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ビューティフル・マインド

監督:ロン・ハワード
出演:ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー、エド・ハリス、
ポール・ベタニー、アダム・ゴールドバーグ

 1994年のノーベル賞を受賞した実在の(そして現在もプリンストン大学で研究を続けている)天才数学者、ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアの物語。 研究に打ち込むあまり精神分裂病(つい先日「統合失調症」という名称に変更になった) を発症し、それを乗り越える苦難の日々を描いた映画。
 ただし脚本はジョン・ナッシュの伝記 (『ビューティフル・マインド ─ 天才数学者の絶望と奇跡』シルヴィア・ナサー著、 塩川優訳、新潮社)を元に書かれたものの、 実際の映画は、半分はフィクションが織り交ぜられて作られたとのことである。

 この映画にはいくつかのモチーフがある。 「ゲーム理論(均衡理論)」を完成させ、 後の経済理論全般に大きな影響を与える「天才」としてのナッシュ。 米ソ冷戦といった時代背景や、己の天才性、 真理を求めずにはいられない要求に追い詰められ、精神病を発症するナッシュ。 病気の治療と研究が両立しないことを知り、 病気と闘いつつ研究を続ける日々。 そして自身も苦悩に揺れつつ主人公を支える、妻アリシアの存在。

 統合失調症(精神分裂病)という病気については、そう詳しいことは知らなかった。 ただ、一般的に「電波系」などと揶揄され笑いものにされる ─ そういった世間一般の扱いと、病を患う当人の実際の苦しみは、 もの凄く隔たりのあるものだろうと感じていた。
 一般的に、鬱病は同情の対象となるケースが多いように思うが、 統合失調症は揶揄・嘲笑の対象となることが多いように思う。 不当に差別された病のような気がする。 これは私の気のせいだろうか?

 認知が歪む。
 あるはずのないものが見える。聞こえるはずのない声が聞こえる。起こっているはずのない事象を経験する。
 自分の過去が、経験が信じられない。現実が信じられない。 今、自分に話しかけている人物は、本物なのか? 今この瞬間経験している事象は、事実なのか? 己の認知の歪みが作り上げた幻想かどうか、自分には知る術がない。 何が真実で、何が幻覚なのか。
 非常に恐ろしい状態だと思う。

 以前、仕事を発端とするストレスで自律神経の失調を経験し、 軽い抑欝状態になったことがあった。 その時、自分をコントロールするために意識的に使った方法の一つが、 「自分の認知が歪んでいるということを強く意識すること」だった。
 自分は今、普通の状態ではない。
 だから、何かを決断するのは止めよう。
 今現在自分の認知は歪んでいて、普通に考えられる状態ではないと、自分自身に言い聞かせよう。
 認知の歪みから袋小路に迷い込んでいるんだと、とりあえず自分に信じ込ませよう。

 しかし、統合失調症の場合はそういったものとは全く違った状態なのだろう。
 抑欝状態(イコール、欝病ではないです。鬱病はまた違う病気なのだと思っています) では自分の考え方の状態だけを念頭に置けばよい。 しかし統合失調症の場合は、自分が実際に今経験している世界、 自分の全知覚そのものの歪みが問題なのだ。
 どこまでが現実で、どこからが幻想なのか。
 その区別がつかないという状態。 「認知が歪んでいることを意識しよう」もへったくれもないだろうと思う。

 このあたり、映画の中では非常にサスペンスフルに描かれている。
 たぶんこの部分の脚本・描写が、映画ならではのフィクションの部分なのだろう。 はっきり言ってかなりじんわりと怖かった。 存在しない人々との、恐ろしい関わり。あるいは暖かな関わり。 そして、現実世界で妻アリシアが見る、夫の幻想世界。現実との歪みを垣間見せる、 部屋の壁一面に貼り詰められた無数の雑誌の切り抜き、数字の書き込み....。 (はい、このシーンは、かなり怖かったです。)

 人間は皆、多かれ少なかれその人自身の幻想の中を生きるものだと思う。 ただ、その幻想がある限度を越えずに共有されている、その一点が守られているために、 他人との幻想のずれをそれほど意識しないで済んでいるのだろう。
 主人公ナッシュが病んだ「統合失調症」という病気は、そのずれを、 非常にインパクトの強い形で提示するといった性質の病なのだと思う。

 そして、病との闘い。あるいは、折り合い。
 主人公は一世を風靡した天才であり、実際この精神の病もその天才性から 発現した部分も大きいのだと思う。が、この映画で描かれる主人公の苦悩は、 彼の天才性とは別の部分で、非常に人間くさく普遍的だ。
 自分自身にとっての「幸福」。 彼にとってそれは「研究」「真理を探究すること」なのだが、 病気の治療を行なうことは、その幸福を諦めることなのだ。 電気ショック治療を受け、病の発症を抑える薬を飲み続ける。 しかしその薬を飲むことにより、研究を続けるための能力は失われてゆく。
 幸福を感じることもなく、 幸福の存在の在りかを知っているにも関わらず幸福になることを許されず、 ただ生き続けるだけの日々。それに価値はあるのか。

 主人公の苦悩、そしてそれを支える妻の苦悩。
 ナッシュを演じるラッセル・クロウの演技も凄まじかったが、その妻を演じる ジェニファー・コネリーがとてもよかった。 私はこの人をどうもアイドル女優として見ていた部分があったが、 天才で精神病を発症した夫の人生と自分自身の人生について苦悩する妻という難しい役を、 深みを持った演技でとてもよく演じている。 運命を呪い、一旦は諦めかけ、そして苦しみ、そこから這い出そうとする。 強い意志の力と愛情を持った女性だった。

 それから、ナッシュの大学時代のルームメート、チャールズを演じたポール・ベタニー。 私この人にすごく惹かれるところがあって、なんでだろうとしばらく考えていたんですが、 ぱっと閃いた。 それは、大・大・大好きな RadioHead のトム・ヨークに少し似ているからなのだ! ..... って、似てない? 似てるよねぇ?(笑)

 あと、パーチャー役のエド・ハリスは(敢えて書かないけれど)さすがの一言。
 それからチャールズの姪の役を演じた、ビビアン・カードーン8歳。 めちゃめちゃ可愛いんだけど微妙に怖ろしげな雰囲気で、はまり役。 すごく印象的でした。

 最後に。
 ラッセル・クロウはインタビューで語っている。 「この映画が言いたいことは、知性は人を病気から守ってくれない、 守ってくれるのは、愛であり、身近な人からの慈しみだってこと」。
 私自身はラッセル・クロウ言うところのテーマ以外のものからインスパイアされた もののほうが大きかったけれど、彼の言葉自体も、まさにその通りなんだろうと思います。

2002/4/12, 港北109シネマズ
2002/4/14 記


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