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空談放言



あるバトルにて ──宗教な人への反論



 これは1993年頃某パソコン通信のフリーボードにて展開されたバトルの一節である。へーげる奥田は過去けっこう多数のバトルをあちこちでやっていたのである。この当時、『押井論』という文章を書いていたためけっこう内容にだぶるところがあるが、先日ディスクの整理をしていたら出てきたのでつい懐かしくなって載せることにした。

 「神秘家」と名乗るちょっとアレな人が、当ネットのフリーボードで宗教談義を展開、過去にあるほとんどすべての学術や宗教は嘘っぱちだとか、自分の神秘学(?)だけが宇宙の真理を言い当てているのだとかいろんなことを演説していた。それにちょっとレスをつけたところ、「信仰している宗派の丸暗記している教義か或いはその教義を門前の小僧習わぬ経を読むの伝で聞き齧っ」ただけだとか、「単に教科書等で知っているだけの哲学者本人に成り代わって、私の主張の間違いを指摘して」いるだけだとかいう攻撃的なモノイイをするものだからちょっとムッとして長々書いてしまったのだ。結果、当のお方は沈黙したが、教訓として、フリーにあんまり長い書き込みをすると怒られるとゆーことを学んだのであったのだった。ぎゃふん。


へーげる奥田






 最初にお断りしておきますが、ハッキリ言って長いです、コレ。こういうハナシにご興味ない方は次のアーティクルにジャンプされることを強くおすすめします。

 さて、私これより、神秘家氏のご意見に対して異論・反論等展開しようと考えております。ただ最初に言明しておきますが、私は神秘主義や宗教に関しては全くの無知であり、何ら専門的知識を有しておりません。従って、氏のおっしゃる説の真偽に関する言説を、というのは私にはどうも荷が重い問題であるようです。 加えて、聞けば何でもかかる神秘主義などに関して30年ものご研究をされている由、私ごときの功夫では、仰る通りまさに門前の小僧の謂がまさに順当というものでありましょう。しかしそれでもなお、私には氏の説、およびそのものの考え方といった部分に、いくつかの疑問点を払拭できません。そこで、ここはやはり我田引水の哲学畑にて、その根本的立場に立ち返ってあれこれとあぶくを吐かんとするものであります。未熟な若輩者の戯言とお聞き流しのほど。

 さて、まず基本的な私の立場を一言。少なくとも現在、世界や人間などの諸問題について、完全に無矛盾に記述することに成功しているいかなる学説も私は知りませんし、これからもそういうベンリで都合のいい体系が出現する可能性は極めて少ないと考えています。数理哲学におけるバートランド・ラッセルの野望は、ゲーデルの論文『プリンキピア・マテマティカ及び関連する体系における形式的に決定不可能な命題について』に述べられる不完全性定理によって潰えることとなった訳ですし、たとえばまたハイゼンベルクの不確定性原理なども、時代が「認識のオプティミズム」の限界に気づき始めたひとつの例でありましょう。 そもそも現代という時代が思想史の中でも極めて特異な時代であることは、多くの思想家や研究者の意見を同じくするところであります。かつてはいちいち論証や検証を要しなかったような諸問題、すなわち議論そのものより、その議論の場となる前提自体がそもそも不確かであってたやすく信じ得ぬものであることが次第に明らかとなり、知的探求の形態も、かつてのような神の認識を辿って行く「世界の知」、また世界に内在する存在物に対する「世界利用の知」といった形式から、存在論という新たな地平、また世界内存在としての人間と世界との解釈学的循環を前提とした関係論、またその背後に横たわる構造の記述、さらには伝統的な「知」そのものの形式自体への問い直しというパラダイムへと変化を見せています。中でも、ここで私が述べようとする部分は、神秘家氏の説の基本的な部分にかかわってくるのです。

 完全性を持ち、なおかつ無矛盾な体系への欲求は、人類が常に追及し続けてきた夢の問題意識でした。しかし現代において、もはや絶対的な価値の機軸といったオプティミズミックなものが存在し得ないこと、さまざまな記述の体系の間には「真偽」という明確な差異があるのではなく、単に、いかに物事をより効率的に記述し得るかという経済性の原理だけが存在するに過ぎないことが明らかになってきたというのが客観的な状況ではないでしょうか。

