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『磯野家の謎』の彼方へ




鈴谷 了




 昨年末、『磯野家の謎』の新聞広告を見たときには少し気になった。書店で手に取り、『ウルトラマン研究序説』ほどにはふざけた本ではないと思って購入した。しかし、そのときにはこの本がこれほどまでに売れて、柳の下のドジョウ狙いが次々にあらわれるとは思っても見なかったことである。


 『ウルトラマン研究序説』の「ふざけぶり」については、竹内義和(名著『なんたってウルトラマン』の著者)や別冊宝島の「まえがき」が言い尽しているので繰り返さない。要は作品そのものから遊離した法律学や工学や生物学などのくだらない解説書にすぎなかったことである。それにくらべると、『磯野家の謎』はきちんと作品に即したものになっていた。長い連載期間に生じたズレをことさらセンセーションに「謎」としてこじつけた部分にはいささか鼻白む思いがした(マスコミが競って取り上げたのもそうした箇所であった)ものの、一応まともな本であると判定したのである。

 マーケティングの立場からいえば、この本はいわゆる「ニッチ商品」をやって成功したということであろう。すなわち、以前から商業出版でも漫画論は存在した。しかし、「漫画は売れるが漫画論は売れない」という言葉どおり、漫画論は一部の漫画好きを別にすればさして売れることもなかったのである。(呉智英や大塚英志の本にしても、そこそこ売れてもベストセラーにはなっていない)一方アマチュアのジャンルでは評論同人誌というものがずっと存在していた。だが、こちらはその非商業性と受け手を選択するという特殊性ゆえに、一般的には存在しないものとして扱われてきた。その2つの間に『磯野家の謎』は割って入ったのである。

 『磯野家の謎』は同人誌的な手法、すなわち作品を論じる素材ではなく没入する対象そのものとして網羅的にリストアップするというやり方を、商業出版の世界に持ち込んだということができる。そこからある程度「日本の庶民生活の反映」を読み取るというのが、一応の『磯野家の謎』のサブテーマということができよう。

 漫画『サザエさん』をそうした大衆文化・大衆生活の反映として考察の対象とすることはこれまでにも行なわれてきた。たとえば、鶴見俊輔の『戦後日本の大衆文化』にも取り上げられているし、戦後の有名な漫画論の多くには『サザエさん』への言及がある。しかしこれらは専門書、研究書という形で書かれたために、一般の目に触れることは少なかった。いわゆるごく普通のサザエさん読者が知りたがっていたのはサザエさんの歴史的・漫画史的な位置付けではなくて、作中世界の情報だったわけである。

 こうしたアプローチは先に書いたとおり、もともと同人誌の得意とするものであった。『うる星やつら』における「系図論争」(初期のエピソード「系図」において、しのぶとあたるが結婚した未来が描かれたため、のちにその解釈をめぐってるーみっくファンの間で論議を呼んだ)はその典型であるし、作中の設定をあれこれと網羅的に整理することが同人誌の役割の一つだった。ただ、選択される作品の種類と出版形態がそれを世に出さなかっただけの話である。それが商業出版の世界に出たことをわれわれは素直に喜ぶべきなのだろうか?

 『磯野家の謎』に対する評価がいささか白けたのは、後発の「世田谷サザエさん学会」(続編で、ライターのゆうむはじめであると判明)の出した『サザエさんの秘密』に対し、週刊誌で東京サザエさん学会側が非難した記事を読んでからである。そこでのコメントを読むかぎり、それは「自分たちの解釈の方が絶対に正しい」というきわめて硬直した反応であった。もともと長谷川町子が具体的に設定をしなかったところをあれこれ解釈・類推することでこれらの本は成り立っている。本編で描かれなかった部分に対する類推はすべての読者に許されたことであろう。したがって、そうした部分の解釈はより合理的なものはあっても唯一絶対というものはありえない。下衆な言い方をすれば「同じ穴のムジナ」である。

 たとえば、カツオが修学旅行にいつ行ったかをめぐり、「カツオの学校は5年生で修学旅行に行く特殊な学校である」という解釈がある。それが事実として、『サザエさん』を読む上でどれほどの意味があろうか。「特殊な学校」でもかまわないしそうでなくてもかまわないのである。同人誌的なお遊びには「冗談」の部分もあるわけだが、それを大真面目に「これが絶対正しい」と言い出しては話にもならない。

 とはいえ、実はこうした問題は同人誌のやり方そのものの中にも胚胎していたのではないか。対象そのものに没入して「樹を見て森を見失う」危険性は、いわばそのマニアックな追求と背中合わせになったものである。そう考えれば、この『磯野家の謎』は同人誌的なやり方の醜悪な部分も同時に拡大してみせたということができよう。

