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飛べ!『イサミ』


清瀬 六朗



 あ、なんかいやぁな顔をしている人がいるなぁ……。

 「いやぁな顔」というのは、銀天狗がときどきやる「いやぁ、まいったなぁ」という顔ではない。あーるくんがやるような「やあ。」な顔でもない。「イヤな顔」である。そんなことはいちいち断らんでもわかっとるわい!

 私だって、『チャチャ』本のおまけ扱いで『イサミ』の話が出ているのを見つけたらやっぱりいい顔はしない。なにも監督が『チャチャ』で名を馳せた佐藤竜雄さんだからといって、『イサミ』を『チャチャ』の付属品扱いする必要はないじゃないか!

 とはいえ、この『チャチャ』本でさえ落っこちそうなのに、あらためて企画を起こして『イサミ』本を作るのは不可能である――じつは私個人は作ろうとひそかに画策していたのだよはっはっは。そーゆーわけでどんなわっけでぇ、この場を借りて『イサミ』の話をすることをお許しいただきたいと思う。それに某アニメ誌なんて「イサミでチャチャチャ」とか「しんせん組ホーリーアップ」とかいう特集を臆面もなく組んでいることだし、まあいいのではないでしょうか?

 ちなみに、『チャチャ』をとおして『イサミ』を見ているファンがいることは、当然ながら制作側でもまるですべてお見通しのようだ。二六話「君こそ、ヒーローだ!」では、マユコちゃんが向こうの地平線からソウシくんをめざして走ってくるとか、マユコちゃんの「薬」とか、『チャチャ』ファンを幻惑するための仕掛けでいっぱいだった。ところが、マリンちゃんとマユコちゃんで恋する人のもとに走ってくる速度がちがうというところにトラップがあり、それが、競争でペンギンなんかを動員していたマリンちゃんには不可能な結末に帰結する。マユコにやっこちゃんやマリンの幻影を見ていた『チャチャ』ファンは息を止めたはずだ。

 これはよほど批評眼を磨いてかからなければなるまい。作品に届かない批評じゃ、くやしいから。



 花丘イサミはいわゆる「帰国子女」である。私は、ついこないだまで、イサミが帰国子女であるという設定に何の必然性があるのかよくわからなかった。銀杏を知らなかったという話はあるものの、日本の特撮ヒーローもののファンだし、学校になじめずに孤立感を感じているということもなさそうだし――そりゃ苦手なクラスメイトはいるわけだけど――、ついでにお母さんは帰国してすぐに抜群の視聴率を誇るらしいニュース番組のキャスターになってしまうし。かろうじて、父親の魁さんが世界的なエネルギー研究者で、そのお父さんといっしょに外国で暮らしていたというところのつじつま合わせという程度にしか考えていなかった。

 だが――すこし考えてみればわかることであった。『飛べ!イサミ』の世界で、イサミが「現実の帰国子女」として自然かどうかなどという問題の立てかたにそもそも意味がないのである。なんせ香港から来たニイハオシスターズが日本語を日常語として会話しているらしい、そんな世界なのだから。そもそも「ニイハオ」なんて香港で通用している広東語じゃあない。『イサミ』に出てくる「海外」とは、作品の外の私たちがきわめてイイカゲンに考えた「海外」によく似たアバウトな世界なのだ。

 だから、イサミが「帰国子女」であるのは、作品の外の日本社会で「帰国子女」がおかれている立場や状況とはあんまり関係がないと考えたほうがよさそうだ。

 では「帰国子女」であることには何の意味もないのだろうか?

 そうではない――というのが私の現在の結論である。まあ作品が放映中だからなんとも言えませんが。だいたい、これを書いている日から本が出るまで一か月以上あるんだから、そのあいだに書いたものが的外れになっているなんてことはごくザラであろうと思う。

 『飛べ!イサミ』で、主人公の少女が「帰国子女」であることの意味とは、それが外部からの視点を持ってその世界にやってきた者だということである。外部からの視点を持っているからといって、それはそこの世界にとって外部者であるという意味ではない。イサミはもともと大江戸市の由緒正しい(?)お化け屋敷の家の娘なんだし、新選組の子孫という血筋も大江戸市の住民としてはりっぱなものであるようだ。れっきとしたそこの社会の内部の者でありながら、外部からの視点を本源的な部分で持っているということに意味があるのである。



