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愛と勇気と希望の名の下に




鈴谷 了




 今回は『王立宇宙軍』(『オネアミスの翼』)についてのまとまった論文を予定していたのだけど、途中までで時間切れと相成ってしまった。で、本もセカンドシステムとなり、『王立宇宙軍』論は冬に持ち越しである。しかし書いている本人としてはかなり気合が入っているので、期待してお待ち願いたい。(え、誰も待ってないって?)

 そういうわけで今筆者が関心を持っているものについての雑文を書くことにしよう。 (あまりタイトルとは関係ない…かもしれない)


 筆者は相変わらずテレビアニメの視聴者である。が、しかし近ごろでは「次回が見たい」と思うテレビアニメが週に一本、年間一作品あればよいと思うようになった。学生の頃はおもしろそうな作品は片っ端から当たりをつけ貪欲に見たものだが、さすがに仕事を持つようになるとそういう元気は持ち得ない。

 さて、昨年の夏『無責任艦長タイラー』が終わってからそうした作品がなくなり「もう熱心にテレビアニメなど見なくなるかな」と思った。ほかにもチェックしている作品は3つほどあったけれどそう身を入れて見ていたわけではない。これでありふれた「テレビ視聴者」になるかもしれないと内心少し喜んだものである。

 が、しかし年を越えた2月のある日、偶然目にしたテレビアニメに妙に関心を持ち、次の週に試しに録画して「おお、なかなかおもしろい」と毎週録画を始める羽目になったのだからわからない。自分の「血」の濃さを改めて実証することになってしまった、その罪作りなテレビアニメ(いや、筆者の方が罪深いというべきか)の名は『赤ずきんチャチャ』という。


 今回のコミケには『チャチャ』の本は一般・面妖取り混ぜてたくさん出ているはずだから、ここで立ち入って『チャチャ』の説明だとかおもしろさだとかを述べ立てるつもりはない。(紙面がそれには不足しているし)ただ、それにまつわるネタを少々ふってみたいと思う。

 どーして筆者が『チャチャ』にハマってしまったか。卑近なレベルで言えば、「キャラクターが可愛くてかつ一癖あって、話がおもしろいから」だ。変身もシンプルでかっこいい。が、それだけではあまりに芸がないのでもう少しだけ深く立ち入ってみよう。

 一つには「何でもあり」」という特異な世界観があげられる。「剣と魔法」の中世的な世界を舞台にしながら、明らかに現代日本でしかない描写の数々。それはいかなる時間、いかなる場所を舞台にしようともその本質は明らかに「現代日本」にほかならなかった日本のテレビアニメそのものへの大いなるオマージュと皮肉といっていいかもしれない。

 あるいは、「魔法」が遍在する世界を舞台にした「魔法もの」というスタイル。「現実」との折り合いを一つのテーマにしてきた従来の「魔法もの」とはやや趣を異にする。変身という要素があるにせよ、その変身でやることは弓矢を放つ(これが出る頃には「不死鳥の剣」に変わっているはずだが)というごくごく単純なことだけで、「願望の実現」というには程遠い。あるいは、主役を食うほどの強い自己主張を持ったサブキャラクターの存在。(実はやっこちゃんのファンでもある)

 しかしながら、一歩下がって考えてみると、そうしたポイントには「○○という先行作品のような」という形で言える部分が多いことに気付く。ハチャメチャな世界設定ということでは『うる星やつら』や『ミンキーモモ』をあげることができる。癖のあるサブキャラという点ではこれまた『うる星』あるいは『きんぎょ注意報!』。また、どんなに特異だといっても、変身するというのは広い意味で「魔法もの」の一つにほかならない。さらにアニメ版で変身を取り入れたこと自体が『セーラームーン』の影響だという意見は少なくあるまい。とくにアニメに興味のない人にとっては『セーラームーン』も『赤ずきんチャチャ』も、「普段はドジで間抜けな主人公の少女が、不思議な力で超能力を持つヒーローに変身して敵を倒す」という同じ様な作品に映るに違いない。

 ここで筆者は昔から何度も言われてきた「一般人と愛好者の認識の差」というものを問題にしたいわけではない。むしろそういうものを前提とした話である。 われわれには「オリジナリティ」というものへの「信仰」がある。「著作権」という発想自体がそうした発想を前提にしているのは言うまでもない。従来と変わった点があるもの、それが「オリジナリティ」である。

 しかし、そう考えた場合「オリジナリティ」の源泉は何によって求められるのか。それは結局のところ、「従来のもの」との差異にほかならない。作品の価値体系は実はそうした「差異」の集合体なのである。もちろんその「差異」が目に見えて大きいことが一般的には「オリジナリティの多い」作品として評価されてきた。それはそれで妥当なことではある。

 だが、そうした「オリジナリティの多い」作品を筆頭とした価値体系を作り上げてしまうことは、退屈で窮屈な分類の中に他の作品を押し込めてしまう危険をも含んでいる。『赤ずきんチャチャ』を『うる星やつら』や『ミンキーモモ』や『セーラームーン』やその他もろもろの作品の「亜流」にしてしまうのはとても簡単なことだ。しかし、私たちは―少なくとも筆者は―「亜流」が見たくて『チャチャ』にチャンネルを合わせているわけではない。そう考えるファンはほかにも多かろう。ただし、ここで筆者が言いたいのは『チャチャ』が「亜流でない」ことを望むのではなくて、見る側が「亜流か否か」という立場を抜けることである。

 作品の「オリジナリティ」というものが「差異」の集合である以上、その程度の大きさを比べることにあまり意味はない。何かを基準にするのではなく、「差異」そのものの持つ意味を問うべきではないだろうか。そして、場合によってはごく微細な「差異」にしか見えないところに、最も重要な「オリジナリティ」は潜んでいる。

 別にここで筆者がそういうことをくだくだしく言わなくても、「おもしろい作品」に出会ったとき、人は無意識的にそう感じているのだ。決して表現技法として手法が豊富とは言えないテレビアニメならば、それはなおさらのことである。ただ、それが「差異」にほかならないために、言葉としてうまく表現できない。「差異」だけを取り出すのは難しいことなのである。ま、その「オリジナリティ」を楽しむことはできても、うまく言い表せない、といったところかもしれない。 筆者は、『チャチャ』と先行作品の「差異」が小さいことを積極的に認めよう。けれど、それは『チャチャ』の「オリジナリティ」をいささかも損ねるものではない。それこそがこれまでのテレビアニメに「評価」を与えてきた源泉なのだから。

 ただ、誤解してほしくないのだがこれは「謎本」的な瑣末主義の中に閉じこもることを積極的に肯定するのではない。「差異」が「差異」でしかないという事実を認めることなのである。

 実は今回発表できなかった文章も、結局のところその「差異」をいかに表現するかで苦労している。しかし、そこは「ことば」の力を信じて(限界も認識しながら)、やるしかない。評論するということは何かを信じなければできないことでもある。

 そう、チャチャも毎週こう言っているではないか。 「愛と勇気と希望の名の下に!」

 筆者もそれを信じて「書くこと」を続けたいと思う。
P.S NIFのアニメフォーラム(FANTVA)、チャチャ会議室にすっかり入り浸っている…





(1994/08)




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