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− 徒然 −

最近読んだ本 2002/6/30編


宮子あずさ。かなりツボに入りました。
岸田秀も相変わらずおもしろかったです。


『35歳は強気 ときどき弱気』 宮子あずさ
『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦
『彼が泣いた夜』 内田春菊
『ものぐさ箸やすめ』 岸田秀


■ 『35歳は強気 ときどき弱気』 宮子あずさ 幻冬舎文庫  → 目次
 「30歳本(もしくは29歳本)」、「35歳本(もしくは34歳本)」 というジャンルがあるのかどうかはわからないが、この年齢の女性に向けた本は多い。 たぶん、現代の多くの女性が、同じような年代で悩み、さまざまに模索したりしているのだと思う。
 これは看護婦で作家の宮子あずさ(ちなみにこの人のお母さんは、 評論家・吉武輝子)による、「35歳本」。 文庫化されたことにより、単行本化された時点の「35歳の想い」に対して、 今現在の「39歳の想い」が、各章にの末尾に付加されているという形になっている。
 著者のことは以前から知っていたが、本を読んだのは初めてだった。 一番共感したのが、働くことに対するメンタリティの部分。 それから共働きに関する感覚。
 女の仕事といえば、生きがい・やりがい。 これもまあ、マスコミ主導の意図的なアナウンスなのですが、女性自身もそれに乗って、仕事に対して生きがい・やりがいを多く求める傾向があります。 就職難も手伝って、生きがい探しの留学も盛んらしい。 そうしたものは、私にとってはまさに想像するのがやっとの世界なんですよ。
 これまで何度も繰り返し言ってきたように、私にとって仕事は、生きがいや自己実現のための手段ではなく、何よりまず生活を成り立たせるために必要な、生きる手段。 看護婦という仕事がやりがいと生きがいに満ちた仕事であるのは、たまたまのことで、仮にそうでなかったとしても、私はその仕事をきっと続けていると思うんです。
 (「第3章 迷いは道連れ」より)
 結婚して八年たつ今も、私たち二人は生活費を折半で出し合い、あとは自分たちで自由に貯めたり使ったりしています。 一人暮らしの時に感じた自分の生活を自分で切り盛りしている感じは、私も彼も、お互いそれぞれに今も大事にしている感覚です。
 共働きでもあり、暮らし向きはとても楽ちん。 確かに、世の中お金だけではないし、稼げる稼げないで序列をつけるのはよくないのでしょうが、稼ぐ力がある限りはお互い稼いでおいた方が、夫婦はなんの屈折もなく対等でいられるなあ、というのが今の実感です。
 仕事自体の意味とかやりがいとか、そうした「高尚な」ものは、ちょっと気がふさぐとすぐに見えなくなってしまいます。 でも、お金や物は目に見えるものなので、どんな時でも目に入ります。 誰のためでもなく、まず、自分自身の暮らしのために働いているんだと思えばこそ、かなり嫌なことにも耐えられるんじゃないかと思うのです。
 一人暮らしの三年間に、私は暮らしのために働くという、自分の原点を見つけることができました。 働くことは私にとって、選択の余地がない自然なことになっています。
 この仕事を辞めたら自分の力でトイレットペーパーを買う力もなくなると思えば、はってでも職場に行こうという気持ちになるのです。
 (「第4章 そして、看護婦として働き続けること」より)
 著者は、働いて一人暮らしを始めた時、最初のお給料でトイレットペーパーや生活のこまごまとした消耗品を買い込んだという。 その時のうれしさがずっと忘れられないと書く。
 わたしも同じようなものだ。 とりあえず薄給ながらも自分で稼いで食えている、生活費は同居人ときっちり折半で暮らせているという現状は、ものすごくありがたいし、快適だ。 仕事は、何をおいても自分が食うため、生活するためのもの。 でも一生のうちすごく大きな時間をとられる「仕事」が、ただ単に食うためだけの手段というのもつらいので、その中で出来るだけやりがいのあるものにしたいとは思っている。 しかしやりがいや生きがいなんて、実を言うと、まったく二の次、三の次なのだ。
 この先どういう方向で仕事をしていけばいいのかなんて、しょっちゅう悩んでいる。
 わたしこの仕事に、向いていないよう... ダメじゃん... と思いっきりへこむ夜もある。
 この歳になると「自分さえ食えればいい、管理職なんてなりたくない」などと言ってもいられない。
 会社に行きたくない朝だってたくさん。 まあわたしはそういう時、どうしても行かなきゃいけない時以外はへにょへにょと休んでしまうので、偉そうなことはちっとも言えないけど....。(苦笑)
 組織の中で働き、わたしと同じような悩みも持ち、結論を出したり出さなかったり、時にはふわりと自然体で、時には胃から出血したりしながら働き続けている著者の姿勢には、とても励まされるものがあった。