 たとえば、その最も顕著な例として、ユークリッドの「公準」の崩壊などをあげることが可能です。「公準」とは、証明をすら要しないような自明の前提条件であり、例えば「ある直線上にない一点を通って、その直線に平行な直線は常に一本である」などといった論理記述がこれに当たります。ユークリッド幾何学は、いわゆる自然的態度、技術的思考を持たない素朴で直観的な観点においては疑問の余地がないように思えます。しかし現代において、ユークリッド幾何学の普遍性・真理性が実は誤りであり、それがn次元多様体の特殊例でしかないこと、あくまでそれが、われわれの視覚的思考という限定された公理系に依拠する「相対的な知」であることは、もはや誰もが疑わぬところのものでありましょう。

 これはまた、たとえばレヴィ=ストロースの『野生の思考』に展開されるトーテミズム仮説への批判などの研究によって引き起こされた西洋白人中心主義への疑問、また彼とサルトルとの方法論争によってあらわとなった、進歩や最適化をのみ善とする西欧合理主義への疑問、またフェミニズム運動が提出した近代形而上学の男性中心主義への疑問など、人文科学においての従来の絶対的価値の揺らぎなどにも、その一例をみることができます。

 神秘家氏の態度には、どうも「絶対的価値」といった旧来のものの考え方が支配的に働いているような印象を、私は受けました。氏はさまざまな知の体系から「普遍性のある真理」を得ることの可能性を述べられますが、私にはそういったものの考え方そのものが疑わしいものに思えます。価値や、人間がものを見る視点、思想の展開する「場」となる知的地平そのものなども、時代や状況によって常に相対的に変動するのではないでしょうか。例えば、氏は癌の治療の問題を現実的な効用の一例にあげられますが、それすらも決して普遍的なものではありません。癌にかかったことを一つの運命と考え、あえて延命を求めず死んでゆくといった態度は、はたして自然法則に反しているのでしょうか。氏は経済的に富み、なおかつ自己の「富み意識を確認し」、「自分が益々富む為に」貧乏な者への施しをすることが自然法則=真理であるとのべられますが、私にはどうもこれが自然法則=真理であるとは(そしてこのことをイエスが説いたということも)、信じられぬような気がいたします。この行為は、例えば貧富の概念を持たない共産主義社会(むろん仮定の社会ですが)においても妥当するのでしょうか。そもそも経済的な成功がすなわち善という考え方そのものが、ひとつの誤謬なのではないでしょうか。病気が治ることは常に正しいことなのでしょうか。「病気は治すべし」という結論を出す思想だけが、いつも必ず正しい思想なのでしょうか。「幸福」は常によいものであり、「不幸」はいつも悪いものなのでしょうか。人間はひたすら「幸福」を追及して行かなければならないのでしょうか。「自然法則=真理」とは、そのための道具にすぎないのでしょうか。

 私は、「人間は快を求め不快を避ける」という功利主義的な考え方は必ずしも恒常的な正当性を保証される訳ではないと思います。なぜなら人間は、古典派経済学や限界効用学派が説いたような、論理的に、機械的に功利を判断する存在ではなく、それぞれが自己の独自の世界解釈を(それは時として非合理的で、因果法則とやらに反していることだって決して少なくありません)持ち、そして場合によっては、その自己の世界解釈に命すら賭ける不条理な存在だからです。「テンノウヘイカバンザイ」とか叫んで自分から特攻出撃していった若者の心理を、私は理解できません。しかし、それが彼の世界解釈にとって「真理」であっただろうことを了解することはできます。それは残念ながら、彼にとっての「私の真理」であって「普遍的な真理」ではなかったということでしょう。しかし、だからといって、自己の世界解釈に殉じたひとびとの行為を、因果の法則に反しているからといって「誤りだ」と決めつけるという態度が、いったい傲慢でなくて何でありましょうか。「知の地平」そのものへの問いの欠落、これが私の疑問の第一点です。

