、現在の自分が「歴史を持った」社会とのかかわりにおいてはたしてどういう位置にあるのかがまったくわからないということでもある。物心ついたときからセラヴィー先生の弟子であり、また、物心ついたときからもちもち山に住んでいた。だから、いまもセラヴィー先生の弟子でいまもここに住んでいる。チャチャにわかっているのはせいぜいそれだけだ。あとはまったく「あるがまま」に生きているのである。

 ソーゲスが自分に「王女さま」と呼びかけるまで、チャチャはまったく即自的に生きてきたのだ。

 そこで、そうして即自的に生きているチャチャにとって、「歴史」とはどういうものであったか――それがここでの課題である。

 ちょっと待て、チャチャは歴史を持たない、すなわち歴史にはまったく無関心ではなかったのか、そんなチャチャにとって「歴史」とは何か、などという設問はそもそも矛盾ではないのか――という反論がここで予想される。というより私が読み手ならばそう反問する。だがこれは矛盾ではない。チャチャの側から「歴史」に関わらなかったからといって、「歴史」のほうがチャチャに無関心でいてくれるとはかぎらないからだ。

 「歴史」などという無生物がチャチャに関心を持つはずがあるか、と言われるならば(そういうのを「チャチャを入れる」というのだが)、つぎのように言い直してもよい。チャチャのほうが「歴史を持たない」者であったとしても、どこかに「歴史を持つ」者がいて、それがその「歴史」をチャチャにかかわらせてくるかも知れないのだ。

 げんに、多くの社会において「歴史」意識が喚起されるのは、「歴史」を持っていない状態の社会に「歴史を持つ」者が暴力的にかかわってきた時期においてなのだ。ナポレオン戦争におけるプロイセンや明治維新前夜の日本などがそのいい例である。詳しくは知らないけれど、20世紀の植民地解放闘争やそれにつづく新国家樹立の時期にも、多くのばあい、そうした段階があったのではなかろうか。

 そうやって、外から「歴史」に関与することを暴力的に強いられたとき、チャチャには自分にむりやりにかかわらされてくる「歴史」はどう映るか、ということを考えてみよう、というのである。

 「アロー破れる」までのエピソードではっきりと「歴史」を持っていたのは大魔王である。セラヴィーもたしかにチャチャをめぐる「歴史」は知っていたけれども、チャチャに対してはそんなそぶりを見せなかった。

 ちなみに、ソーゲスもどうも「歴史」については無関心みたいだから、この第一部前半の物語で「歴史」を持っているのは(セラヴィーを除くと)大魔王だけらしい。その大魔王が、そして大魔王のみが重要キャラのうちではただ一人、この時期の物語を通じていちども顔を見せなかったことは示唆的である。

 大魔王はチャチャには無関心ではいられない。「歴史」を知っているがゆえに無関心ではいられないのだ。チャチャは先王の正統の王女だからである。そして大魔王を倒す力を持っているのは、どうやらチャチャだけらしい(「輝け! うらら学園同窓会」)。

 それにくらべれば大魔王はだいぶ歩が悪い。大魔王の地位の正統性を保障するのは、大魔王自身が流した「大魔王は先王から平和に王位をうけついだ」という噂だけで、あとは全国にひそむ魔族の力と、どうも期待のできない側近どもと、それからおそらく全国人民の無関心があるだけなのだ。

 そーゆーわけで、どんなわけで、大魔王はチャチャを抹殺しなければならない。それは大魔王が大魔王でいるための「歴史」的な必要なのである。

 しかし、その大魔王に狙われるチャチャにとって、大魔王の意図はどう映っていただろうか?

 「歴史」を知らないチャチャは大魔王の意図を正確に見抜くことはできない。いや、自分に刺客をさしむけたのが大魔王であることも知らない。ま、ポスター破いて回ってるのが校長だと知らない春華ちゃんみたいなもんだね。まあ地道にみょーな執念を燃やすという点では大魔王と柳校長(春風高校とは関係ない)とはたしかに似ている――これを書いたときには似ていたのだけど編集にもたついているうちに柳校長はさっさと転向してしまった(と思ったらいまでは『H2』アニメ版も終わってしまっている)。

 さらに言えば、チャチャは、ことあるごとに自分を襲ってくる連中が自分にさしむけられた刺客であることも認識していないのだ。外に出たり、セラヴィー先生が留守にしていたりすると、どうもアヤシイ、アブナイ連中がたくさん出てくるなあ、という程度にすぎないだろう。

 だが、いかにノーテンキなチャチャでも、それが自分への脅威であることは感じているはずだ(まあ、そういうことにしておこう)。そして、自分の認識を超えたところに、そういう脅威を与える源泉があるということも漠然と感じているのではないだろうか?