 また、仕事を続けていく上でのメンタルトレーニングの方法。
 著者は内科を九年勤めたあと精神科に移動するのだが、やはり精神科に勤めるというのは看護する側にとってはつらいものなのらしい。 人の心の動きについて多くを学ばなければならない過程で、自分の心のあり方についても敏感になる。 自分の生育歴やパーソナリティにも深く考えるようになる。 また、自分の姿を極端にしたような患者と関わる時のつらさというものも並大抵ではないものらしい。
 著者はそのような落ち込みを、認知療法に基づくセルフカウンセリングで乗り越えたということだった。 その時に使った本が、『いやな気分よ、さようなら ─ 自分で学ぶ「抑うつ」克服法』(星和書店)。 認知療法とは、自分のものごとの捉え方の「癖」の歪みをきちんと認識し、コントロールしていくもの。 認知療法のことは知っていたが、実際にそのためのハウツー本を読んだことはなかった。 これも近いうちに読んでみたいと思う。

 それからもう一つ書いておきたいのは、看護婦という仕事で非常にシビアに直面しなければならない、患者の苦しみとどう向かい合うかということ。 「改めて考えてみると、看護婦と患者に限らず、違う立場の人間が完全に理解し合うなんて本当に可能なのか?」と著者は書く。 「わからないことを十分自覚した上で、わかった顔をしないことが誠意とさえ思う。 大事なのは、理解度ではなく、理解しようとする気持ちだ」と。
 自分ではない他人の、本当の苦労や苦しみなどわからない。 わたしも、その通りだと思う。 そしてわからないことに対して、罪悪感を持ってしまうことは仕方ないにしても、必要以上に自責の念を持つことはないのだと思う。
 そして逆の立場の場合も同じ。他人が、自分のことをわかってくれないなどと思うのは、とても傲慢なことだ。(これはものすごく、自戒の念をこめて。)
 わからないけれど、支えたいと思う気持ち。 「わからない」と思考停止するのではなく(逆に、「わかる、わかる」というのも一種の思考停止だと思う)、わからないけれど少しでもわかろうと考え続けること。 そしてもしそう想ってくれる人がいれば、そのありがたさ。 そういったことが大切なのだろう。

■ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 新潮OH!文庫  → 目次
 統合失調症(精神分裂病)について知りたくて読んだ本。 タイトルには「狂気」なんて扇動的な言葉が使われているが、これは基本的に統合失調症のことであると著者は最初に述べている。
 著者がこの本を書いた理由は、いわゆる「狂気」が、大衆の望むイメージに対して非常に都合よく解釈されている ─ 要は、狂気とは創造的で、純粋で、究極の真摯さであり、実体とは全く異なったイメージが無責任に付加されている ─ そのことを指摘したいためだということだった。
 確かに、「狂気」はわたしたちの格好の妄想のネタだ。 怖いもの見たさの覗き見的な興味を駆り立てる。
 ただ、「わたしたち」? それは「正常な」人間ということ?
 著者によれば、正常と異常の境界などはない(患者によく問いただされるそうだ)。 誰しも、自分の中に異常な部分を持っている。 正常と異常は、基本的にはその量的な違いだ。これはわたしもそう感じていた。
 ただ、いわゆる精神病とは、人々が思うほど突飛でもユニークでもないということ。 嫌になるくらい、いくつかの決まった「パターン」にはまったものであるということ。 そして経験を積んだ精神科医とは、とある患者を前にして、その「パターン」の存在を嗅ぎ分ける能力を持つものだという。
 精神病院の現場で仕事をしている精神科医としての著者の想いも、また胸を衝かれるものが多かった。 必要悪としての精神病院。勝手に、ともすれば意図的な悪意をもって付加されるさまざまなイメージ。 外部から(それも内情をほとんど知らず、イメージで)非難するのは簡単だ。 それなら必要悪を引き受ける別の受け皿をどう用意するのか? そもそも別の受け皿なんて用意可能なのか?
 また、著者は結構「患者をからかう」と読み取れる表現をしている。 それが鼻につくなあ... と感じていた自分自身も、結局は「医者は聖者であって欲しい」という気持ちを持っているのだなと感じたりした。