 セオリーという言葉があります。神秘家氏は語源からその本質的意味を明らかにしようという考え方に反対されているようですが敢えてこれを試みれば、これはギリシア語のテオリアをその語源とし、「観照」すなわち「観ること」をその意味とします。 シュペングラーもまた、著書『西洋の没落』においてギリシア文化に内在する「アポルロン的」な文化類型を「明晰な視覚」の文化精神と称しましたが、実際のところ西洋的思考の伝統を継承するわれわれの文化もまた、少なからずこうした「観照」の知という形式に、永きにわたって拘束を受けていたといってよいでしょう。といいますのも、近代から現代にかけて、多くの思想や学説等におけるその視覚的な知的形式の限界が次第に明らかになってきたことなどから類推することができます。

 こうした「知の視覚からの脱却」は、たとえばデーデキントの無限小解析やカントールの集合論などに代表される「数学の算術化」の知的動向、またニュートン的力学に対するマッハの批判などに顕著に見ることができます。もっと卑近な例を出せば、たとえば情報処理の世界においても、3次元テーブルまでは視覚的にその概念を把握することができますが、4次元テーブル以上となるとこれを視覚的に理解することは難しくなってきます。数学者はテッサラクトの存在を知っていますが、われわれには4次元の超立体を「見る」ための認識能力のカテゴリーが不足しています。しかし、視覚を超越しているからといってそれが「嘘っぱち」であるとは言えません。それは、われわれが技術的思考という方法を持っているから、(たとえそれが近似値的な知にすぎないとしても)到達できることなのです。

 直観だけを信じるならば、地面は平面としか考えられません。しかしわれわれは、アレクサンドリアとシエネの井戸に差し込む太陽光線の角度を自分で計測した経験がなくとも、遠ざかる船が船体から水平線に隠れるのを見送った経験がなくとも、大気圏外を旅行した経験がなくとも、自分の立っている地面が平面だという直観は実はあやまりで、実はそれが球面であるということを知っています。これは、個人的経験や直観を超えた「技術的思考」の成果です。

 カントが『純粋理性批判』において述べたように、人間には限定された認識のカテゴリーしかありません。人間の認識能力が「絶対的真理」などにけっして到達し得ないことは、われわれが地球の姿をそのまま認識することができないことと事情を同じくするものなのかもしれません。にもかかわらず、「絶対的な真理」なるものを無理にそのまま悟ったような気になったり、またそれを記述しようとすることは、実物大の地球儀を作ろうとする愚ではないかと、私は思います。

 私は、さまざまな学術や知的体系の営為とはあたかも、通常の認識力をはるかに超えた大きさを持った「球」であり、われわれ自身がその上に存在するというパラドキシカルな関係にある地球を、2次元である「地図」に投影するという作業に似ているような気がします。「究極の地図」は決して作成できません。しかしそれでもわれわれは、さまざまな図法による地図を作ります。それはあるときは登山家を助け、またあるときは学生に世界を教え、船を導き、他の諸学術に情報を提供し、そしてその地図たちのすべての記述からわれわれは、「近似値的な世界の姿」を知ることとなるのです。われわれは「これひとつあれば全部OK」という便利な地図をまだ持ちません。そして将来現れるであろういかなる地図も、その「近似値」をより精緻なものにしていくだけであるということにほかなりません。「哲学は死の学びである」という謂の一つの意味は、こういうことなのかも知れません。

 こういったことは、技術的思考の結果として導かれたものであり、単なる直観や希望論、目的論などによるものではありません。直観的な思考は、限界を持ちます。そして人間には、知の限界の「外」を思考することが困難です。数の概念をあまり重要視しないある未開社会では、5以上の数をすべて「タクサン」と称して無視してしまうという話を聞いたことがあります。われわれも、自分の限られた知識や経験で及びもつかない問題に対し、同様の立場、すなわち超個人的な技術的思考を要する問題を、「ムズカシイモンダイ」として無視するという態度をしばしばとります。また人は時として、自分にとって理解できない問題や、自己の生活世界に直接のかかわりをもたない問題の価値を軽視しがちです。たとえば法律の専門家は、画期的な処理速度と使用性を持ったプログラム言語コンパイラが開発されてもあまり興味を示さない場合もありますし、幼稚園の児童はトポロジーやカタストロフ理論など高等数学の講義を受けたとしても、それを「内容空虚な出鱈目な教義」にしか解釈しない場合があるようです。そしてなお悪いことに、われわれの多くはしばしば、ある問題について専門的知識がないことと、全体的・俯瞰的な展望があることを混同するといった過ちを犯します。通常の知、個人的な知の限界を超えるために超個人的な技術的思考が絶対に不可欠であることは、自然科学や情報技術の分野に限ったことではありません。