 自分の認識の領域を超えたところにありながら、不断に自分に脅威を与えつづける源泉――それこそがまったく「あるがまま」に、即自的に生きてきたチャチャにとっての「歴史」の意味なのである。「脅威」というのが言い過ぎならば、なにかしら不安感をかき立てる存在と言ってもいい。ここではそういうものもふくめて「脅威」と呼ぶことにしよう。

 もうすこし説明しよう。チャチャに脅威を与えているのは直接には大魔王である。大魔王はその「歴史」ゆえにチャチャに脅威を与える。その図式は大魔王にとっては十分に意識的なものだ。

 だが、(物語前半の)チャチャにとっては、自分がくりかえし脅威にさらされているということしかわからない。チャチャはその脅威を与えているのが大魔王だということすら知らない。漠然と、自分に脅威を与える主体が、自分の認識を超えたところにあるということを想定できるだけである。つまり、ここで「大魔王」という個別の具体的な主体は、即自的に生きるチャチャには認識不可能であるため、消去されてしまう。そして、大魔王を駆り立てていた「歴史」が、大魔王という主体を通り越して、チャチャにとっての漠然とした「脅威」の源泉となるわけだ。

 即自的に生きる者にとって、「歴史」とはそうした超越的な――自分の認識の範囲を超えた――ところから「脅威」を与えるものなのではなかろうか? そして、「歴史」を意識せずに生きる大多数の人びとにとって、「歴史」とは、「自分が主体的に解釈した過去」ではなく、そうした超越的な「脅威」の源泉としてむしろ意味があるのではなかろうか?

 その「脅威」を「歴史」に附会する必要はないではないかという異論もあろうから、他のアニメーション作品の例も挙げておこう。「歴史」が、「歴史的事実」としてではなく、まずそれがもたらす「脅威」として感じられるということは、たとえばつぎのような作品からも読み取ることができる。

 たとえば『天空の城ラピュタ』で、ムスカにとっての「歴史」は、「歴史」を持たない少女としてのシータにはどういう意味を持ったか? ムスカが執拗にシータを追い回し、いろいろといたぶったあげくに生命まで奪おうとしたのは、シータがラピュタ王家の末裔であるという「歴史」を知っていたからだ。だが、それを知らないシータにとっては、ムスカの動きやラピュタという名まえは、自分の認識できない領域からくる「脅威」であり、そう言うのが強すぎるとすれば「漠然とした不安」であったはずである。そしてここではそうしたものも含めて「脅威」と表現している。ムスカの立場を大魔王に、シータをチャチャにあてはめれば、『ラピュタ』にあらわれる「歴史」の構造が『チャチャ』とまったく同じであることはかんたんに理解できよう。同じことは、自分では正体を知らないブルーウォーターの持ち主であるというだけで、やはり正体不明の敵に追い回される、『ふしぎの海のナディア』のナディアでも同様に言えるだろう(この点については鈴谷了氏の示唆を得た)。

 コナン・ドイルの――したがって辻監督が原画スタッフとして参加していたアニメ版ではない――シャーロック・ホームズものにはこのパターンの典型がいくつも見られる。「歴史」を知らずに気楽に――即自的に――暮らしていた者が、「歴史」を知っている者が絡む犯罪にまきこまれて窮地に陥り、解決を求めてホームズを頼ってくるというパターンは、むしろホームズものの一つのパターンだといっていいだろう。ホームズものの最初の長編である『緋色の研究』では、ロンドンで起こった奇怪な事件はじつはアメリカ合衆国ユタ州で起こった事件を「歴史」として背負っていた。『四人の署名』ではアジアのイギリス領植民地での事件の「歴史」がやはりロンドンでの事件の引金になる。『バスカヴィル家の犬』でも『恐怖の谷』でも同様だ。短編となると枚挙に暇ない。思いつくままに並べても、「ボスコム渓谷の惨劇」ではオーストラリア、「五つのオレンジの種」ではアメリカ南部の秘密組織での「歴史」がそれを知らないものに「脅威」を与えていたわけだし、その他「グロリアスコット号」・「踊る人形」・「ブラックピーター」などもその例である。

 『セーラームーン』シリーズの「歴史」にしてもじつは同様の構造を持っている。それぞれの敵が自分たちの街や仲間を襲う由来を知るまでは、セーラー戦士たちにとって、敵キャラが背負っている「歴史」は、自分たちの認識を超えた領域から自分たちを襲ってくる「脅威」の源泉以上の意味はなかったはずである。だが、『セーラームーン』シリーズのばあいは、その敵キャラの動機がなんらかの寓意――諦めや無気力であるとか「愛」の利己性であるとか――によって設定されていたために、この「歴史」の持つ構造は隠蔽されていた。『赤ずきんチャチャ』にいたって、それがほとんど寓意とは無縁であったために、「歴史を持たない者にとって歴史とは何か」という問題が露呈してきたわけである。

 では、チャチャはその「歴史」の脅威にどう対抗するのであろうか? 多くのばあいはチャチャが大ボケをかましているあいだにそれと知らず翻弄している――チャチャに敵意を持って追い回す敵キャラと、何の悪意も感じずに天然ボケで相手を翻弄してしまうチャチャとの落差が『赤ずきんチャチャ』のおもしろさのポイントなのだが、それはここではひとまず措くとしよう。ともかく、スポンサーの商売上の要請だかなんだか知らないけれど、チャチャと敵キャラはついには対決しなければならないときが来る。

 ……ともかく、である、「歴史」のもたらす脅威に、チャチャは――そして私たちはどう対抗しているのだろうか?

