− 徒然 −
私のページを読んでいる人はもうご存知と思いますが、 私は 2001 年 9 月 11 日のテロ事件に対するアメリカ政府の対応について、 とても否定的な感情を持っています。 理由はいろいろとあるのですが、今回はその中でもごくパーソナルなこと ─ 幼い頃から祖母に聞かされていた、戦争の悲惨さ ─ について書きたいと思います。
終戦前の数年間、祖母は中国(満州)で、教員をしていた祖父と共に暮らしていました。
祖母自身も教員でした。
そして終戦時、彼女は三人の子どもと共に、一人、かの地に取り残されました。
三人の子どものうち一人は0歳の乳飲み子、他に4歳と2歳の幼子でした。
祖母が二十五歳の時です。(なぜ終戦当時、祖父と一緒でなかったのか、
詳しいことは聞いていません。)
いわゆる「満州からの引き揚げ者」、敗戦国の残留者として、
殺されそうになり、撃たれそうになり、犯されそうになりながら、
必死で内地を目指した人々の中の一人です。
現在も世界中に多く存在する「難民」と呼ばれる人々です。
難民であった一年間の間にどのような恐ろしいことがあったか、 怖い思いをしたか、幼い頃の私にはあまり実感はできませんでした。 ただ極度に緊張した日々と、凄まじい飢餓の中、 乳が出ずにまず乳飲み子が死に、それからもう一人の幼子も死に、 結果的に私の母だけがかろうじて生き残り、内地に連れ帰ることが出来たという、 祖母の悲しみは深く伝わってきました。 彼女は、半世紀以上経った今でも、その話をするときに涙を流します。
80 歳を記念して、祖母が出した文集があります。
その中の一節を引用してみます。
八十才という歳月は、大正 昭和 平成と、日本の歴史の波乱に 満ちた時代と いえます。
わたしも その歴史のなかで 翻弄されながら、必死に生きてきました。 戦争という おろかな 大人の遊びによって 多くの人が、意に反して 殺傷されました。 わたしの、かわいい 二人の子も 兄も すばらしい未来を つみとられて しまいました。 生涯で 一番の 痛恨事です。 人が人を 殺し合う 野蛮な戦争は、どういう理屈が あっても してはならない事です。
文集には、祖母の作った詩もいくつか載っています。
死なせてしまった二人の子どもに対する詩も、あります。
わたしは 風になりたい。
碩子に 赤い花を
順子に ピンクの花を
髪に さして あげたい。
色を 知らない 幼い子は
何といって 驚くだろう。
わたしは 風になりたい。
風になって 万里を越え
北朝鮮の あなた達の
ところへ 行きたい。
生前 ふしあわせだった
あなた達へ あって
おわびが したい。
その後は、三人で 風に のって
世界一周を しようね。
(後略)
私が今のアメリカ政府のやり方を嫌悪するのは (そしてそれを支持する小泉総理のやり方を嫌悪するのは)、 もちろん他の理屈もいろいろとありますが、 やはり根本的なところでは、 それが五十年前の祖母のような人々を生み出しているという、本当にシンプルな実感です。 もちろん日本は当時のアジアに対しては純粋な加害者で、 今回の件とは切り離して考えなければならない点も多々あります。 それでも、大切な者を殺される痛み、あるいは、 自分が殺されることによって親しい人々が感じる痛みというものは、 万国共通のものでしょう。
それを想像するのはとても痛いことです。
そしてそれが、おそらくアフガニスタンで今現実に起きていることなのでしょう。
でも私はそのために、何か効果のあることを出来ているわけではありません。 せいぜい、自分のページにこのような文章を載せたり、 働いて得た多少のお金を、信頼がおけると感じる人々に寄付をするくらいです。 ぬくぬくとした暖かい部屋で、ちゃんとご飯を食べて、服も買って、 たまにはアクセサリーも買って、趣味の車も維持して。 そういう生活を放棄する勇気はありません。
でもだからといって、諦めることはないんだと思います。 自分のための贅沢を少し諦めて、 何か少しでも、「全てを諦めてやらないよりはましだろう」と思えることをする。
そして、想像することを放棄しない。
日々の生活に流されても、時々は、遠い地の人々のことを想像することを自分に課してみる。
そんな程度のことでもよいのだと思います。
And it's true we are immune
When fact is fiction and TV is reality
And today the million cry
We eat and drink while
tomorrow they die
Sunday, Bloody Sunday...
(SUNDAY BLOODY SUNDAY, by U2)
2002/1/2 記