■ 『彼が泣いた夜』 内田春菊 角川文庫
 内田春菊の、漫画でもこういうのあったような、と思える本。(あったかもしれない。)
 一言でいうと、「男運の悪かった女の話」だ。 いいかげんで、嘘つきで、虫のいいことばっかり考えてるタイプと、 最初はとっつきにくいけど、そのうち誠実なのがわかってきて、でも、ちょっとしつこいタイプ。 今回のお話は前者につきまとわれて困る話かと思いきや、 実は後者が(一見ものわかりのいい、いい男だけど)実はとんでもない奴でほとほと消耗する、というもの。
 でもいつも思うんだけど、こういう男って実際結構いるもんなんだろうか? 思うに、筆者はとても男にもてる魅力的な人だし、やたらと甲斐性あるし、 それに加えて母性本能みたいなもんもたっぷりとあったりするから、 こういう変な男とも関わる機会が多いのではなかろうか。
 うーん、ちがうだろうか。わたしがそうでないから、わからないだけか?(苦笑)
 それからラスト、主人公は全く別のタイプの男と結婚して幸せになった(?)ことになっているが、その男についての話をもっと読みたいなあ... と思うのは、きっとわたしだけじゃないはず。

■ 『ものぐさ箸やすめ アメリカと日本、男と女を精神分析する』 岸田秀 文春文庫  → 目次
 岸田秀の『ものぐさ精神分析』シリーズの続編。
 この人の書くものは結構好きで、時々読んでいる。 これは「雑文集」という位置づけということで、 本や雑誌や新聞など、さまざまなメディアに書いた短い文章が数多く載っている一冊だ。 第一部は主に日本とアメリカについて、第二部はセックスの問題、 第三部は雑文集(の中の雑文集)、第四部は本について書かれた文章。
 この人の主張の基本は「唯幻論」だ。それはこの本の中でも一貫している。
 人間は本能の壊れた生き物であるから、生きるためにはさまざまな物語、イメージ(=幻想)が必要で、それがうまく機能しなければならないというもの。 細かい記述の部分では「そうかなあ?」と思う部分もあるが、わたしも基本的にはその通りだと思う。
 だけど現代の先進国(の一部?)では、その物語・イメージの構築がうまくいっていない。 幻想がうまく幻想として機能していない。 たぶん、情報化が進み過ぎているのがダメなんだろうなあと思う。 あんまり種としていい方向に行ってない感じだ。 ここ数年、数十年、それを感じていろんな方法で試行錯誤している人も多い。
 精神分析ということで親子関係について書かれた文章も多く、考えさせられるものが多かった。 親子関係は本当に、いろいろと大変だ。 (ってよくわからない感想だと思うけど、ご容赦を。 あまりに考えさせられることが多くて、うまく書けない。)
 まあ親子関係で悩んでいる人などは、読んでみるとおもしろいかもしれない。 著者自身も、子ども時代に親との関わりで苦しんだ経験を持つ人だ。
 それから、アメリカと日本の関わりについて書かれた文章もおもしろかった。 一言でいうとアメリカという国は「強迫神経症」、日本という国は「精神分裂病」なのだそうだ。 理由を呼んで納得。言い得て妙!だと思った。 なぜ?と思った方は、ご一読を。

2002/6/30 記


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