 



四 愛と勇気と希望のミラクルパワー


 なんかとってつけたようなタイトルだけど、内容もとってつけたように『共産党宣言』の話に移る。
 ちなみに「愛と勇気と希望」を最初に発案したのは第一部前半のメインライターのひとり山田隆司さんだそうである。それは、いったん、『チャチャ』は三人の「友情」の物語だからということで却下されかけた。それが変身のときの合い言葉として復活させられたんだそうである。さて、のちに『チャチャ』の演出家だった佐藤竜雄さんがNHK教育で『飛べ!イサミ』を手がけたとき、劇中劇のヒーロー「バーチャル戦隊ガンバマン」は、名のりに「愛と勇気と友情」というセリフを使い、キメのセリフとして「希望はそこにあるものさ」というのを使っている。
 ……わざとやっているとしか思えない。
 まあそんな話はどうでもいい。どうでもいいが、「どうでもいい」話こそが『チャチャ』の『チャチャ』らしい魅力であった。でもそれが『チャチャ』論の魅力であるかというと、本編と評論はまったくべつものである以上はそうとはいえないので、ともかく話を本筋に戻そう。

 マルクスとエンゲルスが中心となって書き上げた『共産党宣言』は、その後の全世界的な「社会主義」の広がりともあいまって、「共産主義革命を主張した文書」というイメージを持たれているのではないだろうか? すくなくとも私はそう思っていた。いちばん最後の文「万国のプロレタリア、団結せよ!」ばかりが全体の文章から切り離されて有名になってしまったことも、そうした見かたの結果であり、またそうした見かたを蔓延させる原因にもなったように思う。また、その直前の「プロレタリアは、革命において〔自分を束縛している〕くさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である」というような部分も、なかなか威勢がよく、ある種の人たちのロマンティシズムをかき立ててきたことであろう。

 けれども、この『宣言』が全体として「よーし、やるぞ!」といったアジテーションの文章でできているかというと、けっしてそうではないのだ。そういう期待を持って読むとたいてい第一章があんがいたいくつで難解で途中でイヤになってしまう。これではチャチャでなくても寝てしまうだろうと思う。

 『共産党宣言』全体の分量の半分弱を占める第一章で述べられていること――それはブルジョワジーとプロレタリアートの歴史である。この『宣言』でアピールしたいはずの「共産主義者たちは何をやるか」という問題は、その長い第一章につづく第二章にいたってはじめて出てくるにすぎない。

 この『共産党宣言』の独自性は、たとえば、それ以前の、やはり近代世界にとって重要だった「宣言」であるアメリカ独立宣言と比べればよく理解できよう。

 アメリカ独立宣言もたしかにアメリカのイギリス領諸植民地が「独立」することの正当性を主張するために、その歴史的な由来を述べている。だが、それは、いかにイギリス国王と本国議会が植民地を不当に扱ったかという事実の羅列にすぎない。

 それも当然である。アメリカ独立宣言にとって重要なのは、時代や場所によって変化することのない確固たる「理念」のほうだった。「すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の諸権利を賦与され」ているという理念こそが重要だったのだ。そして、イギリス国王は、その理念に反して自分たちを支配している、だから独立するのだということをアメリカ独立宣言は言っているのである。イギリス国王や本国議会がいかに植民地を不当に扱ってきたかという「歴史」は、その「理念」に照らして自分たちの主張が正当であることを証明するために引照されているにすぎない。

 アメリカ独立宣言の起草者・署名者たちは動態的な「歴史」よりも静態的な「理念」のほうをはるかに重視した。また、そうした純粋な「理念」を、「歴史」的な流れから切り離して取り出すことができるときわめて楽観的に考えていたらしい。

 このことは、たとえば、独立宣言の起草者であるジェファーソンが、『聖書』からイエスの弟子たちによる「歪曲」を取り除くことでイエスの「純粋な」教えを復原したということからも読み取ることができる。ジェファーソンはその作業がダイヤモンドをゴミのなかから区別するほど容易だったと書いている。

 だがそんなはずがないのである。考えてみればよい――現在イエスの言として伝えられているものを書き記したのがイエスの弟子たちであった以上は、そこでイエスの「直接」の教えとされているもの自体がすでにイエスの弟子たちの解釈によって「歪曲」されている可能性が大きいのだ。じっさい、吉本隆明の「マチウ書試論」のように、イエスという人物は実在せず、初期のキリスト教徒がその信仰を支えるために作り上げた虚構なのだという読みかたもあるのである。

