Vol.61。
2019.1.1.
アウシュヴィッツ平和博物館、ニュースレター。
アウシュヴィッツは、第2次世界タイセンジ、ナチス・ドイツ最大級の強制収容所です。百数十万の尊い命が奪われたこの収容所跡は、広島の原爆ドーム同様、人類の負の遺産として、ユネスコ世界遺産に登録されています。
アウシュヴィッツ平和博物館は、同収容所跡を保存する、ポーランド国立博物館から借り受けた、犠牲者の遺品・関連資料・記録写真等を展示しています。
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会員だより。
地べたから。
おやま由記(神奈川県在住)。
十月の中旬に、ポーランドにいった。ワルシャワ、二泊、クラクフ、二泊で、四泊七日という強行軍。アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪ねるツアーだったが、当地にいたのは、ほんの数時間。震災や空襲で多くの人が亡くなって百年も経たないのに、東京の街を歩いていても、畏怖のようなものを感じないのは、当時の地層との間に分厚い層があるからか。アウシュヴィッツは、むき出しの地面や石ころが、足の裏にじかに伝わってくる。
第一収容所には多くの収容棟が展示室として公開され、何を展示しているのか説明を受けずとも分かるほど、緊張に急き立てられるようにして、経めぐった。第二収容所は途方もなく広くて、ほんの何トウか中に入った以外は、建物と建物、廃墟と廃墟のあいだを、ひたすら歩いた。
黄金の秋と呼ばれる季節で、旅のあいだじゅう、快晴が続き、夜も霧も想像できない、あけっぴろげな空間が広がっていた。世界中から訪問者が訪れ、渡航前に想像していた、戦慄や寂寥感や圧迫感は覚えなかったが、もし、話しかける相手もなく、足を止める隙もないほど、影や湿気に覆われていたら、たとえ、じっぷんでも、一人でいられたろうか。高校生ぐらいのグループが何組もいて、ダビデの星を羽織って、死の門から続く引き込み線の上を、思い思いに歩いたり、教師と思しき人を囲んで、地べたに車座になって話し込んだりしていた。
「アーバイト・マッフト・フライ。(直訳:
労働は自由を作る。)」と鋳造された文字を頭上に飾った門も、(早い時期に精神を病んだナチの副総統ではなく、)収容所長だったヘスの処刑場も、狂気のとばっちりで収容者が銃殺された死の壁も、静まり返っていた。半壊したまま、完全に朽ちもせずにあったガス室も、磨き上げられたかのような焼却炉も、カイコ棚のように作りつけられた三段ベッドも、穴を開けた板を渡しただけのトイレも、何のにおいもしなかった。眼鏡、旅行鞄、携帯食器、チクロンBの缶などが山と積まれている展示室の一つに、髪の毛の山もあったが、以前、写真で見たように天井の高さまで積み上がっていない。七十年の間に湿り気を含んで沈んだのだろうか。
ワルシャワは、ナチの侵略によってほぼ壊滅したが、旧市街地を細部まで復元して、世界遺産となっている。戦前の街並みや建物を元に戻す工事はまだ続いていて、中世の城も再建中だった。戦後建てられた、スターリンの贈り物と言われる文化科学宮殿も街を睥睨していたが、それを囲むようにして、高層ビルが新築されている最中でもあった。
ワルシャワでは、足が棒になるほど歩いた。ワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑(1948年完成、70年西独首相訪問)、ワルシャワ蜂起記念碑(1989年)、ゲットー境界線と壁、「集荷場(収容所へ移送するための鉄道駅の跡地)」追悼記念碑(1988年)、ワルシャワ蜂起博物館(2004年)、ポーランド・ユダヤじん歴史博物館(2013年)。ワルシャワに戻る直前、クラクフ国立美術館で、ダ・ヴィンチの『白貂を抱く貴婦人』(2016年、ポーランド政府、購入)を見た。
ナチの司令部が置かれたことで戦火を免れたクラクフは、緩やかな坂が多く、緑豊かで、何世紀にもおよぶ建築様式で増築されたヴァヴェル城も、旧市街も、歴史を刻んでいたが、ワルシャワからの列車で着いたクラクフ中央駅は、ここは表参道かと見まごう、無駄のない大きな箱のような、三階建てのガラス張りの建物で、ブランドショップ、チェーン店、大型スーパー、家電量販店などがひしめいていた。マグドナルドやケンタッキーフライドチキンの店舗もよく見かけた。
