祖父と父と伯母まきのこと

記 73年(昭和49年)



98/2/18撮影


 森田家は代々大工だつたらしく祖父は別れて自立してゐました

 堂宮大工で 高瀬の八幡様のお能場が解けた時 棟梁森田真平の名が書いてあつたそうです

 明治十年の西南の役の時は 高瀬は大本営の有つたところで 兵隊の刀研ぎをして隨分金をもうけたそうです 其の頃官軍の方からの感謝状等が来てゐます 今も森田の家に残つてゐます 其の時戰火で高瀬の町は大半焼けて大変だつたそうです 困つた人達の為に祖父は家を建て ふところの金は全部使つたそうです 男気も情も有つた人です そんな事でいつも家の中は苦しかつたらしく 祖母は豆腐やをして働いてゐました 父は朝早く起きて豆腐売に行つてゐたそうです 祖母はあまり無理してか祖父より十年も早く亡くなつてゐます

 そんな祖父は弥陀の本願を深く信じた人です 門徒寺の光淨寺のお世話も一身に引受けてやつてゐたそうです 其の後伯母も父もよくお寺に足を運んで居たことを私も覚えてゐます 私も娘時代の御正忌の時などよく加勢に行きました

 祖父も父も兄も弥陀の本願を信じた家であります 弥陀の本願を信じ報謝の日暮をさして頂いたお蔭で今まで大過なく生きる事が出来たことをつくづく思いめぐらしてゐます

 祖父は兄真次の三才の時往生いたしました 年七十才です 伯母マキは娘二人を連れて親元へ帰つてゐて一しよに住んでおりました 伯母は私が幼かつた頃大そう弱くて病気の子でしたので可愛がつていつもだつこして寒い時は火のそばでおしつこをやつてゐたそうです 可愛がられた私は幸でした

 高瀬新町に居た森田家は 私の三才の時 私達親子は大川の目がね橋のたもとに家を造り移り住みました おば達親子三人は保田木町に移り女ばかりで豆腐やをしてゐました そのかたわら仕立物や昔は半物と云つて ももひきやきやはんたび等を作るのがありました

 米 味噌 油 ぞうり ほうき 石けん たわし ふのり等色々並べてありました 昔は木綿布〔反物〕を織つてゐましたので其の機織の道具一式ありました 私は子供の頃遊びに行つてよく泊まりました そしてよく色々とかせいをしましたので 其の頃の様子おぼえてゐます 米一斗持てる様になると近所に配達を加勢しました 其の頃は近所に大きな店がたくさんありました 上魚屋新酒や久米清活版所等何度も行つて可愛がられたことを思い出します 伯母たちは女手で苦労しただらうと思います 娘を嫁にやり柿添の姓で一しよに住んでおりました 妹娘いてさんは大牟田の母の従弟にあたる人と結婚して三十二才でお産の折り亡くなりました 其の時子供も亡くなり伯母は娘の死に気をおとしてか輕い中風にかかりだんだん足も立てなくなりました 何かやらなくてはゐられぬ強気の伯母は麻をつむいで糸を作りました とうとう蚊帳が出来上りました 庭の上り口で麻をつむぐおばが目にうつります 私が高等小学を卆業した十五才の時は おばの近くの小篠ちてさん裁縫を教へてゐられる内へ裁縫のけいこに通いました

 其の間も母は機織をしきらなくてはと木綿機織も伯母が教へてくれました 有難いことです

 毎日晝食は伯母の家へゆき私はよく可愛がられました 伯母からも従姉のとわさんからも 柿添の平義さんからも おばは二年もねたきりでしたが 娘達夫婦によく看護してもらい安らかに大正十四年七月十六日に亡くなりました 父は一徹な職人気質でいい人でした 一度もしかられた覚えはありません 弟新が生れてよ程うれしかつたのでせう 弟をだいて棒を持たせ障子をつきやぶらせてカンの薬とか云つて穴だらけにした事があります 子煩悩だつたのでせう

 とわさんが嫁に行く時嫡子になつてゐたので 養子に小山忠次の二男定治をして浦田とわを廃嫡して柿添平義の嫁に行きました 定治の戸籍に書きつらねてあります 私達夫婦はいとこ同志であり 私の父の妹が夫繁之の母になります 

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