 イエスの真の教えという確固たるものがもしかりにあったとしても、それをイエスが具体的な状況に直面して口にした段階、それを弟子がきいた段階、メモした段階、『聖書』としてまとめた段階、そしてそれをジェファーソンならジェファーソンが読んだ段階で、少しずつ、あるいは大幅に変化を受けているはずである。それぞれの段階で、イエス自身も、また弟子も読む側も意識的・無意識的な「解釈」を加えているし、そしてその「解釈」には、「教え」を口にしたイエスや弟子や読者が背負っているそれぞれの状況が抜きがたく反映しているはずだ。いわばそうした「歴史」の集積が、もともとあった「純粋」な「理念」を覆っているのである。というよりむしろ真相は逆だと考えたほうがいい。そうしたさまざまな「歴史」性を持つテキストからその差異を抽出することによって、「純粋」な「理念」というものが構成されるのである。ジェファーソンだってじつは自覚することなくそういう作業をやっていたのだ。

 ともかく、アメリカ独立宣言は、万古不易の「理念」を堅く信じ、「歴史」はそれに付着した不純物でしかないと信じるような人たちによって、起草され、署名された。それは、デカルトが「精神」の外の世界を「延長」で埋めつくし、ニュートンが物理法則を時間・空間の隔たりにかかわらず普遍的に妥当するものとして描いた時代から、そう遠く隔たる時期ではなかった。

 では、『共産党宣言』が「歴史」を論じているのも、共産主義の「理念」が正しく、ブルジョワジーがその「理念」に反していることを論証するためだったのだろうか?

 一見、そのように思われなくもない。

 だが、ここにも微妙な――そしてそれゆえに重要な――差異があるのだ。

 『共産党宣言』の「歴史」叙述はブルジョワジーの存在を否定しているわけではない。むしろそこではブルジョワジーが「歴史」に照らして正統の存在であることが論証されているのである。『共産党宣言』によれば、ブルジョワジーは「歴史」的にきわめて正常に生まれてきたという点でプロレタリアートと同等なのだ。ブルジョワ的だからケシカランという、タンジュンで情緒的な種類の――だからつねに「悪い」というわけではない(けど悪いことが多い)――レトリックとは、これはまったく無縁の認識である。

 しかし、じつはここにこそ『共産党宣言』のレトリックの強さがある。『共産党宣言』は、ブルジョワジーがそれ以前の封建的諸階級を階級闘争で打ち破ってきたことの必然性をわざわざ論証してやる。いまだに封建階級と闘っている後進国のブルジョワジーのためには、共産主義者は味方になってやるぞとまで声援を送っている。そして、最後に、そのブルジョワジーが、ブルジョワジー自身がその存在を確立してやった近代プロレタリアートに破れる必然性の論証をくっつけてやるのだ。

 つまり、ブルジョワジーは、このレトリックに依拠して自分たちが勝利する必然性を信じようとすれば、同時に、自分たちがプロレタリアートに敗北する必然性まで信じなければならなくなるのである。

 もちろん、『共産党宣言』の論調に見えるほどの力を当時のプロレタリアートが持っていたわけではない。しかも、当の「プロレタリアート」のなかで「共産主義者」が持っていた影響力もきわめてかぎられていた。だから、当時のブルジョワジーは、「共産主義者」が何を「宣言」しようと、たいして気にも留めなかったはずである。

 だが私はそういう「実証史学」のまねごとをやりたいわけではない。イギリスに産業社会と自由貿易体制が成立したのを契機に、これからの繁栄を存分に謳歌しようとしていたブルジョワジーに対して、『共産党宣言』のレトリックは脅威になり得たはずだということが言いたいのだ。しかも、じっさいに、その後の歴史のなかで、「共産主義」者は「共産主義」と名のるだけで、ブルジョワジーやその他の支配階級に、しばしば実態を超えた過剰な恐怖を与えてきたのだ。
 ところで、ここでちょっと註釈を入れておくと、この『宣言』は「共産党」とか「共産主義」を自称する集団や思想家のみの綱領として書かれたものではなかった。そもそも、「社会民主主義」とはちがう「共産主義」という思想の流れが成立したのは、この『共産党宣言』が書かれてからずっとあとだったのである。そもそもロシア革命前にレーニンが活動した政党だって「社会民主党」だったではないか。ここで「共産主義」とか「共産主義者」とか表現する対象は、今日でいう「共産主義」・「共産主義者」にかぎらず、ばあいによってはアナーキストの流れまで含む緩やかな概念として考えておくべきだろう。

 なぜそんなことができたのか?

 たしかにソ連成立以後は「あいつらにはソ連というオソロシイ後ろ楯がある」という恐怖があったのであろう(そういう感覚自体、しだいに了解不能のものになりつつあるようだが)。だが、支配階級の「共産主義」への恐怖はそれ以前から存在した。当時の「共産主義」者は、ソ連のような強力な後ろ楯ではなく、「インターナショナル」と称する労働者と社会主義者のうちわのサークルみたいなものしか持たなかったのに、である。

 それは、「共産主義」者が、「理念」ではなく、「歴史」を主要な武器として用いたからだ――と私は考える。

 現在の生活に満足し、繁栄を謳歌しているブルジョワジーには、「歴史」は必要のないものである。むしろそんなものは「終焉」していなければならない――いまあってはならないものだ。それこそ物語前半のチャチャのように、「即自的」に、何も考えずに時を送っていればいいのである。そして、物語前半のチャチャのように生きる者にとっては、「歴史」とは、自分の領域を超越したところから漠然と「脅威」を与える源泉だということは前述した。

 「共産主義」の戦略は、それを逆手にとるところにこそあったのではないか?