 神秘家氏はまた、「暗記」をよくないものとされるようですが、それはどうも昨今の週刊誌や新聞社説などによってさんざん喧伝された詰め込み教育批判論の亜流のように思えます。「暗記」は決してよくないものではありません。知識を持っただけの「学者」をあれほど痛烈に批判したニーチェにしろ、彼自身文献哲学者としての凄まじいばかりの膨大な知識があったことは周知の事実です。むしろよくないのは、「暗記」しただけでやめてしまうこと、知識の暗記そのものを目的化してしまい、思考することを怠る態度の方ではないでしょうか。たとえばプログラマがコンピュータのシステムを開発するという作業は、数々の情報理論、ハードウェアの知識、構造化理論、システム工学などの知識、また開発言語の基本文法などを暗記していなければ話になりません。まったくの素人が端末の前に座り、ランダムにキーをたたいてシステムが完成する確率は、ボレルの猿がタイプライターで『フェードル』を書き上げる場合より若干ましなくらいでしょう。

 私はかつてさまざまな論客と論戦してきましたが、中には私に対して、私の説は過去の思想家の意見を繰り返しているだけだという批判をした人もいました。しかし私は、過去の学説というものを、思考を正しい方向に導き、単純で無駄な思考ステップを効率的に回避するため作成され、多くの研究者によってその正当性を徹底的に検証されたプログラム・ツールに過ぎないと思っています。ユーティリティのソフトを使うことは、必ずしもオリジナリティの欠如を意味しません。むしろコンテクストのいかんに関係なくただ最初からの主張を繰り返すだけのその人に対し、私は彼が「自分の主義思想を棒暗記」してしゃべっているような印象をすらおぼえました。知のオリジナリティという問題は、ただ自分で思いついたものでさえあればいいというものではありません。あくまで正しく考える判断力、論理に従う誠実さと勇気が問われなければならないのではないでしょうか。

 知的営為における技術的方法は、思考を型にはめてしまい、自由な思考を封じ込めてしまうという批判をする人がいます。これは昔、字数の限定されたコラム欄や短い論説においてしばしば扱われたオヤクソクのテーマなのですが、じつはあやまった考え方です。ほとんどのスポーツは、個人の個性を伸ばす訓練の前段階として、基本的な「型」を覚えさせるというトレーニング法を取ります。私の個人的体験を述べさせていただけば、素人の人間に関節技をかけた場合、おもしろいことにみな同じような逃げ方をしようとします。技術的方法を持たない人の行動は、過去の思考形式の束縛を受けていないから自由だと言う人がいますが、数少ない例外を除いて事実は逆のように思います。非・技術的な行動や思考は実は非常に限定されたものでしかなく、たやすく予見することができます。逆に、サブミッション系格闘技の技術を知っている人は、柔道なら柔道、サンボならサンボにおける基本的・技術的動作を知っていて、その上に自分のオリジナルな技術を加えて返して来ますので、そういう人の行動はたいへん自由で恣意的であり、たやすく予見することができません。知的営為にもまた同様なことが言えます。むやみに無作為さを礼賛する純粋主義、いわゆるピュアリズムが流行した時代が過去にありましたが、人間の無作為な行動や思考はたいてい単純で、統計学的に処理すること、また作為的に操作することができます。

