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ギルバート・グレイプ

監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ジョニー・デップ、ジュリエット・ルイス、レオナルド・ディカプリオ

アメリカでひどい事件が起こって、なんとなく気持ちが落ちてしまったので、
思うところあってこの文章を書いてみました。
人々の気持ちが、柔らかな強さを持ったものでありますように。

 なぜこの映画がこんなに好きなのか、 あまりちゃんと言葉にはできないかもしれません。 自分の中の気持ちを確かめるようなつもりで、書いてみようと思います。
 気持ちが弱っているときに、元気をくれる映画。
 それも、ドン!と背中を叩いてくれるような感じではなく、 暖かい腕で静かに抱きしめてくれて、ゆっくりと、体温を移してくれるような映画。
 私にとってはそんな大切な映画のひとつです。

 ジョニー・デップ演じる主人公ギルバートは、アメリカの片田舎に住む若者。 夫の自殺により過食症に陥り体重 200 kgを超す母、 知的障害を持ち長くは生きられないと宣告されている弟 (レオナルド・ディカプリオ)がいる。 兄は家を出て行方不明となり、彼はいろいろなものを一人で背負い込んでいる。 そんな日々の中、ジュリエット・ルイス演じるベッキーと出会い、彼女に惹かれていきます。 そしていろいろなことが、少しずつ変わり始めます。

 ギルバートの置かれていた状況。何もかもが閉塞的で未来に希望も持てない。 家族を愛しているけれども、家族への愛は同時に彼を縛り、 彼は決して幸せとは言えない。 不自由で、行き詰まっていて、だけどどうしたらいいのかわからない。
 ... どう考えたって、奇麗事では済まない状況。 自分が支えなければいけない、愛すべき、しかし同時に重過ぎる家族。

 そこに突然現れたベッキーという少女は、ギルバートとは対極の存在です。 祖母を連れて、祖母に世界を見せるためトレーラーハウスで旅をしている。 自由で何ものにも縛られず、不思議な存在感を持っている。 彼女との不思議な交流、そして恋は、ギルバートの心に少しずつ風穴を開けていくように見えます。 滞っていた空気が動き、風が流れてくるように思えるのです。 客観的な状況は何ひとつ変わらないのに、 ギルバートは少しずつ自由になっていきます。人間の心の不思議さを感じます。 その過程が、小さなエピソードを積み重ねて、丁寧に丁寧に撮られていきます。

 この監督の他の映画、実はまだ観たことがないんですよね。 'マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ' とか... 、ああ、観たいなあ。 (好きになれるかもという予感のある映画は、最初は映画館で観たい、 と思っちゃうところが駄目で、観たくて、でも未だに観れていない映画がたくさんあるんです。 本当に困ったもんです。笑)

 この映画を観て一番感じるのは.... 、うまく伝えられないけれど、 奇麗事じゃ済まないさまざまな状況が、人生にはきっとたくさんある。 だけど人間の心は、もしかしたらそういう状況にいて行き詰まってしまった人たちが自分自身で思っているより、 強靭で.... ああ、強靭というと違う感じがするなあ。 何といえばいいかわからないけれど、しやなかな強さを持つもの、 持つことができるもの、なのかもしれない。 そんな静かなメッセージを感じます。 そう思わせてくれるものが、この映画にはある気がします。

 この映画でのジュリエット・ルイスは、すごくいいです。 自由で、深い包容力を持ち、その存在感が、何か言葉にはできないようなもの ... 一種の強さ、とも言えるようなものを他者に与えていきます。 癒し系、なんて言葉は軽すぎるけれども、乾いた大地に静かにあたたかな雨を降らせるような、 そんな力強い優しさを感じさせます。

 もちろん、レオナルド・ディカプリオもいいです。 というより、この映画でのディカプリオの演技は、凄すぎます。 何回観ても鳥肌が立つくらい。 (ディカプリオは実はあんまり好きな俳優じゃないんですが。それはそれとして。笑)

 それからもちろん、ジョニー・デップも。私この人のことかなり好きなんですが、 この映画での彼がやっぱり一番好きです。 セクシーで美しくて情感があってキュート。 本当にいいです。


 以下、駄文。:-)

 この映画は映画館で2回ほど、そして先日 DVD を買って観てみました。 今回観て感じたのは、ギルバートの弟に対する愛情は、とても '母性的' だなあ、 ということです。 迷惑をかけられ通しで、理屈も通じず、こちらの言うことも聞かない相手、 それでも彼は全面的に弟の味方なのです。
 理屈なんて要らない愛情。
 どんなことがあっても弟を愛し続けられるという微塵の疑いもない気持ちを、 ギルバートは自分の中に確固と持っている。 それは本当に幸せなことだろうなあ。そういうことを強く感じました。

 と、'母性' という言葉をあまりに無防備に遣うことは結構危険だと思っているので、 一応少しコメントをしておきます。
 私は父親が持つ性質=父性、母親が持つ性質=母性とは全く思っていません。 よくいわれるような、父性愛=厳しく導く愛情、 母性愛=最終的にすべてを許容し受け入れる愛情、 そんな感じの定義としても(まあここでの定義自体も適当です。笑)、 父親の中にも母親の中にも、父性的愛情、母性的愛情は存在し得る、あるいは 存在しない場合もあるだろうと思っています。 父母という生物的な違い、あるいは社会的な役割の中で、 どちらかを持ちやすい、あるいは持ちやすくなるという傾向があり得るとは、 (個人的には)思っています。 ただそれを声高に言うデメリットのほうが大きいと思っているので (特に '母性' に対して。)、 そういうことを大声で唱える人に対しては何だか不信感を持ってしまいます。
 まあ不信感というより、 ご自分の中の母性なり父性なりを大事に愛でていればいいのに、 なぜそう声高に主張してみたがる? という感じ。 自信がないのか、何か企みがあるのか。これって下衆の勘繰りかな?

 最後に、夫に自殺された苦しみのためおかしくなった妻(=ギルバートの母親)、 という状況設定で、自殺について少し考えたことを。
 私は、人間は自殺すべきでないとは全く思っていません。 自分で自分を殺さざるを得ないほど苦しい状況というのはあるのだろうと思うし、 それを他者の理屈(例えば、生きたくても生きられない人もいるのだから、とか、 親に産んでもらった命を粗末にすべきではない、とか、人間として許されない、とか。 他にもいろいろあるでしょう)を持ち出して非難する '権利' などは誰にもないと思っています。
 ああ、もちろん、'権利' なんかじゃなくて、あなたが死ぬと私が苦しいから止めてよ、 という 'エゴ' を表明するのは自由だと思ってます。 そしてその表明により相手が救われる場合もあるかもしれません。 ただ、言うほうがそれを自分のエゴと自覚していないと、 言われたほうはさらにつらい場合もあるかもしれないとは思いますが。

 ただ、やっぱり考えてしまうのは、残された人たちの苦しみ。
 身近な人たちに残されるであろう苦しみ、 もし可能ならば自殺をする人は、それを考えられる程度に冷静であって欲しい。 というと語弊があるかもしれませんが、 それさえをも考えられないような苦しみでなければいいのに、という、 祈りのようなものがあります。 ただ、どうしようもない苦しみのため自分を殺さざるを得なかった人に対しては、 きっと私は、'そんなにひどい苦しみからラクになれてよかったね' と思うのでしょう。
 その苦しみを想うことはとてもつらいことでしょうが。

2001/9/14 記


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