 積極的に、主体的に「歴史」を解釈することで、その「歴史」が生む「脅威」を意識的に利用する――そこにこそ「共産主義」の強みがあったのだ。

 即自的な生活をする者にとって「脅威」だった「歴史」は、それを主体的に解釈することで、みずからの武器として活用できるようになるのだ。このような過程を経た「主体」はもはや即自的な段階にはない。それは意識的に自分と他者の関係に省察を加えようとする「対自」的な段階にある。

 即自的に生きる者にとって「脅威」の源泉だった「歴史」は、対自的に解釈されることで、有効な武器になるのである。そして、そうすることによってのみ、「歴史」がもたらす「脅威」を撃退することができるのだ。じっさい、『共産党宣言』に則る(と称する)共産主義運動や共産主義国家群に対抗するために、ロストウの「近代化理論」など幾多の歴史の再解釈が生まれてきた。戦前日本のいわゆる「日本ファシズム」のイデオロギーも、やはり抜きがたい一環として「歴史」の解釈を伴っていた。それは、みずから「歴史」を再解釈しないことには、「歴史」の解釈をもって迫って来る共産主義に対抗できないからであった。幾多の共産主義批判のなかで旺盛な生命力を持ったのは、たんなる「理念」的な批判よりも、「歴史」を説得力のあるかたちで解釈しなおした批判なのである。

 さらに遡れば、『共産党宣言』だって、19世紀前半のイギリスで自由主義的ブルジョワジーがその「歴史」的立場を明確にしたからこそ書けた文書なのだ。マルクスは、『宣言』執筆に先立つ時期に、スミスやリカードなどの最高水準の「ブルジョワ」理論家の理論を研究し、それをプロレタリアートの理論として組みかえる試みをずっとつづけている(『経済学・哲学草稿』)。そして、『宣言』は、そうしたブルジョワ自由主義に対抗する形で、「歴史」を再解釈して世に出た文書なのである。

 別の面を見れば、マルクスもエンゲルスも、プロレタリアートがただプロレタリアートだからといって、その未来を祝福してはいない。マルクスやエンゲルスが祝福したのは、自分の「歴史」的な立場を、いわば「対自」的に自覚したプロレタリアートだけである。自分の「歴史」的立場に無自覚な、いわば「即自」的に生きているだけのプロレタリアートを、マルクス・エンゲルスは「ルンペンプロレタリアート」と呼んで軽蔑し、危険視した。それは、みずから「歴史」を解釈して自分の武器としないプロレタリアートは、味方として無力なばかりではなく、敵に容易に買収される、まったくの「おじゃま虫」だったからだ。

 マルクス主義の「唯物史観」にとって重要なのは、じつは生産力とか生産関係とかいうより以前に、自分から主体的に「歴史」を解釈し、それを武器として――あるいは呪文として――使いこなそうとする自覚なのである。

 「歴史」の脅威に、みずから「歴史」を再解釈することで対抗する――それは、大魔王の刺客に追いつめられて万策尽きたチャチャが、マジカルプリンセス(「大チャチャ」)に「ホーリーアップ」して対抗するのと同じだ。

 こじつけではない――というとやっぱりウソになるよなあ。たしかにこじつけである。けれども、そんなにムリなこじつけだとは私は思わない。そりゃそーだ、ムリだと思っていたら最初から書いてはいない。

 マジカルプリンセスに「ホーリーアップ」するというのがどういう状態なのか、正確にはいまだにわかっていない(と94年夏に書いたのだが、けっきょく最後までよくわからなかった)。物語前半のチャチャは、無自覚に、それこそ即自的に変身してきた。ただ、その後の説明で部分的には明らかにされている。それは、王女に初代国王のジョアン一世がなんらかのかたちで憑依した状態なのだろう。ビューティーセレインアローもウィングクリス(不死鳥の剣)もジョアン一世が使っていた武器なのだし、ウィングクラウンその他の装身具も共通している。ただ最初に描かれたときのジョアンはバードシールドを持ってないんですけど……。

 そして、そのジョアン一世は、ビューティーセレインアローとウィングクリスとバードシールドを用いて魔族を撃退したのだ。チャチャは、「ホーリーアップ」することで、そのジョアン一世の武器と力を使い、刺客を撃退しているのである。

