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空談放言



喫煙の習慣について



へーげる奥田




 少し前、アメリカの報道番組で日本の喫煙事情について特集をしていました。やや事実の誤認などもあったものの、おおむねは正しく、またシニカルなものでした。日本の喫煙問題の後進性、自国内で販売活動を封じられたアメリカタバコ企業の日本への植民地的進出など、タバコに対して嫌悪感をもっている私などにとってはなかなかに興味深く、また愉快ならざるものでした。

 日本の喫煙環境は、日本社会の幼児性、また個の責任を問わない体質などに因っているとつねづね私は考えています。さらに言えば、高度成長期にあった日本の経済重視政策の一環として、喫煙は労働者のストレスを他に逸らし、同時に税収も確保するという都合のよいものでした。喫煙と発癌性の関連性には証拠なしとする1995年ごろまでの日本政府の見解が、厚生省からではなく大蔵省から出ていたことはなかなかに象徴的と言えましょう。私は、喫煙依存症患者はほぼ無条件に知性に欠けるか人格に問題があると考えていますが、1950年代以前生まれの喫煙依存症患者については、むしろ被害者である部分が大きいという観点からこの判断より除外しています。

 加えて言えば、新聞報道などでもいまだに「愛煙家」「嫌煙家」などという表現をみることがあります。「嫌麻薬運動」とか「嫌暴力運動」という表現はあまり使いません。麻薬や暴力が悪であるということはとりあえず証明不要という通念がありますから、嫌殺人などとは言わない訳です。「嫌煙」という用語自体、すでに喫煙を社会の常態と見なした用語であるということは論の多弁を待ちません。日本の社会通念が喫煙依存症に対する過剰な寛容から脱するためにはまだ多くの時間を要しそうです。

 とはいえ、喫煙者の傍若無人が許される社会的空間はこれからも少しずつ、確実に、減少していくことでしょう。かつて「カッコいい」「シブい」などといったプラスのイメージとともにあった「喫煙」という習慣は、違法な、醜い、知性のない、不健康で前近代的なイメージへと後退して行くかもしれません。いままで何のとがめもなく自由に煤煙をまき散らし、吸いがらを投棄し放題にしていた常習的喫煙依存症患者の諸氏は、さぞや苦々しい思いでおられることと思います。しかしご安心あれ、皆さんの苦痛は決して無駄なものではありません。ネット上などで幾度となく繰り返される煙害論争における喫煙派の一方的な惨敗、かつて暴君として君臨していた座を追われて団地のベランダやオフィスの喫煙コーナー等に追いやられる喫煙者の姿、無頼を気取って開き直り、吸っちゃイケナイなんていつ誰が何年何月何日何時何分何十秒に言ったんだよゥなどと小学生みたいなことを目に涙をためながら叫ぶその姿は、次世代の子供たちの目に、ぶざまな、みじめな、情けない存在として映ることでしょう。そんな哀れな中毒患者になりたいと考える子供が一人でも減ってくれれば、あなた方の苦痛にも一抹の用益があったと言えるのです。

 どうか喫煙者のみなさん、子供らの前で泣きさけんでください。もっとぶざまに、もっとみすぼらしく。吸いたい、吸いたいよう、ぼくはタバコが吸いたいんだよう、どうして吸っちゃいけないんだ、いままで誰もダメだって言わなかったじゃないかよう。道端に仰向けになって手足をばたばたさせ、そう叫んでいる喫煙者がいたら、私は彼に称賛の拍手を惜しまないでしょう。



1997/05(1995年の文章に加筆、修正)


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