 また、日常の問題の解決に役立たないような知的体系をすべて無意味であるとする考え方にも、私は賛同することができません。ハイキングに役立たないからといって世界地図は「嘘っぱち」ではありませんし、債務取り立ての手続きに役立たないからといって憲法は「間違っている」とは思いません。また「日常の問題」という言葉自体、非常に私的な概念ですから、これを安易に命題関数として扱うべきではありません。論理積とか排他的論理和とか、またシンタックスとかセマンティクスとかいった形式論理学の用語は、一般の方々にとっては「日常の問題の解決」にはあまり役立たないものかも知れません。しかしわれわれ情報技術者にとっては、これらは日常の問題を解決するためのものどころの騒ぎではありません。知らなかったらメシの喰いあげ、極めて「実践的な」知なのです。自分の日常に関係しないからといって特定の知的領域を否定することは、あまり公平なものの見方ではないのではないでしょうか。私は実はポスト構造主義など反人間主義の現代諸思想はあまり好きではないのですが、それにしても未来の、現在と異なる新たな知の形態を模索する意味で重要な知的営為であると考えています。

 神秘家氏は、宗教や科学や哲学の示す唯一の原理は「原因=結果の因果必然の法則」であると述べられますが、いったいこれはどのような論理によって到達した結論なのでしょうか。私には宗教の知識や科学の知識はほとんど全くありませんが、どうも最近の宗教関係者は口をそろえてこの「唯一の」教えだか原理だかを叫ぶ傾向がみられるように感じます。しかし例えば、神慈秀明会と統一教会の言っていることはどうも違うような気がしますし、高橋信次とハレ・クリシュナの「唯一の原理」はどうも別物のような気がします。それとも、やはりこういう人々はみんな「偽物」なのでしょうか。経済学や社会学の世界では、学説が妥当しない現実の状況に対して説明を求められると、あれは「例外」だといって逃げるということが非常にしばしば行われてきました。しかし、現実の世界の現象を「例外」というのは実はたいへん不誠実な知的態度です。ガルブレイスは、ある学説を覆すのは、それに勝る優秀な学説ではなく、その学説で説明できないような状況の出現であると言いましたが、これは人文・社会系の学術にかぎらぬさまざまな知の領域に妥当する考え方だと思います。

 話がそれましたが、先の「原因=結果の因果必然の法則」に関して言えば、少なくとも哲学の体系が記述している多くの問題はこればかりに尽くものではありませんし、宗教に関して言えば、門外漢の目から見ても、「原因=結果の因果必然の法則」といった素朴で単純なたったこれだけの問題を述べることが目的であるにしては、世界中の全宗教の言説はいささか多くのバイト数を使い過ぎなのではないかと思います。

 たしかに、この「原因=結果の因果法則」が重要な法則であることに異論はありません。この世界がある法則性を持っていること、そしてそれを利用することは、あらゆる生命体が実践していることです。この世界が法則性を持っていることをあるていど理解することできなかった生物、それを利用し得なかった生物は、遺伝情報を残すことができなかったと考えられています。しかしそれを、厳密な意味でわれわれが理解しつくし得ることは本質的に不可能ではないかと思えますし、ましてそれを人類のあらゆる知的営為の唯一の目的としてしまうのは、単なるドグマではないかとさえ私は思います。

この世界の因果律の記述は、論理実証主義の論壇によってプロトコル命題という形で研究されています。「記述された思想や真理などといったものは人が生活に役立てるための道具にすぎない」といった考え方も、アメリカプラグマティズムや「生の哲学」などの諸学派が古くから徹底的な研究をかさねている問題です。しかし、けっしてそれが「すべて」であり「唯一」の問題ではありません。それは、さまざまな図法の地図のほんの一例、そしてその「読み方」のひとつに過ぎないのではないでしょう か。


