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『攻殻機動隊』について




へーげる奥田




 『攻殻機動隊』のLDが発売されたとき、いち早く購入した。劇場では2度観たが、初回の時は何せ原作も知らん予備知識も全くなし、映像を追うのに夢中でただ呆気にとられていた。ようやっと内容をちゃんと把握したのは2度目に観た際である。

 ついでに余計なことを書くが、筆者の使っていたLDプレイヤーは、アナログ音声専用のものであった。いままではさして不自由を感じたことはなかったが、『攻殻機動隊』を購入し、再生してみて驚いた。台詞がみんな英語なのである。聞けば近頃流行りとのことだが、デジタル部に日本語が、アナログ部には英語が載っているとのこと、よく見ればたしかにジャケットの帯に小さく書いてある。やむなく10年使ったプレイヤーを処分し、新しい機械を購入したのは言うまでもない。

 閑話休題。

 ところで、筆者は原則的な手法として、押井作品の意味論の方向からアプローチすることを比較的得意としている。ご承知のとおり押井守作品には、意味論の点で興味深い系統と、構造論の点から興味深い系統があるのだが、この『攻殻機動隊』の場合状況がやや複雑である。たしかにこの作品は、その内容すなわち意味の点からも、また構造の点からもたいへん興味深いところがあるのだが、問題はどこまでが原作の「手柄」か、という点だ。作品で扱っているテーマの多くは原作をかなり忠実に反映させているし、そもそもこの発想じたい「ハコ」の手柄と言えるだろう。押井監督の仕事と士郎正宗氏の仕事を峻別して論じるのが論者として正当な立場なのだろうが、ここはともかく「なるべく押井監督の手柄を抽出する方向」にていろいろ書き並べてみようと思う。

 「情報の海」という言葉は、「インターネット」が(その実体はどうあれ)ここまで一般化したいま、ある種の説得力をもつ。TCP/IPという海水の中に漂う論理と言語の断片は、原始の海のアレゴリーとしてわれわれの意識に表象する。それはまだきわめて原始的なものではあるが、現に今この時にも、無数の論理ロボットが生物のようにネットの中を徘徊しつつさまざまなデータをあさり、幾千万かのユーザーが同一の位相の上に存在する。この現状を感覚的に実感している者は、『攻殻機動隊』の世界に心酔することができるだろう。

 原作コミックス『攻殻機動隊』の展開する世界は、なぜだか乾いている。これに登場しふるまう人物たちは、あまり悩まない。ただ悩んでいないように見えるだけかもしれないし、声なき活字と静止した画像によるコミックスという媒体のための制約がそう見せるだけなのかもしれない。また、「ラブストーリー」として描き直された押井監督の『攻殻機動隊』に対して、原作コミックスには恋愛などはほとんど描かれることはない(コミックス未収録のエピソード『MINES OF MIND』にはバトーのオンライン・ラブが少しだけ描かれているが)。

 押井守の作品にしばしばライトモチーフとして語られる、「私」の確立や世界の虚構性などのアポリアは、原作コミックスではきわめて明快に語られている。それは、欠落や不整合や不条理性をともなった、粘性をもった生としての世界ではなく、「論」として処理され整合性にみちた明快な世界のまなざしをもって構成されているように見える。たとえば原作コミックスにおいて、「経済」というものはどのように描かれているか。超高度なテクノロジーによって電脳化された登場人物が活躍する時代の物語である『攻殻機動隊』では、かなりの貧乏人でも電脳の恩恵を被っているようである。現実的に考えれば、ああいったデバイスひとつにしても、それを肉体に埋め込む費用にしても、相当な経済的負担をともなうと考えたくなる。もっとも、そんな時代でもやはり草薙レベルの義体はポピュラーなものではないようで、「エスパーより数が少ない」などと表現されてはいるが。

 逆に、「貧困」というものは、顕著に了解された形で作品世界に登場する。コミックス第2話における聖庶民救済センターのような、ある種カリカチュアライズされた「貧困」の描写は、「社会における貧困」として理解され、了解され、組み入れられた上での「貧困」の描写であって、生としての「貧困」というにはすこし説得力に欠ける。生たる世界に不可欠な粘性や不条理性を排去した形の世界こそ原作コミックス『攻殻機動隊』なのであって、押井監督の再構築した世界との最も顕著な差違はここにあるように思える。

 哲学的実践にはいくつかの形態があるが、いわゆる「プラクシス」という概念は、たとえば労働者における「労働」など、合目的的、ひいてはロゴス的なニュアンスがある。これは宮崎駿監督の作品にもやや感じられることだが、士郎正宗的世界はもっぱらこういったプラクシス的方法をもって描かれている。職務の遂行、物語中におけるペルソナの忠実な演じ、果てはセックスに至るまで、最適に、「論」の管理において組み上げられているような印象を受けるのだ。

 一方、押井作品にみられる「世界」の記述は、いわば「プラティーク」的実践、当事者があえて自覚する必要のない日常の現実的な行為全体である「実際行為」としての実践によって、密に塗りあげられている(といってもそれはべつだん原作が「粗」である、という意味ではない。言うまでもなく、原作は別の意味で十分に「密」である)。これは、一種の粘性や「気分」をふくんだ世界性あふれる世界を構成する少なくともひとつの要素になっているようである。

