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関西と「評論系同人誌」




鈴谷 了




 筆者は生まれてこのかたほぼ関西で暮らし、この夏に職場の異動によって東京に住むようになった。関西時代には6年ほど前からいくつかのイベントに出かけ、東京のコミケへはここ3年ほど参加している。

 筆者はいわゆる「評論系同人誌」が好きだ。ジャンルは限られるとはいえ、気合いの入った評論系同人誌は見つけるとうれしい。だが、その間に関西と東京での同人状況の違いというものを感じるようになった。

 「関西と東京」「中央と地方」というのは筆者が常に意識するテーマである。かつて関西でのアニメ放映の状況を調査してコピー誌に仕上げ、幸運にも某アニメ誌に紹介された前歴もある。拙稿はその延長上にある。

 なお、筆者は今まで自らサークルを作ってイベントに参加したことがないことをあらかじめお断わりしておく。また、ジャンルについてはアニメ評論を念頭に置いている。多様なジャンルの評論本が存在する同人界では片手落ちかもしれないが、とりあえず最大公約数的なものと考えていただきたい。

 筆者の興味の出発点は、関西には「評論系同人誌」が少ないという事実である。私が贔屓にしていた中で継続的な評論本は2つしかない。一つはるーみっく系のサークルで、アニメ中心だが文字主体のもの。もう一つは某大学のアニメ研の機関誌である。(これだけでどこのサークルか判る読者もいるだろうが、サークルの論評が目的ではないのでここでは名は伏せる)いずれも水準の高いしっかりした本だが、数となるとそのほかには見当らない。 私の好みの偏りやコミケとのボリュームの違いもある。それでも、もっとも評論系が出やすいと思われる関西最大のイベントにここ5年ほど毎回参加してもこれだから、私が関心を持たない他のジャンルも推して知るべしであろう。

 なぜ、関西には「評論系同人誌」が少ないのか
 これについて、私は以下のような理由を考えている。

1.書きことばと日常言語との距離

 書くためのことばと話すためのことばは、どんなに言文一致を押し進めてもその距離を埋めることはできない。ただ現在日本において「書きことば」として広く用いられているものが、関東地方で使われている日常言語を基礎に作られている、ということは大事な点である。つまり、関東地方の人間のほうがものを書く場合に日常言語との距離がそれだけ少なくなることを意味する。

 そこで、書きことばとの距離が大きくなる関西で自分の好きなものを語る場合に、絵やパロディといった手法が存在する世界においてはあえて「堅苦しい」文章を使うことを避けるのは自然なことである。

 まったく別の話になるが、大阪駅前の地下街から、長年営業してきた屋台の新聞販売店を撤去するという事件があった。この措置に対して市民の間から市のやり方に反対する動きが出た。それは市民から寄せ書きを街頭で募るという形で行なわれ、内容は狂歌や川柳、皮肉といったもので埋められたのである。当時マスコミはこれを大阪的な市民コミュニケーションだと評した。これもそうした例の一つであろう。

2.作品の嗜好の違い

 私はアニメ作品の好みにも東京と関西で差があると考えている。証明する資料はないが、きちんとデータを取れば出てくるはずである。こう考えるのは私だけではない。

 『アニメージュ』初代編集長の、創刊間もない頃の回想記がある。アニメの知識も乏しくファンから教えられたという話だが、その中に関西のさる大学の漫研に世話になったという下りがある。そこで教えられたことの一つに、「関東と関西ではアニメの好みも違う」というものがあったという。ちなみにこの大学とは私の出身校だが、私自身は漫研に所属せず年代的にも10年近く違うので具体的な内容は知らない。

 評論本が出やすい作品とそうでない作品という区分もある。かりに、関西の嗜好が評論本の出にくい作品と重なり合う部分が多ければ、当然評論系同人誌も少なくなる。

3.現場との距離

 アニメの制作会社はほとんどが首都圏に集中している。また、関西ではコミケが社会的に関心を呼ぶ存在として「身近」にはない。よってそうした情報との接触の度合いが少なくなり、評論本の素材が集まりにくいと思われている。


