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空談寸評

『サンサーラナーガ2』

RPG(スーパーファミコン)、ビクター、押井守 他


へーげる奥田


空談とは、ハイデッガーの用語で、存在の問題に関与しないクダラナい「お喋り」のことを指す。メンドーなので詳しくは書かないが、非本来的に頽落した語りとしての空談はしかし、それだからこそ「この世界」の非指示性を開示する可能性が……ないかもしれない。

 さて、『サンサーラナーガ2』だ。  私は、作品の「媒体」はその本質にあまり関係ないと考えている。絵画でも、音楽でも、映画でも、それが鑑賞され、人間の「記憶」となった段階で無差別だという意味である。それはあたかも、コンピュータのさまざまなプログラム言語が、コンパイルの結果みな同じものとして解釈されるのに似ている。

 鑑賞者がある程度の能動性を発揮する「ゲーム」という媒体も、よって他の媒体と同列に評じていいのではと思う。もっとも、この双方向性は非常に重要な論ずるべき意味を含んでいるのだが、「寸評」だからここでは触れない。  スーパーファミコンでリリースされたこの作品は、私の知る限り押井守のゲーム第2弾だ。第1弾はそのまんま『サンサーラナーガ』(ファミコン版)であり、これはまたモノスゴくレアなゲームで論ずるべき点も多いのだが、やはりここでは触れない。

 第一作よりずいぶんと普通のゲームになった観があるが、それでも「いかにも押井」といった匂いが紛々としているストーリーは、ある逃走者の追跡の形で語られる。前作においては盟友として登場したアムリタは、その名のみ語られ、物語世界を外部から規定しつづける「額縁の外の王」の役目を負う。これは基本的には『パトレイバー劇場版1』の帆場のケースと同等の構造だといえるだろう。

 何重にも多重階層になった世界。追跡を続けるうち、世界はゆっくりと崩壊を始める。『百億の昼と千億の夜』にも似たその終末感、また自己の属する世界に対する懐疑、漠とした荒野に繰り広げられる死闘。とはいえ、キャラクターはかの『しあわせのかたち』の桜玉吉であるから、深刻を気取った閉塞感はない。

 余談だが、「ソバをたぐる」という表現がやけに気に入っている。世界になぜか点在する立ち食いそば屋「はらたま」のテーマ曲は、いまもときどきCDで聞いている。


1996/08


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