 たしか、藤森照信先生が、東京という封建都市はもともとキャベツのような構造を持っていたというようなことを書いておられたように思う。ちがったかな――なんせ確かめている時間がないのである。それは、一方では硬い殻を持って外を拒絶しているわけではないが、他方、中心に達しようとすれば、何重にも被さった葉っぱを一枚ずつ剥いだり突き抜けたりしていかなければならない、という意味であったように思う。そうした構造の都市で「中心」をめざすとすれば、それは、「外から内へ」という動きを、一回きりではなく、何度も何度も繰り返さなければならないということを意味する。

 で、街のまんなかに城址という「中心」を持つ大江戸市もそういう都市なのではないかということを言いたいわけだ。思い出してみよう。この城址公園こそは『イサミ』の大半の事件に関係を持っている特別な場所だったのではなかろうか。

 そこでは、その街に住んでいる者も含めて、つねにその「中心」を望み、また「中心」から望み返されるという視線のやりとりから無縁ではいられない。しかも、その「中心」である城址公園には特定のだれかが住んでいるというわけではない。大江戸市の市民であれ外部からの訪問者であれ、そこを訪れれば「中心」に立つことはかんたんだし、同時に、そこが廃墟である以上、いつまでもその「中心」にいつづけることはできない。『イサミ』の舞台である大江戸市はそういう空虚な中心を持つ都市なのだ。



 さて、『イサミ』といえば『ガンバマン』である――まあ『ラブリン』もあるんだけどこっちは遠慮いただくとして、だ。『イサミ』にとっての『バーチャル戦隊ガンバマン』という作品は、たんなる劇中劇と片づけることのできない重みを持っている。

 なぜなら、『イサミ』で新選組の行動を根拠づけているのはつねに『ガンバマン』だからだ。新選組が、新しいアイテムを手に入れるたびに『ガンバマン』のまねをやるのは偶然ではない。小学校があって、幼稚園があって、そこで魔法使いやモンスターではないごく普通の小学生や幼稚園児が暮らしている大江戸市で、SFかはたまた時代劇かはよくわからないが、ともかくフィクション色の強い新選組や黒天狗党が活躍できるのは、ひとえに『ガンバマン』のおかげだからだ。『ガンバマン』が新選組と黒天狗党の両方に受け入れられているから――いや、それがおそらく大江戸市民のほとんどが見て知っている作品であるからこそ、新選組や黒天狗党は自分たちのやっていることをウソくさく感じずにすむのだ。というより、新選組や黒天狗党が多少のウソくささは感じても致命的なウソくささは感じずにいろんなことをやっているということを私たちは感得するのである。

 そもそも、私たちが「現実」の世界でやっていることだって、ウソくささを感じつつも何か正当化の理由を見つけてそのウソくささをごまかしつつやっているというようなことは少なくないはずだ。

 私たちが『イサミ』に向けている視線にどういうものが映るかを決定しているのは、やはり、大江戸市じゅうの住人の『ガンバマン』に向けている無数の視線なのである。しかも、『ガンバマン』が虚構の物語である以上は、それは、だれでもその役を演じることができて、しかもその役にいつまでもとどまることはできないという意味での「空虚な中心」にほかならない。げんに、新選組の前には、本家の(?)ニセガンバマンだけではなく、正体不明の野ばら男と思われるガンバマンキングや銀天狗のガンバマンなど、多様なガンバマンが出現している。

 このほかにも、花丘邸をうかがいつづける平助・重助の視線や、おなじく執拗にイサミを見張るライチの双眼鏡、イサミの一挙一動を一つも見逃さない「イサミ二号」のセンサー――センサーなんだろうなぁ――など、この作品には、執拗に外側から「中心」に向けられつづける視線というものがあふれているように思える。



 まあ多少の強弁は含まれているように思うけど――白状すればこんなことを書く予定はこのファイルを新規作成したときにはどこにもなかったのだ――、イサミがこの世界で帰国子女である必然性は、「内」の社会に属していながら「外から内を見る」という視線をつねに持ちつづけているところにあると思うのである。