 以上、技術的思考の軽視の傾向と、そこから生じると思われる問題の過度な単純化、また問題に対するドグマが、私の疑問の第二点です。

 最後に、これは私の無知からくる問題かもしれないのですが、「神秘主義」という立場とはいったいどういうものなのでしょうか。私の存じているいわゆる一般的な「神秘主義」といえば、まあ新プラトン主義とかユダヤ神秘主義とか、また神智主義とかオカルト主義とか、通りいっぺんのものに過ぎません。言葉の定義がよくわからぬため、私は氏の立場にたいし、基本的態度を決定することができない状態です。 単に近代合理主義や西欧形而上学の根底を批判する立場を言うのならば、後期ハイデッガーやミヒャエル・エンデやニーチェやノヴァーリスやデリダやユングや……みんな神秘主義者でしょうし、それならば私自身も神秘主義者です。逆に、「神秘体験」による認識論的切断を契機とし、論理的な説明を強引に押さえ込んでしまうような思想全般を指すものだとしたら、私はそういった立場に反対です。後者の「神秘主義」は、歴史上多々あらわれ、現在もなぜか根強く生き残っています。こうした性質の「神秘主義」は、時に危険な問題をも引き起こします。

 科学を学んだ方ならご存じのことと思いますが、17世紀ヨーロッパより勃興した科学的文明とは、人類史上二度目のものです。実験科学的方法と論理的思考をもって世界を解釈せんとした最初の文明は、紀元前600年ごろのイオニアで発達しました。しかし、それは神秘主義の台頭によって極めて悲劇的な破壊という運命を辿りました。

 人間には、論理的に問題を解決しようという性質がある一方、よくわからない問題を「神秘的」な事象に還元してしまうという好ましからざる傾向を捨て切れないようです。それはたとえば、ほほえましい例として、「ミステリーサークルがある」「原因不明」「宇宙人のしわざ」という子供じみたものから、悲劇的な例として、「関東大震災」「在日中国人の反乱?」「虐殺」という悲劇的な事件まで引き起こします。昨今の世界状況において憂うべきことは、山積する問題を論理的誠実さをもって解決してゆく努力から逃避し、神秘主義や狂信的宗教などに依存しようとする知的態度が台頭を見せていることです。こうしたタイプの神秘主義は、思考を省略します。いろいろな立場の人々を納得させる議論を展開することは、非常に多くの論理ステップ数を要し、その構築にはたいへんな知的努力を強いられます。しかしこうしたタイプの神秘主義はなぜか、自分が頭から信じていることを他人も一緒に無条件に信じてくれるはずだという妙な期待をもってしばしば語りかけてきます。私などはこの性格ですから、神慈秀明会の「オガマセテクダサイ」とか幸福の科学の勧誘とかにいちいちちゃんと論理的な説明をしてやったものですが、彼らは私がしゃべっている間中ぼうっと虚空を眺めていて、結局とにかく私が彼らの誘いにどうしてものってくれないことがわかると、どういう訳か判で押したように「あなたはカワイソウナヒトだ」と言って立ち去るのです。可哀想な人なら余計救済してくれてよさそうなものですが、幸か不幸かそういう反応にはいまだお目にかかったことはありません。私としては、彼らがなぜそんなに簡単に非論理的な勧誘の言葉に乗ってしまうのかどうしても理解できないので、ぜひちゃんと説明して欲しいのですが、どうも私にはそういった神秘体験に基づく世界に「乗る」ことができぬようです。

 神秘家氏は、たとえば特定の人に対して、宗教などの根本的な真理とかメッセージとかを「全くといってよい程理解していません」と断言されるようですが、これはいったいいかなる根拠に基づいてのご発言でしょうか。もちろん私はひろさちや氏にもカーネギーにも会ったことはなく、著書もほとんど(カーネギーは昔一冊読んだことがありますが)読んだことがありませんから、あまり云々できません。しかし私の研究したことのある思想家について言えば、たとえ実際に会って何日も話したとしても、ましてその思考の残滓である著書を読んだくらいで、その人物が真理を悟っているかどうかなどとても知り得ることはできません。また氏は外にも、「唯一の〜」とか「〜はこれ以外にない」とかいった言説が目立ちますが、やはり私にはこういった断定はなかなかできません。これらの「断定」の根拠は、いったいどこから来るものなのでしょうか。思考の方法と言説の問題が、私の第三の疑問点です。

 以上、エンターテイメントのカケラもない文章を長々と書き散らしまして、ご興味ない方にはさぞや苦痛だったかと存じます。たいへん失礼をいたしました。


1993/03


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