岸田秀『ものぐさ箸やすめ 〜 アメリカと日本、男と女を精神分析する』(文春文庫)より
「愛される必要性」

(前略)
 ※ 簡単に要約すると:
 人間はなぜ愛されることを求めるか。 それは、人間の赤ん坊は他の動物に比べて圧倒的に無力の状態で産まれ、 生きていくためには他者(親)に愛される必要があるからだ。 また人間には、他の動物に比べていろいろな特殊な条件がある。 だから、人間(の子ども)は是が非でも親に愛される必要があるのだ。
(以上、要約終わり)
 しかも、親の愛は無償、無限、無条件の愛である必要がある。 なぜなら、子どもは無能無力なので、親の愛に対してお返しができないからである。 親の愛に限界があれば、子どもの不安は解消されないからである。 親の愛が条件つきであれば、子どもはその条件に応じることができないからである。
 もちろん、いくら親だからと言って、子どもに対して無償、無限、無条件の愛を持てるわけはない。 したがって、子どもの屈辱と不安が完全に解消されることはなく、子どもは多かれ少なかれ傷つく。 しかし、「多かれ少なかれ」傷つくとは行っても、親の如何によってその程度は大いに異なるであろう。 親が無償、無限、無条件の愛を持ち得ないまでも、できるかぎりそれに近い愛を示し、そして、徐々に、愛には限界があることを子どもに納得させてゆくならば、子どもの傷はそれほど深くはないであろう。
 いずれにせよ、人間は、おとなになってからも、子どものときのこれらの状況を引きずる。 いつまで経っても愛されることを求める。 しかし、愛されることを求めることには変りないにしても、その求め方は、親にどのように愛されたか、あるいは愛されなかったかによって大いに左右されるであろう。 親に愛されず、愛には限界があることを納得させられずに育った者は、一度としてそれに近いものすら味わったことのない無償、無限、無条件の愛を強迫的に求めつづけるであろう。 彼(女)は、愛の関係において、つねに屈辱と不安に脅かされているので、相手の愛にちょっとした限界が見えても許さないであろう。 そのように無限の愛を相手には求めるが、自分は相手を愛さないであろう。 親に愛されなかった者は人を愛することが、できないとは言わないまでも、なかなか困難であるようである。 人を愛するとは、愛情本能のようなものがあって心の中から愛が湧き起こってくるのではなく、親に愛された経験を持つ者が、子どもの自分を愛した親を自分と同一化し、ある相手を親に愛された自分と同一化し、親が自分を愛したように自分がその相手を愛することであると、精神分析的には考えられるから、親に愛されなかった者はどうやって人を愛すればいいのかわからないのである (もちろん、親に愛されなかったとしても、その後、誰かに愛されれば、その経験がいくらかは埋め合わせになるであろう)。
 他方、親に愛された者は、屈辱と不安からの逃亡として人に愛されることを強迫的に求めるということが少ないので、今たまたま、恋人など自分を愛してくれる相手がいなくても、親に愛されなかった者よりは耐えることができるであろう。 要するに、人を自由に愛することができるし、愛され方も自由であって、強迫的ではないであろう。 そして、愛するときも愛されるときも愛の限界を心得ているであろう。