 大魔王がその「歴史」ゆえにチャチャを抹殺しようとするのに対抗するために、チャチャは、ジョアン一世が大魔王の祖先にうちかったという「歴史」を持ち出して戦っているのだ。ふだんのチャチャにとって「歴史」は「脅威」の源泉でしかなかったが、「ホーリーアップ」することで、チャチャは「歴史」をみずからの武器として活用しているのである。そして、ビューティーセレインアローとウィングクリスとバードシールドを使いこなすチャチャは、こんどは大魔王のほうに、超越的なところから「脅威」を与える存在になるのだ。

 ちょうど、マルクス主義の想定するプロレタリアートが、ブルジョワジーと対抗するために「歴史」を武器として活用するのと同じように、そして、そうしたプロレタリアートがこんどはブルジョワジーにとって漠然とした「脅威」の担い手として現れた――「妖怪がヨーロッパに出没する」!――のと同じように、である。

 考えてみれば、大魔王がチャチャを執拗に捜したり命を狙ったりしなければ、――ソーゲスが正当にもいぶかったように――大魔王はチャチャのような小娘をこれほどまでに恐れずにすんだのだ。だが、チャチャを抹殺することは、国の支配者になった大魔王の「歴史」的立場からして必要なことだった。「歴史」的必要からチャチャを狙った大魔王は、それによってチャチャの側が「歴史」を武器として使うための契機を与えてしまったのである。そしてこんどは大魔王のほうがチャチャの持ち出す「歴史」によっておびえさせられることになったのだ。

 まさに、この大魔王は――マルクスが近代ブルジョワジーについて書いたように――「自分が呼び出した地下の魔力を使いこなせなくなってしまった魔法使いに似ている」。自分の「歴史」的必要を認識して起こした行為は、こうして、「歴史」をふたたび自分にとっての超越的な「脅威」の源泉というもとの姿に返してしまうのだ。そのことをこの大魔王の立場は雄弁に語っている。

 もともと超越的な「脅威」の源泉であった「歴史」は、それを使いこなすことで自らの武器となる。しかし、「歴史」を武器として利用することは、それによって自分の「歴史」に対抗する「歴史」を呼び醒まし、その「歴史」がふたたび自分にとっての超越的な「脅威」の源泉になってしまう――これこそが、「歴史」の過程における弁証法的な「止揚」の過程なのではあるまいか?

 



五 赤ずきんチャチャのブリュメール一八日


 おい、ちょっと待て、それは「歴史」じゃないぞ!――と、賢明な読者は反論されるはずである。「歴史」が憑依したりするものか。もしチャチャが「マジカルプリンセス」に「ホーリーアップ」するのがジョアン一世の憑依によるのならば、それは「歴史」の過程ではない。それは呪術であり、せいぜい「神話」でしかないはずだ。そして、そんな「歴史的人物の憑依」などという現象が近代世界にとって何の意味も持たないことは、古代の英雄がのりうつったと称して西洋と戦おうとした義和団の敗北で証明済みではないか。あるいは人によってはさらに進んで言うだろう――そんな呪術じみたことを「科学的」な階級闘争といっしょにしないでくれ、と。

 そうした反論はいちおうもっともである。ということで、「神話」とか「呪術」とかいった「非合理」なものと「歴史」との関係について書いておきたい。さっきの議論をするときにいったんその関係を断ち切ったわけだけれど、こんどは、あらためて、近代的意味での「歴史」がどこから湧いてきたのか、そのことを考えてみたいのである。

 こういう批判をされる方にはわかりきったことだろうけれど、「歴史」から「憑依」といった要素が姿を消したのは「近代」に入ってからである。前近代の歴史では、憑依とは行かぬまでも、現在の受験生など問題にならないぐらいの「あやかり」と「縁起かつぎ」がそれこそ大まじめに行われたのだ。

 たとえば鎌倉幕府を開いた源頼朝は自分たちの氏の祖を源頼義だと認識していた。頼義は前九年戦争で奥州の安倍氏を撃滅したときの軍事指導者である。さて、頼朝は、同じ奥州の藤原氏の征討に出発するときに、その頼義の「故実」にマニアックなまでに忠実にこだわっているのだ。

 まず、頼朝の最終目的地は、奥州藤原氏の本拠であった平泉ではなかった。平泉よりずっと北の厨川――盛岡付近――に、出兵当初から目的地が定められていたのである。それは頼義が安倍氏を最終的に撃滅した場所だった。そして、藤原氏の軍が瓦解し、首領である泰衡が家臣に暗殺されたことで、奥州征討の目的は達せられた後も、頼朝は予定どおり全軍を率いて厨川まで北上している。しかも、頼朝は、頼義が厨川を攻め落とした記念日をちゃんと厨川で過ごせるように最初から計画していたらしいのである。

 また、家臣に暗殺され自分のところに届けられた泰衡の首を頼朝はさらし首にした。頼義もかつて安倍氏の首領だった安倍貞任の首をさらし首にしたものだった。そして、頼朝が泰衡の首をさらし首にするときにとった一連の手続きは、首を打ちつけるときの釘の長さにいたるまで徹底的に頼義の先例をまねていたのである。ここまでくるとほとんどビョーキである。