 作品を埋め尽くす「語り」の「密さ」の点についてさらに述べよう。原作コミックスでは日本であった『攻殻機動隊』の舞台は、押井作品においては日本以外の漢字圏のアジアの一国を舞台としている。漢字によってたつ文化、その複雑で、多義的で、ゆらぎに富んだイメージを、「情報の海」のメタファーのひとつとして使ったとのことであるが、このあたりはなかなか興味深い。

 がんらい単音の表音記号であるローマ字は、比較的キャラクター数は少ない。その言語体系は、音をあらわす語の組み合わせによる「意味の解釈における再定義」によって意味を紡ぎ出し、表象の世界を構築する。脳科学の謂によれば、ローマ字は、どちらかといえばコンピュータで言うところの論理的なキャラクター(文字)として人間の脳に認識されているという。これに対して「漢字」は、むしろグラフィックとして認識される傾向があると聞く。表意記号として成立した漢字はローマ字に比べてキャラクター数が多く、言語によってなる思考空間を構成する「素材」が豊富である。

 この対比は、ポール・リクールの「ケリグマ・タイプ」と、彼が批判したレヴィ=ストロースの「トーテム・タイプ」との対比に似たところがある。リクールは「トーテム型」としての非‐西欧型文化を「構造」と「共時」の優越する神話的思考のパターンとして、また「ケリグマ型」としての西欧型文化を「意味」と「通時」の優越する神話的思考パターンとして考えた。この場合の「共時」‐「通時」の二項対立の思考法については、西欧特有のドグマギーに彩られているような気がするが、あくまで方法論として、こうした対項の手法を言語文化の比較に適用してみるのもすこし面白い。あくまでも感覚的な次元ではあるが、たしかに、わずか「2の3乗」個のビット数で表し尽くされるローマ字的言語によって成る思考空間より、それよりはるかに多くの情報量を駆使してもなおあらわし尽くせぬ広大な広がりをもつ漢字的言語によって紡ぎあげられた思考空間は、より深く、鬱蒼と入り組み、一種の粘性と不透明性をもってそれを見る者の前に表象する。構造の横溢とそれによる意味の豊饒。それは情報の海というよりむしろ密林とでもいうべきか。密林に関して独自の形而上学的見解を吐いたのはたしかヴィトゲンシュタインであったろうか、それは、その中に佇む者を包み込み、一種異様なる思考空間を作り出す場でもある。押井監督の作り出したこの「意味の密林」たる『攻殻機動隊』にからみついて有る「世界」も、これに似た感覚をともなわないだろうか。

 もうひとつ、ちょっと触れたいことがある。「人形使い」が生命体を宣言して亡命を希望したとき、ひとつ気になった。「生命体」であれば亡命が認められるのか? 否、だとしたらたとえば「亡命を希望する」と喋る鸚鵡にもその権利があることになる。彼が言うようにその身の安全を確保するためには、「生命体であること」を主張するよりもむしろ「人権が保障されること」を主張する必要があるのだ。知能と人権の保証は関係ない。パラサイトもラモックスも(少なくとも最初は)人権を保証されなかった。また、「人権があること」を主張しても無駄だ。原作コミックス『攻殻機動隊』の世界には幾度か「人権」について触れた部分があるが、それはいずれも否定的か、あるいは非常にクールな目で語っている。現代の社会では、「人権」は一種のイデオロギーとして機能し、絶対的価値を供給する社会的装置として機能するのだが、『攻殻機動隊』の世界ではどうやらそのイデオロギーは絶対的権威の座にはついていないように見てとれる。「人権はあるが保証されない」という状態は、われわれのイデオロギーにおいてはある種の意味の真空域であり、「絶対に保証されるべき」という属性によってたつ「人権」という概念においては、「丸い四角」のようとすら言えよう。しかし現実にはそういう状態こそがむしろ常態なのであって、『攻殻機動隊』ではそれを科学や思想史のごとき怜悧な視線で観察しているようである。ゆえに原作の草薙も、映画の「人形使い」も、敢えて自らを違法の弾丸で屠る必要があったのだ。

 話がそれたが、『攻殻機動隊』の世界では、われわれが無意識に依存する多くの思想的パラダイムが「違って」いる。現代を強力に規定しつづけるエピステーメーとしての「人間」は、共時的・空間的な内省的世界の構築要素としての「認識」のみならず、通時的広がりをも射程にいれた認識世界観を組み立てる「記憶」という要素によって解体され、批判される。

 つまり、義体の提出やネットワーク内存在としての「人形使い」らの出現によって、主体の空間的・物理的存在感の必要性は否定されるし、またハイデッガー的な企投や被投といった概念も、しょせんは「記憶」としての時間的延長をもった表象にすぎないことが暴露される。そしていま述べたとおり、人間存在の社会的現象としての「人権」などもその神話性を剥奪され、解体されてある。寂しげに見送るバトーをあとに去る草薙のエンディング(映画版)に、なんとはなしの「不安」な感覚を覚えるのはそういった解体による世界観の異化の影響だと、自分では思うのだがいかがなものか。

 とりあえず雑談としてこのくらいにしておくことにする。



(1996/12)



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