帰ってから一ヶ月後、名古屋で、「ホロコーストと原爆の記憶」をテーマにして、ポーランド人学者を招いた国際シンポジウム(JSPS科研費 代表 加藤あり子さん主催)があると知り、難しそうだが、何しろいってきたばかりだし、とこじつけて、聴講しにいった。
ホロコーストや原爆などを実際に知る人が少なくなる一方で、その体験に触れることのできる施設やメディアが増えてきた。記憶はあくまでも個人的なもので、世間一般に、ひとしなみに共有できるものではない。だからと言って、その体験を、記憶を、風化させてはならない。大きくジェノサイドと括られるものは、その事後から生き証人の数が限られている。語られようのない記憶をどのようにして発掘し、後世に伝えていくか。記憶を語り継がれる側にいる私たちの多くは、最初から、被害者、加害者、傍観者という立場からは離れたところにいる。
イスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)には、「諸国民の中の正義の人」として六千人の「非」ユダヤ系ポーランド人が顕彰されている。戦時中、孤独や白眼視と闘いながら、ユダヤ人に助力を惜しまなかった人々が、近年になって、当時のポーランド人の代表だったかのように脚光を浴びている。日本では、昭和天皇の戦争責任については、タブー視されてきた。与党内にはいまだに「南京事件」を否定しようとする勢力もある。時の為政者の意向次第で、排除されたり、ねじ曲げられたり、ことさらに美化されたりする記憶に振り回されずに、真の記憶を見極めるにはどうしたら、いいのだろうか。
名古屋でのシンポジウムの前後二回、ゲノム編集技術検討会の公開勉強会というのがあって、これまた難しそうだったが、出てみた。高校生の時に習った生物が、こんな歳になって、こんなところで役に立つとは、と思われるほど、この技術が当面の目標として掲げている、人工生物を作る仕組みが理解できた。ヒトゲノムにある三十億のDNA塩基対の解析は既に終了し、次は、それを、バラバラに、分解して、一つずつ合成し、それらを繋ぎ合わせれば、参照元の生命体と同じではないが、何かが生まれるのではないか、というものだ。科学者の興奮が分かるような気がした。マンハッタン計画が加速したときと、あい通じるものがあるだろう。敵や競争相手に先を越される前に研究を進めなくては、という理屈も似ている。
三十年ほど前、政府主導で、第五世代コンピューター、という開発目標が掲げられ、人間のように言語を習得する人工知能が期待された。いま、何度目かの人工知能ブームとなり、将棋エーアイが名人に勝ち、ついにアトムが誕生したか、と錯覚させられるが、計算がさらに高速になり、扱えるデータ量も格段に増えて、コンピューターの性能が、一段と高まったとしても、その将棋エーアイは、ふと「今日の夕飯どうしようか」とは考えない。今後、エーアイはどんどん専門分化していくだろうが、どんなヲタク人間であっても、エーアイほど単純ではない。エーアイは、限りなく人間から遠いものとなるだろう。
ヘノコの埋め立てが始まり、宮城県が、いの一番に、改正法の水道民営化に手を挙げ、モニタリングポストが、福島から撤去されようとしている。ポーランドでは、「法と正義」という政党が先日の選挙で圧倒的な勝利を収め、今年、「ポーランド国民及び国家に対する虚偽、誤った誹議を防止すること」を目的とした国家記憶院改正法案がシコウされ、国内外で物議を醸している。日本は、ラグビーワールドカップ、東京五輪、大阪万博に向けて一億総動員の勢いだ。ずっとお祭りをしていれば、本質を見なくてすむ、核心を突かれなくてすむ、余計なことを考えずにすむ。
個人的な話になるが、かれこれ三十年、アイティ業界にいる。当初は、アイテー、なんて言っていた。人工知能がずっと最先端であるかのようなところにいて、もやもやしていたものが、この数ヶ月の間に見聞きしたこととあいまって、やっと分かった。寿命というものがあるのだとしたら、天寿を全うできなかった数多くの人々の分まで、次から次へと生きながらえて、おのれの嫉妬や意地や偏狭さを受け入れながら、好奇心のアンテナをひとつひとつ張り、少しずつ想像力を働かせ、地べたでぐずぐず考える、という、人間ならではのことを、当たり前にやり続ければ、あとはどうでもいい、と。