 それは時代が降っても変わらない。足利将軍家は名まえの一字めを(尊氏以外は)「義」の字で共通させていたが、これは、足利将軍家の祖で頼義の息子であった八幡太郎義家にあやかったものである(以上、『朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読みなおす 武士とは何だろうか?』より)。実力だけがものを言ったように考えられている戦国時代の、それも有力な武将たちですら、思ったよりも縁起を気にかけていた。すくなくとも戦国初期の「軍師」というのはそうした呪術師の一面を濃厚に持っていたらしいのである。

 頼朝の行動を「デモンストレーション」と解釈するのも、また、戦国武将たちの縁起かつぎを戦意を高めるための合理的行為だと解釈するのも可能である。けれどもじつはそんなものではなかったのではないかと私は思う。チャチャが「ホーリーアップ」して先祖であるジョアン一世の力を授かるのと同様の意味で、頼朝も、奥州征伐に向かっているあいだ、先祖である頼義の力を授けられていると思いこんでいたのではあるまいか。

 先祖が憑依するなどということは、たんなる比喩をのぞいてありえないと考えてしまうのは、私たちが近代的意味での「個人」を前提として考えるからだ。近代的な「個人」というフィクションを前提にすれば、頼朝はあくまで頼朝、頼義はあくまで頼義であって、その人格が時代を超えてのりうつるなどまずありえない。もしそんなことを主張すればそれは精神の病いとみなされてしまうだろう。しかし、近代的な「個人」という考えかたを前提からはずしてしまえば、祖先が自分に憑依するというような、『チャチャ』の「マジカルプリンセス」のような状態はけっして異様な事態ではない。そして、私たちの歴史は、ながいあいだ、近代的な「個人」という考えかたを持たないままに進んで来たのだ。

 ちなみに「個人」という考えかたの虚構としての性格は士郎正宗の『攻殻機動隊』(押井守監督による映画の原作)によく描かれている。また、断っておくけれども、「虚構だから悪い」なんて私はこれっぽっちも思ってはいない。

 近代的な「個人」というフィクションを持たない者にとっての「歴史」とは、冷静に記述し読むべきものだったわけではない。むしろ、『チャチャ』の世界のように、自分に有機的にかかわってくる可能性をいつも持っているものだったはずである。『チャチャ』にはその歴史の「原形」が素朴なかたちで露呈しているのだ。

 だが――と反論はつづくかもしれない。ヘーゲルにしてもマルクスにしてもエンゲルスにしても、そうした「憑依」などという考えかたを認めない、近代的な「個人」の考えを確立した合理論者だったのではないか。就中、マルクスやエンゲルスは無神論者ではないか。どうしてヘーゲルやマルクス・エンゲルスの図式に『チャチャ』が入りこむことができるのだ、と。

 これだっていちおうたしかにそのとおりだ。

 『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の有名な出だしで、マルクスは書いている。「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ」と。

 余談であるが、これを読んで、ただちに『うる星やつら 2 ビューティフル ドリーマー』のさくら先生のセリフ「二度めは悲劇、三度めは喜劇というが、一生やらせておくわけにもいくまい」を思い出す人も多いだろう。このセリフがこのマルクスの文章をふまえていると考える必要はない。しかし、そう考えてみると、マルクスの「一度め」が二度めに、「二度め」が三度めになっていることに気がつく。いつから一回(=一階)ぶんだけ増えたのだろう? じつは押井守作品を解く鍵のひとつとして「二度め」というのはけっこう重要な地位を占めているのではないかと私は思っている。

 ――と思わせぶりな話で余談はおしまい。

 「一度め」のジョアンは大まじめだったが、二度めのチャチャは大ボケのチャ番ではないか――などと言って片づけることもできるが、もうちょっとこの『ブリュメール』の出だしにつきあってみよう。この出だしを単純に「歴史は繰り返す」という意味に捉えるならばそれはまちがいである。もし大まじめに歴史がくりかえすのであれば、一度めが悲劇なら二度めも三度めも悲劇であるはずだし、二度めが茶番ならば一度めだって茶番のはずだからだ。

 けれども上述の有名な出だしにはつづきがある。
 「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う侭にではない。…(中略)…死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである」(訳文は岩波文庫版に拠る)。

 ようするに、ここでマルクスが書きたかったのは、通常の変革期には例外なく過去のできごとが引照され、それを「再演」するという形式をとりながら、じつは新しい局面が切り開かれるのだということなのである。

 マルクスがそのことを見出だしたのは、過去のできごとがそっくりそのまま「再演」されてしかも何の新しい局面も開いていないようにしか見えないフランスの「異常」な状況と照らし合わせたときだった。マルクスはボナパルト大統領のもとでのあまりの政治的な時代錯誤の流れをただきゅーちゃんではなくきゅーだんしただけではない。マルクスはそんなおめでたい単純論客ではなかった。その「異常」な過程を、自分がもっとノーマルだと考える同様の変革の過程と比較し、そのあいだの「差異」に、まさに「差異」の重要性を見出だしたのである。そう、タレと楯は似ているが、その本質はまるきりちがう。「差異」の重要性とはそういうことなのだ――ときゅーぴふぇるちゃんも言っている(ほんまかいな?)。