 わずか半年足らずの間に、ポピュラーな漫画やドラマの同工異曲本が書店を賑わすに至った。(『セーラームーン』まで出るとは……。しかし総ルビつきなのには笑えた)おそらくまもなくこうした作品のネタは出尽くし、売れ行きも落ちて商業出版としての命脈は断たれるであろう。けれども、それは作品について語り尽くしてしまうことを同時には意味しない。いや、こうした手法は作品を語っているとすら言いがたいのである。

 たとえば、『サザエさん』に関して言えば、最近さる大学の紀要論文として書かれたものに、キャラクターの頭身の変化や筆致の変遷から『サザエさん』が次第に都会的で無機的な「新聞漫画」に変わっていった事実とその背後にある創作意識の変化を指摘したものがあるという。(筆者は存在を知るだけで直接読んだわけではない)これは「漫画」としての『サザエさん』の研究としては『磯野家の謎』よりはるかにすぐれたものである。かりに夏目房之介が同じネタで本を書けばきっとポピュラーなものができるであろう。(筆者は夏目房之介の一連の仕事を高く評価するものである)『磯野家の謎』は早い話、作品世界の「解釈学」であって、作品論ではないのである。

 作品世界の「解釈学」からでも同じようにすぐれた成果を生み出すことは不可能ではない。しかし、『磯野家の謎』にかすかにみられたその萌芽は、予想外の大ヒットによって違った方向に行ってしまった。同人誌的なやり方をそっくりコピーした結果といえばそれまでなのかもしれない。

 『磯野家の謎』は同人誌の側に存在意義を問う鏡であったということができる。そして、同人誌の側にもまだまだやりようはあるのだ。それは何か。


 筆者は宮沢賢治の愛好者である。いま少し自分の趣味に即した話題を語ることをお許し願いたい。

 『宮沢賢治の彼方へ』という本がある。今から20数年前に若き詩人によって書かれたすぐれた研究書だ。この本は、宮沢賢治自身ではなく、彼の遺した作品を徹底的に読むことによって、賢治の意識に迫るという、当時としては画期的な本であった。その中にこういう一節がある。

 「作品に関わりあうこと(つまり書くことと読むこと)は、見知らぬ土地へのきびしい、帰りのない旅であり、そのきびしさはその作品を再読三読することによりいやましてくる。賢治作品を耽読したあげく卒業していく人たちはじつはほんとうに作品の世界を卒業して行ったのではなく、くりかえしその旅から帰ったあげく、押しもどされたまま、もとと同じ作品の前面を結局は通過して去ったにひとしいのである。ぼくはかれらの通った道を採るつもりはない。あるいはまた、作品の深淵にまったく気づくことなく死ぬまで賢治童話をただ『いいなあ、いいなあ』と嘆賞しつづける人たち、盲目的・排他的な賢治教のひろめ屋やその信者たちのように、作品がたどりつくことのできない旅であることのきびしい意味を見失って広大な作品世界の中を恍惚と行ったり来たりするおめでたい人たちの仲間入りはなおのことご免である。

 ぼくは作品の彼方へ行きたい。だれも行ったことのない、宮沢賢治の作品の彼方を見るのだ。これからぼくが少しずつ書き継いでいこうとする試論は、けっしていわゆる宮沢賢治論ではなく、賢治作品に新しいあるいは正確な解釈を施そうとするものでもない。ぼくのいや誰の解釈が正しかろうと独断・誤解であろうと、賢治作品は作品として存在し、存在する以外のことをしていないのだから」(天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』引用はちくま文庫版)

 これは今日でも十分刺激的な文章であるとともに、「宮沢賢治」「賢治作品」という部分を、興味関心のある他の作品や作者に置き換えても通用するものであろう。こうした問題意識はまだ同人誌界では希薄であり、それゆえにまだまだやり方は存在し得るのである。作品に対する姿勢とは何も文芸作品や芸術に限った話ではない。アニメや漫画といった「通俗文化」でもそれは同じである。

 作品に対して真摯であるとは、肩肘を張ったり、外見ばかりいかめしいことではない。作品の「彼方」を見ているかどうか、その点にかかっている。だから「真摯」なパロディというものもまた存在し得るのだ。


 「コミケや同人誌なんて所詮アマチュアの道楽じゃないか」と言う人にはこう答えよう。「道楽だからこそ、一生懸命やらないといけないのである」と。




(1993/08)




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