 以上3つの理由が交ざり合って、先述のような状況を生み出していると考えられる。このうち2については明確なデータがないのでパスし、1と3について考えてみよう。

 まず1だが、いわゆる「評論的な評論」のみが評論なのかという問題がある。評論とパロディ、文章と絵は同人界において対立概念として把握されている。確かにパロディの中には他愛無いもの、自己満足なものも少なくない。しかし、パロディやオリジナルストーリーは一つの作品観の反映ともなりうる。これは間接的な評論行為といえるものであろう。評論とパロディの垣根はある程度まで表現の手段の差ではないかという気がする。つまり、「評論同人誌」は実際の評論の概念のある部分だけではないかということだ。

 そう考えた場合、関西において少ないのは「評論的評論誌」だけなのだと言うことも可能である。もしそうなら、「評論同人」を改めて定義付けする必要があるだろう。

 次に3について。評論活動を行なう上で、対象周辺との距離というのは絶対的な制約なのだろうか。確かに、制作サイドに近ければ各種資料の入手や閲覧は容易だし、関係者に会うこともできるだろう。だが、それは副次的な要素でしかない。せいぜい事実関係の確認なり、スタッフの「真意」が窺えるという点で差がつくだけである。一言でいえばそれは「予備知識」であって、純粋な評論行為のためには対象が平等に与えられれば土俵に変わりはない。

 「対象の平等な享受」という前提が成立しない―たとえばその作品が放映されていない―場合、話は別になる。だが、少なくとも関西ではそうした例は皆無に近い。(とはいえこの稿を書いている92年12月現在、関西では『テッカマンブレード』が『セーラームーン』の裏に放映されている)またもっと状況の悪かった地域でも近年は地方局の増加やビデオの普及によってその格差は埋められつつある。

 となると、むしろその原因は同人活動を行なう側の意識にあるのではなかろうか。すなわち、「情報格差コンプレックス」とでもいうべきものである。情報の発信地に遠い→評論同人が作れないという思い込みがあるのかもしれない。

 実は筆者が東京の同人誌について感じているのはこれと正反対のことである。コミケでは関西の即売会や本では感じることのない「生臭さ」を感じることがある。もちろん、同人活動には人間関係という側面がある以上どろどろした側面は必然的に出るが、そうした生臭さとも異質なものだ。

 すなわち、対象の周辺(状況と呼んでもよいが)に近いがゆえに、それに対する遠慮のなさが目に付くのである。自分たちは状況の近くにいるから、それに対して他の地域の人間よりも特権的に語ることができるという意識を感じるのだ。

 たとえば「有害」コミック規制とイベントの問題を例にしてみよう。仮にコミケが中止になったりすればその影響は全国のイベントに及ぶだろうし、コミック規制は全国各地の自治体の条例として実体化している。そう考えれば、これは全国的な問題といえよう。関西の同人界では残念ながらこれを自らの問題とする意識が十分高かったとは言いがたい。しかし一概にそれを責めることはできない。なぜなら、関西では最大のイベントですらコミケの半分以下のスケールで、とてもマスコミに騒がれるようなことはないからである。

 東京でのこの問題への関心の高さは心強いが、それがコミケという人目を引くイベントの近くにいるから自分たちだけがそれを語ることができるという意識に裏打ちされてされているなら、素直には喜べない。そして、そうした臭いを感じることが少なくないのである。これはことばは悪いが、状況との癒着といえないだろうか。

 このことを、東京暮らしが筆者よりは長い友人に話したところ、それは東京で生まれ育ったから意識せずに身についてしまったものではないか、という答えが返ってきた。東京の人間に欠如しているのは自分たちもまた一つの「地方」であるというローカリティであろう。

 普遍的なものを自分たちだけのものと錯覚して語ること。逆に余計な疎外感によって、言うべきことを言えないと感じること。こうした点は何も同人界に特有な話ではない。実はコミケを頂点としたイベントの姿も、放送や出版といったメジャーなメディアとパラレルな構造になっているのである。全国規模の出版や放送が全国各地に同人誌を作る人々を生み、全国各地でイベントが開かれるようになった。しかし、その受手の側もコミケという一局へ集中し、コミケを肥大化させている。社会全体の潮流の中で同人の世界だけ無縁でいろというのは困難なことには違いない。が、それだけでいいのだろうか。

 これまでに書いたことから2つの提言をして拙文を終わりとしたい。

・「評論」対「パロディ」という不毛な図式を変えてみよう。やおいやエロまで一度に相手にするのは無理かもしれないが。

・「地方」と「東京」という意識は同人界においても絶対的に抜けられないものか。その桎梏を逃れてみたとき、また違った姿が見えてくるのではないか。




(1992/12)




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