 単純ないわゆる進歩史観はそのことを忘れている。それはたんに進歩するだけではない。たえずそれまでの歴史のなにがしかの過程を「再演」しながら、その「再演」に「差異」を持ちこむことによって「進歩」を達成するのだ。なんなら、頼朝があんなにまでマニアックに執着した「故実」へのこだわりが、つまり先行する「歴史」からの「憑依」を求めるというスタイルが、つまりチャチャの「ホーリーアップ」の過程が、その「再演」というところに封じ込まれていると表現してもいい。そして、その「再演」こそが、ヘーゲル的な弁証法の考えかたの鍵となっているのだ。

 『赤ずきんチャチャ』は、その点において、どんな伝奇もの・歴史もののアニメーションよりも雄弁に「歴史」の本質を提示しているのである。  



おわりに


 私たちはアニメーション作品を語るのに、テーマとかイデオロギーとかいった「理念」から語ることにあまりに慣れすぎてしまっている。

 私はけっしてアニメーション作品を語るのに「理念」を持ち出してはいけないと言っているのではない。そうではなく、「理念」に出発点と最終目標をおいたアニメ「評論」は、もはや作品に対する「評論」にはならないと言っているのだ。それは作家論(作者論、演出家論、脚本家論……)でも同様である。

 私たちは、たとえば『セーラームーン』シリーズを「愛」とか「友情」とかいう「理念」から語ることができる。『若草物語ナンとジョー先生』を「教育の理想」という「テーマ」から、『七つの海のティコ』を「自然保護」という「イデオロギー」から語ることができる。なんなら『ふしぎの海のナディア』を人種差別の観点から語り、それが表面的にはうやむやになってしまったことをもって、『ナディア』を失敗作と断ずることもできるかもしれない。

 けれども、その「理念」に照らして、この作品のここは「理念」に合っているが、ここはその「理念」とくいちがっている、などということを検証し、あるいはその「理念」に矛盾とか「破綻」とかを発見して作者に「批判」と称するたんなる悪罵を投げつけることに終始することが「作品」を語ることではない。いや、あえて言えば、そんな「評論」では、「作品」を語れていないことはもちろん、その「理念」や「イデオロギー」をさえきちんと語れていることはまれなのである。

 幸いなことに――かどうか知らないけれど――『赤ずきんチャチャ』は「理念」からはじつに語りにくい作品である。近年の押井守作品が、一見「理念」から語りやすそうで、じつはそうやって安易に語ればみごとに罠にはまるように出来ているのとある意味で対照的だ。

 たとえば『チャチャ』を論ずると称して「ギャグ」などという軸を立てたところで、それだけを基準に語られた『チャチャ』論なんてじつに的をはずれたものになってしまう。「少女もの」とか「魔法少女もの」とかいう「理念」を立てても同様である。まして、『チャチャ』を素材にして「政治改革」期の日本の民主主義の愚劣さを語れるものなら語ってみやがれ。

 「理念」というのは、アメリカ合衆国建国期の指導者たちが考えたほど普遍的・静態的なものではないのだ。「理念」が「歴史」を作るのではない。どんな「純粋」に見える「理念」にだって「歴史」が付着している。むしろ、その「歴史」を自覚的に解釈するなかから「理念」が析出してくるのである。だが、「理念」が抽出されたとき、その「歴史」は、まだ抽出されていないわけのわからないものをいっぱい含んだものとして、いっそう大きくなって現れているはずだ。そうしたブキミなもの、手に負えないものとしての「歴史」が私たちの生活にどのように顕現しているのか――『チャチャ』はそのことを如実に語ってくれている。

 近代の「歴史」叙述の「制度」は、「歴史」が持っていた役割をその弁証法的な過程のなかに封じこめ隠蔽してしまった。そして、それが、「理念」を優位において、ただそれを論証するためにのみ「歴史」が「引照」されるという語りかたを可能にしてきた。しかし、ほんらい、「法則」や「教訓」を正当化するために「歴史」を読むという読みかたは、「歴史」の正当な読みかたではない。

 だが、私たちは、依然として、「歴史」に「脅威」を感じ、また時としてそれを武器として利用しようとしている。それを正当に見ることによってこそ、私たちは弁証法的な「歴史」をはじめて直視したことになるのである。

 『赤ずきんチャチャ』は、こういった「歴史」の本質を雄弁に語ることによって、「理念」や「イデオロギー」を先行させるようなアニメ「評論」の場を解体しているのだ。『チャチャ』を論じることは、その困難のなかに身を投じることである。

                         (おわり)


 改訂:1995年5月、7月〜8月。
 第二次改訂:1995年11月。
 ホームページ掲載:1996年10月。
   ※ ごく一部の改訂を除き1995年11月版のまま。




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