 その視線は、モニターのこちら側にいる私たちと、モニターの向こう側の世界とのあいだの決定的な隔たりを相対化する効果を持つ。それは、私たちがモニターの向こう側の世界をいかにも現実の世界らしく感じられるという意味ではない。そういう種類の「リアリティー」がアニメにあると考えるのは錯覚だと私は思う。そうではない――そのアニメのなかの世界の人間が、自分の住んでいる世界について「そんなばかな」と思っているのと同じぐらいの虚構性を、私たちもそのアニメのなかの世界について感じられるという意味で言っているのだ。

 それは、一面では、決定的な「外部」である私たちとアニメのなかの世界のちがいをさえ相対化して、私たちをそちらの世界に受け入れてしまうような「開かれた」世界のあり方だと言うことができる。けれども、そうやって開かれていることによって、その世界がばらばらとちらばって崩れてしまうかといえば、けっしてそんなことはない。むしろ、より多くの視線がその「中心」に向けられることによって、その世界はさらに強固なものとして私たちの前に現れてくる。非常に開放的でありながら、また同時に非常に求心的な世界――『イサミ』の世界とはそういうものではなかろうか、ととりあえず仮説を立ててみたしだいである。



 さて、『飛べ!イサミ』の「飛べ!」というのはどういうことなのだろうか?

 まあなんでそういうタイトルになったかはコミックスの巻末に書いてあるけれど、そういうことを離れて自由に考えてみよう。もちろんその答えはまだ出ていない。私がこの原稿を書いている時点では、イサミはもちろん黒天狗党の宇宙船兵器もまだろくに飛んではいないからだ――って今日の放送で飛んでしまったりしたら私は泣くぞ。だれだ土曜日を締切にしたのは!……って私ですね。はっはっは。

 ま、私としては、イサミ自身の視線が構成するその大江戸市の恐るべき求心的な構造を断ち切って、イサミやその他のキャラクターたちが軽やかに無重力のイメージで浮遊することだろうと勝手に想像している。

 まあ、この原稿を書いている時点から先、この作品そのものが、あるいはこの作品のキャラクターたちがどんなふうに「飛」んでくれるのかたのしみだ――多くのファンもこれと同じ期待を持ってこの作品を見ているのではないだろうか。

                         ―― 終 ――


追記
 この文章は1995年11月12日までの放送をもとにして書かれ、『WWF13』に掲載したものである。

 その後、『イサミ』は、1996年3月まで放映されてめでたく完結した。ほんらいならば、そのことを踏まえて書き直すべきであろうが、今回はとりあえずこのまま掲載する。

 文章中でも触れているが、この文章を書き始めたときには、じつは『イサミ』の作品世界が「無限に開放されていながら中心に捉えられてそこから離れることができない世界」であることなど考えてもいなかった。じつはこの論理は『赤ずきんチャチャ』3話(演出は『イサミ』の佐藤監督)の応用だったのだけれど、『イサミ』にもなんとなくあてはまりそうだったので、「一種の試論として、こんなのはどうだろう?」という気もちで書いたものだ。

 正直に言ってこの論理があんなにうまく行くとは考えていなかった。ルミノタイトは私がこの文章で「大江戸市の中心」として位置づけた城址の地下で見つかってくれた。何より、黒天狗自身が――そして最終回にそれにおつきあいしたイサミたちも、地球重力に捉えられ、そこから離れることのできない存在だった。イサミは地球で生まれたんだからいいようなものも、もともと地球の外から来た黒天狗までがその重力に捉えられて、そこから脱出することができないキャラクターになってしまっていたのだ。

 ――ここまでうまく行くなんてウソだろ?
というのが、私の自惚れまじりの正直な感想だった。

 ただ、そうなってみると、こんどは「『イサミ』はそれに尽きるのか?」という疑問が湧いてきた。『イサミ』の魅力はただそんな程度のものではないと思えてきたのである。

 ということで、できることならばもういちど『イサミ』論を最初から組み立ててみたいという気もちに私はいま駆られているところである。


 (追記の追記) ところで、ある「コクラノミコン」参加者(WWF関係者ではない)からきいた噂によると、長谷川裕一先生のコミックス版『飛べ!イサミ』の続編が作られるという話があるようだ。詳細はまだよくわからない。なんにしても期待したいところである。



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